血と闘争

転々

序章

 死をイメージをすることは、生き物の自然な行動様式の一つであり、危機的状況においては、その脳内に描かれる絵は途端に精度を増し、鮮明になる。


 どこまで逃げてもそのイメージはその者について回り、まるで亡霊のように付きまとった挙句、その者の魂の内側を食い荒らし、生命を、生の意義を、その者から失わせるのだ。


 有り体に言えば、今の俺の状況が、まさにそうだった。




 俺は走っていた。力の許す限りに。汗を流し、上気しながら、一瞬一瞬の生を感じ取りながら。


 目の前にある倒れたゴミ箱を一つ一つ軽やかに飛び越え、追っ手が追跡できないように蹴ってゴミをばら撒きながら、小さな道を一本一本逃れ行き、そして確実に追い詰められていた。


 ロンドンのよくあるスラム街のどこかの区画。灰色に覆われた横道に、宿無し人が床に座り、俺が通り過ぎるのを虚無の眼で見つめている。


 どこまで行っても、道、道。安住の地はない。灰色のロンドンにあるのは地獄と化け物、そして犯罪と血の気配だけだ。


 足の感覚が鉛のように鈍くなり始めた。追っ手の声は増すばかりで、俺はもうすぐ走れなくなることを直感する。


 追っ手の数は未知数だ。名の知れたスリ集団から売上をかっぱらったツケは大きい。彼等の全財産ともなれば、許される筈もない。


 俺は多分、死ぬのだろうな。俺は自分の空腹と、ガリガリに痩せた体の内側の感覚に意識を向けながら、かつていた孤児院の事を思い出す。


 意識が死に向かっている。


 そう気づいた俺は、慌てて首を振り、また一つゴミ袋を飛び越え、道を横に折れた。追っ手の声が響き渡る。ここだ! 囲い込め!


 俺が入った横道は、何故かとてつもなく小さかった。そして暗かった。天井は見上げる余裕はなく、何故かジメジメしていて、体を横にしてやっと通れるぐらいの細さだった。頬に触れる建物の外壁の感触が不快だ。ネズミの尻尾に触れられたような感じがする。


 こんなに遅いと、もう無理だろう。この細道を出た所で押さえられて、ジ・エンドだ。ジ・エンド。確か、そういう劇がどこかにあった気がする。この街の劇場でもやっているのだろうか。生きていたら、見ることができたのだろうか。


 暗い細道を、身を横にして通り過ぎた時、何故か追っ手の声が止み、辺りに沈黙が広がっているのに気づいた。


 蒸気した汗が、凍えるような外気で冷え、この街の空へとじんわりと溶けていく。頭上を見上げる。そこに見える建物は、先端が重たい霞に覆われていて、途中で見切れてしまっていた。目の前にあるのは何かのゴミ捨て場のような場所。砂が溜まっていて、もう何年も使われていないような気配を湛えている。


 風が吹いている。ロンドンには珍しい、乾いた性質の風だ。ここはいつもジメジメしていて、触れて感触を確かめる程度の流れしか起こらないのに。そして、何かのニオイもする。


 行き止まりのゴミ捨て場に通じる、唯一の道。恐らく、大通りへと通じているのだろう。人々の喧騒が、奇妙なニオイと混ざって風と共に聞こえてくる。


 さっきから、このニオイは何だ? 俺は息を整えながら、少しずつ大通りへと向けて歩き始めていた。そして間も無くして、立ち止まる。


 辺りが血の海と気付いたのは、その男が血の色を翼のようなものを生やして、手で俺の首を押さえつけている時だった。


「……し……!! シガー……!!」


 その男はボロボロの身なりで、身体中から腐ったようないやな臭いがした。小さく開かれた口から、醜い欠けた歯が見え、淀んだビー玉のような眼で俺を見つめていた。


 とてつもない力だった。俺はその男に首を絞められ、ゴミ捨て場の隅の壁の辺りに押し付けられている。


「し……シャガー……!」


 ……シャガー……?


 俺は息が止まりそうになりながら、ポケットの中の、護身用に持っていたステーキナイフを取り出して、必死の思いで男の脇腹に突き刺した。


 だが、男の手は緩まらない。横を見ると、通りに血まみれで横たわっている人間達と、赤い床が見える。どうも、こいつの仕業らしい。


 死ぬとは思っていたけど、まさかこんな化け物にやられるとは思わなかった。ロンドンは危なく、化け物だらけだと小さい頃から孤児院で教わってきたけど、こんな奴までがいるとは想像もしなかった。


 もう少し。もう少しだけでいいから、生きていたかった。


 俺の手は力が抜け、その手からステーキナイフが落ち、床に落ちて乾いた悲しい音を立てた。


 そして俺は、目を閉じた。






 騒音と強烈な痛みとで、俺は目を覚ました。


 首にある、焼き付くような痛み。あまりに首に近いせいで、目では確認できない。でも、まるででかい腫れ物が瞬間的に出来たみたいな、鈍い、焼き付くような痛みだった。


 まだ霞んでいる瞳で、周囲を見回してみる。すぐに気が付いたが、先程からやかましい。信じられない程騒々しい。赤い翼を生やしていた男が、今は床の上ででのたうちまわって、叫び声という名のすさまじい騒音を撒き散らしている。


 俺は身を起こし、何なんだよ。一体、と呟いた。自分の声のように聞こえなかった。痛む首元に手を触れると、べっとりと、二又に分かれた血が付いた。


「触らない方がいい」


 どこかから、不思議な声が聞こえた。穏やかな、だが諭すような、厳しい声。今度は、誰だ。今度こそ追っ手か? トドメを刺しに来たのだろうか。


 もう、いい。一思いにやってくれ。


 まだ男の叫びは続いていたが、不意に、その音はぴたりと止んだ。吹いていた風が止まるように。その瞬間、風の音で見えなくなっていた周囲の彩りの美しさが、視界の中に甦ってくるように。


 俺は、まだ手を傷跡に当てていた。


 その手を優しく握られ、離される。


 温かな手だった。


「もう触らなくていい。俺が何とかする」


 ……何とか?


 途端に体から力が抜け、俺は横たわっていた。急激に眠気と震えが来始め、内側に冷たい導線が全身へと巡っていくような不思議な感覚を覚え、恐怖を感じる。


 気づけば、自分がとても深い、深い、血の色をした穴の底へと落ちていくようなイメージが浮かんだ。血の底は、暗くて、何も見えない。


 そう思っていると、急に真っ暗な世界に光が刺した。光。太陽のような。ロンドンでは滅多に見ることが出来ない、紛れもない、包み込むような穏やかな太陽のような光。


 いや、違うと、瞬間的に俺は思った。これは、これは、太陽じゃない。


 太陽を模した橙色の光の裏に、血のような赤と、何かの紋章のような筋が見える。そして気づけば、その中から手のような物が伸びてくる。


 俺はあと少しの所で、その指に触れられそうになる。その手は悔しそうに指を丸め、手を紋章の奥へと戻し始める。その更に奥に、俺は何かの姿を見た。一体何だろう。神様か何かだろうか。俺は目を閉じている筈なのに、はっきりとイメージが流れ込んでくる。


 次の瞬間、俺は目を開けていた。そして、自分が唸っている事を知る。そして、誰かの首を噛んでいることも。その首は自分の牙が深く突き刺さり、血の粒が線となって首筋を流れ落ちている。


 俺は唸っていた。先程まで叫んでいた男の何十倍もの声の大きさで。


 自分の声とは、とても思えなかった。


 俺はその日、ポールから血を貰った。


 昔の俺は、その日から死んだままだ。



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