第16話 無限の階段

 いまのところ、あたりに人の気配はない。


 影で作ったネズミに周囲を探らせようかと考えたが、やめた。アドナ・ブランウェンも魔法をたしなむ。使い魔の存在にも、きっと敏感だろう。


 ポーリンは着衣を整え、姿勢を正した。


 いま、彼女が着るのはサントエルマの森の魔法使いであることを示すローブ。黒く滑らかな肌触りの袖口には、魔法の文字の刺繍が黄金になされている。ローブを織る糸には、耐呪の魔法が幾重いくえにもかけられていると言われる。このローブは、サントエルマの森のを示すとともに、極上の戦闘用の防具でもあった。


 彼女は、石の机の上のものを確認した。


 盆にのっているのは、パンと野菜、トマトを煮たような赤いスープ……そしてミルクに、幼子の着替え。


 ポーリンは、近くに幼きめいっ子がいることを確信した。


 ほかに、机の上には羽ペンと羊皮紙ようひしのメモ、王国の地図と、本が一冊。


 ポーリンはその本に注意を奪われた。茶色く古びた表紙には、黒い炎の中で三つ首の蛇がからみ合うような絵が描かれていた。ポーリンは、なんだかそれがすごく嫌なもののように思えた。


 呪文書というよりは、何かの教典?


 ポーリンは魅せられたようにそれに手を伸ばそうとしたが、触れる直前で思いとどまった。魔法使いは、自分の書物が人に見られぬよう、呪いをかけることがしばしばある。不用意は避けるべきだろう。


 我に返ったポーリンは、となりの羊皮紙にある言葉が記されていることに気づいた。


『欲望こそ力なり』


 ポーリンは、その言葉の意味を噛みしめるように、しばらく文字を見つめていたが、考えても意味が分かりそうになかったので、机を後にすることにした。


 暖炉のある部屋の奥には、もう一つ広間があった。


 壁際には本棚、部屋の中央にはソファーが向かい合わせに置いてあり、よこには植物を植えたはちがいくつか並んでいた。本棚の一部には、本の代わりにワインとグラスが置かれていた。


 そして、さらに奥へ向かう扉がひとつ。


 この部屋に人の気配がないことを改めて確認して、ポーリンはゆっくりと扉を開けた。


 彼女の予想に反して、扉の奥にはまたらせん階段が続いていた。


 彼女はため息をつきつつも、あきらめて階段を登ることにした。


 薄暗い階段に、黒いローブがこすれる音がしみ込んでいく。いつ何時なんどき攻撃を受けるか分からないため、緊張の糸を張り詰めたまま長い階段を登るのは、労を要するものだった。


 息さえも押し殺しながら階段を登ることしばらくして、彼女は扉に突き当たった。その扉にも、ブランウェン家の家紋が刻まれていた。


 ポーリンは、ある予感にとらわれながら、ゆっくりと扉を開けた。そして、その予感が正しかったことはすぐに判明した。


 眼前には、暖炉のある部屋があった。暖炉の炎は燃えており、反対側の壁には本棚。そして、動物の皮をかぶせたソファーと、石机。石机のうえには、パンと野菜とトマトスープ、そしてミルクに幼子の着替えが乗っていた。つまり、先ほどの部屋と見える。


「……さてさて」


 ポーリンは小さくつぶやいた。全く同じように見える部屋が、続けて現われたことについて、考察をめぐらせる。


「これは元の部屋か、あるいは別の部屋か……」


 ポーリンは、再び人の気配がないことを確認しながら部屋をすすみ、奥に木扉があることを確認した。


 ゆっくりと扉を開くと、その先にはやはりらせん階段が続いていた。このらせん階段と、その先に現われる部屋は、無限に続くのかも知れない。


 ポーリンは扉を閉じ、部屋へ戻った。


 そして、形の良いあごに指をあててしばし逡巡する。


「並の者であれば、罠に捕らわれたと混乱し、冷静さを失うのでしょうけど……」


 彼女はサントエルマの森の魔法使いだ、しかも最上位の師の称号を持つ。取り乱すことはなかった。


 こういった空間転移を引き起こす仕掛けは、サントエルマの森にもある。


 魔法の迷路の中に閉じ込めることを目的とするならば、転移先は不規則にすることが多く、より強力な魔法の力が必要である。


 一方、繰り返し構造の迷路を作り出すのは、より単純な魔法で可能だ。そして多くの場合、『本当の通路』を隠す目的で使われる。


 ポーリンは基本に立ち返り、『本当の通路』がどこかにあるに違いないと考え、部屋の中を探索たんさくし始めた。


 ごく初級の呪文である、魔法を探知する呪文デテクト・マジックを壁に向かって唱えてゆく。


 すると、ワインとグラスが置いてある本棚が、青白い光を発していることに気づいた。


 この壁は幻覚……この向こうに、別の部屋がある。


 彼女は覚悟を決めるように、深く息をついた。この先には、一体何があるのか。


「さて、オーガが出るか、竜が出るか」


 彼女の故郷での言い回しを使い、自らの覚悟を決めた。


 そして、魔法を無力化ニュートラライズする呪文を唱え始める。


 幻覚の魔法を破るためには、幻術を仕掛けた術者を上回る魔力を投じる必要がある。それである程度、相手の術者の力量が分かるというものだが……正直なところ、仕掛けられた幻術を破るのにかなりの労力を要した。


 そうして、かなりの集中力を消耗したのち、壁の幻覚が消えた。

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