歴史を変える仕事
愛工田 伊名電
私は、大学時代にいろいろ成果をあげて、あれよあれよと文化人類学の教授として、名古屋大学で教鞭を執ることになりました。
それから3年ほどが経った頃、中学時代からの仲であり、民俗学を研究している『馬場くん』から、こういうメールが来ました。
「ナイジェリアの田舎を調査した時、なかなか面白そうな村の話を聞いたんだ。 ちょっと話そうぜ」
その翌日、馬場くんの家にお邪魔して、ナイジェリアの面白そうな村の写真を見せてもらいました。
写真は遠くから撮られていて、細かいところまでは分かりませんが、家々はアフリカでよく見られる、藁葺き屋根です。
しかし、異常なのが壁。ドイツでよく見られる、木組みと漆喰を組み合わせて作る『ハーフ・ティンバー構造』の様に見えるのです。
自分で書くのもアレですが、当時の私は文化人類学者の中でも、結構な知識人として知られていました。そんな私でさえ、『アフリカのとある村には、ハーフ・ティンバー構造を参考にした家づくりがされている』なんて、知りもしませんでした。
やはり、馬場くんもそれが気になっていたようで、
「ナイジェリアはナチスの植民地として、まあまあな支配を受けていたのは確かだよ。でも、それと自分たちの伝統的な家づくりを強制させるのは、違うんじゃないのかなぁ。」
と、語っていました。
机に向かって2人で想像していてはなんにも始まりません。1週間後、私と馬場くんは色々な準備を整え、飛行機内で丸1日座ったあと、村に1番近い『ザサウ空港』に着きました。
と言っても、空港から村までの14時間、現地のコーディネーターさんが荒々しく運転するボロボロのハイラックスの中、ひたすらに荒野の砂と土、たまに生えている草を見なくてはいけませんでした。
本当に、本当につまらなかったのでしょうね。中学時代の思い出を語り合う微笑ましい会話が2時間、お互いの奥さんの愚痴を語り合う醜い会話が4時間、民俗学と文化人類学に関する適当な陰謀論をでっち上げ、乾いた笑いをお互いに交わす身のない会話を8時間も続けてしまいました。 2人ともヘトヘトでした。
永遠すら感じるほどの苦しい旅の末、やっとこさ例の面白そうなナイジェリアの村に到着しました。本当の名前は『ナテ・スムンス村』といいました。総人口は200人ほどの小さな村で、公用語はドイツ語です。
ボロボロのハイラックスの車窓から見える景色は、異常そのものでした。
前述したハーフ・ティンバー構造と藁葺き屋根がコラボした家々はもちろんですが、
こちらを珍しそうに見つめる村人たち。その中に混じっている男性たちは全員、七三分けで、鼻と口の間にちょび髭を生やして、軍服に似た黄土色の長袖シャツを着ており、左の二の腕部分は、赤く塗られていました。
この村の男性は、みんながヒトラーの真似をしているのです。
快く出迎えてくれたお年を召したナテ村の村長も。「いらない」と言っているのに、貴重であろう水のペットボトルをくれた気のいいお兄さんも。小さい子ども達に優しくドイツ語を教えていた小学校の先生も。
女性は普通の格好です。涼しげなワンピースであったり、日差しを守りつつオシャレもできる、カラフルなターバンを頭に乗せていました。
子供も普通の格好です。日本の子供も着るような、ボーダーのTシャツであったり、パステルカラーがかわいい、無地のプリーツスカートを履いていました。
しかし、男性だけは、七三分けと鼻の下にちょび髭、左の二の腕部分が赤い、黄土色の長袖シャツを着ていました。
ここまで読んだ10人のうち、10人が気になっていることでしょう。「なぜ、男性だけがヒトラーの真似をするのか」と。
女性も、子供も普通の格好です。私と馬場くんが今まで見てきたアフリカの人々と大差ない格好です。では、なぜ男性だけヒトラーの真似をするのでしょうか。
ある程度仲良くなり始めた3日目。村長の気分をビールと料理とダンスで良くした後、私と馬場くんと通訳さんの3人で、その理由を聞いてみました。
「ズバリ聞きますが、なぜナテ村の男性は皆ヒトラーの格好をしているのですか?」
「聞きたいかね?」
「そのために来ましたから…」
「いいだろう、教えてあげよう。付いてきなさい」
そう言って村長は家から出て、私たちをナテ村の中心に連れていきました。
ナテ村の中心には、広場らしき空間があり、木枠に泥をくっつけて作られたであろう、大きめの板が立てられています。
「この板をよく見てごらん」
村長の指示通り目を凝らしてよく見てみると、固まった泥の凹凸で、縦長の楕円の上方に『ハ』の字、真ん中に長方形が描かれていました。
「この板に描かれているのは、もしかして…」
「ああ、『ヒットゥラー様』だ。ナテ村独自の宗教だよ。」
「ヒトラーとは、違う方なのですか?」
「いや、『ヒットゥラー様』とヒトラーは同一人物だ。」
「ナテ村の方々は、ヒトラーを信仰しているのですか?」
「そうとも。だから、男はみんな『ヒットゥラー様』の格好をさせてもらって、『ヒットゥラー様』に少しでも近づこうとしている。」
その後も、村長から色々聞いて、こういうことが分かりました。
ナテ村はナチス・ドイツから強い支配を受けていたこと。 植民地であることを宣言する場に、ヒトラーが直々に訪れたこと。 ヒトラーはナテ村の言語で、村人達に熱い演説をしたこと。その瞬間、当時の村人全員がヒトラーに惚れたこと。
これらをきっかけに、ナテ村の『ヒットゥラー信仰』は始まったのだそうです。最初は、もともと信仰していた神様を信じるグループとヒットゥラー様を信じるグループに別れていたそうです。
しかし、その村の中での対立が現地の駐屯兵によってナチス・ドイツに報告されると、もともと信仰していた神様を信じるグループの人々は、トラックに乗せられ、どこかへ消えていきました。
そして、『ヒットゥラー信仰』はヒトラーを崇めるだけでなく、ドイツの文化も参考にし始めました。駐屯兵にドイツ文化のことをたくさん教えてもらい、ナテ村全体でドイツの真似をしだしたのです。
藁葺き屋根とハーフ・ティンバー構造がコラボした家々が建てられたことや、ナテ村でドイツ風のビールが作られていること、ナテ村の公用語がドイツ語であること、などはこれが理由のようです。
ナテ村からの帰り道、苦い顔をした馬場くんが調査結果をまとめながら、こんなことを言いました。
「しかし、なんでヒトラーはナテ村をこんなに大事に扱っていたんだろうな。」
「わざわざ、ナテ村の言葉を学んで演説しに来たんだもんね。でも、周りには、荒野か湖くらいしかなかった。金山みたいなのも無かったし。」
「ナテ村の『価値』は低いはずだ。」
後日、私たちは無事に日本へ帰り、付き合いがあった著名な文化人類学者さんや民俗学者さん、地質学者さん達に、ナテ村の情報を共有しました。
彼らにとっては非常に興味深かったらしく、私と馬場くん、共有した方々、コーディネーターさん、通訳さんの合計15名という大所帯で、再度ナテ村を訪れました。
前回の調査から3ヶ月ほど離れた2回目の調査でも、村人たちは私たちを歓迎してくれました。村長は「久しぶりじゃないか、兄弟」と言って、ハグしてくれました。格好は、相変わらずヒトラーの真似でした。
今回の調査の目的は、『ナテ村が受けたドイツからの文化的な影響を調べること』と『なぜヒトラーはナテ村を大事にしていたのか』の2つでした。
調査クルーは1週間ほどナテ村に寝泊まりして、ナテ村の文化を徹底的に調べていきました。
4日目の夜のことです。私と馬場くんが、テントの中で晩御飯を食べていると、一緒に来ていた地質学者の駒田さんが走ってやってきました。ずいぶん、慌てている様子でした。
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「とんでもない物が見つかっちゃったかもしれません… 一旦来てもらっていいですか。」
「なんだなんだっ」
鮭おにぎりを片手に駒田さんに付いていくと、村の中心部である、広場に来ていました。
「さっき、ここら辺の地面を非破壊検査してたんですけど」
「ああ、あの芝刈り機みたいな機械で?」
「ええ、あれです。あれでここら辺を調査したら…これが映し出されたんです。」
村の広場の地下には、西洋の棺が埋められていました。
そして、その棺の真上に、木枠に泥で固められた板がありました。前述の通り、板には固まった泥の凹凸で、縦長の楕円の上方に『ハ』の字、真ん中に長方形が描かれています。
村の広場は、ヒトラーの墓なのかもしれない。
あなたが義務教育をきっちり9年間受けた方なのならば、この感動、達成感がわかると思います。
私たち調査クルーは、『ヒトラーは第二次世界大戦の敗戦を認め、地下室で自殺した』という歴史を、『ヒトラーは第二次世界大戦の敗戦を認め、ひっそりと前から大事にしていたアフリカの別荘へ移動し、そこで死んだ』という歴史にすっかり塗り替えてしまうことになるのです。
もちろん、反論の余地はいくらでもありますよ。でも、説明がつきません。
たしかに、ナテ村でお葬式をする際、火葬ではなく土葬です。
しかし、棺に入れた後に土に埋めるのではなく、裸の死体にナチス式敬礼をさせた状態で、埋める方式です。棺は作られません。
それに、村から少し離れた所に墓地がありました。村長のような昔の偉い人たちの墓も、その墓地の中にあります。
村の広場は、ヒトラーの墓なのかもしれない。
私たち調査クルーは、恐る恐る村長にこのことについて聞きました。
「大変失礼だ、ということを分かってお尋ねするのですが…村の広場の板はヒトラーの墓標なのですか?」
村長は、一瞬悲しそうな顔をした後、私の目を見て言いました。
「そうだ。あそこには、『ヒットゥラー様』が眠っている。」
私たちが呆気に取られている隙に、馬場くんが質問しました。
「生前のヒトラーは、この村を気に入っていたのですか?」
「だろうね。幼い頃、大人たちとビールを飲んでいるのを見たことがあるよ。」
その後、私たちはナテ村を去り、日本に戻ってきました。そして、この調査結果をクルーみんなで協力してまとめ上げ、学会で発表しました。
最初こそ批判されましたが、『認めざるを得ない』ムードになっていきました。
結果、2015年からの歴史の教科書は、『ヒトラーは第二次世界大戦の敗戦を認め、植民地だったアフリカの村へと居を移し、そこで亡くなりました』という文に変更されることになりました。
ヒトラーの死の真実が世界に知れ渡って、数年経った頃、外を歩くとよく屈強なロシア人の方を見かけるようになりました。そのロシア人の方は、大抵私の後ろを付いてきているような気がするのです。
このことを馬場くんに相談すると、
「なんだか俺もそんな気がしてきたよ、一旦警察に相談してみないか」
と提案してくれました。
私は、『文化人類学』というものは、人間が築き上げてきた数々の文化を調査、研究し、後世に残すための学問だと考えています。
私のこめかみに拳銃が突きつけられ、脅されることになろうとも、私は文化人類学者でありたい。
そう思うのです。
歴史を変える仕事 愛工田 伊名電 @haiporoo0813
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