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レイカー街は何世紀も前から続く旧市街の景観が特徴的で、道はそれなりに舗装され市によって管理されている感はあるが、横道に入れば薬物と化物と犯罪の匂いが立ち上る不穏な気配を湛えている。仕事でもなければこの街に立ち寄りたいと思うものはそう多くはないだろう。俺もその一人だ。厄介ごとに巻き込まれたくはない。
八丁目。幾つかある公園を目印に、大通り伝いに紙に書かれた住所を辿り、それらしいアパートメントを見つけた。このエリアに来たのはこれが初めてだが、何となく余所者は歓迎されていない雰囲気を感じる。辺りを見回すと、地元の人間が通うパブや風俗店の周りで、邪気のある視線を漂わせている人間が何人もたむろしている。あまり長居しない方が良さそうだ。
俺は外付けの螺旋状の階段を上がり、五階まで上がっていった。階段は錆だらけで、今にも崩れ落ちそうだ。
502。表札は出ていない。廊下は埃っぽく、とことんまで冷えている。吐いた息が凍り、白い魂となって流れていく。
俺はブザーを押して、暫く待つ。返事がないので、もう一度鳴らす。低い唸るような音は奥で聞こえるので、鳴っていることは確かだ。もしかしたら不在なのかもしれない。
二度手間は嫌だな。
ここには何となく、もう二度と来たくないと思い始めている。
そう思いながらもう一度ブザーを鳴らすと、ノブが回った音がし、扉が開いた。
現れた女は、髪は長いブロンドで、赤色の肌着を一枚と、下は何と下着だけだった。俺は思わず目を逸らし、女の顔を見るようにした。
女は寝ぼけたような目を薄く開き、俺の顔を一瞥してから、俺の下から上までを見て、言った。
「……なんだ。坊やじゃないか。ここに何の用?」
どうやら場違いな奴が来たと思われているらしい。無理もないか。
俺は努めて力のある声を意識して出した。
「あの、俺はホームズさんの所から遣わされてきました。死体の第一発見者に話を聞いてこいと。俺はレインと言います。それで……」
女は俺が喋っているのをぼーっとした目で見ていたが、やがて頭をボリボリと掻いてから、ああ、と言って、部屋の方を向いて中へと入っていった。
「あの……」
「私はジャスミン。イリス・ジャスミン。まあ入んなよ。茶ぐらい出すし。こんな所で話してたら凍えちまう」
言い終える前に扉が閉まろうとするので、俺は慌てて扉の縁を掴み、迷った末に中へと入った。
部屋は一間で、広いとは到底言い難い。左側に硬そうな簡易ベッドが置かれ、それだけで部屋の半分近くは埋まっている。床には薄い緑色のカーペットが敷かれており、その上の小さな木目の目立つテーブルの上に黒いボトルとグラスが置かれている。その前に小さな紙がある。
ただそれよりも俺が気になったのは、この熱気だ。玄関の辺りで既にその熱の気配を感じてはいたが、一間に通じる扉を開けた時、そこはサウナのようになっていた。
「暖炉でもあるんですか?」
俺は早くもかき始めていた汗を拭いながらそう問いかけると、ジャスミンは親指を隅に向けた。
そこには黒い、石窯を思わせる形の重そうな物体があり、内側に熱の気配を感じる。そしてパイプのような伸びた所から、上記のようなモヤが間断なく流れ出ている。
俺は言った。「暖炉じゃないみたいですね」
ジャスミンは肩をすくめて言った。
「まあ、暖炉みたいなものさ。蒸気を使ってる分、密閉してると暖まりやすい。で、何だっけ? 死体の話だっけ? あんた、お茶飲む? それとも酒がいい?」
俺は立ったまま、「じゃあ、お茶を」と言い、その場で待っている。「分かった」とジャスミンは言うと立ち上がり、棚からコップと茶葉を出し、それからポットのような物に水を入れて、それをボイラーもどきの前まで持っていった。その上に茶葉と水を入れたポットを置く。
その間にも、尋常ではない汗が全身から吹き出し、気分が悪くなりそうだった。ここは早く退出した方が良さそうだ。あまり長居すると干からびて砂になる。
「死体の話だったよね」
ジャスミンがベッドの前に座り直しながら言う。
俺は頷いて先を促す。
「ジャスミンさんが最初に死体を見つけて、ただ気になったんですが、見つけた場所はこのアパートの地下だったんですよね。どうして地下に?」
「そのどうしてっていうのは、死体が地下にあったことなのか、私が地下に来た理由、どっち」
「どちらもです。良ければお伺いしても?」
ジャスミンは大きく溜息を付いて、首の辺りを掻き、何かを言った。どうも近頃のガキはどうの、といった事のようだ。
俺の方を見て、ジャスミンは言った。翠色の、宝石のような綺麗な瞳だ。
「あの日はね、仕事を終えてフラフラで帰ってきたんだ。上客だったんだが、体の世話をした後、私を気に入ったのか、近くのパブで奢ってくれたんだよ。それがたっかい酒でねえ。美味くてつい飲みすぎちまった。で、帰りはフラフラで……」
「時刻は分かりますか?」
「そうだなあ、二時ぐらいだったかな。まあ多分、二時から四時って所だろう。飲ませた客は馬車で帰っていったが、乗る前に執事みたいな身なりの良い男にたしなめられていたっけ。少なくとも0時じゃなかったな。で、帰ってきて、階段を上がろうとしたんだ。で、そこで思い出した。火がないことに」
「火?」
「ああ、こいつの燃料だよ。こいつがないと寒すぎて夜眠れない。だから上がる前に、ついでに地下にあるマキを取って行こうと思ったんだ。で、階段を降りていって、地下室を開いたら、死体があった」
俺は聞く。
「死体はどんな様子でしたか? というか、どうして死体だと?」
「あんたも見ればすぐに分かるよ。酔っ払ってても、そいつが死んでるのは明らかだった。冷たくて、固まりかけてて……でも妙だと思ったのは、そこに何故か鏡が置かれていたことだ」
「鏡?」
「ああ、普段はそこには何もないんだけど、鏡がこちら向き、入口の方に見えるように置かれていた。ガス灯の光に反射して、凄く綺麗だったのを良く覚えてるよ。で、私は死体をそのままにして、許してくれよ、死体なんて珍しいことじゃないし、とにかく眠たくて、明日にでも誰かが警察に言うだろうと思ったんだ。マキを取った後、階段を登って、爆睡さ」
俺は少し考え込んだが、汗が視界を遮り、思考どころではなくなってきそうだった。仕方なく口を開く。
「分かりました。とりあえず今日はこの辺で。また来るかどうかは分からないんですが。何か言い忘れたこととかありませんか? 気になっていたこととか」
ジャスミンは宙を見るようにして言った。
「うん……まあ。他には別に……。鏡が一番気になったことかな。ああ、それだ。何故か鏡が、無くなってた。次の日私が降りて行った時、鏡がなかった」
「鏡がなかった?」
俺は手帳にメモをする。
「ああ。それに、誰もまだ見つけてなかったみたいだった。もう昼だったのにね。で、仕方なく私が警察に言って、その後にホームズとやらが来て、……あんな良いところのお嬢様が巷で噂の探偵だったなんて知らなかったよ……で、」
「え?」
「え?」
俺は思わず遮っていた。え、何だって?
「えと……ホームズ氏が来た?」
ああ、とジャスミンは思い出すように上を見上げながら言った。
「長身の、多分あれがワトソンとかいう奴なんだろう。そいつと二人で、警察が来る前に来て、私を訪ねてきた。それで今みたいに聞かれて、知ってることは話した。で、それから地下室の死体を見に行ったみたいだ。何を話していたのかは知らん。でも三分ぐらいで出てきた。めちゃくちゃ満足げな表情だったよ。黙ってれば可愛いお嬢様なんだが、あれは喋ると見えるタイプの妖怪だな」
ホームズが既に来ていた……しかも既にジャスミンから話を聞いていた……。
「おい、坊や大丈夫かい? ほら、茶でも飲みな。汗ダラダラだよ」
「お構いなく……こちらの話ですので……」
じゃあ既に全てを知っていた上で俺を寄越した訳か、あの女は。
「ジャスミンさんは……その……」
ジャスミンは肩をすくめて言った。「イリスでいいよ」
「イリスさんは、その、もうホームズさんに話をしていたのに、俺の話に付き合ってくれた訳ですか?」
ジャスミンはつぶらな翠玉の眼をパチクリとさせて、笑いながら言った。
「ああ、ホームズから言われてたんだよ。あんたが来るって。どんな奴かは聞かされなかったから、まさかこんな坊やだとは思ってなかったけど。あんた、レインって言ったっけ。苗字は?」
何故か今度は俺が訊かれる番になっている。これはまずいな、と俺は思い始める。
俺は仕方なく答える。
「苗字はないんですよ。色々と事情があって……」
ふうん、と言って、ジャスミンは黙った。沈黙が流れる。ボイラーもどきから蒸気が流れ出る時の、ボコボコという音だけが大きく耳に響く。俺は立ち上がりながら言う。
「今日はありがとうございました。お疲れの所申し訳ありませんでした。では失礼します」
「あ、ちょっと待った」
「何でしょう」
俺はもう部屋を出ようとしている。一間に通じる扉を開けると、忘れていた不穏な凍えるような外気が身に触れ、汗が引いていく。
「帰りに地下室に行ってみるのはどうだい? 折角来たんだ。ホームズがわざわざあんたを遣いに寄越したってことは、多分それなりに意味があるんだろうよ。これ、地下室の鍵。普段は私が持ってるものなんだけど」
俺は差し出された鍵を見つめながら尋ねる。
「普段は鍵がかかってるんですか?」
「そうだよ。それがどうかしたかい」
「いえ」
俺は鍵を受け取り、玄関の扉を開け、外へと出た。今度は身も凍るような外気が幽霊のように一斉に周りを取り囲み、俺は体をすくめた。
「鍵はそこの鉢植えの裏に入れといてくれたらいいから。どうせ誰も盗みやしないんだけどさ。じゃあ」
「ええ、じゃあ」
「あ、あと気になってたことがあるんだけど。あなた何歳? ホームズには聞いても答えてくれなかったんだけど。もしかしてあんたもそういう感じ?」
「俺は」
何故かその時、俺は吸血鬼に噛まれた時の痛みと光景を思い出していた。
「十二歳です」
ふうん、とジャスミンは下着姿のままで、堂々と扉の縁に手を掛けて微笑みを向けながら言った。
「じゃあ、やっぱり坊やだ」
血と闘争 パラークシ @pallahaxi
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