第25話 ひとときの栄光

 ナルネイの野を侵食していた自然のものならざる“影”は、姿を消していた。


 今や、緑色の草々が、わずかな夏の風にそよいでいる。


 空っぽになったかぶとや鎧、そして持つ者がいなくなった剣や盾が、無秩序に野に散乱していた。影に飲み込まれることをどうにか回避した幸運なごく少数の者たちが、呆然としながら空や野を見つめていた。


 ラザラ・ポーリンは、黒いローブをはためかせながら、そんなナルネイの野に立っていた。


 伝説上のファーマムーアと同程度にまで引き出した〈光と影の地平線〉の力を、彼女は放棄した。魔法の道のいただきに立ったのは、ほんの一瞬のこと……それは栄光の瞬間であったが、彼女が追い求めた、道の果てでもあった。


 傲慢ごうまんが引き起こした惨劇を、自分の目で確かめなければならない。〈光と影の地平線〉から帰る場として、ここ以外を選ぶ選択肢は考えられなかった。


 そしてもう一つ、弟を探さなければならない。


 彼女は未だ動揺する心を抱えながら、よろよろとナルネイの野をさまよった。本陣があったと思われる、南側の丘の上を目指す。


「なんということ……」


 丘の中腹から戦場を見下ろした彼女は、自分が成したできごとが信じられなかった。


 ほんの一瞬で、何百人もの兵士たちを“消して”しまったのである。敵であろうと、味方であろうと。”消えた死体”だけではない。影に引きずられつつも影の世界に飲み込まれず、分断された死体も数多く転がっていた。


 丘の上も、似たような状況であった。けれども、息のありそうな者が、まだいくらかはいそうだった。彼女は、惨劇の野をさまよった。


「……姉さん?」


 地面に這いつくばっていた人物のひとりが、声をかけた。


「カザロス!」


 ポーリンはかけより、カザロスを抱き起こした。


「……これは、私のせいよ」


 唇を噛みしめ、声を押し殺してつぶやく。


 カザロスはしばらく戸惑っていたが、やがて渇いた笑い声を出した。


「姉さんの魔法なの、すごいな?」

「……あなたも死んでしまったかと」


 苦しげな表情でささやくポーリンに、カザロスは明るい表情を向けた。


「僕は大丈夫だ。たぶん、姉さんがくれたこれのおかげだな」


 カザロスは腕にはめられた魔法のブレスレットを見せた。


 ポーリンはそれを見て、ほっとしたようなため息をついた。


「けれども、あなたの大切な仲間たちも、死んでしまった。私のせいで……」


 カザロスは身を起こすと、正面から姉を見据えた。


「これはコヴィニオン王国の存亡をかけた戦いだった。これが起きなければ、僕たちは負けていただろう。だから、例え死んだとしても、僕の仲間たちが姉さんを恨むことはないよ。むしろ、感謝したいぐらいさ」


 ポーリンはしばらくその言葉を噛みしめていたが、やがて改めてかぶりを振った。


「……だとしても、それはそれで別の問題を引き起こしてしまう。まあ、それはあなたには関係のない話」


 そうつぶやいてから一つため息を挟み、気持ちを切り替えた。


「ともかく、今は成すべきことをしましょう。あなたは生き残ったけれど、全ての兵を失ってしまった。これからどうするの?」


 その言葉を聞いて、カザロスは再び渇いた笑いを発した。


「……全ての兵を、失ってはいない」

「どういうこと?」

「実は、この戦いのまえに、ギヨム卿にある命令を出していた。ギヨム卿の兵と、ゴブリン王チーグの本隊で、戦場を迂回し、王都エルガリアを急襲するようにと。我が精鋭部隊は、生き残っている。それに、ここへ応援に来る予定だったゴブリン軍も、主力の抜けた弱兵さ、もともと当てにしていない」


 淡々とそう語るカザロスを、ポーリンは目を丸くして見つめていた。


 カザロスは肩をすくめる。


「……計画が上手くいっていれば、エルガリアはもう制圧できているはず。その報を聞いて、動揺したハサン軍を駆逐するというのが、本命の作戦だったのさ」


 言葉の途中から、ポーリンは力が抜けたように地面にへたり込んでいた。そして、カザロスの肩をぽんと叩く。


「あなた、なかなかの策士じゃないの」

「意外なことにね」


 自嘲気味につぶやく。


 ポーリンの瞳に再び強い意志が宿る。


「……だとすれば、今ほどの好機はないわね」

「何の?」


 ポーリンは決意に満ちた言葉を発する


「私たちも速やかにエルガリアへ行き、カラレナ・ブランウェンを保護する」


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