猪苗代①

 星野は重い瞼を開ける。ラブホテルの一室は昨晩と変わらず、煌々と人工的な光を有していた。窓が無いから、今が何時かわからない。枕元のスマートフォンを掴んで、時刻を確認する。既に午前十一時を過ぎていた。星野は慌てて体を起こす。立花を探し、部屋の隅のソファを振り返った。

 安堵の息を吐く。そこには昨日と変わらず、蹲るバスローブの白い塊があった。

「……う」

 微かに鼾が聞こえる。ひどく寝苦しそうだった。こちらに布団を譲って、硬いソファで寝ていたからだろうか。

 星野はバスローブを脱いで、乾いた服を掴む。シャツのボタンを留めながら、ソファへ近付く。

「ねえ。布団、空けたよ」

「……ううっ」

 立花は丸まったまま動かない。さながら猫のようだった。起きないなら揺らすしかないと、手を伸ばしかけて止まる。布越しで触れても、死体を思い出させてしまうだろうか。

「立花っ」

「……なに」

 耳元で大声を出すと返事があった。声は低く、じっとりと重い。

「ソファ寝辛くない? 布団使っていいよ」

「……いや、おまえはもう着替えてんじゃねえか」

 のそりと立花は起き上がる。バスローブは腰まで落ちている。これでは殆ど半裸と変わらない。星野はそっと視線を逸らした。

「今、何時」

「十一時ちょっとすぎ」

「そう」

 立花は寝癖の付いた頭をがしがしと掻く。まだ寝ぼけているのかもしれない。今が契機かと、口を開く。

「……今日、猪苗代湖行こうよ」

 立花の手が止まった。返事を聞くのが怖くて、星野はそのまま続ける。

「福島県にある湖。流星群見れるかなって思って、宿も取っちゃったんだ」

「そう」

 纏う気怠さが寝起きのせいなのか、気乗りしないからなのか、判断がつかない。立花はぐいと目を擦る。

「それ、こっからどんくらい掛かるの」

「えっ……と、三時間くらいかな」

「じゃあ、今出てちょうど昼すぎか」

 なら起きるわと、立花は腰を上げる。

「いいの」

「何が」

「行っても」

 星野は再度、確かめた。誘っておきながら、拒まれないことに心底驚いていた。

「気が向いたから」

 立花はなんでもないように言い放つ。確かに昨日、あぜみの木の前でそう言った。あの口約束は、嘘では無かったのか。立花はふわあと大きなあくびを浮かべ、バスルームに消えた。すぐにシャワーの水音が聞こえる。

 星野はずるりとその場にへたり込む。心臓が変な音を立てている。立花が、殺人よりも猪苗代を選んだことに、胸が高鳴ってしまっていた。したくない期待をしている。心底嬉しいから、嫌だった。

 胸を押さえて立ち上がる。すぐに出発できるよう、今のうちに身支度を済ませておかなければならない。ぼさついた髪を梳かし、よだかのネックレスを首から下げた。青い石と金色の羽が揺れる。

 そこでバスルームの戸が開いた。立花はしっかりと髪を乾かし、きちんと身支度を整えていた。その耳元では、変わらずに金のカシオピアが揺れている。

「お前、シャワーは」

「いらない。大丈夫」

「じゃあ、行くか」

 さっぱりした様子で立花は言う。先程までの不機嫌さはどこにも無かった。

 外に出た途端、星野は光の眩しさに目を瞬かせる。アスファルトには昇り始めた太陽が照り返していた。歓楽街の薄暗さを、夏の陽気が全て掻き消していた。しばらく歩いて、仙台駅へと戻る。

 仙台駅構内は、朝でも活気付いていた。キャリーケースを引いた観光客がいたり、ワイシャツのビジネスマンがいたりと、皆どこかに向かおうとしている。改札にいつもの青い切符をくぐらせ、中へと入った。コンビニで軽食を買ってから、列車に乗り込み、ボックス席に座る。星野が携行食に齧りついたところで、立花が大きく船を漕いだ。そのまま、列車は出発する。

 仙台駅を出てしばらくは灰色の住宅地が並んでいたが、進むにつれて窓の外は、山林の緑に染まっていった。黄緑色の畑の中にべかべか光るビニールハウスが整列している。空が広くて、日が眩しい。

 変わりゆく景色に反して、立花は眠り続けている。窓に凭れ、爆睡していた。電車で眠る立花を見るのは初めてだ。これまでずっと行き先は立花に任せきりだったから、道案内のためにも、眠るわけにいかなかったのだろう。頼られているのか、投げられているのかはよくわからないが、猪苗代までの道のりは星野が主体なのだと知る。

 終点、福島駅への到着を告げるアナウンスが鳴った。立花を揺り動かそうとして、やはり躊躇した。声を掛けて起こす。目を擦る立花と共に下車し、ホームを移動する。既に郡山行きの列車はやってきていた。乗り込んでまた向かい合い、暫し待つと発車した。

 高台を走っているのだろう。新緑の地平を見下ろすように列車は駆けていく。遠景、連なる山々が青い空に溶けかけている。函館から始まった寒空の旅は、やはり夏へと逆走している。

「猪苗代湖って何があんの」

 ようやく目覚めたらしい立花が、仙台駅でかったゼリー飲料を啜りながら尋ねてくる。

「……湖」

「いや、それはわかってんだわ」

「えっと……、あ、そうだ! 猪苗代湖って日本第四位の大きさらしいよ」

「あんま知らないんだな」

 図星を突かれて押し黙る。正直、天体観測できるかどうかだけで決めた。他のことはまるで調べていないから、仕方が無い。

「でも、四位ってでかいな。一位は琵琶湖だとして、二位は霞ヶ浦か。三位って何だ」

「サロマ湖じゃない? 北海道の」

 星野が即答すると、立花は目を丸くする。

「さすが道民だ。それ、どこにあんの」

「道東の方。オホーツク海に隣接してる湖だよ。一応、海とは砂嘴さしで隔たれてるんだけど、湖口が開いてて、汽水湖になってるんだよね。海水が含まれてるから、ホタテの養殖とか盛んだったはず」

「へえ、詳しいな。行ったことあるのか」

 問われて、懐かしい記憶がよみがえる。函館に続いて、サロマ湖もそうだった。幸せだった頃の家族の思い出は、生々しく転がっている。

「……うん。サロマ湖を見下ろせる展望台が高台にあるんだけど、そこに行くまでの山道が、すごく狭くて鬱蒼としててね。ひぐまでも出そうな感じの獣道なんだ」

「ふうん。やっぱ北海道だと普通に熊が出るんだな。一度、見てみてえわ」

「えっ、出ないよ⁉︎」

 星野が答えると、立花はきょとんとした表情を浮かべる。

「出ないの」

「出たら通報ものだよ! よくニュースになってるじゃん。遭遇したら死ぬから」

「北海道の人々は熊と共存しているのかと」

「そんな雑なイメージなの⁉︎」

 叫ぶと、はははと立花は笑った。

「なあ、クマーって呼んだら、出てこないの」

「出てこないよ!」

「ええー、それは残念」

 立花は冗談では無く、本気でがっかりしているようであった。

「なんで、そんなに会いたがるのさ」

「見てみたいじゃん。野生の熊」

「殺されるよ」

「熊に殺されるのも悪くないかなって。悪意の無い純粋な殺意。美しいじゃん」

 結局それか、と苦笑する。死や殺人が会話にちらつくのにも、すっかり慣れてしまった。

「羆には会わなかったけど、サロマ湖は本当に綺麗だったよ。青くて、広くって」

 茂みを抜けた先の展望台を上り、目の前に現れた一筋の青を思い出す。砂嘴は薄く、湖は海との境目を失くしていた。どこまでも続く青を、鈴愛と並んでじっと眺めていたのだ。

「いいな、サロマ湖。猪苗代湖も綺麗だといい」

 窓の外、立花は新緑の山中を見やる。その瞳には緑色が映り込んでいた。いずれこの景色を抜けたら、この目は青を映すのだろう。

 まるで終わりのように呟くから、思う。別にサロマ湖も見ればいい。生きて、見に行けばいいだけだ。だが、そうする気はないのだ。

 星野が、幸せだった頃の家族を痛いと感じるのと同じだ。立花も、兄や母や父を見捨て、自由に生きることを罪だと信じている。未来など無い。幸せが罪であり、生きる自分は罪人なのだ。そんなことないと、誰がどんなに言ったって、立花自身がそう思う限りは、変わらない。この自罰は立花の矜持なのだろう。

 終点、郡山駅へと辿り着く。ここが、今日最後の乗り換えとなる。

 階段を上り、跨線橋を移動する。下っていくエスカレーター傍の赤い壁に、福島の観光名所が掲示されていた。山と海の写真の横に、磐梯山と猪苗代湖と記されている。エスカレーターを下りきって、一番線から会津若松行きの列車に乗り込む。列車はすぐに動き出した。

 犇いていた山々はいなくなり、畑の地平を駆けていく。暗いトンネルを抜けると、白い花弁を揺らす蕎麦の花畑が広がっていた。蕎麦畑を過ぎると、窓の外、青い稲穂が揺れる。稲穂すら置いて駆けていく。

 立花と星野は二人、ただ静かに電車に揺られていた。到着は近い。星野は不意に、夏休みの最終日のような焦燥感に駆られた。よれた水色の切符を握る。これでずっと進んできたし、これからだってどこへでも行けるはずだ。それなのに、終わりがあるからこんなにも苦しい。

 到着したホームを抜けて、猪苗代駅に降り立つ。青い空に太陽が高く昇り、照りつける日射しがじわりと汗を生む。駅周りには食事処や土産店が散見されたが、線路の横には青い畑が広がるだけだ。駅の傍、背の高いひまわりの中で、密かに赤いコスモスが咲いていた。閑散とした侘しさは、花巻の町を思い出させる。

「ここって、野口英世の出身地なんだな」

 立花が呟く。駅構内にある野口英世のパネルを見るまで、星野も知らなかったことだ。駅で貰ったパンフレットを見ながら、星野はぼやく。

「野口英世の記念館とかもあるらしいよ」

「別に良い。興味無い」

 立花は顔を顰める。当たりの強さは、野口英世が医者だからだろうか。

「なんか、ごめんね」

 もっとちゃんと調べておけばよかった。立花の琴線を刺激したことに、罪悪感を抱く。

「別に星野も知らなかったんだろ。野口英世に因んだ場所には行きたくないだけであって、猪苗代自体が嫌なわけではねえよ」

 立花は答える。皮肉も棘も無い、素直な吐露だった。

「猪苗代は兄さんも賢治も来たことないだろうし、なんだか新鮮だ。ちゃんと旅してる気がする」

 立花はどこか清々しく笑った。四日も旅をしてきて今更だが、星野も同じことを思っていた。初めてちゃんと旅をしている。立花についていくのではなく、星野が行き先を決めているからだろうか。

「……なんか、わかる気がするよ。上手く言えないけれど」

「逃げた先でも、結局、医者の出身地に辿り着くのは皮肉だけどなあ」

 立花は苦笑を浮かべる。宮沢賢治を追わなくなっても、医者の聖地が終点だ。逃避の先で足掻いても、結局、現実が脅かされる。やはり、逃してはやれないのだろうか。

「ま、行こうぜ」

 宮沢賢治の呪いを払って医学が残るのは条理だろうと、開き直るように立花は言った。

「ちゃんと、おれのことつれてってくれよ」

 振り返られて、はっとする。今までと違って、立花は一人で先に行かなかった。

 立花はこの地について何も知らない。星野が先導しなければ辿り着けない。そんな不自由さが堪らなくなった。星野はパンフレットを強く握る。バス停へと踏み出し、立花を誘った。

 

 広い青空の下、黄金のビールがきらきらと輝く。立花はプラスチックのコップを掴み、一気に呷る。きめ細やかな泡と共に薄い黄金の液体が喉の奥へと吸い込まれていく。ぷはあと感嘆を漏らし、口周りの泡を舐め取った。

「あー、うっめえ……」

 ここは、野口英世記念館の向かい側にある、猪苗代地ビール館の駐車場脇の屋外テラスだ。冷たい夏風が心地良い。畑の中のひらけた駐車場のおかげか、風は止まらず吹き抜けていく。車線の向こう、野口英世記念館の奥から吹く風だ。おそらく湖の方角から来ているのだろう。

 駐車場傍の売店で、野口英世の描かれた千円札と引き換えに、それぞれ猪苗代地ビールとつまみを頼んだ。確か、星野がヴァイツェンで、立花がピルスナーという銘柄だ。ビールの良し悪しなどまるでわからなかったので、苦味が少ないと書かれているものを選んだ。

 星野のビールは立花のものと比べると、随分と濃い色をしている。たぷたぷと満たされた赤いビールが、結露の雫を落としていた。

「早く飲まねえと、泡消えるぞ」

 立花は、一緒に買ったジャンボドッグをつまみに、ビールをごくごくと飲み干している。相変わらず飲み慣れている。こちとら昨日が初飲酒なのだ。経験値が違う。しかし、今日飲もうと誘ったのは星野の方からだった。

 別に、昨日の今日でビールを美味しいと思っているわけではない。勿論、未成年飲酒は犯罪だとはわかっているが、法を犯す立花を対岸から眺めていたくなかったのだ。共犯を選ぶことで立花が僅かでも安心するのなら、やはり星野は罪を犯してでも、同じ景色を見ていたいと思う。

 思考に耽るたびに、泡が萎んでいく。ようやく星野はビールを掴み、呷ってごくりと飲み込んだ。

「……おいしいかも」

 昨日飲んだビールより、甘みを感じた。舌を抜けて、喉に落ちていく苦味がどこかすっきりとしている。一緒に買ったソーセージが合うかもしれないと思い、棒を掴んで赤い肉に齧りつく。肉汁が飛んで、口の中に濃厚な旨味が広がった。これも美味しい。ぷりぷりと噛み砕いて、もう一口ビールを飲んだ。口の中の肉汁が、液体と混じり合っては落ちていく。おいしい。

 顔を上げると、どこかニヤニヤと得意げに笑った立花と目が合う。

「やっぱり酒は、誰かと飲むに限るよ」

 これは、やはり共犯だ。後ろ暗さすら嬉しくなるから、ずるい。星野は肯定を伝える代わりに、無言でビールを啜った。

 馬鹿らしくなるほど、完璧な夏だった。美味しいビールも、透き通る空も納涼な風も、スピーカーから流れるポップソングも、辺りに賑わう家族連れや旅人たちも、全てがお手本のような夏だった。羽田や函館ではあんなに遠かった夏が、今、この手の中にある。星野も立花も、それを精一杯謳歌しようとしていた。星野は、ふうと酒混じりの息を吐く。

「……なんだか、すごく夏休みだ」

「まあ、夏期講習代で飲む酒だもんな」

 しれっと差し込まれた皮肉にビールを吹きそうになる。既のところで飲み下し、激しく咳き込んだ。

「何笑ってんだよ」

「……笑ったわけじゃない」

「じゃあ、都合良く忘れてたのか」

 図星に押し黙ると、浮かれたもんだなあと馬鹿にされた。その表情は、どこかあっけらかんとしている。

「いいんじゃない。アルコールで救われるなら僥倖だ。そもそも、大抵の人間は、救われたいなんて思って生きてないだろうし」 

 立花は、泡の消えたビールを見つめる。ギャハハと近くで大学生らしき集団がビールを片手にはしゃいでいる。彼らのように何も考えずに笑って飲んで、それが救いになればよかった。星野はビールをちびりと啜る。

「別に、わたしもこんなんで簡単に救われるなんて思ってないよ」

「そりゃあ、おまえもそうだろう」

 立花は微笑む。わかってはいたが、立花も別に救いを求めて酒を飲んでいるわけではないらしい。

「苦しさをアルコールで希釈したり、人肌で満たされたり、宗教に答えを求めたり——。それでは救われないから、賢治も兄さんも星野も芸術に身を投げたんだろう。おれは全部駄目だったから、正直羨ましいよ」

「芸術かあ。そう考えると賢治は、法華経という救いがあったのに、文学に身を投げたんだね」

「そうなんだよ。そこが賢治の奇妙な矛盾なんだ」

 立花はどこか誇らしげな表情を浮かべた。

「法華経には安楽行品あんらくぎょうほんという戒律があるんだが、そこには、世俗の人々を喜ばす文章を書く者には絶対に近付くなと書かれてる。法華経は、文学芸術を強く否定しているんだよ。でも、賢治は知ってて書き続けた。賢治は信仰と創作の矛盾を解決するため、自らの文学を芸術だと見做さなかったんじゃないかって、おれは思ってるんだよね」

「文学を、芸術だと見做さなかった?」

「簡単なことだ。中尊寺の詩だってそうだろうよ。書くことで法華経の絶対性を謳ったんだ。だから賢治は、詩や童話は芸術でなく、法華経を布教するために書いたと自分や他人に言い聞かせ、文学への折り合いをつけていたんじゃないか」

 平家を滅ぼした源頼朝が見ても揺るがなかった法華経の絶対性、それが立花の詩の解釈だった。

「賢治は救いを法華経に求めていた。でも、それでは足りなかったから書き続けたんだろう。宗教か芸術かのどちらかじゃない。どちらも捨てられなかった。両者の先に、救いと理想が見えたんだ。だから、自罰や自己欺瞞を重ねてでも、文学を追い求めたかったんだろう」

 立花の少なくなったビールが揺れる。プラスチックが指に押されて、ばこんと潰れた。立花の赤らんだ目元がこちらを向く。

「賢治でもわかんなかったものを、おまえも求めて描いてくの」

「わからない」

 絵を描く根源を問われても、やはり答えは曖昧なままだ。きっと、考えたくないという方が正しい。絵について考えることは、星野の未来へと直結する。やはり、立花を置いたままで、未来を憂いたくはなかった。

「美大を目指していたのも、描くことを母や世間に許されたかったからだ。何のために描くかなんて、そんなの考えたことないよ」

 ちび、とビールを舐めて、本音を吐く。許されたいなど、浅ましい動機だ。立花を置いていくことを口実にしながら、結局は、自分が未来に向き合いたくないだけなのかもしれない。絵について考えると、いつも瞬間ばかりで未来が消える。星野は、今この瞬間のことしか考えられない。

「星野は今、描きたいもの、ないの」

 淡い色のピルスナーを揺らし、顔を仄かに赤らめた立花がはにかむ。夏風が立花の青い服をはためかせて黒髪を揺らし、金色のカシオピアを目印みたいに光らせていた。

 美しい。いつだって儚いあなたに惹かれるばかりだ。どろりとした邪な想いに嫌になるが、恋心だって紛れもない星野の本心だった。

「……今、描きたいのは、立花かな」

 ぶほっと立花がビールを吹き出した。

「えっ、はぁあ⁉︎」

「そんなに驚くこと?」

「いや、だって、意味わかんないだろ」

 吹きこぼしたビールを、パーカーの袖で拭きながら狼狽える立花は面白い。でも、この驚愕には、なんでおれなんかを描きたいのという自罰が滲んでいる。だから星野は、反抗のために満面の笑みで答えてみせた。

「好きだからだよ」

「また、それか……」

「好きだから描きたいの」

「あっそう」

 もう何度、立花に告白しただろう。いつもの塩対応だ。星野もすっかり慣れてしまった。

「でも、おまえが描くなら興味あるかもな」

「えっ」

「ブスには描くなよ」

 にっこり笑った顔が特段に眩しかった。声を荒げて否定する。

「描くわけないよ! だって立花、めちゃくちゃ格好良いもん」

「ばっ……、よくそんな恥ずかしいことを公衆の面前で叫べるな、この酔っ払い!」

「言ったな? 絶対に描くから!」

「肖像権侵害でーす」

 けらけら交わし合う軽口が心地良い。このやりとりは星野からの好意を前提にしている。普通、好きだと告白したら、関係はそこで膠着するだろう。付き合うか、振られるか、引き伸ばされるかのどれかで、結局いつかは、恋人や友情や、別離へと収束していく。

 だが、ここには戻れるほどの友情も進むことのできる未来も無い。好意は宙に浮いたままで、肯定も否定もされずに存在している。それが、ひどく心地良かった。こんな瑣末な好意など、何の意味もないから放置されているのだろう。それでも、わざわざ構ってくれる立花の態度を嬉しく思うのも事実だった。

 ほろ酔いのままバスに乗り込み、湖畔のホテルを目指す。長浜というバス停で下車した。

 ステップを降りた途端、ひんやりとした風が吹いた。星野は顔を上げる。コンクリートの道路を挟んだ向こう側、青い湖が静かに揺蕩っていた。遠景には山が聳えている。果ては見えるが、どこにも行けない。存在する湖が、確かな終着を示していた。

 バスは向こうに去っていき、ぽつんとと二人が残された。立花がぽつりと呟く。

「湖だなあ」

「ほんと、湖の他には何もないね」

 隔てるものはない。このまま湖に駆け出しても、誰も咎める者はいないだろう。

「これ、柵とか無いし、近くまで行っても大丈夫ってことだよね」

 空より深い、青の湖面に惹かれた。星野は車道を横断して、湖へと駆け出す。

「は? まず先に宿だろ⁉︎」

「宿、すぐそこだから先行ってていいよ!」

 星野は振り返って指を差した。バス停のすぐ傍に宿はある。湖畔の宿だ。

 だが、こんなにも近いのなら、宿から見下ろすより先に湖へ触れたかった。道路を超えて禿げた草むらを駆け下りると、砂に靴がずぶりと沈んだ。足を取られて転びそうになる。湖にも、海のような砂浜ができると初めて知る。そう驚くほどには、湖というものに馴染みが薄い。

「うわっ! 砂、靴に入った」

 後ろからの声に、星野は振り返る。渋い顔をした立花が、足を引き摺りながらもついてきていた。

「……先、行かなかったの」

「おれがそんな薄情な奴に見えるか」

「見える」

「信頼ゼロかよ。星野が宿取ったなら、そっちがチェックインするのが礼儀だろ」

 立花は砂浜を片足で飛び跳ねながら、星野の隣へと着地する。星野は、湖から吹く風でたなびく髪を押さえた。湖面は波立ち、砂浜に白波が押し寄せていた。

「海みたい」

 星野はスカートを押さえてしゃがみ、白波へ指を突っ込む。舐めると、淡水の味がした。

「しょっぱくない」

「当たり前だろ」

「これなら、入っても潮は付かないかな」

 星野は鞄と靴下を脱いで、砂の上に並べた。素足で砂浜に立つ。自重で深く沈み込み、指の間に砂が詰まった。

「マジで入るつもりなのか」

「宿はそこなんだから、すぐ洗えるもん」

「砂塗れでチェックインするつもりかよ」

「ちゃんと拭いて入るから。立花もどう?」

「遠慮しときます」

 入水は丁重に断られたが、立花はどこにも行かなかった。見守るように湖畔に佇んでいる。なんだか気恥ずかしくて、星野は歩みを速めた。波打ち際、水を吸って固まった砂を踏む。薄い波が爪先へと掛かった。そのまま、湖水に足を沈めていく。

 入った途端、風が暖かくなった。足先から染み渡る水の冷たさと、湖風が連れてくる暖かさがアンバランスだ。星野の体は、その境界にぽっかりと浮かぶように存在していた。

 進んでいくと、底は緩やかに深くなっていき、水が膝に触れた。腰に巻いたコートをたくし上げて、星野は振り返り、笑った。

「立花!」

 立花はこちらを見て、目を細める。ばかだなあ、とその唇が小さく動いた気がした。背後から来た波は、星野を越えて立花の待つ岸へと押し寄せる。やがて、砂に吸われて消える。そんな単純な波の動きが延々と繰り返されていた。

 しばらく浸かっていた。漣と共に、星野は砂浜へと戻る。

「気持ちよかったよ」

「そう」

「立花も入ればよかったのに」

 星野は足先だけを波に泳がす。びっしりと張り付いた砂を、波で削ぎ落としていった。そんな星野の様子を見て、立花は深く息を吐く。

「なんかおまえ、ばかになったよな」

 先程の呟きはやはり聞き間違えではなかったらしい。星野が顔を顰めると、立花は苦笑を浮かべて言った。

「もっと、冷めてる奴かと思ってた。美術室ではずっと絵を描くばっかで、ストイックだったからかな。来るもの拒まず去るもの追わずの、寡黙な人だと思ってたんだ。でも、案外直情型だし、諦めも悪い」

「それは悪口?」

「いや、少なくとも後先考えずに突っ走って、湖に入るような奴だとは思ってなかった」

 そこに落胆や嘲りは感じられなかった。純粋な驚きだと立花は告げた。素直な感想に、星野も微笑む。

「わたしも、自分がこんな人間だって知らなかった。立花が思ってた通り、もっと冷めてて色々諦めて、誰のことも追いかけない人間だと思ってた」

 ハンカチで足を拭きながら、笑って応える。

「変わったんだよ。立花のおかげで」

「殺人黙認や、未成年飲酒、強姦未遂とかのひっでえことしかしてないが」

「その荒療治が逆に効いたのかも」

 冗談めかして笑う。同じ地獄にいたい。全ての動機はそれしかない。

「よかったな」

 靴を履いたところで、そんな声が落ちてくる。星野はそっと顔を上げた。純粋な祝福ではない、どこか傷付いたような表情がそこにあった。おれは変わらないよ、と船上で告げた立花を思い出す。本当にそうだろうか。

「立花も優しくなったよ」

 星野を見つめる青い目が、静かに揺らいだ。

「……優しい?」

「少なくとも、昨晩よりずっと」

「どこが優しいんだ」

「そもそもここまできてくれてること自体が優しい。もう明日は、お兄さんの一周忌なのに」

 立花の目が大きく見開かれる。瞬間、深く傷付いたような表情が浮かんだ。

「そうだよな。そうだった」

 星野は気が付く。今日、星野への当たりがここまでずっと柔らかかったのは、立花が単に優しいからではなかった。立花は、心から笑っていたのだ。忘れて楽しんでいた自分に、罰を与えた瞬間を見た。

「忘れることは罪じゃないよ」

 立花が忘却するくらい楽しめていることは、僥倖だ。憎悪を忘れることは寂しいし、怖い。忘れたくない気持ちもわかる。でも、忘れるくらい笑ったり楽しんだりすることを、どうか否定しないでほしかった。

「わたしは、立花が救われることを願ってるから。たとえ苦しみや楽しみを立花が忘れたとしても、わたしが全部覚えておく」

 清濁全部呑み込んで、共に答えを探したい。そのためにここまでやってきたのだ。立花は、否定も肯定もせずに笑った。

「やっぱ、おまえ変わったよ」

 確信を得る。星野はずっと昔から、直情的な人間だったのだ。寡黙に見えていたのは、渦巻く想いを上手く伝えられなかっただけだ。言わなかったのではない。言えなかったのだ。本音を言って、人に嫌われたくなかったから。

 立花が聞いてくれるようになったから、星野もちゃんと伝えられるようになった。わたしが変わったように見えるのは、きっとあなただって変わり始めているからだ。

 この旅は無駄では無かった。確かな成果が芽吹いている。間に合え、と願う。お願いだから、どうか間に合ってくれ。

 

 ホテルのチェックインを終えて通された部屋は、ベッドが二つ並ぶツインの和洋室だった。湖畔の風に晒され続けた結果なのか、部屋の節々が緩く老朽化している。だが、窓があるだけで喜ばしい。昨日のラブホテルよりは何もかもが明るく、開放的だった。

 窓際には畳が敷かれていた。星野は座敷へと上がる。窓を開けて、身を乗り出した。

「湖、よく見えるね。風が気持ちいい」

 湖面は深い青に染まり、所々、橙に光っていた。夕日は見えないが、浮かぶ雲は淡いオレンジ色に光っている。雲を反射した湖面が橙に染まり、じわじわ夜に変化し始めていた。

「星野は腹減ってるか」

「まあまあ」

「おれも。昼、全然食ってないから腹減った。ちょっと早いけど、夕食食おうぜ」

 確かに、昼食がウインナーとビールでは物足りなかった。ホテル一階の受付の横に、食堂があったはずだ。星野は頷き、身支度もそこそこにロビーへと下りていく。

 歩くたびに、廊下の板目が深く軋む。壁のひび割れたセメントが、宿の長い歴史を物語っていた。大浴場への別れ道を逸れ、廊下の傍にゲームコーナーがあった。UFOキャッチャーやアーケードの筐体、メダルゲームがピコピコと割れた電子音を発している。ゲームコーナーを抜けると、フロントに辿り着いた。

 土産や日用品が陳列する売店の向こう、湖に面する大きな窓の側にテーブル席が並んでいる。その奥には厨房も見えた。すぐ傍のメニューに、中国料理と書かれている。猪苗代に来てまで中国料理を食べるのはなんだか不思議な感じだが、漂う甘い香りに腹の音が鳴る。

 星野と立花は、向かい合って窓際の席に座る。大きな窓から淡い夕陽が落ち、道路の向こうで、ゆったりと湖が揺蕩っていた。

 店員から渡された重厚感のあるメニューを開くと、色鮮やかな中国料理の写真が並んでいた。悩んだ末、星野は特製冷やしスープ麺、立花はエビチリ膳を頼む。さらに立花は、先程飲んだものとは違う猪苗代地ビールのラオホをしれっと追加で注文したので、慌ててこちらもゴールデンエンジェルの地ビールを頼む。

 注文と同時に店員がメニューを下げてしまうと、見るものがなくなった。改めて立花へと向き直る。この対面に既視感を覚えた。

「そういや立花と向き合ってご飯食べるの、函館のラッキーピエロ以来じゃない?」

「ああ、そうか。碌に飯食ってこなかったもんな」

「花巻の旅館とか一人で食べてたし」

「あれはおまえが先に部屋を出てったからだろ」

「立花が全裸で寝るとか言うから」

「結局、風呂でかち合ったから何の意味も無かったけどな」

「うう……」

 完全に墓穴を掘った。裸を思い出して、顔が熱くなる。星野が俯いていると、料理が運ばれてきた。冷たい麺の入った丼がつやつや輝く。地ビールは瓶に入れられており、冷えたコップが添えられていた。瓶からコップにビールをとくとくと注ぐ。つるりとした喉越しの冷麺にビールがよく合った。ああ、すっかり酒の味がわかるようになってしまった。

 赤いエビチリに齧りつきながら、立花はぼやく。

「それにしてもおまえは、色々なことをよく覚えてるよな」

「色々なことって」

「どんなことがあったとか、どんなことを言ったとか、ちっちゃなことでも色々全部。楽しかったことも、苦しかったことも平等に覚えてるんだろう。さっきだって、おれが忘れても覚えてるって言いきってたしな」

 立花は羨望の眼差しを仄かに宿す。

「おれは忘れるだろう。覚えたところで意味が無いから。みんないなくなるし、むしろいつも、向こうの方が先に忘れてくれた。今が楽しければ、それで充分だったんだ」

 ビールを呷る立花を見つめる。今だけが楽しければいい。立花が貫く、刹那主義の正体がやっとわかった。

「……本当に誰も立花のことを覚えていないから、今まで思い返す必要がなかったんだね」

 高校三年の最後、立花が消えても何も変わらなかった教室を思う。誰に対しても都合の良い人を演じた立花の処世術は、代わりに立花をクラスメイトたちの記憶から消した。他者に深入りせずに自分の存在を消して回ることが、立花の生存戦略ならば、簡単に否定はできない。

「どうしておまえは思い返すんだ」

 立花は真っ直ぐと星野の目を見た。今まで、他人と継続性を結んでこなかったから、本気でわからなくて問うているのだろう。馬鹿で幼い問いだ。だからこそ、本気で応えたい。

「今、こうやってわたしと立花が向かい合っていることを含めて、全てはただの現象だと思うんだよ」

 星野は立花の目を、じっと見つめた。その存在を見通すように、強く。

「ここまでの全ては、星野愛世美と立花よだかという人間が、空港で再会し、函館から猪苗代まで旅をしたという、ただのしがない現象でしかない。それで終わらせたくないから、わたしは思い返して意味をつけるの」

「……現象に、意味を」

「楽しかったこととか苦しかった現象に、改めて意味をつけることで、価値が生まれる。側から見たらくだらないことでも、本当に楽しくて幸せで、自分にとっては意味があるって信じたいから、反芻して覚える」

 消えるから。どうせ、なくなるから。思い出の反芻に予防線を張る立花は、むしろ、誰よりも孤独を恐れているように見えた。

「わたしにとっては価値がある。立花が覚えていても、忘れてしまったとしても関係無い」

「もし、おれが死んだとしてもか」

 大きな海老の塊を呑み込みながら、立花は問う。その前提は考えるだけで恐ろしい。それでも、もう迷わなかった。

「うん。思い返すと思う」

 死という喪失にすら、意味がある。死ぬということは、生きたという証だから。

「……なるほどな。こんなくそったれな人生を反芻し続けて意味をつけるなんて、本当に趣味が悪いし、気持ちが悪い」

 ビールを注ぎ足しながら、立花は吐き捨てた。星野がどんなに価値を見出したところで、立花自身がそう思えないのなら無意味だ。立花は繰り返し、星野からの肯定を強く否定する。それは、立花が本気で自分のことを嫌いだからだろう。堪らないほどに悔しい。立花のことがこんなにも好きだから、本当に悔しかった。

「でも」

 ビールの泡は消えてしまっていた。いつのまにか夕日は沈み、雲が晴れ始めている。湖が揺れている。呼応するように、立花の耳元でカシオピアが光った。

「誰かの目に、価値のある人間だと映ったなら、この人生も捨てたもんじゃなかったな」

 星野は目を丸くする。届いたのかと錯覚する。期待はいらないと思いながらも、やはり返報は欲しかった。立花の存在は、星野にとっては大きな価値がある。立花がいたから星野は殺さなかったし、死ななかった。立花の救いが星野の救いとなる。だから、立花にも生きてほしいと、ずっとずっと願っている。

 しかし立花は、揺るがない目で言うのだった。

「おれが死んでも、そう思ったままでいてくれよ」

 瞳に滲むのは諦念だった。星野は下唇を強く噛み締める。星野の首筋に下がるよだかのネックレスが、まるで首を絞めてくるように絡む。やはり、どうしようもない。星野の価値は立花の価値にはならない。どうしようもなかった。

 お互いに食べ終わり、食堂を出たところだった。フロント傍の売店の棚の前で、星野は立ち止まる。日用品の陳列の中、大きく場所を取って、ファミリー用の花火セットが売っていることに気が付いた。

 星野は食堂の大窓を振り返る。沈んだ夕日が、静かに夜を連れてきていた。先程踏んだ砂浜を思い出す。すぐ近くには水辺もある。ここは、あまりにも誂え向きな場所だった。

「……ねえ、花火やらない?」

 今にも部屋に戻ろうとしていた立花に声を掛けた。立花は怪訝な顔で振り返る。

「ここに売ってるんだよ。天体観測まで、まだ時間があるでしょう。さっきの砂浜でやろうよ」

 近くのゲームセンターから漏れ出る電子音が煩い。花火など、ひどく幼い誘いだとはわかっている。だが、星野も立花も、大人でも子供でもないマージナルマンなのだ。思いきり楽しんだって、許される気がした。

「なんだそれ、すげえ馬鹿っぽいな」

「わたしはばかなので」

「さっきのまだ根に持ってんのかよ」

 はは、と朗らかに立花は笑った。棚の前、立ち止まる星野へと近付く。花火のセットをひょいと手に取った。

「いいよ」

 勿論、断られることも覚悟していた。あっさりと承諾されたので、星野は目をぱちくりと瞬かせる。

 中身いっぱいあるなと呟きながら、立花は花火をレジへ持っていった。割り勘ね、と言うと、レシート渡すからあとで計算してくれ、と微笑まれた。その対等が嬉しいから、痛い。

 すぐに立花は、レジ袋に入った花火を持って帰ってきた。袋の中の花火は、立花が動くたびに、がさごそと生き物のように音を立てる。

「行こう」

 星野は告げた。暗い夜の湖で、光りたい。これが本当に最後のチャンスになるだろう。残された少ない選択の全てを、立花に捧げたい。

 これで終わりだ。ここが旅の、終着地だ。

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