第20話 助けてよ、父さん

 ポーリンは、無力感にさいなまれながら、空に映し出される外界の姿をぼーっと眺めていた。


 外の世界では二日ほどが過ぎたようだが、ここは時の流れが異なるのか、魔法の力によるものか、喉も渇かなければ空腹にもならなかった。


 それがまた、彼女の惨めさを増幅した。


 これでは生けるしかばねも同然だ。何も出来ぬまま、ただ時が過ぎるのを見て過ごさなければならない。


 カザロス率いるブランウェン公軍はナルネイの野に到着し、高台たかだいに陣を構えてハサン軍を待っていた。ハサンの軍勢もまもなく到着し、戦いが始まるだろう。


 兵力差は三倍以上。


 ここで戦いの行方をただ見守るのは、耐えがたい苦痛であった。しかも、見えるのは”影”だけ。現場の詳細まで知ることができないことが、もどかしかった。


 彼女は手を握りしめ、爪をてのひらに食い込ませた。身体の痛みは、ほんのわずかながらに心を軽くしたが、それも一瞬のことに過ぎない。再び厳しい現実が彼女の心に押し寄せ、重しとなってのしかかった。


 彼女は、“鳥かご”の床に仰向きに寝転がった。


「……助けてよ、父さん。そもそもと言えば、全部あなたがいた種でしょう? 文字通り」


 目に涙がにじむ。鼻水も出てきて、情けない思いがいっそう増した。


 このような異世界を作り上げたファーマムーアの力はあまりにも偉大であった。その一部の力を、彼女は使役しているが、けっきょくはファーマムーアの力によって彼女は封じられ、何もすることができない。


 彼女はふと、ファーマムーアを研究していた父の藍色あいいろのノートを思い出した。影の魔法を手に入れて以来、とんとあのノートは見ていない。


 父のノートに、“永劫の監獄”といったものは書かれていなかった気がした。


「……ちょっとまって」


 彼女は涙をぬぐうと身体を起こし、形の良いあごに指を当てて考えはじめた。


「ファーマムーアは、どうして“永劫の監獄”を作ったの? この世界を意のままに操れるならば、そんなものを別に作る理由は?」


 彼女は考え込んだ。


 ファーマムーアの力は偉大だ。そうであるならば、全てのことに意味はあるはず。


 彼女はすっかり薄れてしまった藍色のノートの記憶を辿りはじめた。


 ゲート……?


 うろ覚えであるが、ファーマムーアとその仲間が使ったゲートに関する記載があったような……


 この鳥かごは、もともと『捕らえること』を目的としたものでなかったかも知れない。現実世界から〈光と影の地平線〉へ、強制的に転移させることができるものと考えれば、この鳥かご自体が”門”なのかも……


 その可能性に思い当たったポーリンは、はっとして周囲を注意深く観察しはじめた。ゆっくりと、黒い鉄格子を触りながら、魔法探知の呪文を唱えつつ、ぐるりと鳥かごを一周する。


「……どうして気づかなかったのかしら」


 ちょうど教会の聖堂に表に出るための扉があるように、鉄格子の一部にわずかながらに色が異なる箇所があり、そこには魔法の力で作られたプレートがかけられ、文字が記されていた。


なんじ、唱えよ、合言葉を』


「合言葉……」


 彼女は魔法のプレートにほっそりとした指を触れながら、再び考え込んだ。


 合言葉……合言葉。


 ファーマムーアについて研究した父のノートには、合言葉に関する言及はなかったように記憶しているが、意味の分からないフレーズはいくつか記されていた。


 淡い記憶を辿る。


 まるで、風によって散ってしまった砂粒すなつぶをひとつひとつ拾い集めるような作業に思えた。


 目を閉じ、深く集中する。父のノートの記憶を辿たどるとともに、彼女が影の魔法を深化させるうえで研究したあらゆる知識を呼び起こそうとする。


 深い集中は魔法使いの力の源泉の一つだ。


 彼女は集中力をさらに高め、途切れている影の魔法の糸をたぐり、〈光と影の地平線〉との一体感も感じようとした。


 そうして出た言葉は、彼女自身も予期していないものであった。


『我は支配する、光と、影と、世界のすべてを』


 ガコンと、何かのかんぬきが抜けるような音がした。


 彼女は目を開け、恐る恐る周囲を見回した。


 すると突然、鳥かごの鉄格子がまるで幻であったかのようにふっと消えた。鉄格子を通さずにみる〈光と影の地平線〉は、とても明るく見えた。


 彼女は驚きながら、両の手をほほにあてた。


「……やったよ、父さん」


 力が抜けた彼女は、黒曜石のような床のうえにあおむけに倒れ、両手両足を広げて薄いオレンジ色の空を見上げた。


 その顔を、小さな影のような存在がのぞき込む。


「おい」

「きゃ」


 ポーリンは驚きのあまり、外の世界では決して出さない叫び声を上げながら飛び起きた。


 そこには、人間でいえば三歳児くらいの大きさの真っ黒の存在がいた。尻にはしっぽが生えている。彼女は、そいつに会ったことがあった。偉大なるファーマムーアが、この世界を守るために残した管理者……そして、影の魔法を使役するために、必要な存在だった。彼女は、その存在を”影の魔王”と呼んでいた。


「……“影の魔王”、まったく本当に、驚かさないでよ、毎回」

「驚かされるのはこっちだ。こんなところで何をしている、ラザラ・ポーリン?」


 ”影の魔王”と呼ばれた存在は、幼児のような出で立ちには合わぬ尊大そんだいな口ぶりで言った。


「ここへ来るために、”ゲート”を使ったのか?」

「……私の意図ではなくね」


 ポーリンは苦々しくつぶやいいた。


「そして、私を閉じ込めた腹立たしい奴は、これを“永劫の監獄”と呼んでいた」

「“永劫の監獄”」


 ”影の魔王”は、ひとり納得したようにぽんと手を叩いた。


「なるほど、”門”はその役割を終えていたはずだが、偉大なるファーマムーアは”永劫の監獄”と呼ばれる魔法の秘宝アーティファクトとして、これを残していたのか。つまり、お前はそれに捕らえられていたわけだ」

「まったく、その通りよ……」


彼女は疲れたようにつぶやいた。


 “永劫の監獄”というものは、本来、〈光と影の地平線〉に行き来するためのゲートであった。〈光と影の地平線〉が封印されたのち、役割を終えたゲートは、魔法の秘宝として残されていたというわけだ……


 彼女は自分の推論が的中していたことを理解したが、あまり喜ばしい気分にはならなかった。


 ”影の魔王”はあきれたように両手を広げた。


「おいおい、影の魔法の使い手が、なんてざまだ。けれども、結果として、〈光と影の地平線〉はその力を一部取り戻したかも知れん」

「どういうこと?」

「”ゲート”は、光の世界と影の世界を結ぶ結節点の役割も果たしている。固く閉ざされていた部屋の窓が、急に開け放たれたようなものだ。古い「内」の空気と、新鮮な「外」の空気が混じり合うように、力が行き来しやすくなったということだ」


 そう言ってから、”影の魔王”は眼下を覗き込んだ。


「ここは、〈光と影の地平線〉の“果て”だ。俺もここには滅多に来ない。下に落ちているのは、お前たちが言うところの〈滅びの都〉ザルサ=ドゥムの残骸ざんがいだ」 


 彼女は改めて、〈光と影の地平線〉の大地がごっそりと闇にえぐられたような足下の光景を見下ろした。都市の残骸の影のように見えていたものは、本当に都市の残骸だった……偉大なるファーマムーアが滅ぼしてしまったという伝説の。


「我が手を握れ、ラザラ・ポーリン。この忌々しい場所から移動するぞ」

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