東京②
ついに星野は辿り着いた。携帯に映る地図を片手に、住所を確認する。間違いなかった。
銀光りした、真四角の一軒家。一目で豪邸だとわかったが、宇宙船のような無機質な家だ。温度は無く、団欒も感じられない。きっと、空洞だけが棲みついている。
小さな窓から光が漏れていた。室内灯がついている。迷っている暇は無かった。玄関に回って「立花」の表札を確認した。確信を得て、インターホンを思いきり押した。
「星野です。立花、いるんでしょ⁉︎」
返答は無い。星野はすぐさまドアノブに手を掛ける。鍵はかかっておらず、容易く動いた。息を吸って、踏み入れた。
静かだった。人なんて誰もいないと、そう思いたくなるほどに。淡いオレンジ色の玄関灯が廊下を照らしている。すぐ隣には、白いエレベーターと階段があった。正面の扉は閉じている。星野は靴も脱がないままで、フローリングを踏んで上がった。ぎい、と重みで床が軋む。
「立花」
返事は無い。鍵は開いていたから、絶対に誰かいるはずだ。何故、人の気配がないのか。最悪の可能性がよぎる。
間に合わなかったなんて思いたくない。どうか、そんな最悪はありませんように。願いながら、正面の扉へと進む。冷たいドアノブに手を掛けた。息を吸う。開け放って、咆哮した。
「立花ッ」
扉を開けた瞬間、鋭い鉄の香りが星野の鼻へと突き刺さった。
絨毯が吸いきれずに広がる赤黒い水溜まりに、ひび割れた黒いスマートフォンが沈んでいる。隣に落ちる水色の切符も、じわりと赤に染まっていた。その奥、黒い喪服を着た見知らぬ男が、仰向けで横たわっている。
星野は、視線をゆっくりと上げた。
白いカーテンの前、立花が膝立ちで、うっすら鈍い笑みを浮かべていた。宙に上がった両手、祈るように組まれた指の中には、真っ赤に染まったナイフが握られている。そのナイフの装飾は、爆発したばかりの超新星のようにひどく鮮やかに瞬いていた。
光るナイフの刃先は、今まさに、立花によって自身の喉元に突きつけられていた。
「だめッ⁉︎」
飛びつくように、立花へと手を伸ばしていた。握っていた携帯と葉書が手から滑り落ちる。立花と共に、星野は血溜まりの中に転げ落ちた。血の匂いが途端に濃くなる。
すぐに起き上がろうとする立花の真正面へ星野も必死で体を起こした。血で滑る立花の手の甲ごと、凶器を強く握り締める。
「返してよ」
立花に向き合い、祈るように上から指を組んだ。もう、二度と離さないように。
「……意味のないことを」
立花は虚ろな目で、星野を見下ろす。ああ、と静かに笑った。視線は赤く染まりゆく、葉書に描かれた星空へと落ちる。
「なんでここまで来れたんだと、インターホンが鳴ってからずっと考えてた。そうか。葉書の住所を辿ったのか。それは盲点だった」
掌の中、立花の手に力がこもる。笑みは削げ落ちた。血塗れの頬を歪ませ、立花は言う。
「離せよ」
「嫌だ」
「離せっつってんだろ!」
立花の怒号が飛ぶ。星野は首を横に振った。
「絶対に離さない。だって離したら、すぐにでも喉を掻き切って死ぬでしょ」
「それの何が悪いんだよ」
立花は、沈む肉塊を一瞥した。父だ。星野が部屋に踏み入った時から、既に動いていない。ここまで近付いて尚、わかる。数多の刺し傷が、男の喪服ごと肉を貫いている。今更、一つの傷を押さえたからと言って助からないのが、素人目にも明らかだった。
もう死んでいる。殺したのだ。爆発した殺意のままに。
「おれが殺した。だから死ぬ。それ以上に何がある?」
その道理に間違いは無い。函館へと向かう飛行機の中で、星野が自分に誓った未来と寸分変わらない現在に、立花は辿り着けたのだ。
この旅は片道だ。終着まで辿り着きたい。旅の終着で母を殺し、どうか死なせてくれ。そう、心から願っていた。確かにわたしもそうやって旅のはじまりで願っていた。
父の返り血で赤く染まりきった顔が、こちらを向く。立花の瞳は、死への切実を宿していた。今にも星野の手を振り払い、父にぶちまけた殺意を自己へと向けて、立花自身を食い殺そうとしている。
立花の髪から血が伝った。その隙間で、カシオピアが赤く揺らめいた。殺意は爆発した。だから殺した。あとはもう、ナイフを自分に突き立て、青く静かにつめたくなって、死ぬだけだ。
「全部、終わったんだよ」
ここが終着だ。星野は、間に合わなかった。
「……どうか、死なせてくれ」
立花は懇願する。終わりの声だった。
ふっと、星野は手を緩める。指の中、立花は凶器を固く握り直した。赦された、というように立花の瞳が緩い弧を描く。馬鹿だなあ。絶対に赦すわけがないのに。
星野は、赤く染まったカシオピアごと掴むように、立花の頬へと手を伸ばした。そのまま、血で濡れた口元へ、ぐいと唇を寄せる。ぬめる血の感触のままに、目を閉じる。ひどくつめたい唇だった。逃したくなくて、熱を伝えるように何度も、唇を強く押しつけた。言葉を奪う。もう二度と、自罰を重ねないように。
星野はゆっくりと目を開ける。立花は大きく目を見開いていた。星野は笑った。途端、涙が溢れた。
「やっと、わかったんだ」
「……何が」
「ずっとわたしに聞いてたでしょう。おまえはおれをどうしたいのか、って。ごめん。わたし、ずっと答えられてなかった」
星野は、立花の頬をそっと撫でた。本当に馬鹿だった。触られるのが怖いと言うあなたの言葉を鵜呑みにして、触れることを試そうとすらしなかった。触れる星野の指に、立花はただ、されるままにしている。拒絶は無い。ああ、もっと早く、触れていればよかった。わたしはずっと、あなたに触れたかった。自分の想いを貫いて、あなたに嫌われるのが怖かった。試そうとすらしなかったのは、全部、わたしの臆病さのせいだ。
「立花が問うていたのは、わたしが立花をどうしたいかじゃなくて、わたし自身がどうしたいかだったんでしょう」
おまえはどうしたいのと問われても、答えられなかったのは、星野に主体が無かったからだ。自分に価値など無いから、どうせ何を言ったって無駄だと、何も言っていないうちから先回りして予防線を張っていた。あなたのしたいようにして、と立花の意思を尊重する振りをしながら、結局は全ての選択を立花へと投げていただけだった。
「自分を大切にして。殺さないで、死なないで——。この答えは全部、立花が主語だよね。わたしがどうしたいかの答えには、何一つなっていなかったんだ」
だが、立花はそんな星野の矛盾に、はじめから気が付き、淡々と、ずっと問い続けていたのだ。おまえは何がしたいの、と。
「だから、考えたんだ。わたしはどうしたいのかって」
立花は言っていた。絵が欲しい、と。殺したいとも、死にたいとも言っていた。その言動の全てには、立花自身の静かな主体があった。主体はあまりにも自罰的で、破滅的だ。だが、それでも主体なのだ。立花はいつでも自分のしたいことを言っていた。だからわたしも、あなたみたいに自分の想いを言いたいと、思ったのだ。
「殺さないでも死なないでも、嘘じゃない。でも、違った。わたしが、あなたの殺人や自殺を必死に止めようとしたのは、倫理や正義であなたを真っ当に繋ぎ止めたかったからじゃなかった」
どうか伝えたい。そのために、わたしはここまできたのだ。殺していたって関係ない。あなたは死んでいない。まだ、間に合う。わたしは、間に合ったんだ。
あなたが何を思い、何を考え、何をしようが、わたしはわたしの主体を貫く。わたしはわたしのしたいことを叫ぶ。だって、それをあなたが問うたから。
腕を回す。血に濡れたあなたを思いきり抱き締める。首筋に顔を埋め、星野は笑った。
「わたしは、ただ、あなたと一緒にいたかったんだ」
ああ。本当にはじめから、これだけだった。燃えるような熱をぎゅっと強く押しつけた。
「ずっと、さみしかった。殺すとか死ぬとか、あなたがそう言うたびに、わたしがどうしようもなく苦しかったのは、あなたがそれを選べば、もう一緒にいられなくなるからだ」
気付いてしまえば、馬鹿なほどに単純な想いだった。血塗れの世界で、ようやくこんな当たり前に辿り着く。
「こんな旅に、未来なんか無い。逃避行だ。そんなのずっとわかってた。わかってたから、一緒にいたいなんてそんなこと、馬鹿らしくて言えなかった。でも、たとえ叶わないとしても、言えばよかった。だって、あなたと一緒にいられた全ての時間は、本当にわたしにとって楽しくて、幸せだったんだから」
美術室に絵を見に来てくれたこと。羽田で騙されるように出会って、旅が始まったこと。ラッキーピエロで漕いだ子供じみたブランコ。掘り返した遺書と、函館の夜景。青函フェリーであなたを見つけられたこと。電車から見た岩手山と銀河鉄道の夜。よだかの像を見て、イギリス海岸で恋を自覚した。恥ずかしかった大沢温泉の混浴と、初めて飲んだビールの味。中尊寺金色堂の阿弥陀如来と、閉じ込められて見た虹。逃げたあなたと松島の夕焼け、仙台のラブホテル。猪苗代湖の湖畔と、手持ち花火と流星群——。
全てがきらきらと瞬いている。この旅の全ては星野にとって意味があって、価値のあるものだった。逃がさないように、忘れないように、力の限り、立花を抱き締めた。
「あなたはお父さんを殺した。わたしは間に合わなかった。でも今、ここにあなたが生きていること、そしてわたしがあなたを愛していること、それだけは確かなんだ」
完璧なわたしじゃなくても、あなたを求めていいのだ。だから、人は祈る。見返りを求めず、ただわがままに祈る。あなたが何をしたって言ってたって関係無い。この世は、わがままばかりでできている。
「わたしはあなたと生きたい。あなたが生きる、世界で生きたい」
祈った。こんな終着だからこそ、あなたに祈っている。
「だから生きて」
かん、と金属の落ちる音がした。星野は構わず、もう一度強く抱き締めた。このまま、ひとつになれたらいい。でも、ひとつになれないから、こんなにも愛してしまうのだと思う。
ぐっと、腕の中に質量がこもった。抱き締め返されることは無かった。星野の腕を掴み、引き剥がすように立花は離れる。その手の中に、刃物は無かった。
「……ばかだよ、おまえ」
呟いた立花の瞳は、迷子のように揺れていた。その指が、星野の口元に寄る。ぐいと拭われたが、立花の指は既に血で真っ赤だ。きっと、余計に唇は赤くなったに違いない。星野は笑う。
「意味ないよ、それ」
「うるさいな」
立花は静かに目を伏せる。
「……おまえが来たとわかった瞬間、目の前で死んでやろうと思った。殺して、死んでたら、さすがに見限ってくれると思ったのに」
「甘いよ」
「ああ、甘かった。おまえもおれも。本当にばかだ」
立花は手を伸ばす。涙と血でぐちゃぐちゃの星野の顔を、血塗れの袖で拭ってくれた。
「おまえが間に合っても、間に合わなくても。いや、そもそもおまえがいても、いなくても、おれは父さんを殺してたと思う。許せなくて、憎かったから殺したかった。おれは、父さんを刺し殺したことを何一つ、後悔してない」
眼前に横たわる黒い血の塊は、逃れられない終着の形だ。やはり、殺人は立花にとっての必然だった。
「でもそれ以上に、おまえに嫌われたかったから殺したんだ。巻き込みたくなかった」
星野は目を見開く。ああ、結果は変わらずとも、動機は緩やかに変容していた。
「黙ってこのまま死にたかった。なのに、ここまで来ちゃってさ。一人で殺して死にたかったのに、おまえは何をやってるんだよ」
「愛してるんだよ」
もう、揺るがなかった。
「わたしは、あなたを愛してる」
立花は、ふっと気が抜けたように破顔した。ばかだなと呟くその目が、僅かに潤んでいたような気がした。
立花は静かに立ち上がる。血の海を歩き、投げられていたスマートフォンを拾う。割れた液晶をタップした。そのまま耳へと近付ける。立花の耳元では、カシオピアが揺れて瞬いていた。赤く染まりながらも、刹那に美しく煌めいていた。
そして、立花は口を開く。
「……警察ですか。立花よだかという者です」
立花は微かに笑って、告げた。
「おれは、父を殺しました」
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