『霧の街』の名を冠するここロンドンは、常に黴と煤の混じり合ったような濃い霧が出ている。今もそうだ。ただ歩いているだけで、コートに謎の灰色の粉が付く。空気は夏を除けば常に身を凍らせるような冷たさで、吐く息は白く染まる。


 手がかじかんでいる。痺れ始めた手を擦り合わせ、目を上げるが、建物は先端がはっきりと見える。それ程高くない。十メートルもない高さの建物が、歩いても歩いても続いているような感じだ。あの日見たような、遥か彼方まで聳え立っているような、先が見えない建物はどこにもない。


 あの建物があった、あの場所は、一体何だったのだろう。


 ぐう。腹の虫が鳴いたようだ。


 そういえば今日は、まだ何も食べていなかった。ポールが飲み残した赤ワインを失敬して、飴を一個口に放り込んだきりだ。寝坊てしまったせいだが。


 あの女から離れて、緊張が解れたらしい。現金な体だ。さて、どこで飯を食おう。


 ポケットの中に手を突っこみ、小銭を漁ろうとしていると、斜め後ろから荒い鼻息と車輪の回る音が近づいてきた。


 そして、その音は自分の手前で止まる。


 振り返り、見上げると、最早馴染みとなった者の顔があった。


 俺は、反射的に声を出していた。


「ポール」


 ポールは、馬車の中で親指をくいと寄せる仕草を見せていた。


「乗っていけ。飯もまだ食っていないんだろう」


 ジョン・ポール。俺を救い出してくれた人間だ。



「シャルロット・ホームズに空腹で挑むとは大したやつだ」


 二人乗りの馬車はゆっくりと進んでいる。間断なく、急ぎもしない心地よい速度を維持しながら、無言の街を通り過ぎていく。


 座り心地の良いソファに身を沈め、眉根を湯せながら俺は言った。


「一体何者なんだ、あの女? 話の間、ずっと空色の菓子を食ってたぞ」


「あの女の嗜癖なんだ。ミントの味がする物に眼がない、……いや、取り憑かれている。あれがないと気が狂うとワトソンが言っていた」


「それに、」と俺は言い、身を起こす。ポールは馬車の中だというのに、帽子を脱がずにいる。太く濃い眉毛の下置かれた、フクロウを思わせる聡明そうな対の眼が俺のことを見透かすように見てきている。


 俺は続けた。


「それに、まるっきり子供みたいに見えたぞ。部屋に入ってきた時、どこに件のホームズがいるのかと一瞬探したよ」


 ポールは苦笑いを浮かべて答える。


「それは大抵の人間がする行動だな。ホームズも慣れているし、気にもしていない。だが今はもう、既に彼女とその助手ワトソンの名声はロンドン中に知れ渡っているから、そういう機会も少ない筈だ」


「名声……、探偵の?」


「彼女達は民間の探偵なんだ。珍しいだろう。民間主体の、しかも女性探偵など。それにあの容姿と性格だ。最初は依頼がまるで来なくて、そのせいでワトソンが大分苦労したらしい。どんな弱みを握られているのか知らないがね。


 だが、今ではロンドンの犯罪捜査を一手に引き受けるスコットランド・ヤードの警部ですら、彼女を頼るようになっている。もっとも、彼女の場合、警部が訪ねてくる前に事件を解決してしまっている事も多いのだがね」


「……そんなに凄いのか? あの女」


 ポールは無言で頷いた。何故か柔らかな微笑みを浮かべながら。お前にもいずれ分かる時が来る、とでも言いたげな顔だ。


 背もたれに寄りかかりながら俺は言う。


「でも、あの女は俺を頼るみたいだ。俺に貸しを作るのは怖くないのかね」


 ポールは少し間を置いてから、言った。


「それが彼女のやり方だからな。実際に、自分が現場やら捜査に出向くこともあるが、それは本当に極稀だ。彼女はこちらの想像を絶するような頭脳の世界で、こちらで起こる出来事をその中だけで解決してしまう。……まあ、使われる人間はその駒に過ぎないと彼女は思っているんだろう。お前も含めてな」


「なるほどね」


「ところで、飯がまだだったな。おい! 止めてくれ」


 御者が手綱を引き、馬車が止まる。手を摩りながら外の景色を見ると、水色の飲食店らしき建物が見えた。どうやらダイナーのように見える。


 ポールが慣れた動作で先に降りていく。そして自分が降りると、下から手を出し、降りるのを手伝おうとしてくる。手は白い手袋がしっかりと嵌められている。俺は首を振り、自分の力で降りた。


 ダイナーの前に立って、ポールが言う。


「遅い朝食にしよう。ここは白身魚が上手いんだ。ポテトも安い」


 そう言いながら、シルクハットに黒い礼装というめかし込んだ出立のポールが、慣れた手つきで店の中へと入っていった。


 自分の服装を見下ろし、改めて眺めてみる。厚い革のチョッキに、振ったりとした黒色の外套。首元にあるネクタイがわりの白い首装飾。まるでどこかの御坊ちゃまのようだ。


 食うために盗みを繰り返し、着るものすら碌に選ぶことが出来なかった男が、今は往来でこんな服を堂々とめかしこみ、ダイナーの前に立っている。


 扉からポールが顔を出す。


「おい、何してる。早く来い。外は寒いだろう」


 俺は首を振り、観念してポールの方へと行き、扉を潜った。



「そうか。目撃者に話を聞いてくるよう言われた訳だな」


 俺の目の前には、白身魚と芋を揚げたものが乗ったプレートが置かれている。付け合わせに緑色の野菜がおまけのように乗せられていて、赤と白の謎の液体がその横に添えるように塗られている。


 魚を手で掴み、早速食べようとすると、ポールに手で制された。


 その眼はこう言っていた。


 食器を使え。


 俺は仕方なく魚を皿へと戻し、フォークを力を込めて掴んだ。


 俺は話し始めた。


「死体を見つけたのは売春婦の女で、その日は仕事が終わり、帰ったのは深夜だったそうだ。この紙に書かれているように、隣町のアパートの五階に住んでいる。だが、死体はアパートの地下室で発見された。首元には二箇所、鋭い桐で刺されたような跡があったと、そう証言してるらしい。まあ、今から見にいくんだけど。うん、美味いな、この魚」


 ポールは白いナプキンを首から下げ、ナイフとフォークを丁寧に使い、魚の肉を切っている。


「お前の初仕事だ。ホームズに気に入られれば、また仕事を回してもらえる。がんばるんだな」


「頑張るのは好きじゃない。俺流に、程々にやらせてもらう。うん、芋もいけるな」


 ポールは向かいで苦笑を浮かべた。


「お前が不味いと言った所を俺は見たことがないな。食いたければ、俺のも食うか?」


「本当に?」


 僥倖だ。今日は何故かポールの機嫌が良いらしい。幸先が良いじゃないか。


 俺はポールの食べかけのプレートを引き寄せ、魚と芋をフォークに刺して食べる。食べている最中に、ポールが言った。


 先程までとは打って変わった、低い声だった。


「一つだけ忠告しておく」


「何だよ」


 声が更にワントーン下がる。殆ど聞き取れない程に。


 少し間を置いた後、改めるようにしてポールは言った。


「……吸血鬼の能力は使うんじゃないぞ。感知できる能力者が近くにいれば、お前は即座に捕まる。自分だけは大丈夫などとは思わないことだ。根拠のない自信はお前の長所の一つだが、致命的な弱点でもある。これはこれからの事も含めて言っている。俺にも助けられる限度というものがあるからな。肝に銘じておけ」


 俺はポールから目を逸らした。聡く、射抜くような鋭いその眼から逃れるために、俺はフォークに突き刺した魚と芋のフライに目を移し、乱暴に口の中に突っ込んで、咀嚼した。


 ポールがまだ俺の方を見ている。


 俺は口の中の魚と芋を飲み込みながら、言った。


「肝に銘じておく」


 ポールの太い眉根が下がり、それを見て俺は少しばかり安堵した。それと同時に、自分の中に沸き起こりかける罪悪感に、密かに蓋をした。

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