始発

 いつかの血の海で、少女がやわらかく笑っては消えていく。少女にかけられる願いなど、なかった。

 立花よだかは、微睡みから目を覚ました。始発電車でも乗客は多い。車窓から見る空も、既に白み始めている。そっと顔を上げてみたが、周囲の好奇の目は感じなかった。事件は風化したのか。それとも、まだ自分の存在に気付かれていないだけだろうか。

 身柄を拘束された当時、留置所で弁護士から聞いただけの話だから、立花自身は、実際に世間の反応を見たわけではない。だが、実の息子による大学病院の院長殺害、一年前の長男の滑落死、直前の妻の病死など、センセーショナルな話題には富んでいたと客観的に考えても思う。インターネットで、自分の顔写真や出身校、自宅の住所など、今後、まともに生きていくための全てが謂れの無い噂と共に流出したと聞いた。

 また、その殺人旅行に元同級生である一人の少女が同行していたから、尚のこと炎上のネタになったらしい。だが、少女の炎上に関しての原因は明らかだった。

 かつて、立花はこのように自供した。

「高校の同級生である星野愛世美とは、羽田空港にて偶然再会し、上手く利用できるのではないかと思い、自分の方から近付きました。ただ、こちらの殺人計画を途中で知られてしまったため、脅して刃物を買わせ、函館から東京までずっと連れ回しました。彼女が自分に対して、好意的な行動を取っていたのは、自分が殺されないようにするための保身です。彼女は共犯ではありません。全て、自分の独断で行った犯行です」

 そのせいでストックホルム症候群だと世間は賑わっていますよ、と弁護士が親切に教えてくれた。マスコミに対し、恰好のネタを与えたとはわかっていた。だが、このような嘘を言わなければ、法的には星野を守れなかった。星野がそれを何より嫌がることも、承知の上だ。

 勿論、星野の供述内容とは矛盾していたが、立花の精神鑑定が正常だったこともあり、刑事裁判上においては、立花の供述が優先された。本人が主張したらしい、実母への殺人未遂も棄却され、星野の方に実刑は下されなかった。星野の主張の全ては、被疑者に対する心理的なバイアスとして処理されたし、世間も、犯人に利用された悲劇の主人公として星野を持て囃した。

 絶対に納得はいっていなかっただろう。その旨を伝える手紙は星野から何通と届いていたし、面会を求める申請は何十回も来ていた。だが、立花は全てを拒否した。一方的な便りも、一年が経つ頃にぱたりと途絶えた。それは、ちょうど立花の実刑判決が下された直後だった。だから星野とは、父を殺したあの日以来、一度も会っていない。

 そこから服役し、今日の出所に至る。殺害時の猟奇的な死体の状況から、懲役は長きに渡ったが、再犯の可能性は低いと見做され、最終的には模範囚として出所した。立花の憎悪と目的は実父にしか向いてなかったのだから、当然である。結局、裁判の途中で父からの虐待についても認知されてしまった。世間や法から見ても、仕方の無い殺人だと温情をかけられた。特異な同行人を除いては。

 立花は電車を降りて、人混みに紛れる。被っていたフードを外してみたが、振り返る人は誰もいなかった。ワイドショーでの娯楽消費も実刑判決も、遥か昔のことだ。立花が真面目に服役している間、世間は殺人逃避行のことなど忘れたのだ。それは僥倖であり、同時に残酷な忘却でもあった。

 自宅からの最寄り駅、いつか辿った高架下を歩む。何年振りだろう。星野からの着信を無視して、震え続ける携帯をポケットに潜ませながら、ただただ走ったあの夜のことは、今でも恐ろしいほどに鮮明だ。

 出所した立花には、自宅以外に行く場所が無かった。所有者である父を殺して、家の所有権や遺産が手に入るなんて馬鹿みたいな話だが、他に殺人現場を欲しがる人がいなかったから、仕方が無い。警察の現場検証以外、何の手入れもされていないあの場所は、いまだに血の香りが濃く染みついているのだろう。

 坂を上りきり、自宅を望む。立花は立ち止まった。辿り着いた無機質な家は、銀の原色をなくすほどに、色とりどりの落書きと紙であぶれていた。

 親殺し。

 医療への冒涜。叛逆者。患者に悪いと思わないのか。神を殺しやがって。わたしの息子はあなたに殺された。親不孝者。少女を誑かした色情魔。誘拐犯。異常者。死ね。ゴミ。クズ。死刑になれ。裁かれろ。二度と帰ってくるな。この世界に存在するな。消えろ。

 この世の全ての罵詈雑言を集めたかのように、カラースプレーの跡が折り重なっている。既に風化した落書きもあれば、比較的新しい跡もあった。カラースプレーの下には、いつかのゴシップ記事が貼り付けられている。その一枚を手に取り、破った。びりびりと片っ端から破り捨てていく。つまらないほどに、何の感傷も無かった。

 こんなのは全部、こちらの吐いた嘘に惑わされた証だ。真実なんて、操るのは容易い。ここには何一つ、本当のことなど無い。

 いや、罵詈雑言のいくつかは、確かに正しいものもあるだろう。だが、立花や星野の心情を慮るものは無い。おれたちの旅は、おれたちにしか知り得ない。立花の嘘が、嘘だと判断できる人は、やはり星野以外には存在しない。嘘が嘘だとすらわからない時点で、この罵詈雑言の全てに意味は無い。

 そして、この嘘を唯一理解してくれただろう少女当人にも「殺人者によって脅された」という嘘を被せた。立花が牢の中で罰を受けている間にも、星野は世間の悪意に散々弄ばれただろう。だが、世間に踊らされるよりも、こちらに置いてかれたことが何より堪えたはずだ。そういう奴だ。

 おれにとって星野は、今だってずっと眩しいままだが、見限られても何等不思議ではない。彼女が、血溜まりで祈ったあの瞬間から、あまりにも時間が経ち過ぎている。今、彼女はどこにいて、何をしているのか、立花には何もわからない。どうなっていても条理だろう。忘れてくれていてもいいとも思うし、呪っていても愛していても、星野らしいと思う。星野のエゴは星野だけのものだ。自分にはどうすることもできない。

 ただ立花は、星野のせいで死ねなかった。その結果、今、ここに生きてしまっている。

 くだらない薄紙を剥がし続け、玄関へと辿り着く。扉にもびっしりと張り付いていた一枚を剥がした瞬間、ふと手が止まる。ここまで碌に読まずに破っていたが、その紙だけ、明らかに触れた感じからして違った。剥がした手中の紙を見る。

 それは、一枚の絵葉書だった。紺色の夜空に、カシオピア座と赤い星が浮かんでいる。中傷を書くには似つかわしくない上質紙に手が震えた。まさか、とひっくり返す。表面には、こう印字されていた。

「AZM個展『終着がカシオピア』」

 無機質な印字が、何よりもの熱情を示していた。振り仮名は無い。だが、AZMのアルファベットが、星野「愛世美あぜみ」のことを表していると、瞬間で思い至った。

 さらに文字へと目を滑らせる。個展の会場は、多摩センター駅前にある商業テナント内。出所したばかりで日付感覚が曖昧だったが、記憶が正しければ、まさに今日が展覧会の最終日だった。

 もう一度ひっくり返す。カシオピア座の隣で、星が赤く輝いている。ティコの星のようだった。その他には、何も書かれていない。メッセージの類も何も無かった。

 立花は葉書を掴んで、踵を返した。逆走だ。

 小田急を乗り継ぎ、辿り着く。多摩センター駅、白い子猫の夢の国は、鮮明すぎる旅の別れの舞台だ。星野はどこまでも、いつかの「またね」を叶えようとしている。愚直なほどに。

 コンコースを過ぎて、透明傘のモニュメントの下、駅前の赤タイルを踏む。底知れない怯えがあった。だから、立花は走れないでいた。

 ずっと、自分が嫌いだった。嫌いで醜いから、愛さないでくれと願った。期待など、しない方が楽だ。期待などしなければ、傷付かないから。裏切られたくない。でも本当は、そんな愚かな自分ごと愛してくれる誰かを切望していたと言ったら、おまえは笑って、赦してくれるだろうか。

 街路樹の並ぶ坂の先、ひらけた十字路で立ち止まる。夢の国の中に聳え立つ、無機質な高いビル。その壁面に、満天の星が輝いていた。

 星をぶちまけたような天の川の中、カシオピアが輝く隣に、赤い刃物を握る男が横たわっている。流れる血は星となって瞬く。描かれた男は、燃えるように笑っていた。

 わたしは、あなたを愛している。はっきりとそう聞こえた。

 ああ。馬鹿な愛を観測している。この愛は、おれがどんなに否定したって存在し続けてしまうのだろう。質量を持って、この世界で。地球が潰える、その瞬間まで。

 わたしは愛して描いて、生きていく。だから、あなたはどうしたい?

 問われたから、立花は泣いた。

 燃えて輝く偶像の下、美しくて醜いこの世界の中で、立花は、いつまでもいつまでも泣き続けていた。

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カシオピアで燃えるあなたへ 青村カロイ @terminaLive

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