第17話 分水嶺を越える

 そこは、無機質な石造りの部屋だった。


 中央に向かって次第に段が低くなるように作られ、一段ごとの四隅にキャンドルの炎が揺れていた。


 そして、部屋の中央、最も低い段のところに寝台があり、生後まもないと思われる赤子が眠っていた。はすの花をかたどったような、複雑な造形ぞうけいのゆりかご……その中で、赤子は夢の中こそ世界の全てであるかのように、穏やかに眠っていた。


 見るからに罠であったが、赤子の姿を認めた瞬間、なにかの分水嶺ぶんすいれいを踏み越えてしまった気がした。彼女は、前に進むという以外の選択肢を、もはや考えることができなかった。


 彼女が守ると誓った赤子――彼女のめいでもある存在が、目の前にいる。理性を本能が上回る瞬間というのは、確かにあるのだ。


 蓮の花びらのようなゆりかごの元にたどり着いた彼女は、この世のものとは思えない安らぎを感じながら、赤子の顔を見つめた。


「なんて、美くしい……」


 彼女は感嘆かんたんのため息をついた。まだ、誰に似ているともわからないくしゃくしゃの顔であったが、かくもいとおしい存在がこの世には存在するのだ……


 彼女はそのみずみずしいほほに触れようと、そっと指を伸ばしたその瞬間、稲妻のような閃光せんこうが走り、強い痛みを感じて彼女は手を引いた。


「やはり、罠……」


 彼女は一つ鋭いため息をつくと、気を引き締めて周囲を見回した。


 彼女が入ってきた方向の壁の暗がりから、わざとらしく手を叩きながら歩み出てくる者がひとり。簡素な黒いローブを身にまとっている。


 キャンドルの明かりにぼんやりと照らし出されたその顔を見て、彼女は息をのんだ。


 まるで、若かりしころの自分の鏡を見ているような感覚……


 その人物が口を開いた。


「はじめまして、お姉ちゃん」


 永久凍土えいきゅうとうど寒風かんぷうを感じさせるような冷ややかさと、焼きごてを耳に押しつけられるような感覚をもたらす皮肉っぽさをこめて、その人物が言った。


「アドナ・ブランウェン……」


 ポーリンはつぶやいた。本人に確認するまでもない。どう見ても、彼女の妹だ。


 けれども、よくよく見てみると、自分の生き写しとは少し違う雰囲気に気づいた。唇は薄く、皮肉っぽい笑顔によりえくぼが目立つ。鳶色とびいろの瞳は鋭く冷ややかで、彼女が大事にする気品よりも、ゆがんだ美しさをたたえていた。


「『困ったときは、サントエルマの森にいる姉を頼りなさい』」


 アドナは、母の口ぶりを真似するかのように言った。


「無能な兄は、それを実行したわけね」


 小馬鹿にしたように冷ややかに笑う。


 ポーリンの胸には、静かな怒りがこみ上げてきた。


「……姉として言いたいことはあるけれど、ひとまずそれは置いておきます。それよりも、この子は?」

「ああ、たまのように可愛いとは、このことを言うんでしょうね。カラレナ、おばさんに手を振ってみる?」


 ポーリンは心を落ち着けた。アドナの言動に、振り回されてはいけない。


「父親は、誰なの?」

「初対面なのに、それ、聞いてしまいます?」


 おどけるように言う。


 ポーリンはあきれたようにため息をつき、反撃に出た。


「レジナルド・ハサンね」

「あらびっくり」


 アドナは驚いたように手を口に当てた。


「そんな安っぽい挑発をするのね、お姉ちゃんは。私はブランウェン家、〈始祖の血脈〉を継ぐ者、特別なのよ。あんな野獣が父親だと、豚が生まれてくるわ」


 高らかに笑う。


「……あなたの甲高い笑い声、いらつくわね」

「いらついてもらえて光栄よ、お姉ちゃん。私は、特別。この子も、特別。だとすれば、父親も特別じゃなきゃね」

「誰なの?」

「それを言っても、お姉ちゃんには無意味よ……」


 そう言って、あくびをした。


「そろそろこの会話にも退屈してきたんだけど、お姉ちゃんには退場してもらおうかしら」

「退場、ですって?」


 ポーリンは鼻で笑った。


「私をだれだと思っているの?」

「サントエルマの影の使い手、次期のサントエルマの森のおさの最有力候補でしょう。正面から戦ってみることにも興味を引かれるけど……」


 そう言って、アドナは指をならした。


 階段状になっているそれぞれの段の四隅のキャンドルを結んで、幾重いくえにも稲妻の壁が現れた。それはバリバリと音を立てながら、青白く明滅する光で部屋を満たした。


「……ああ、快感」


 アドナはうっとりとした表情を作った。


「きっと、巣にかかった獲物を目にしたクモは、こんな気持ちなんでしょう。私は、敵を落とし込んで罠に嵌めるのが大好き。お姉ちゃんは、罠のための条件をいくつもしっかりと満たした」

「なるほど」


 ポーリンは彼女を何重にも取り囲む稲妻の壁をぐるっと見回した。


「我が子を、クモの巣のエサに使うとは、立派な母親だこと。私にも罠を仕掛けるのが大好きな友人がいるが……あなたの方がずっと陰湿いんしつね」

「陰湿、素敵な言葉よ」


 アドナは微笑んだ。


「ふふふ、力業ちからわざで稲妻の壁を破ろうか、影の魔法を使おうか、考えているのよね、お姉ちゃん。けれども、実はもう手遅れよ。カラレナの寝台の下を見てごらんなさい」


 ポーリンは怪訝けげんな表情をしながら、足下をのぞき込んだ。


 そこには、黄金色の鳥かごのようなものが置かれていた。


「ファーマムーアの墳墓ふんぼから取ってきた、魔法の秘宝アーティファクト。“永劫えいごうの監獄”」

「ファーマムーアですって?」


 それは、太古の時代に実在したとされる、伝説上の大魔法使いの名だった。〈偉大なる探求心の主〉とも呼ばれる。そして、ポーリンが使役する影の魔法の創造主でもある。


「そう。竜でも悪魔でも捕らえるという、ファーマムーアの創造した魔具まぐ。観念して、お姉ちゃん」


 アドナは高らかに笑った。


 ポーリンは鳥かごから押し寄せる魔法の力を感じた。炎の呪文や、影の魔法を使う余裕もなく、押し寄せる強力な魔法の力に飲み込まれた。


 そうして、ポーリンは鳥かごの中に吸い込まれていった。


◆◆◆

アドナ・ブランウェンの挿絵:

https://kakuyomu.jp/users/AwajiKoju/news/16818093081469984338

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