8丁目の女



「おい、おい」


 体を何かに揺さぶられて、俺は目を開けた。目を開けた場所は、薄暗くて、埃が舞っていて、とても寒い。奥で暖炉が燃えている。辺りには本が堆く積み上がっていて、壁は幾何学模様が描かれており、壁の一つにはダーツの的があり、その側には太いナイフが突き刺さっていた。


「おい。君、本当に大丈夫か?」


 目を上げた。そこには、口髭がピンと跳ねた、髪の短い長身の男がいた。その目はとても柔らかく優しげで、俺の事を心から心配しているのが伝わってきた。彼を安心させる為に俺は軽く頷き、居心地の悪い椅子に座り直した。


「ねえ。君。レイン君と言ったかな」


 とてもトーンの高い女の声が聞こえてきた。声のする方を見ると、女がソファに座ってこちらを見ている。どでかいソファだ。いや違う。女が非常に小さいのだ。


 彼女はそのソファの前に足を垂らしている。足は床に届いていない。まるで子供のような足だった。ゴシック調の白を基調としたフリルの付いた服に身を包み、今は険しい目つきで手を膝の上で組みながら俺の方を見つめてきていた。


 彼女は自分のすぐ側にある焼き菓子の一つに手を伸ばし、むんずと掴んで食べ始めた。食べながら俺に言ってくる。


「レイン君。返事がないんだけども。さっきの私の話、ちゃんと覚えているかな? 念の為復唱して欲しいんだけど」


 子供のように可愛げのある声なのに、どうしてこれ程の威圧感を覚えるのだろう? 俺は膝の上で手を握り直し、唾を飲み込み、言った。


「死体は、仕事から帰宅してから見つけたと証言された。証言者は風俗で働く女性。……死体には首に噛まれたような跡が見られたため、特記事件としてのスコットランド・ヤードが捜査を始めたらしい、と……」


「うん、よろしい。でも、ちゃんと返事はしてくれないとなあ。不安になるじゃないか。まるで私が虚空に吠えていたみたいになるじゃないか、なあ、ワトソン?」


「ミントの焼き菓子は後三つまでだぞ、ホームズ」


「なんだあい、ワトソンは相変わらずけちん坊だな。そんな約束聞いてやるもんですかーだ」


「糖尿病で死にたいのか……全く」


「この国で最も多い死に方を知ってるか? 薬物とアルコール中毒だそうだ。怪物騒ぎや殺人はその後だそうだぞ? くしし、面白いとは思わんかね、なあレイン君」


「え、あ……そう、ですね」


「……なんだあ、君はもう少し面白い男だと思っていたのだが、何とまあ私の見込み違いか」


「……はあ」


 少女はーーいや、少女のような姿の女、シャルロット・ホームズはーー再び、手をテーブルの上にぞんざいに伸ばしていくと、机の上に大量に並べられた菓子達を物色し始めた。そして、その一つに狙いを定めると、素早い動作でそれを取り、青い包装紙を剥き始めた。青い包装紙の中からは、空色と緑色を混ぜたような不思議な色合いの飴玉らしきものが出てきて、ホームズは乱雑な動きでそれを口に放り込み、それから満面の笑みを浮かべた。


 俺は少し手持ち無沙汰になった。部屋の中にはコロコロと飴玉を転がすホームズ嬢の口の中の音だけが聞こえてくる。


 俺は勇気を出して言った。


「……それで、俺は何をすればいいんですか。ポールからは言われた通りに動けと言われたんですが」


 ホームズは目を見開き、体を起こしながら言った。


「おお、話が早いじゃないか。それそれ、新人にはその気概を私は求めているんだ。かつてのワトソンのように。聞いているか、ワトソン」


「知らぬ存ぜぬ。後一個だけだぞ、ホームズ。残りは夕飯の後だ」


「チェッ」


 再び話が脱線しそうだったので、慌てて俺は言う。


「えと……俺は、このハロルドさんの家に行けばいいんですかね。それで話を聞いてくるとか」


「調書の経験は?」


 ホームズが上目遣いに聞いてくる。


 俺は小さな声で答える。「ないです……」


「なくていいのさ」


「え?」


「素人の君だから、行ってもらう価値がある。ほら、これが住所だ。隣町だから、馬車を使わずとも行けるだろう。まあ、半吸血鬼の体なら人間の半分の時間で行けるだろうなあ、なあ、レイン君」


 空気が冷えたのが分かる。遠くで暖炉の火が爆ぜ、薪がパチンと不穏な音を立てた。


「……ポールから……ある程度の話は聞いているとは思いますが……」


「ああ、聞いているさ。一月前、吸血鬼に襲われたそうじゃないか。それでポールが君に血を分け、助けた。そのままだと君は人の姿を保てなくなっているところだった。それで……」


「ホームズ」


 ワトソンが大きな声を上げ、喉を鳴らした。ホームズはさくらんぼのような空色の菓子を口の放り込もうとしていたが、途中でぴたりと止めて、目を広げて向き直った。


「ああ、そうか。言う必要はなかったんだったな。すまない事をした」


 俺は迫られていると思い、「いえ」とだけ言い、俯いた。


 まあ、なんだ、と言いながら、ホームズはまた足をソファの下に投げ出し、ブラブラと揺らしながら続ける。

「吸血鬼に噛まれる事自体はこの街じゃ珍しい事じゃない。怪物に噛まれてすぐ死に至るケースだってザラにある。君は運が良かったってことだよ。これならいいだろう、ワトソン?」


 ワトソンは返事をせず、目も瞑っていた。


 辺りに沈黙が訪れる。


 俺は立ち上がり、帽子を帽子掛けから取った。


「じゃあ、俺はこの辺で失礼します。話が聞けたら、すぐに戻った方がいいですよね」

「別に急がなくてもいい。警察からも情報が入ってくるからな。君は補佐になれるぐらいの立ち位置で、気付いたことを報告してくれればそれでいいんだ。聴くんじゃない。みるんだ。君はこのハドソン亭の階段の数を覚えているか?」


 俺は俯いたまま否定の言葉を口にする。「いえ……」


「ポーチと合わせて十八段だ。ハドソン夫人の誕生日の数だよ。では、お気をつけて」


「失礼します」


 俺は帽子越しに頭を下げて、ホームズとワトソンの共同部屋から出ていった。


 外に出る直前に、中年の女性と階段の下で出会した。女性は快活な雰囲気の人で、この人がハドソン夫人だろうと俺は思った。


 彼女は言う。


「またいい男が来て、あの娘は幸せ者よねえ。でも全然そういう話しないの。困ったものだわあ」


「はあ……」


「若い若いと言ってられるのも三十までよ。この国じゃ、早く家庭に入らなきゃ女の人権なんてないようなもんじゃない。あら、失礼。そんな事興味ないわよね、オホホホ」


「いえ……ここに住まれて、長いんですか?」


 ハドソン夫人によると、十五年前に住み始めて、八年前からあの二人が住むようになったそうだ。そして、怪物がらみの事件が増え始めたのも、その時期かららしい。


「昔はこんなんじゃなかったのにねえ、どうしちゃったのかしら、この街は」


「いつも霧が出てるのは、昔からですか?」


 ハドソン夫人は少し躊躇いがちだった。


「うーん、私が住み始めた時はまだ、こんなにはなかった気がするけど……あ、お茶飲んでいく? あなたいい男だから、話しててとっても楽しそうだわ。美味しい紅茶があるの。あの娘と中年男に出すよりは遥かに有意義よ」


「いや、それは……俺はもう行きますので……」


「あら、そう? じゃあ、今度来た時に用意するわね? ミント味以外の物を。ちゃんと買い揃えておかなきゃ」


 外に出た時、外は霧の間を縫って雨が降り始めていた。


 



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