第24話 ナルネイの惨劇

 ありの群れを蹴散らすがごとく突進するレジナルド・ハサンは、突然、異変を感じた。


 馬の動きが鈍くなり、動きを止めてしまったのである。


 武装した彼の巨体を長く支えることができる馬はまれである。いま、いいところなのに、また馬を乗り潰してしまったと忌々いまいましく考えたのも一瞬のこと、彼自身も身体を動かすことができないことに気づいた。


「なんだ、これは……?」


 全く理解することができぬまま周囲を見回すと、まわりの兵士たちも動きを止めていた。動揺や戸惑いの声が戦場を支配する。彼の手下たちだけではない。蹴散らすべき敵兵たちもだ。まるで、地に映る影を縫い付けられてしまったかのように。


「……影?」


 くしくも、”影を縫い付けられた”と感じた。


 彼はどうにか視線を下に向けた。


 ぎらつく陽光は、緑の野に彼らの影を焼き付けていたが、その影の様子がおかしかった。まるで、すべての影をつなぎ留められたかのように、網の目のように周囲の者たちの影が、つながっていた。


 自然のものならざる現象を目にして、彼はとっさに魔法の呪文を連想した。けれども、このように何百人もの影を網にかけたかのようにつなぎ止めてしまうような魔法など、存在するとは信じがたかった。


 まるで、網目に引っかかった無数の虫のようだ。


「……虫」


 ハサンは苛立ちを隠しきれなかった。彼はこれまで、人々を虫けらのように殺してきた。だが今回は、彼自身が狩られる側なのかもしれないと、直観していた。


 網目の隙間が小さくなるように影が膨張し、やがて戦場全体が一つの巨大な影に包まれた。


 そして影は、人々を飲み込み始めた。


 あちらこちらで恐怖におののく悲鳴が沸き起こる。馬も混乱しいななこうとした。


 みなが、影の中に沈み込んでいく。


「……なぜだ!」


 勝利は目前であった。ほんの少し前まで、彼は勝利者であり、蹂躙者であった。けれども、いまはわけもわからないまま影に飲み込まれようとしていた。


「くそ!」


 彼らしくもない陳腐ちんぷな悪態をつきながら考えたのは、アドナ・ブランウェンのこと……。彼女が牙を剥き、彼らを罠にはめたのだろうか?


「……いや」


 いかに忌々しい魔女といえど、これほどの力はアドナにはないだろう。これはもはや、神に比する力のように思えた。


 ハサンは底なし沼に飲まれるような感覚を味わいながら、天を見上げ、苛立ちの咆哮をあげた。それは戦場のいたるところで沸き起こる怒号や絶叫の一つとなって、かき消された。





  薄くオレンジがかった無機的な空が鳴動めいどうし、まるで現実世界が陥没してきているかのようにひび割れはじめていた。


「おい、ラザラ・ポーリン!」


 ”影の魔王”は大きな声を出した。


 ポーリンは既に集中状態から覚めていた。


「分かっている……!」


 先ほどまでの全能感とはうって変わって、悲壮感と焦燥感が彼女の心を占めていた。


 彼女は一瞬ではあるが、ファーマムーアと同じ程度にまで、〈光と影の地平線〉の力を引き出した。そして、ファーマムーアが踏んだてつと同じく、現実世界に絶望的な影響をもたらした。


 つまり、〈滅びの都〉ザルサ=ドゥムが滅んだときと同じ……


 影の魔王は口にしなかったが、ポーリンは十分にそれを理解していた。このままでは、ナルネイの野が世界から消滅してしまうだろう。そして、もしもこのまま〈光と影の地平線〉の力の暴走を止めることができなければ、もっと多大な被害がもたらされるかも知れない。


「……止めなければ! けれども、どうやって?」


 彼女は背筋に冷や汗を感じながら思案を巡らした。


 空が落ちてくるかのように、ナルネイの野にいる兵士たちの“影”が、この世界に引きずり込まれつつあった。


 彼女は恐らく、多くの人々を殺してしまった――そして、今も死の淵に追いやりつつある。


 彼女は人を殺す技として、魔法を研究してきたわけではない。彼女の魔法使いとしての矜恃きょうじは、凄まじい罪の意識をもたらしたが、今はそれにとらわれているときではない。


 彼女は、腹をくくった。


 罪はもはや消えない。せめてもの贖罪しょくざいとして、被害は最小限にくい留めなければならない。


 彼女は考えた。


 転機は、あの呪文だ。


 『我は支配する、光と、影と、世界のすべてを』


 影の魔法の使い手が、〈光と影の地平線〉に再び力を吹き込むための”鍵”の役割をしたに違いない。


 けれども、ポーリンにその力は余るものだった。


 影の魔法を深く研究することでたどり着いていた迷宮の最奥の扉を、再び閉じなければならない。


 彼女は先ほどまでの思いよりも、さらに強く念じた。世界を滅ぼさないために。


『我は放棄する、光と、影と、世界のすべてを』

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