東京①

 薄暗い宿の一室、聞き慣れない電子音が鳴って、星野は静かに目を開ける。

 隣のベッドのスプリングが軋む音がした。立花が身を起こしたのだろう。はい、と言う小さな返答がある。星野は布団を被ったまま、指先ひとつも動かせないでいた。はい、はい、と何度も答える立花の声に抑揚は無く、ただ、底の深い井戸に石を落とし続けているような、果てのない諦念がこもっていた。

「わかっております。本日、帰宅します。迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 固い声が部屋に響く。立花の電話の相手を確信する。父親だ。逃避に現実が襲ってきた。もう、逃げられない。

 星野は静かに体を起こす。立花はスマートフォンを置き、静かに振り返った。

「起こしたか」

「いや、起きてた」

「そう」

 立花はベッドから立ち上がって、窓へと進み、カーテンを開け放った。ガラスの向こう、青い空と湖が音無く煌めいている。

「朝だな」

 残酷なほどに美しい朝だった。星野は目を細める。現実はこんなにも鮮やかで眩しい。簡素な室内着を脱ぎ、皺の寄ったシャツを着る。濡れた服は、コインランドリーでも乾かなかった。立花も生乾きの服を身に付ける。

 チェックアウトの刻限は迫るが、出たくなかった。逃げたってどうしようもないのはわかっている。でも、末路が明らかであったとしても、行き先を定めることは恐ろしい。

「帰るわ」

 腕時計を手首に巻きながら、立花は呟く。星野は震える声で問うた。

「……殺すために?」

 立花は俯き、曖昧に微笑んだ。

「父さんが、帰ってこいって言ったから」

 それ以上、立花は何も言わなかった。詰め寄るのも怖い。殺さないで、と願った途端、全てが弾けて消えてしまいそうな危うさがあった。

 二人並んで、ホテルを出る。からりとした日光が肌を刺す。落水したせいで、靴の中が砂まみれだ。歩くたびに、じゃりじゃりと痛い。

 道路越しの湖に、もう近付くことはなかった。バスに乗ってしまうと、みるみるうちに湖から離れた。青い稲が風に揺れ、黄緑の草原を形作る。遠くで、山が青くぼんやりと光っていた。

 猪苗代の駅に戻る。ロータリーの傍では、変わらずにひまわりが揺れていた。プラットホームで待っていた、郡山行きの列車へ乗る。ホテルの部屋で食べそびれて持ってきた、山塩羊羹を齧ると、塩味の甘さが舌に染みた。

 ぼうっと遠景を眺めながら、堂々と巡る思考に浸る。隣でじっと考え込む立花に掛ける言葉は、この期に及んで見つからない。目的など、帰ること以外に無い。どこかに寄ったところで、延命にしかならない。何かを変えられるかもしれないという馬鹿な期待を掲げ、終わりから目を背けていた。この旅は、はじめからずっと、逃避行でしかなかったのに。

 郡山駅が終点だった。昨日と同じ構内を辿り、新白河行きの列車へと乗り継ぐ。路線は着実に南下している。郡山から新白河、新白河から黒磯に向かって東北本線を乗り継いでいく。どの列車も、終点からの接続だった。人のいないホームで風に煽られ、立ち尽くす。果てで留まって、また果てを目指す。延命のように終着を目指し続けている。どこまで行ったって、どこにも行けやしない。まざまざと思い知る。

 終点、黒磯駅から乗り継いだ、次の列車の行き先にはっとする。そこには宇都宮と記されていた。長かった東北は終わり、ここから先は関東になる。乗り込んだ車内はワンマンカーではなく、普段から馴染みのあるロングシートだった。徐々に乗客が増えて、座席が埋まっていく。立ったままで、吊革に掴まる人も現れ始めた。景色からは畑が消え、住宅街が押し寄せていた。見慣れた日常に帰ってきてしまった。

 宇都宮で降りる。ホームは人々によって、大きな波が起こっている。流れに逆らい、立花は雑踏の中を進んでいく。

「とりあえず新宿まで抜けていいか。新宿からなら、どこへでも行けんだろ」

「もうここから、新宿まで行けるの」

「ああ。湘南新宿ラインで一本らしい」

 ホームでは、見覚えのあるオレンジラインが光る。逗子行きと書かれた湘南新宿ラインの電車に乗り込む。逗子は確か、神奈川県の相模湾沿岸だったか。だが、もう海へは行かない。終点までは行けない。

 列車は発車する。もう、あと数本の旅だろう。止まるたびに人が乗り込む。日に焼けたバックパッカーが吊革を掴み、帽子を被った小学生がぎゅうと両親の手を握る。車内は日常に帰る人ばかりで溢れていた。人でごった返す波の中、隣に座る立花はぼそりと呟く。

「星野の家、多摩の方だっけ。確か、高校の最寄りの多摩センター駅のそばだったよな」

「うん」

「送ってく。おれはそっから町田に帰るよ」

「なんで」

「高校以来に、あのファンシーな駅前を久々に見たくなった」

 ファンシーとは、多摩センター駅の近くにある屋内型テーマパークのことを指しているのだろう。あの駅には、白い子猫のキャラクターが至るところにプリントされている。仮想の夢の国。逃避行という夢から覚めた終着地に定めるには、あまりにも皮肉が効きすぎている。

「それは、もう、最後だから?」

 やはり立花は、曖昧に笑うだけだった。

 ドアが開くたびに、熱気が入り込む。真夏の熱気だ。大宮駅を過ぎると、乗客の種類も明らかに変わった。制服に身を包んで騒ぐ子供。スーツを着たビジネスマン。くすくすと笑う大学生らしきカップル。スマートフォンを見つめて俯く大人たち。社会を生きている人たちで溢れ返っていた。皆、どこかに属して、どこかへ帰ろうとしている。誰もが役目を求められ、何者かになっていく。

 星野は乗客から目を背けて、車窓の外を見た。高層ビルの間に、眩い日が落ちていく。その下、絡み合って分岐する線路に充てがわれたホームの中で、やはり、数多の人が息をしていた。思えば、人混みから逃げて遠くへ行くから、自己に向き合ってばかりの旅だった。今まで辿った、海も川も湖も自己を赤裸々に映し、立花への想いを浮き彫りにした。夜空の下、二人きりでも何一つ叶わなかった。だから今更、こんなぐちゃぐちゃの人混みの中で、引き止められるわけがない。

「やっぱ、殺さないことにした」

 赤羽駅を過ぎたところで、突然、立花が呟いた。星野は耳を疑う。

「……え」

「一度、ちゃんと父さんと話そうと思うんだ」

「本当?」

「ほんと。ってか、おまえが殺すなって言ったんだろ。よかったな。もっと喜べよ」

「だって、急に言われても信じられなくて」

「信用無いなあ。一応、猪苗代出てからここまでずっと考えてたんだぜ」

 立花はどこか拗ねたように言う。ポケットを探り、スマートフォンを取り出した。煌々と光る画面に、連絡先が映し出されている。

「ほら。これやるよ。これで信じるか」

 今度は目を疑った。今まで、連絡先を交換しなかったのは、両者を縛らないための暗黙の了解だった。その境界を立花はあっさりと越えてきた。

「いいの?」

「ああ。好きな時に連絡寄越して、殺っていないか確認すればいい」

 これは、延長を許されたのだろうか。旅の先を望んでもいいのか。夕景、過ぎ去っていくマンションに明かりが灯り始めている。光害のせいで星は見えない。暗がりの空が口を開けている。

 星野も携帯を取り出し、アプリを起動する。連絡先をQR[#「QR」は縦中横]コードで交換した。星野の画面に映る立花のアカウントには、見知らぬ青年の顔が写っていた。目元がどこか立花に似ている。

「これ、お兄さん?」

「そう。かっこいいだろ」

 立花は誇らしげだ。その口元が緩んでいる。缶を捨てても遺書を濡らしても、兄の存在は今でも立花の中に根づいている。烏滸がましいが、立花と兄の間だけの不可侵の領域が残るのは、やはり悔しい。勝てないことはわかっているから、せめて知りたかった。

「……結局、お兄さんの遺作ってどんなのだったの」

 車窓からアザレア通りと書かれたゲートが見えた。飛行機の描かれた大きな看板広告が過ぎていく。

「青森挽歌のパクリだよ」

「それでも聞きたい。どうせ立花なら空で言えるんでしょう」

 確信をもって星野は告げる。立花の目が緩く弧を描いた。

「……さすが。よく、おれのことわかってんな」

 立花は息を吸う。吐いて、詩を紡いだ。

 

 全ては明滅する現象のくせに

 一人で嘆いては叫んでいる

 こんなさびしい考えは

 ぜんぶ夜のせいだからできるのだ

 海岸へかかって波がきらきら光るから

 愛を血肉にして飛んでいる

 感じる瞳ばかりが鋭利だから

 抽象化した想いが

 世界を覆いきった終着のカシオピアで

 有象無象の最大公約数を撃ち抜いて

 作者の意志も借りた名前も

 群衆は何も気付かなくていい

 意味は

 あなたにだけ伝わればいい

 

 立花は言葉を切って、そっと笑った。

「切実だから、嫌なんだ」

 立花が兄の詩を読んで何を感じたのか、結局、星野には量ることができなかった。

 見慣れたビル群の先、新宿駅で降車する。乗降数世界一の駅は、人の数も伊達ではない。退勤や下校でごった返す人々の隙間を歩きながら、立花は言う。

「この時間帯、京王線で多摩センまで行くの、すげえ混んでてやなんだよね。遠回りだけど、中央線で立川まで出よう。そっからモノレールで行こうぜ」

「でも、中央線も混んでるんじゃない」

「京王線のすし詰めよりはまし。立川駅までJR[#「JR」は縦中横]だから、北東パスも使えるしな」

 ほんの少し、旅が延びることにほっとした。できる限り、この旅を長引かせたい。そう願うのは、やはり、心のどこかでは立花を信じ切れていないのだろうか。

 ホームを移動し、オレンジ色のラインが入った銀色の列車に乗り込む。さすがに席に座ることはできなかった。扉近くにしか留まれず、さらに無理やり乗り込んできた乗客に、持っている鞄ごと押し潰される。結局、乗車率は京王線と大差ないじゃないか。そう伝えようと顔を上げたら、思ったより立花との距離が近くて閉口する。

「大丈夫か」

 向けられる表情が優しい。鮨詰めのまま電車は発車し、星野はよろめく。立花は、庇うように星野の腕を上着の上から掴んだ。

「鞄、貸せ。網棚に上げた方が楽だろ」

「……ありがと」

 素直に甘えて、引き渡す。立花は星野のバッグをひょいと網棚へと上げた。

「立花は鞄、上げないの」

「おれは背中から外す方がめんどい」

 星野は立花の背負われたショルダーバッグを見やる。確かにそうだった。五日間、旅をしてきたとは信じられないほど、立花の鞄は薄い。

「降りる時に、また取ってやるから」

 自惚れだろうか。そう言う立花は、心底穏やかに笑っていた。

「立花、なんだか妙に優しくない?」

「……なんだよ。鞄上げただけだぞ」

「だって、今までそんなことしなかったじゃん。急だよ。なんかびっくりする」

 訝しげに言うと、立花は、ははと笑った。

「優しくしたかったから」

 えっ、と星野は立花を見上げる。やはり立花はひどくやわらかく笑っていた。

「おれがわざわざ多摩センまで行っておまえを送る理由、もっとちゃんと考えてみたら」

 顔に熱がのぼる。期待していいのか、と心臓がどくどくと跳ねた。

 今まで、傷つきたくないから、期待などしないようにしていた。しかし、これでは勘違いをする。本当に届いたのだろうか。多摩センターまで送っていくと言った。殺さないと言った。連絡先を教えてくれた。優しくまでされたら、本当に期待してしまう。立花も旅を終わらせたくないのか。この先も、関わっていきたいと思ってくれているのだろうか。

 オレンジの車体が、東京の街並みを割るように進んでいく。白い住宅街を過ぎる。数多の電線が張り巡らされる中を通る。学校を走り抜ける。車も走る。住みゆく人の絶対数が多い。人が乗り込み、人が降りていく。

 ずっと、人がいない電車に乗っていたから忘れていた。電車は人のためにあり、人がいるから電車は走る。青森から地続きで乗り継いできたはずなのに、まるで別世界に来たようだった。

 花巻や猪苗代のような町では、文豪や天才が一人生まれ死にゆくことが、色濃く意味を持つ。町があったから人が生まれたはずなのに、いつのまにか、その人の町へと成り代わる。価値世界が、現実を呑み込んだ。嘘みたいな話だった。実際にその町に触れるまでは。

 車窓から眺めながら思う。こんなに人がいては難しい。意味が多すぎる。街の代表にはなれないだろう。人も意味も、その人の数だけある。だから、せめて隣人を守りたい。立花はじっと外を見つめている。この人の意味になりたかった。どうしようもなくずっと、それしかない。

 ぱらぱらと人が降り始める。人が減っても、立花は星野のそばを離れなかった。守るように傍に立ち続けている。息苦しい。終わらないでくれと、必死に願う。

 立川駅に着く。網棚の鞄を立花が取った。

「ありがとう」

 手を伸ばしかけると、そっと制された。

「まだ混んでるし、いい。おれが持つよ」

 甲斐甲斐しさに笑みがこぼれた。その優しさは少し過剰だ。でも、鞄を持つ限り、立花は星野から離れない。縛りたいから、黙っていた。

 下車した途端、ホームに詰まる熱気を感じた。人の密度が暑さを助長している。人で詰まるエスカレーターを上って、改札を通る。水色の切符が指から離れて、吐き出される。八月十五日まで有効と書かれた切符を見つめる。今日は十三日だから、まだ二日ある。立花の手を取り、ここからどこかへ行こうよ、と言ったって構わないのだろう。今の立花なら、頷いてくれる気がした。

 でも、立花は歩きながら切符を破り捨てた。真ん中で千切られた切符は、乱雑にポケットへと突っ込まれる。ゴミのように。

「……切符、まだ残りがあったのに」

「このあと使うの、多摩モノレールと小田急だからなあ」

「あと二日は、JR[#「JR」は縦中横]乗り放題だったよ」

 立花は雑踏の隙間を歩きながら、笑った。

「もっと、どっか行きたかったか」

 まるでそんなこと許されないと笑った立花を見て、掛ける言葉を失った。星野ではない。もっとどこかに行きたかったのは、立花の方ではないのか。

「兄の法要は今夜だ。参列しないと一族の恥だと、今朝、そう言われたから」

 はじめから決まってたことだと立花は言う。星野はどうにか声を絞り出した。

「でも、今日が終われば、明日も明後日もやってくるんだよ」

「わかってる」

「今日お父さんと話して駄目なら、また逃げてもいい。そのために切符を残しててもよかったのに」

「そうだな。惜しいことをした」

 星野は手中の切符を押しつける。抑揚の無い生返事を、これ以上聞きたくなかった。

「これ使って。逃げてよ」

「いや、これはおまえのだろ」

「お守り。逃げ道は用意しておくものなの」

 立花はしょうがねえな、というように切符を握った。破られた切符と同じポケットに突っ込まれる。

「ま。もし、父さんと駄目になって、逃げたくなったら、もっかい星野のこと誘うわ。また、一緒に逃げてくれよ」

 立花は朗らかに言う。どこまでも穏やかで、他人事のような軽快さがあった。

 今更知った。この人は嘘が下手だ。

 駅の外、ビルと人を照らす夕焼けが広がる。巨大なモノレールの鉄骨が、西日を浴びて輝き、星野と立花の進む道に影を落としていた。


 東京のベッドタウンを見下ろして、モノレールは空を進む。山々の上に家が乱立している。暗がりの中に多摩川が瞬き、山々の向こう、遠くで富士山が青く息衝くように光っている。

 猪苗代を出てから、既に六時間以上が経過していた。鈍行を乗り継ぐと、こんなにも掛かると知る。函館から、いや、羽田から何度も終点を乗り継いできた。今度こそ、本物の終着が近付いている。

 モノレールの車内は空いていた。だが、なんとなく座る気になれず、二人とも扉の側に立っていた。立花はまだ、星野の鞄を持ったままだ。わざとらしい立花の優しさが苦しく、これを返されたら本当に終わる気がして、星野は何も言い出せないでいる。

 大学名が冠された駅で止まる。学生らしき若者たちが大勢乗り込んできた。雰囲気がやけに陽気だった。これから飲み会なのかもしれない。こちらは一浪だ。同い年がいてもおかしくない。酷く眩しかった。マジョリティに押し退けられながら、立花は苦笑を浮かべる。

「そういや去年、この大学、滑り止めで受けて落ちたなあ。医学部のキャンパスは多摩じゃない、別のとこにあるんだけど」

 大学生集団を見て、立花も似たような劣等感に苛まれていることを知る。星野も自嘲を浮かべた。

「また、今年も受けてみたら」

「勉強してなさすぎて、去年よりセンター下がりそう」

「それはわたしもそうだよ」

「美大受験もセンターとか必要なんだ」

「一応ね。でも、やっぱ実技重視だし。結局描けてないから、実技も駄目だろうなあ」

「まあ、おまえは大学行かなくても描いて生きていけるよ」

 根拠は無いけど、と立花は笑う。どこか意志の強い声だった。星野は堪らなくなって、言葉を絞り出す。

「立花も生きていけるよ」

「はは、日本で医者になるには大学に行かねえと無理だ」

「だから、医者にならなくてもいいんだよ」

 立花の笑い声が止む。無責任な言葉だとはわかっている。医者にならずに生きる道は、必ず父と衝突する、翼をもぐような酷な選択だろう。それでも、足掻いて生きてほしい。

「そういうことを、これからお父さんと話すんじゃないの」

「……そうだな」

 果たして対話の道はあるのだろうか。星野は、立花の父の何をも知らない。結局、これは立花と父親で、話さなければならない問題だ。星野と母親は決裂した、苦い道だ。

「大学って、楽しいのかな」

 大学生がきらきらと笑い合う、その隙間で立花はぼやいた。その問いに返せる答えを星野は持たない。それは、星野が浪人生だからではない。たとえ自分が大学生だったとしても、確約する答えは与えられないだろう。

 星野の経験則は、星野だけのものだ。立花には適用されない。絶対の答えは無い。それこそ、宗教では無いのだから。

「それを知るためには、大学に行くしかないんじゃない」

「そうだな」

 未来はあるのだろうか。あるかどうかもわからない喜びに、賭けるだけの希望はまだ立花の中に灯っているのだろうか。遠景、高層ビルのような巨大な建物が山の上に光る。あれが大学なのだろう。全て、眩しかった。

 終着、多摩センター駅で降りる。プラットホームで、生温い風が頬を撫でる。風が夜を連れてきていた。階段を下り、IC[#「IC」は縦中横]カードを翳して改札をくぐる。さらに下って、デッキへと降り立った。モノレールと小田急京急を結ぶ道を歩いていく。通路以外何も無く、空がぽっかりと黒く口を開けている。高校生の時、この坂を上った先でクレープをよく食べたなあと星野が呟くと、おれはいつもゲーセンだったと、立花が笑った。

 駅前交番を通り過ぎ、赤煉瓦の低い階段を下りる。小田急京王のコンコースの前、透明な傘のモニュメントに覆われ、白光りしたライトが光る広場で、立花は立ち止まる。

「この階段下りたら、すぐバス停だろ。おれは小田急。ここまでだな」

「うん」

「鞄、ずっと持ってて悪かった」

 立花は鞄を差し出す。星野は受け取った。立花が何かを肩代わりしたのだろうか、どこか軽く感じてしまう。

 会話が途切れたら、旅は終わる。終わらせたくなくて、星野は問うた。

「やっぱり、お父さんのこと殺すの」

「殺さないよ」

 立花は笑った。夜風が髪を揺らして、瞳を隠す。代わりに、耳のカシオピアが光った。

「だって、星野も結局殺せなかったんだろ。殺すって、口で言うのは簡単だけど、実際殺せないことは、おまえが一番わかってるだろ。やっぱり、ちゃんと話がしたいんだ」

「でも、もし、わかり合えなかったら」

「その時はおまえがくれた切符で逃げるよ」

 あれはJR[#「JR」は縦中横]の切符だ。家の最寄りは小田急線じゃないの、と嘆きたくなる。本当に、逃げることを選べるのか。正直、まるで信じられなかった。

「ちゃんと逃げてよ」

「逃げるよ」

「絶対逃げてね」

「わかったから」

 立花は呆れたように言う。全てが嘘にしか聞こえない。軽薄な嘘を潰すように、立花は笑った。

「今生の別れじゃないんだからさ」

 星野は唇を噛み締めた。立花が言葉を尽くすほど、嘘だと感じてしまうのはどうしてだ。まだ、立花を信じきれていないからか。でも、ここまできて、あと何を信じたらいい。無様に縋って泣いたら、止まってくれるの。だが、星野が何をしたところで、立花は呆れて笑って、大丈夫だと微笑む気がした。

「あのな」

 ひどく優しい声が降る。だから、たとえどんなに疑っていたって、何度だって馬鹿みたいに信じたくなってしまう。好きだからだ。

「正直、すごく楽しかったんだ。函館も花巻も仙台も猪苗代も、おまえに好かれるのも、悪くなかった」

 駅の光に照らされて、きらきらと立花は輝いている。いつだってあなたは逆光で輝いている。あなた自身が輝いているわけではない。それでもあなたは、ずっと、わたしにとっての光だった。

「馬鹿みたいだけどさ。今までの人生の中で、この旅がいちばん楽しかった」

 酷い殺し文句だ。じゃあ、どうして終わってしまうの。永遠が欲しい。今ここで死んだって構わないから、どうか永遠が欲しかった。それでも、あなたにだけは死んでほしくなかった。

「わたしも」

「ああ」

「わたしも楽しかった」

「それはよかった」

 共感を聞いて、心底満足そうに立花は笑う。もう、立花の向かう先をどうすることもできない。完成したのだ。全ては終わった。もう星野には、さよならしか嵌められる言葉が無い。立花は笑っていた。

「またな」

 立花は踵を返して、光の中へと吸い込まれて、消えた。揺れるカシオピアばかりが鮮明だ。何の保証も無い、またなを馬鹿みたいに信じることしかできない。

 ずっと、立花についていけばよかったのか。そんなの延命にしかならない。星野には与えられる何もが無かった。例えば、自分が大学生で一人暮らしだったら、立花を逃がせていたのか。例えば、気兼ねのない男友達だったら、立花の苦悩を分かち合うことができていたのか。くだらない仮定だ。どう足掻いたって、星野は星野でしかない。殺人すらも果たせなかった、ただのしがない美大浪人生だ。

 意気地がないから、立花に何も与えることができなかった。与えることすら怯えた。立花が好きで、嫌われたくなかった。立花が殺したいと願うなら、倫理に反した衝動でも尊重したかった。

 だが同時に、できることなら、苦悩なく生きてほしいとも願っていた。何も苦しむことなく、ただ幸せに生きてほしかった。父親に歯向かい、母親を守って、兄の死に囚われ続けているから、そんなことは有り得ない。それでも、幸せに生きてほしかった。わたしの預かり知らぬところで幸せになっても、わたしじゃない人間が救ったって構わないから、あなたの幸せを願っていた。

 ずっと、ずっと。

 光の下、バスターミナルの階段を下りる。煉瓦で覆われた暗いバス停だ。自宅までのバスの時刻を確認した。乗るべきバスはつい先ほど出発したらしい。バス停近くのベンチに腰掛ける。冷たい椅子が体を冷やした。

 星野はスマートフォンを取り出して、ロックを外す。画面が煌々と照って、星野の顔を照らした。開きっ放しだったアプリには、立花の連絡先が表示されていた。何か、送ろうか。別れたばかりなのに既に心細くなっている自分の弱さに呆れて、浅く息を吐く。ずっと見ていたって仕方が無い。スマートフォンをしまうために、鞄に手を入れた。そこで気が付く。

 鞄の中、どこにも、ナイフの硬い感触が無かった。

 星野は暗がりの中、バッグを全開にして捨てそびれていたナイフを探した。とうとう鞄をひっくり返して、全ての中身を調べても、あるはずの凶器はどこにも無かった。

 落とした、という可能性よりも先に浮かんだのは、盗られたという予感だった。朝、猪苗代の旅館を出た時には確かにあったのだ。だから、一つの可能性が残る。

 ひどく、優しかった男がいた。

 立花は、新宿からこの多摩センター駅まで、ずっと星野の鞄を持ち続けていた。あれは優しさなどではなく、星野の凶器を奪い、それを知られないためのカモフラージュだとしたら、全ての辻褄が合ってしまう。

 星野は鞄の中身をベンチにぶちまけたままで、震える手でスマートフォンを掴んだ。まだ、別れてから三十分も経っていない。発信ボタンを押し、耳に強くスピーカーを当てた。

 立花の家が町田にあるのは知っているが、最寄り駅や住所がどこかは、何一つ知らない。こんなことになるならば、脅してでも聞けばよかった。繋がらなければ、全てが終わる。

 コール音は、軽快な音を響かせたまま、止まない。立花が出る気配はまるで無かった。必死でメッセージを連打する。だが、既読は一向に付かなかった。

「あんの、ばかッ‼︎」

 星野は携帯を割れるほど握り締める。わざと無視しているか、既に電源を切っているか、もしくは携帯電話ごと既に壊しているのだろう。連絡に応じず、ナイフを盗っている時点で、立花に父親との対話の意思が無いのは明らかだった。何が殺人は簡単じゃない、だ。立花は、今にも父親を殺し、死のうとしている。

 わざわざ星野のナイフを盗ったのだ。自分が盗ったと、星野がいつか気付くとわかった上で、何もできないだろ、と静かに諦念を向けている。きっと、微かに笑いながら。

 なあ。どうせおれは何も変わらないのだから、もう何もしないでくれ。

 ふざけるな。星野は携帯を強く地面へ叩きつけた。こんなものは今更、無意味だった。どうして、こんな不確かなものを信じてしまったのだろう。あなたの応答を期待した。全てが馬鹿で、愚かだった。

 どうして、あなたが死ぬのを指を咥えて待っていなければならない。嫌だ。わざわざこんな、わからせるように死なないでくれ。死なないで。殺さないで。お願いだから。どうか。

 おまえはおれに何を求めているの。

 ふと、いつかの問いが蘇った。殺さないで、死なないで、幸せに生きてと、今まで通り、再度喚きたくなった途端、鞄の中身、ベンチの端で何かが輝いた。

 それは、星野が描いて立花に送って、函館の山頂で突き返された、星空の葉書だった。

『絵、描いてほしい』

 真っ白な葉書を差し出した、どこか真摯で幼い、立花の赤らんだ表情がよぎる。そうだ。確か、この葉書の表面には——。

 星野は夜空をひっくり返す。そこには、立花の書いた丁寧な丸文字で、立花よだかのフルネームと「住所」が記されていた。

 地面へと叩きつけた携帯を拾った。粉々に割れた液晶をなぞって、住所を打ち込む。小田急線の沿線に、確かに立花の家は存在していた。

 最寄り駅も容易く解明できた。小田急多摩センターから、乗り換え一回、所要時間は四十分。弾かれたように星野は走り出した。

 

 ずっと、自分に自信が無かった。母の虐待に逆らい、どうにか自分を保ちながらも、やっぱりずっと苦しかった。

 誰かに堂々と想いを伝えるでもなく、誰かと共に苦しみを分かち合うでもない、わざわざ「絵を描く」という回りくどいことを選ぶ自分のことが、ずっと嫌いで堪らなかった。そんな唯一の絵すらも捨て、さらに間違った親殺しを選びかけた。真っ当じゃない。いつだって星野の歩む人生は、邪道でマイノリティで、大衆には理解されない。鈴愛が愛してくれるのは、姉だからというバイアスでしかない。まっさらな他人に愛されるとは到底思えなかった。

 そんなどうしようもなく醜く脆い人間だから、立花に対して、わたしを信じて、だなんて口が裂けても言えなかった。自分なんかに価値はないから、あなたの生きる意味になど絶対なれないと、この度に及んで、本気で信じていた。どんなに追い詰められても人殺しなど選ばず、もっと真っ当で、絵なんか描かずに素直で可愛くて完璧な人間だけが、あなたの手を引いてあなたのことを正しく幸せにできると思っていた。

 だが、立花ははじめから星野に、絵を描いて「ほしい」と言っていたのだ。思い返せば、立花は星野の絵を好きだと言って、星野について回って、星野の好意を拒絶しなかった。この旅を楽しかったと確かに笑っていた。全然素直なんかじゃなくて、散々捻くれながらも、結局最後は穏やかに笑っていた立花の表情が、張り付いて離れない。

 星野の価値を信じていなかったのは、立花ではない。星野自身だ。立花が立花自身の価値を未だ信じられていないように、星野自身も自分の価値を何一つ、信じることができていなかった。

 信じるとは何なのか。五日間の旅の中で、こんなにも近く、宗教と信仰に触れたのに、星野は何一つわかっていなかった。信じるとは、立花の言動の何が嘘で、真かを吟味することではない。立花がたとえ、どんなことを言って、何を選んだとしても、立花が好きという想いとそれを抱く自分を、どこまでも貫き通すことだったのだ。

 おまえはおれに何を求めているの。

 やっとわかった。立花が、何度もこの問いを星野へと投げかけてきた、その意味を。星野はいつも答えていた。好きだ。死なないで。殺さないで。自分を大切にして。生きて。

 どれも、答えになっていなかった。だから立花は問い続けたのだ。「おまえは」どうしたいのか、と。

 小田急の改札を駆け抜け、割れた携帯と葉書を握り締めて、星野は走る。高架下、淡い街灯の光を踏みつけ、閑静な住宅街の坂道を上った。上がる息は、とっくに限界を越えている。

 それでも走るしかなかった。足が焼き切れても、あなたの元に辿り着きたい。どうか間に合ってくれ。どうか。お願いだから。待っていてほしい。

 わたしは、どうしてもあなたに伝えたいことがあるのだ。

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