猪苗代②
星野は空を見上げる。まだ空は仄かに青白い。惑星や一等星がうっすらと瞬くばかりで、満天の星々には程遠い。空気は、既に仄暗い夜の香りを纏っていた。地上に存在する光はホテル以外に無く、対岸で光が輝くのみだった。
深い青をたたえて、水面が揺れている。波の音がざあざあと響き渡る。だが勿論、ここは湖だから、潮の香りはしなかった。進んだところで対岸にしか辿り着けない。閉じた水が揺蕩っている。
「思ったより暗いな。花火も天体観測もやりやすくて助かる」
どこか上機嫌で言う立花は、暗闇の中でその輪郭を失くしかけていた。よく目を凝らすと、花火の張り付いた厚紙を袋から取り出し、長いセロハンテープをべりべりと剥がしている姿を捉えることができた。星野もしゃがみ、テープに固定された手持ち花火をばらし始める。
「わたし、花火なんて小学生振りかも」
「おれも」
ぼやきながら花火を並べていると、紙の片隅に線香花火が張り付いているのを発見する。
「あっ、線香花火みっけ。立花は線香花火、いつやる派? わたしはいつも最後」
「おれも最後だ。あれはやっぱ、締めにやるのが醍醐味じゃん」
「わたし下手なんだよね。すぐ落ちちゃう」
「あー、おまえ、堪え性なさそうだもん」
失礼だなと抗議したくて、立花の顔を見る。目が慣れたのか、どこか意地悪げな表情がぼんやりと暗闇に浮かぶ。もっと夜が深まると、また見えなくなってしまうだろうか。立花を見失わないためにも、早く花火をやりたかった。たとえそれが、刹那の光であったとしても。
線香花火に続いて、袋の中にろうそくを見つける。花火とは別に避けながら、星野は尋ねた。
「そういえば、わたしから提案しといて特に調べてなかったけど、ここって花火やっていいの?」
「さっき、花火禁止の看板見たぜ」
「は⁉︎ だめじゃん」
暗闇に輪郭を溶かしかけた立花が笑った。
「今更、気にする?」
強く、破滅の香りがした。これも自罰の一つだろう。罪を重ね、後戻りできないように、自分を戒めている。
「……確かに、そうだよね」
星野は再度、共犯を選ぶ。かちりという小さな音と共に、ぼうっと赤い火が灯った。ライターの炎によって、立花の端正な顔が、闇の中にありありと映し出された。
「いつのまに買ってたんだ」
「いや、これはおれの。煙草吸うからずっと持ってた」
瞬間、ふっと炎は消える。問題無くつくなと、満足げに言う立花の顔がまた見えなくなる。
未成年飲酒をしていたくらいだ。喫煙くらい、何も不思議では無い。だが、この期に及んで、紫煙を纏って肺を穢す立花の姿すら、何一つ知れていないことを、知る。
「じゃ、やろうか」
花火は全てばらして、紙の上に並べた。やはり、二人でやるには少し多い量だろう。立花はろうそくを砂へと突き刺し、ライターで火を灯す。自立したろうそくは、ゆらゆらとオレンジに揺らめいていた。
「ろうそく足りなくなったら直火かねえ」
「この量、全部やる気なの」
「せっかくだしな」
どれにしようかと、立花は花火を選び始める。そこで星野は、はっと気付いた。
「立花、花火を入れるバケツが無い」
「……盲点だった」
「水はたくさんあるけど、さすがに駄目でしょう」
星野は黒い湖を見つめる。水辺は近いが、勿論、ゴミを入れて穢したくはなかった。
「じゃあ、これで汲もうぜ」
立花が鞄から取り出したものを見て、星野は言葉を失った。その手には、黄色のラッキーピエロの缶が握られていた。お兄さんの遺書が入っていたものだ。
「……いいの?」
「いいよ」
立花はあっけらかんと言う。丸く切ってある缶を開き、中の遺書をポケットへとしまった。湖面へと近付き、水を汲む。
湖水で満ちた缶は、ろうそくの火の隣に置かれた。
「これで、やっとできるな」
兄の遺品を糧にしてまでやるのか。自棄なのか、切実なのかがよくわからない。ただの花火なのに、なんだかどうしようもなく堪らなくなった。
「おれ、これにしよ。なんか派手そうだし」
「じゃあ、わたしはこれ」
立花はストライプ柄の花火を手に取る。星野は先が固く丸まった花火を掴んだ。
しゃがんだ立花は、花火の先っぽにろうそくを当てる。火が移り、先端で炎が上がった。瞬間、じじ、という火薬の爆ぜる音と共に、炎の中から一閃の光が噴き出した。花火は刹那にその身を焼いて、金の光を放ちながら落ちていく。輝く光は、立花の微笑みを静かに照らした。
しばらく見惚れて、我に返った。見ているばかりでは変だろう。星野も花火に火をつけようとした途端、立花の花火がそっと寄った。
「ん」
火ぃやるよと、立花は目配せをした。その優しさに胸が締めつけられる。星野は花火の先端を寄せて、火をあてがった。花火はすぐに爆ぜて、ぱちぱちと花開く。中心から火花の枝が広がり、結晶のような炎を吹き出した。
「そっちのもきれいだな」
「うん。光り方、全然違うね」
ふっ、と立花の花火が尽きる。やべっ、と立花は走り、缶の中に焼けた花火を投げ入れ、新しいものを持って帰ってきた。
「火、ちょーだい」
「うん」
今度は星野が、立花に火を分け与えた。その先端が光り、また火花が噴き出していく。変わりゆく光のシャワーに照らされて、立花は笑う。
「こうやって交互に火貰ってたら、ろうそくいらずかもな」
「でもさ、こういうのってそのうちタイミング合わなくなって消えちゃうんだよね」
「あー、全部の火が消えると、ふっとさみしくなるよな。あの瞬間、嫌いじゃない」
「わかるなあ」
星野の火花が静かに潰える。缶の中へと花火を入れると、じゅっと音を立てて水に沈んだ。また、新たな花火を持って、戻ってくる。
「立花」
また何も頼まずとも、立花は火を分けてくれた。その瞳は緩い弧を描いて、静かに光り続けている。だから、勘違いしそうになる。いいや、勘違いではないのかもしれない。この時間を立花も愛おしく思っていると、自惚れてもいいのだろうか。
「おれ、次、二刀流やるわ」
再度、花火を置いた立花は、言葉通り、両手に花火を持ってきた。ばかだなあと笑って、その片方に火を渡す。二刀流と銘打ったくせに棒立ちで、振り回すわけでもなかったからおかしくて、声を上げて笑った。煙ばかりが二倍の量で、目に染みて涙が滲む。
負けじと星野も花火を持つ。滝のように光り落ちる花火を真っ直ぐに振った。そのまま大きく、五芒星を描く。
「見て! 星、描いた!」
「……そう、なのか? よくわからん」
わからないはずなのに、目を細めて星野の動きを必死になぞろうとする立花がひどく愛おしくなる。伝わるなら伝わってほしいし、伝わらないならそれでいい。描いても許されるだろうかと、星野は立花に花火の先っぽを向けた。そのまま、立花を囲むようにハートを大きく何重にも描く。
描くのをやめてもハートは消えず、星野の網膜にひりつくようにちかちか瞬いた。
「……おまえなあ」
立花は花火を持ったまま俯き、腕で顔を隠していた。
「え、まさか、わかったの」
「見えなくても、動きでわかるわ」
ふざけんなよ、と言い放った立花の腕が解かれ、その瞳が星野を射抜く。立花の顔は、明るい火花に照らされてもわかるくらいに真っ赤に染まっていた。星野は言葉を失う。
「う、うわあ」
「やった本人まで照れてんじゃねえよ。顔、あっつ……」
果たして、花火のせいで熱いのか、照れているから熱いのか、よくわからなくなってきた。真っ赤になった立花に釣られて、星野の頬にも熱が集まっていく。
もう、気のせいでは誤魔化せなかった。星野の好意は、真っ直ぐに立花に受け止められている。どうして立花は、応える気もないのに星野の好意を馬鹿正直に受け止めるのか。馬鹿なのは立花の方じゃないか、と叫びたくなる。どうにか顔の火照りを押さえながら、花火を続けた。互いの火は絶えないから、残る花火の数はみるみるうちに減っていく。次第にろうそくも短くなり、缶も満杯になった。
不意に、互いの花火が消えた。湖から吹いた風が、ろうそくの炎すら吹き消す。ふっ、と世界から光が消えた。
だが、寂しさは刹那だった。立花と星野は同時に天を見上げた。
「天の川……」
星野は息を呑む。無数の星が暗い夜空にぶちまけられ、ぼんやりと光る天の川を作り出していた。天の川の内と外に、数多の大きな星々が輝き、赤や青の光をちりちりと瞬かせていた。
「夏の大三角、よく見えるな」
光を失い、立花の姿が闇に霞んでいく。その表情は僅かにしか見えなくなっていた。
「……何だっけ、それ」
「夏の星空で、一番目立つ明るい星たちだよ。三つを繋ぐと綺麗な三角形になるんだ。今ちょうど、天頂にある白い星が、琴座のベガ。そこから天の川を挟んだとこにある少し暗い一等星が、鷲座のアルタイル」
星野は立花に倣って、天の川の中に星を探した。
「あった。すぐ近く、もう一つ明るい星がある。あれで三角形?」
「そうだ。なあ、覚えてるか。ジョバンニとカムパネルラが最初に降りる駅。プリシオン海岸がある、白鳥座の停車場。あの星が、その元になった白鳥座の一等星、デネブだ」
星野は息を呑む。宮沢賢治の書いた物語と、そこに内包された星空を思う。立花は、さらに星空を案内するように告げる。
「この天の川の正体は、太陽系すらも含む巨大な銀河の一部なんだ。天の川を本物の川に例えるなら、地球も太陽も所詮、砂や砂利の粒のような些末な存在でしかない。そう考えると、人間は、天の川の水の中に棲んでいると言えるのかもしれない」
「この世界は、天の川の水の中……」
「銀河鉄道は天の川の中を走っていっただろう。ジョバンニとカムパネルラの旅は、銀河ステーションに始まり、白鳥の停車場を過ぎる。白鳥区の終わりに出てくるアルビレオは、白鳥座の嘴の部分に当たるβ星だ。アルビレオを越えて、天の川をなぞると、鷲座、鷲の停車場に着く。さらに過ぎると蠍の火だ。遠いが、あちらの低い位置に赤く大きな星があるだろ。あれが蠍座の一等星アンタレス。そして、この北半球からは見えないけれど、天の川を辿った先には、南十字サウザンクロスが待っているんだ」
立花の案内通りに、丁寧に天の川を辿っていく。銀河鉄道の夜、物語のままで本物の星座は紡がれていた。宮沢賢治はこんな大きな星空すら、物語へと呑み込んだらしい。壮大ながらも、作中の川の中にイギリス海岸を登場させたことがひどく人間らしいと思った。
この世界は全て川の水の中、どこへ行っても等しいのだと、きっと賢治は告げている。
「天の川の中に、全部詰まっているんだね。賢治も星も、この世界も、全部」
全てを呑み込む巨大な銀河は、やはり少し恐ろしい。それでも、この星空に全てがあるというのなら、こんなちっぽけな自分でも存在を肯定されたような気がした。
「おれ以外はな」
肯定を打ち砕く、小さな声が聞こえた。星野は声のする方を向く。漆黒の闇に溶け、その姿を上手く捉えることができない。
「……どういうこと」
「おれというか、よだかの星のことだけど」
常闇から声だけが響き渡る。
「よだかの星は、ヨタカという鳥だけじゃなくて、実際の星にもモデルがあるんだ。1572年の11月11日、ティコ・ブラーエによって観測されたカシオピア座近くにあった、極めて明るい星だ。その名を取って、ティコの星と呼ばれている。だが、この星は超新星だった」
「超新星?」
「ティコの星が明るかったのは、爆発したからだったんだ。星は、死ぬ時に爆発する」
星野は思い出す。函館で買って母の喉元に突きつけ、今も星野の鞄で眠るナイフのことを。飾りは爆ぜた星のようだった。星野がそのナイフを選んだのは、星は最期に爆発するという、そんな知識を思い出したからだ。
「大抵、超新星爆発を起こすような星は巨大な質量を有している。だから、爆発した後に中性子星やブラックホールを残すんだ。そこから放たれる物質からは、新しい星の元が生まれる。死に絶えた星は、輪廻するように新たな星へと生まれ変わっていくはずなんだ。だが、チェコの超新星はla型だ。元々、チェコの星は爆発できるほど、大きい星ではなかった。死んで、小さな白色矮星になったチェコの星に、近くにあった伴星の水素ガスが流れ込んだ。ガスのせいで、白色矮星は質量の限界を超え、炭素の核融合反応が暴走し、跡形もなく吹き飛んでしまった。la型の超新星は、残骸を残さない。何もないんだ。だから、もうティコの星の存在は、既にこの宇宙にない」
宙では、天の川が煌めき続けている。先程、立花が指し示した星々が静かに瞬いていた。ベガ、アルタイル、デネブ、アルビレオ、アンタレス——。だが、ティコの星、よだかの星だけはないと言う。死んだから。
こんなにも悍ましいほどたくさんの星々があるのに、カシオピア座を探すことが恐ろしくなる。よだかの不在を思い知りたくなかった。
「ないから愛せる。自分と同じ星がどこにもないとわかってるから、おれは夜空が好きなんだ」
立花の姿は見えない。姿を照らすには星の光だけでは足りなくて、ただ、漆黒の闇だけがある。真空がここを満たしている。
「ここにいないから、愛せることもあるだろう」
果てしない闇の中から、不在の声がする。強い自己否定に、星野は言葉を失った。いないから愛せるだなんて、そんなこと考えたくない。失うことは恐ろしい。失いたくなかった。
ぼうっ、と赤い炎が灯る。ライターの火は闇を掻き分け、立花の像を映す。その瞳は炎を宿しながら、緩やかに細められる。
「なに、泣きそうな顔してんだよ」
「だって」
「ほら、残ってる線香花火やるぞ。ろうそくはねえが、ライターで十分だろ」
立花はライターを灯したままで、線香花火の束を掴み、ひらひらした持ち手を差し出す。星野は手を伸ばし、その一本を抜き取る。見えないまま、離れて見失いたくなかった。立花を照らす、光が欲しい。星野は、揺れる線香花火を立花が灯すライターへと近付ける。
すぐに火薬に炎が移った。立花も線香花火に火をつける。入れ替わるようにライターの赤い炎が消え、暗闇の中、二つの火花だけが光った。
火を灯した火薬は赤く、エネルギーを蓄えるように球体をぶくぶくと膨らませていく。火薬の香りが、鼻の奥に刺さる。立花の表情を仰ぎ見る。何かを慈しむような顔をしていた。ああ、嫌だ。死の香りが濃い。
火の玉は、ぱちぱちと爆ぜる。先に、星野の火球が火花を散らし始めた。指にかかるか、かからないか。危ういところまで火花が飛ぶ。怖くて少し、指が震えた。落としたくなくて、ぎゅうと花火の細い柄を握る。
「おー、綺麗だなあ」
「……そうだね」
火球が弾ける音と共に嬉しそうな声を上げる立花が憎かった。幸せだから、苦しい。立花が自罰を重ねるたび、星野は深く傷ついている。こんなに悲しくて痛いのも星野ばかりで、ずっと一人で空回っている。
「あっ」
立花の火の玉が、砂へと墜落した。立花の姿が闇に眩む。星野の火の玉は萎みながらも、まだ光っている。これ以上、光を消したくなかった。絶対に落としたくない。火球はみるみるうちに小さくなり、火花はか細く、枝垂れていく。
立花が嫌に静かだった。顔を上げると、じっと星野の火の玉を見つめていた。息遣いがわかるほど近い。二人で、一つの火花を静かに見つめ続けた。
そして火球は、黒く静かにつめたくなった。また世界を、暗闇が襲う。
「すごいじゃん」
「……でしょ。立花も頑張って」
立花は再度、ライターを灯す。星野も線香花火を一本取った。火花がちりりと爆ぜては落ちていく。立花の顔は、火花と共に明滅する。
星野の頭には、ティコの星の話がリフレインしていた。立花が語っていた詳しい天文のことなど何一つわからないが、線香花火の散り際は、超新星爆発で死んだティコの星の最期と等しい。ティコの星も線香花火も、輪廻は無く、死へと向かう。
火を絶やしたくなかった。立花を闇の中に置き去りにしたくない。できることなら、どこにも行かないでとその手を掴みたかった。だが、立花が嫌がるからできない。結局、花火の炎をできるだけ長く、灯し続けることしかできなかった。
どんなに願っても終わりは来る。最後の線香花火が落ちた。結局一度も終わりまでいけなかったな、と立花がぼやく。頭上では天の川が残酷なほどに、きらきら輝いている。
静寂の中、カチリ、と一つ音がした。顔を上げると、立花が再度ライターの火を灯し、反対の手で、ポケットの中をまさぐっていた。もう花火は無い。煙草でも吸うのだろうか。炎は背後の湖に反射して、ぐらりと赤く揺れている。
立花はポケットから紙の束を取り出し、迷いなく炎に焚べた。その紙束は、兄の遺書だった。炎は、今にもその手を包み込もうとしている。考えるよりも前に、体が飛び出していた。星野は立花へと傾れ込む。遺書を持つ手を袖ごと掴んで水に押しつけた。そのまま、落ちる。
膝を満たす生温い水を感じた時には、湖の中で、立花の上に馬乗りになっていた。
「何やってんの⁉︎」
叫びながらも、押しつける手首を離さなかった。立花の手の中の火はとうに消えている。遺書が破れて波へと揺蕩う。眼下の立花は、平静に告げた。
「もう、必要ないから」
水がじわりと星野の服に染みて、体を冷やしていく。立花の方が背中からもっと深く浸かっているはずだが、星野を除けようとはしない。
「じゃなくて、なんでっ……、そんなことしたら、燃えるでしょ⁉︎」
「ここで、死んでもいいかなと思って」
立花は、真剣な顔で星野のことを見つめ返していた。たとえ暗くても、このくらい近付けば表情がわかるのだと知る。だが、距離に意味は無い。こんなに近付いたって、果てしなく心が遠い。
「死なないで……」
ぎゅう、と手首を痛いほどに握り締めた。こんな際でも、直接触れられない自分の臆病さが嫌になる。パーカーの下、肉と骨の冷たい感触がある。それでも、死体の温度では無い。まだ、生きている。
「……ここで死ねたら、父さんを殺さずに終われたのに」
「どうせ殺したって死ぬくせに」
「ははは」
「笑わないでよ……」
立花が笑うから、愛は素通りしていく。燃えた先に、未来などない。あんなに賢治も兄も嫌がっていたじゃないか。よだかの星を踏襲する必要など全く無いのに。
湖に揺蕩う、立花の姿がじわりと滲む。星野の漏れ出る啜り声を掻き消してくれるほど、波の音は大きくなかった。
「もっと、自分を大切にしてよ……」
星野の目から立花の頬に涙が落ちて、さらに湖へと流れていく。どうしようもない。溢れる涙が止まらない。立花は曖昧に笑い続けている。
絶望だった。この人は、やはり違う世界の人なのだ。愛を受ける皿が割れていて、どんな言葉を注いだってぽろぽろとこぼれていく。愛は毒にしかならない。愛せば愛するほど、この人はどこかにいく。いってしまうのだ。
「あ」
立花が声を上げる。
「星、流れた」
星野の背中で星が流れている。滲む視界の中で立花は笑い、流れる星をみて、問うた。
「おまえは、おれに何を願うの?」
もう、この問いは何度目だ。後ろに流れる星々は、星野の願いを叶えてくれるのだろうか。きっと、無理だ。それでも星野は、問われたから答えてしまう。
「好き。だから、生きてほしい……」
この旅で何度、そう願って叫んだのだろう。どうしてなんだ。あなたがわたしを肯定したから、わたしは生きたいと思ったのに、どうしてあなたは生きようとしてくれない。
あなたも生きてくれ。それしかない。好きだから、生きてくれ。生きるために、誰も殺さないで。父親も、自分も。どうか。
「だめだよ」
立花の声が、優しく震えた。握る手首の中、立花の手に力がこもる。そっと手は離された。
「だって、おまえのことを好きになったら、おれは、おれのことを好きにならないといけないだろ」
星野は泣き噦る顔を上げる。体を起こした立花の向こう、天の川の端に、煌めくカシオピア座を見つけてしまった。その隣、眩く燃える星は、ない。
「だから、だめなんだ」
立花は、星野を擦り抜けて立ち上がる。残された星野は、カシオピアを流れ過ぎていく無数の流れ星をみた。その全ては、残酷なほどに美しかった。
涙が溢れる。そんなのずるい。ずるいよ。だってそんなこと言われたら、あなただってわたしのことが好きだと言っているようじゃないか。
好きは伝わっていた。でも、何の意味も無い。あなたが、あなた自身を嫌いな限り。
あなたがあなたを好きになるにはどうしたらいいのですか。わたしは、愛を与えることしか知らない。これしか、わからないんだよ。
「……すき」
「しってる」
星野の涙は止めどなく流れる。立ち上がれないまま、湖が星野を満たす。立花は星空に溶けて、優しく笑っていた。
「おまえが、おれをすきなことはちゃんとわかってる」
愛は届いた。だからこそ、どこにもいけない。
「おれこそ願うよ。おまえは生きてくれ」
これが、殺意を裏切った者の末路なのか。立花の何をどんなに知ったって、自分が選ばなかった道だから、殺意も自死も最後まで肯定することができなかった。だからといって、感情に任せて好きを振り回しても、苦しめることしかできない。それなのに、わたしのために生きてなど、傲慢すぎて言えるわけがなかった。
どこまでも自己本位で、愚かなエゴばかりだ。母を殺せなかったこんな裏切り者が伝えられることなどない。はじめからなかったんだ。
星は瞬き、カシオピアが煌めいている。果てで、好き以外の言葉を失った。もう、繋ぎ止められない。
立花は満たされたように笑う。その耳元では、変わらずにカシオピアが揺れ続けていた。
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