仙台②

 戻る道は無い。平泉駅へと戻って、乗り込んだ一ノ関行きの電車の窓から、彩度が低くなっていく青空を星野は見つめ続けていた。

 立花はヘッドホンをするでもなく、ただ押し黙っていた。先程から目が合わない。中尊寺を発ってから、意図的に会話を拒絶されている。掛ける言葉を探したが、これ以上、気分を害するのが怖くて、結局何も喋れないでいる。

 平泉から僅か二駅で、終点一ノ関に止まった。ホームに降りて、乗り換える列車を探す。小牛田行きの電車に立花は乗り込んだ。星野も乗り込み、対面の座席に座ったが、一向に発車しない。車両の連結部分が、ぎいぎいと悲鳴のような音を上げている。

「どこまで行くの」

 数十分は経っただろうか。星野はとうとう尋ねる。久し振りに発した声は震えていた。立花は一瞬、星野に目をやったが、すぐ窓の外に視線を向けた。

「……さあ」

 歯切れの悪い返事に、星野は目を見開く。列車は、低く唸りながらも動き始めた。車窓の景色は緩やかに変わっていく。確かに進んでいるし、どこかには向かっているはずだ。だが、立花は何も答えてくれない。こんなことは初めてだった。目下の行き先がわからないことは、こんなにも恐いのか。

 小一時間ほどで、小牛田に着く。次の乗り替えには、仙台行きと書かれていた。仙台行きの列車は先程と違って、通路に沿ったロングシートの座席だった。扉の近く、片隅に腰を下ろした立花に対して、少し間を開けて座る。列車はすぐに発車した。

 窓の外、緑の地平の上では、濁った青空がぽっかりと口を開けていた。向かう進行方向の先には、雲が厚い層を作って積み重なっており、その中に太陽がゆっくりと沈み始めている。カーブに差し掛かり、車体が大きく遠心力で揺れた。それでも立花は動かない。

「次はマツシマ……」

 機械的なアナウンスが車内に響く。扉の上、電光掲示板を見た。オレンジに光る、松島の文字が流れていく。聞き覚えのある地名だなと星野はぼんやりと思う。

 しばらくして停車した。その瞬間、弾かれたように隣の影が動く。

「え」

 立花が消えていた。下車したと理解した途端、星野も列車から飛び降りていた。

「待って⁉︎」

 叫んでも止まらないから、追うしかなかった。切符を改札に滑らせ、走る立花を追う。

 松島駅を出て市街地へと分け入った。歩道橋の下を抜ける。ガソリンの濃い香りがした。車通りが激しくなり、星野を数多くの車が通り越していく。その臭気を胸一杯に吸いながら、ひたすら走った。

 立花の背中は辛うじて見えているくらいだ。これが性差か。どんどん遠ざかっている気がする。擦れた足の裏が熱い。息が苦しい。だが、ここで見失ったら全てが終わる。止まるわけにはいかなかった。

 喧騒を抜けると、住宅が消え去り、観光地の様相を成し始めた。漂う匂いが明らかに変わる。潮の香りだ。だが、歓迎が薄い。大抵のシャッターが下りており、人も殆ど見当たらなかった。右手、山の向こうに赤い太陽が沈み、左手側の雲が反射で染まる。海の上、血のような赤が焼けていた。

 日本三景と書かれた石碑を越える。そこで漸く思い至る。ここ松島は、宮城県の景勝地だ。観光地に疎い星野でも知っているくらいだ。いつのまに岩手県を離れていたことと、日本三景の名に似合わない寂れ具合に驚く。星野は、海の際のコンクリートを駆けていく。

 不意に、追い人の歩みが止まった。突き出た埠頭の先は、海しかなかった。重い海水がとぷんと波を立てる。船が波で軋んでは、小さな悲鳴を上げていた。海は空の赤さを映さずに、鈍く暗い色を湛えている。

 立花は何をするでもなく、海の淵にただ立っていた。星野は、額に滴り落ちる汗を手の甲で雑に拭う。荒い息を隠さないままで、声を絞った。

「な、んでっ……、急に、降りたの」

「おまえはやっぱりついてくるんだな」

 立花のこぼした答えに、星野は目を丸くする。

「え、だって、ついてきてもいいし、止めないって立花が言ったから、わたしは——」

 立花はこちらを見ず、海を見つめたままだ。潰れた缶や歪んだプラスチックの欠片が、絡み合っては藻屑と化して、海の端で浮いている。

「おまえがおれのせいで殺人をやめられたなら、もう、それでいいじゃないか。これ以上ついてきたって、利点が無い」

「……利点?」

「なんで、わざわざ損するような茨の道に来るわけ。おまえの人生、ぐちゃぐちゃになるだけじゃないか」

「だから、降りたの?」

「いなくなったら、忘れてくれると思って」

 少しも茶化す声色では無かった。立花は本気で言っている。それがわかったからこそ、星野の頭にカッと血がのぼった。

「どうして今更、そんなこと言うの。忘れられるわけがないでしょう⁉︎」

「なんで、そう言い切れる」

「なんでって」

「今までみんな、忘れてくれたのに。おまえだって、おれのこと忘れてたじゃん」

 ぽとりと、海屑みたいに落ちた呟きに星野は言葉を失った。襲うのは後悔だ。高三の夏休み明け、立花の空席を持って回った日々が鮮やかにぶり返す。

 へらへらと笑う立花によって、学級全体にもたらされた緩やかな忘却は、立花の処世術であり、それでいて不変の条理だった。きっと高校だけじゃない。家族以外の全ての世界で、立花は自分の痕跡をフェードアウトさせ続けていたのだと今更知る。

「……忘れてなんか、なかったよ」

 ひどく震えた声が出た。しかし、こんな言葉が何の慰めになる。あの時、星野を含めたクラスメイトは、立花に何もしなかった。だから立花は、忘れられたと何の疑問も持たずに思い続けていた。立花の認知だけが事実だ。

「おれは、星野にちゃんと忘れられないでいてもらえるほど、価値のある人間じゃないから」

 生きることが自罰だと、黄金の前で告げた自分の声がぐわんと大きくリフレインする。星野はやっと気が付く。立花が逃げた理由に。

「……あなたは賢治じゃない。生きることを自罰だなんて思わなくていい」

「同じだ。おまえに言われてやっと気が付いた。おれは生きるために自罰をしている」

 立花の声がはっきりと響く。声には確信がこもっていた。

「父が憎いから殺したいんじゃない。自分を戒めたいから殺したいんだ。この自罰に、おまえを付き合わせるわけにはいかない」

 賢治や兄さんや星野のように、表現に昇華できれば良かったのに。微かな呟きが塵の漂う海へと溶けていく。星野は泣きたくなった。

「なら、そんなあなたのことを好きなわたしは、どうしたらいいの」

「離れたらすぐに忘れるよ」

「好きだから忘れたくないんだよ」

「執着だよ、その好きは」

「それでも好きなんだって」

「好意を繋げることに何の意味がある。おれは親を殺して死ぬだけの犯罪者なんだ。未来が無い」

「それはっ……」

 自問しては、詰まってきた答えだった。好きだ。しかし、未来が無い。立花の言う通り、繋げられない刹那の好意など、何にもならないのではないか。

「おまえは、おれに何を望んでるの」

 こんな際ですら、与えられるものが無い。銀河鉄道でジョバンニがカムパネルラに向けたように、どこまでも一緒に進んで行こうと誓うのか。無理だろう。立花の囚われているものを共に背負うには、星野は何も持っていなさすぎる。幸せにもさせられないし、一緒に死ねるわけでもない。

「わかんない。死なないで幸せに生きてって、それしかわかんない。わたしはどうなったっていい。そのくらい好き……」

 愚かだ。巻き込みたくないと言う立花に従うのが、星野の未来にとっては絶対に正しい。だが、その正しさは、あまりにも悲しい。ここで離れたら、立花は死んでしまう。立花の死を肯定したくない。その衝動だけで、星野はここにいるのに。

「じゃあ、終わらせよう」

 立花は振り返り、静かに目を伏せる。

「……終わらせるって、死ぬの」

「いや。おまえの好意が叶ったら、終わるんじゃないかって」

 立花の声に、じっとりとした粘りが混じる。海と夕焼けを吸って、重く響いた。

「だったらもう、セックスしようぜ」

 声が、水面の藻屑へと絡まっていく。星野は目を見開く。提案の突飛さや羞恥よりも先に、切実が襲った。

「ヤったらわかるんじゃねえの。おまえだって、そういう意味でおれが好きなんだろ」

 立花は、体を重ねさえすれば星野が満足すると、どうやら本気で信じているようだった。刹那の愛で終わらせられるなら、自分如きいくらでも売れる。そう、言っている。

「わかった。やろう」

 それならば、退路は無い。喧嘩なら買ってやる。

「立花がやりたいのなら、いいよ。わたしのこと、好きにして」

 嘘でもいいから、愛してみやがれ。本当に抱けるのかという挑発もあったし、別に、手酷く抱かれたって構わなかった。もうどこにも行かないのなら、今はそれでいい。踏み台にされても犠牲になっても、立花を繋ぎ止めていたい。好きだから、全部捧げたかった。

「……本当に、いいんだな」

「いい。抱いたら、わかるんでしょう」

「覚悟しろよ」

 立花は海から離れる。走ることは無かった。安堵が落ちると共に、体が激しく震えていることに気付く。とんでもないことになってしまった。勿論、星野はセックスなど初めてだ。

 始まって終わる、行為の無為さを思う。刹那であれど、近付くことに浮かれていることにひどい嫌悪感を抱いた。

 消えるべき恋心が胸の内で暴れている。こんなものがなければ、もっと純粋に立花の幸せを願えたのかもしれない。邪な想いが苦しい。自我も願望も捨てて、立花の幸せを願っていたかった。立花に死んでほしくない。それだけの想いが、どうしてこんなにも捻じ曲がる。

 海岸沿いを進む立花を追う。赤い海に溶けゆく立花の姿は、この世の何より美しかった。いつも立花の背中ばかりを見ている。近付くばかりで、並べない。差し出した手を振り払われることは怖い。好きだから、嫌われたくない。怯えがある。

 それでも、立花を受け入れていたかった。


 降り立った仙台駅、コンコースを抜けた出口は、ペデストリアンデッキの上へと繋がっていた。黒い空とビルが近い。漆黒の空を潰すように、煌々と光るビル街が聳え立っている。雨の残り香が仄かに香り、へばりつくような熱気が手の甲を撫でた。

 仙台は、間違いなくこの旅一番の大都市だろうが、区画整理された碁盤上の街並みは、札幌の喧騒を連想させた。デッキの下はロータリーとなっていて、タクシーがぐるりと並び、客を待ち構えていた。デッキを下って、商業施設が並ぶ大通りへと足を付ける。賑やかな家族連れや学生とすれ違いながら、立花を追う。

 大通りから逸れた横道、イエローのネオンライトで国分町と書かれたゲートが、こちらを誘うように輝いていた。立花は迷いなく下をくぐる。先には歓楽街が広がり、原色のライトがちかちかと明滅していた。

 人の層も明らかに変わった。スーツの酔った社会人たち、居酒屋のキャッチ、歩き煙草の男を避けながら歩いていく。未成年にとって、ここは絶対に場違いだろう。それでも戻る道は残されていない。

 随分歩いただろうか。建物の陰から、若い女と年配の男が腕を絡ませてぬるりと現れた。建物には、英字でホテルと書かれた青白いネオンが光っている。休憩五千五百円、宿泊八千八百円という看板も立っていた。経験の無い星野でもさすがに知っている。ここは、ラブホテルだ。

「ここにするか」

 立花は星野の方を見ない。全部、一人で決めて終わらせるつもりだろうか。それは嫌だ。星野だって、曲がりなりにも行為を受け入れている。合意でありたいし、対等でありたかった。

「うん。しよう」

 絞り出した声が掠れていた。それでも、この先で止まることは許されていない。

 立花の言う通り、抱かれたら満足して終わるのだろうか。失うのか。それとも、何かが叶うのか。どうか確かめたい。自分を犠牲にしてでも、星野は見届けなければならなかった。

「覚悟は、できてるから」

「……そう」

 立花は焦点の合わぬまま呟き、ラブホテルの中へと消えていく。星野もすぐに後へ続いた。

 ラブホテルの中は、光る外観とは一転して、一面、黒の塗装で塗り潰されていた。入口すぐのところに、水槽が鎮座している。透明な水の中を、青い熱帯魚が悠々と泳いでいた。水槽の端、黒い衝立の向こうに人が座っている。受付だろうか。衝立のおかげで顔が見えない。

 向こう側から、休憩か宿泊かのどちらですか、と尋ねられた。立花は、宿泊ですと答え、財布を開く。星野も財布を取り出そうとすると、あとでと無言で制された。八千八百円の宿泊代と引き換えにカードキーを受け取る。出る際に返却をお願いします、と淡白な声が響き、立花は見えぬ相手に頷きを返した。

 充てがわれた部屋は、受付を過ぎた突き当たりにあった。カードキーをリーダーに翳すと、いとも簡単に扉は開いた。目線で立花が促したので、星野が先に入る。中は暗闇だった。水色の足元灯だけが光っている。星野は靴を脱いで、スイッチを押した。

 部屋が明るくなると、黒い壁に囲まれたワンルームが露わになった。部屋の中央にある、真っ白な一組の布団と二つの枕が目に付く。性行為のための部屋だということが、あまりにも露骨だった。奥には、黒いソファが置かれており、壁には巨大な液晶テレビが掛けられている。右手側の白い扉は開け放たれていた。青いタイルの貼られたユニットバスのようだ。

 ぱたん、と戸の閉まる音がした。立花が入室し、後ろ手でサムターンを回した。

「風呂。先に星野が入れよ」

 立花は靴すら脱がず、入口から動こうとしない。また、どこかに消えてしまわないか恐くなったので、確認する。

「……いいけど。わたしが入ってるうちに、どっか行かないでよ」

「信用無いな」

「前科があるから」

 立花の姿を真っ直ぐと見つめ、言う。消えないでとは願っているが、確約などありはしない。縋るしか、術は無かった。

「じゃあ、また風呂一緒に入るか?」

 嘲りが飛んだ。羞恥を期待されて、腹が立つ。今更、そんな程度の覚悟だと思われているのか。

「入ってもいいよ。逃げられるよりはいい」

 挑発に乗る気は無い。だから本気で返した。

「……冗談に決まってんだろ」

 立花は目を伏せる。靴を脱ぎ、布団の端に座り込んだ。星野はふっと息を吐く。ここまで来たら、もう信じるしかないだろう。

 荷物を持ったままバスルームへ入り、ドアを閉めた。服を脱いで、浴槽の中でシャワーを浴びる。どこを洗えばいいかなどまるでわからないので、全身を念入りに洗った。

 タオルで体を拭き、下着を身に付けて、ドライヤーで髪を乾かしながら、脱いだ服をぼんやりと見つめる。先程の雨のせいで、まだ少し湿っていた。ちゃんと乾かしたかったし、どうせ、服などこのあとすぐに脱ぐだろう。星野は備え付けの薄いバスローブを羽織った。

 ワンルームに戻ると、立花は布団に座り込んだままだった。いなくなっていなかったことに、とりあえず安堵する。

 立花は星野を一瞥すると、無言で立ち上がり、バスルームへと消えた。すぐにシャワーの水音が聞こえる。シャワーの音が生々しい想像を掻き立てる。立花がさっき嘲ったように、昨日裸は見たはずなのに、独特の緊張感が星野をひたひたと満たした。気を逸らすために、辺りを見渡す。

 戸棚には、冷蔵庫、ケトル、オーディオ機器、電子レンジなど、一通りの電化製品が並んでいた。下手なビジネスホテルより、ずっと機能的だ。今度は布団に座って、枕元のものを触る。フロントに繋がる電話と、箱ティッシュ、それから銀の小袋が置いてあった。星野は何気なく手に取る。

 0.05と書かれた外袋の中には、正方形の梱包が二つ綴られていた。取り出して触ると、内部の円の形がぬるりと蠢いた。

 かっと一人、赤面する。これがコンドームか。はしたなく触ってしまった。ラブホテルに避妊具があるのは当然だが、実際に目の前にすると、やはり怖気付く。本当にやるのか。やったからといって、何か変わるのか。何もわからない。

 がちゃり、と背後で戸の開く音がした。星野は慌てて、後ろ手にコンドームを隠す。白いバスローブに身を包んだ立花が、前髪を掻き上げながら、ユニットバスから出てきていた。濡れそぼった髪の先から、水滴がぼたぼた落ちては、胸元のバスローブに吸い込まれていく。

「何」

 変に見つめすぎていたのか、立花は怪訝な表情を浮かべた。握るコンドームが掌の中で熱を持つ。見透かされているようで怖かった。とにかく手中のコンドームを隠そうと、手をじりと布団の向こうへ動かした。

「おい」

「……なんでしょう」

「それ、なんか、隠してるだろ」

「隠してないって」

「いや。その右手、何隠してんの」

 立花はつかつかと躊躇なく近寄ってくる。バスローブが開き、胸元がはだけかけていた。見ていられなくて、目を逸らす。

 その隙を突かれ、バスローブごと手首をぐいと引き上げられた。握った銀の包みが、指の間からはみ出してしまう。

「……ああ、なるほど」

 立花はすぐに手を離す。察したという立花の態度に頬が熱くなった。別に行為を期待して触っていたわけではない。でも、咄嗟に弁解の言葉は出てこない。

「早速、使うか」

 覆い被さるように、立花の影が落ちてきた。仄かに青みがかった黒目が、星野を映す。どんな下世話な理由であろうと、立花は今、星野だけを見つめている。その事実が、なんだか堪らなくなった。

「これ、使わなくてもいいよ」

 星野は手の力を緩める。コンドームはこぼれて、なめらかな布団へ落ちていく。

「……は」

「立花が、気持ちいい方でいい」

 全てを受け入れたい。それだけが紛れのない、本当の星野の誓いだった。

「ふざけんな」

 ぐらりと視界が反転する。バスローブ越しに強く肩を押されていた。背中が布団に沈み込み、鼻先の触れる距離で立花の顔が近付く。

「孕んで、既成事実でも拵えるつもりか。そうまでして、おれを無理に生かしてえの」

「……違う。妊娠とか、全然考えてなかった。使わなくてもいいって言ったのは、立花の好きなようにしていいって意味で」

「だとしても、駄目だろ」

 ざらりとした違和感が襲う。何かがおかしい。こんなの、自暴自棄なセックス直前にする談義ではない。

「コンドームを使ったって、避妊は絶対じゃないのに、今更?」

「じゃあ逆に、なんでおまえはそんなに乗り気なんだ。ああ、そうか。星野はビッチだから、そうやって軽く言えるんだな」

 立花はわざとらしく笑った。これは挑発だ。立花は、話を逸らそうとしている。

「処女だよ」

 逃したくない。だから、堂々と答えた。立花の笑みがひくりと固まる。

「どうせ死ぬのに、なんで子供なんかの心配をするの。未来など無いなら、無責任に中に出せばいい。わたしはそれでいいから」

 星野は立花の手首を直に掴んだ。そのまま、子宮辺りに掌を押しつける。立花の手が僅かに暴れる。だが、離す気は無かった。

「望むままに、ぐちゃぐちゃにして。責任は全部、わたしが取る」

 腹の上に押しつけた、立花の掌が震えている。そこでやっと気が付いた。

 立花は、セックスで星野を満足させる気など初めから無かったのだ。星野がコンドームを使いたいと言ったなら、無理やり。星野が中出しを望んだなら、拒絶。星野とは真逆の行動を取りたかっただけだ。

「っ、おれは——」

 立花はただ、星野に嫌われようとしている。そのための手段として、セックスを選んでいるに過ぎない。

「好きだから、好きにしていいよ」

 それならば、被害者にはなってやらない。星野が被害者にならなければ、立花は加害者になれない。してやるものか。

「……犯すぞ」

「いいよ」

「犯すって言ってんだよ!」

「だからいいよ。好きにして」

 立花は星野の手を振り払う。掌は子宮を離れ、胸の方へと移動する。立花は星野のバスローブを引く。ずるりと容易く落ちて、下着が露わになった。

 星野は目を閉じなかった。見たかった。あなたがわたしを害するのか、それとも愛する振りをするのか、全部知りたかった。

「……なんで」

 吐息が掛かる距離だ。曝け出された胸元が冷えていく。覆い被さる立花の瞳に、切実が宿る。

「おれなんかが、好きなんだ」

 立花の震える指が虚空を泳ぐ。服を剥いだだけで、いまだこちらへ触れてこない。

「あなたがわたしを肯定したから」

 星野も手を伸ばさなかった。ただ、立花の全てを受け入れたかった。

「憎い。殺したい。死にたい。そんな後ろ暗い想いにあなたはいつだって全力で乗ってきた。自罰するあなただったから、わたしは赦され救われた。だから好きになったし、今でも好きなんだよ」

 星野は、本気で親殺しを決意したからこそ、立花に惹かれた。親殺しの立花を好きにならなければ、星野は殺害を踏み止まらなかった。だが、好きだから、立花に殺してほしくないし、死んでほしくないとも思う。

「好きだから全部あげたいし、立花が望むなら、わたしみたいに殺人をやめないでちゃんと最後まで殺してほしいし、やっぱり死んでほしくもない……」

「……めちゃくちゃだ」

「そう。めちゃくちゃだよ。矛盾してるのはわかってる。好きだからだ」

 今にも唇が触れそうなほどの距離で伝えた。立花が息を呑むのがわかる。

「おまえはおれに何を求めてるの」

 好きだと告げるたびに、変わらない問いが返る。立花は繰り返し、星野の意志を問うのだ。だから星野は答える。

「自分のことを大切にしてほしい」

 生きてほしい。やはり、それしか無かった。

 ぽた、と星野の頬に水滴が落ちた。立花の濡れた髪を伝って垂れる。生きてほしいと口にしてから気が付く。この言葉は、自罰の否定だ。立花の瞳が頼りなく揺れる。

「おれなんかのこと、好きでいないで」

「……それはきっと無理だろうな。ここまで来たら、死んでもあなたが好きだと思う」

 星野は微かに笑った。恋で自罰を否定する。

 返る立花の吐露が、切実な熱を帯びた。両腕が伸びて、星野の首筋へと回る。喉元を親指の腹が押し潰した。息ができなくなった。

「おれは、一人で生きて一人で死にたいんだよ」

 星野の首を絞める立花の指は冷えきっていた。こもっていく力に微笑み続けた。星野は立花の指の上に掌を重ねる。

「殺してくれていいよ」

 やめてと泣き叫ぶのを期待されているだろう。だから、ただ優しく微笑み続けていた。立花の手が震えている。こうやってあなたの瞳に映る刹那が存在しただけで充分だ。殺されて永遠になったっていい。この刹那があることを、わたしは絶対に忘れないだろう。

「幻滅してくれ……」

 懇願と共に、ぐっと首が絞まる。だから笑った。

「好きだよ」

 瞬間、祈り落ちていくように指の力が緩んだ。喉に酸素が急に入り込んで、強く咳き込む。違う。これは拒絶じゃない。苦しくたっていいのにと伝えたくて、立花の頬に手を伸ばす。触れる既のところで、立花が呻いた。

「……触るな。その好意が気持ち悪いんだよ」

 星野の手が止まる。明確な拒絶に息が詰まった。

「やめてくれ。生きてる人肌に触ると、死体のつめたさを思い出す。本当に無理なんだ」

 その吐露で気付いた。立花は中尊寺で、星野の手を振り払った。うっかり触れたものならば、その手は冷えきり、いつも激しく震えていた。

「なのに、ラブホに誘ったの」

「ああ。別に、どう転んだってよかったからな。レイプになるならそれでよかったし、おまえをちゃんと抱けるならそれでもよかった。でも、やっぱ無理だった。悪い」

 真っ当な謝罪が落ちるから、戸惑う。星野の手は宛先をなくす。拒絶が返ることがわかりきっているのに、それでも触れる意気地はない。星野の手は、白い毛布へと沈む。

「おまえが悪いんじゃないよ。おれが全人類誰であっても、駄目なだけだから」

 苦しそうに歪む瞳に偽りは無い。だから、まごうことなき本音だと知る。自罰を重ねて生きてきた立花は、誰からの好意も抱擁も毒だと言う。皮肉ながら、そんな姿すら愛おしかった。このまま繋ぎ止めたい。抱き締めたいし、抱き締められたい。でも、それがあなたを傷つけてしまうのなら、できない。

 だからおれのせいだよと、立花は笑った。

「馬鹿な自傷に付き合わせた」

 立花は、はだけた星野の胸元に手を伸ばす。指が肌に触れないよう慎重に、バスローブを重ねて元通りにした。膝を立てて、星野の上から身を起こす。重なる影が離れていく。

「行かないで」

 触れられないから、引き止める術が無かった。星野のこぼした悲痛な声に、立花はそっと微笑みを返す。

「……もう、今日は寝るだけだ」

 今更、思い知る。どんなに好きだと縋ったって、その好意が毒に映るのなら、同じ枕でただ眠ることすら叶わない。この関係を表す名前は無い。星野は、立花にとっての何者にもなれないのだ。

 明かりがついたまま、立花は部屋の隅、黒いソファの上で丸まる。一組しかない布団を当たり前に譲られた。起きたらどこかに消えているのだろうか。それは堪らなく恐ろしかったが、今、寄り添って傷つけるのも怖い。だからといって、このまま終わりにしたくはなかった。

「ペルセウス」

 声を掛けたが、立花は背中を向けたまま動かない。

「明日、ペルセウス座流星群、みようよ。みられる場所、調べとくから行こう」

 立花は何も答えなかった。星野は泣きたくなる。流星群など、つまらない延命だとわかっている。そんなことをしたって、立花の自罰は覆らない。立花は、やはりどうしようもなく死にたがっている。じわじわと植えつけられた呪いと血縁が、立花を緩やかに殺してきたのだ。無性に、顔も知らない立花の家族全員が憎くて堪らなくなった。

 苦しみの無いどこかへ連れ出してあげたい。だが、そんな甲斐性は無い。立花にとって、はじめからこの旅の全ては逃避でしかない。

 こんなに好きなのに、どうしてあなたは死のうとする。馬鹿な問いだ。星野にとって立花は大切な存在だが、立花にとってはそうではないだけ。わたしでは、あなたを救えない。

 あなたの枷になるためには、一体何をしたらいいのだろう。星が流れる間に三度願えば叶うのだろうか。馬鹿らしい。だが、そんな馬鹿な迷信にすら縋りたくなった。

 星野は体を起こして、鞄からスマートフォンを取り出す。起動して検索エンジンに「星空 スポット」と打ち込んだ。だが、引っ掛かるのは北海道や長野県ばかりだ。これでは遠すぎる。すぐさま、地図アプリへと切り替えた。現在地から近い場所を探す。

 南下した福島県の中央、ふと、水色の楕円が目に止まった。「猪」の文字から始まる湖らしき地名の読み方がわからない。検索エンジンに戻り、調べ直した。

猪苗代湖いなわしろこ……」

 日本第四位の大きさを誇る湖らしい。近くには、磐梯山という山も聳えている。ここならば、見られるのではないか。画像を検索すると、湖上に光る天の川の写真が無数に並んでいた。

 場所は、福島県の内陸側ではあったが、仙台と東京のちょうど中間辺りだった。ここならば仙台からも一日で着けるし、東京へも一日で行ける。湖畔すぐの場所に宿屋を見つけた。明晩の天気予報を確認する。晴れだった。

 もう迷わなかった。八月十二日、一泊二名を予約する。ちゃんと星野の名前で。

 確約は無い。延命にしかならないかもしれない。でも、何もしないのは嫌だった。

「福島の猪苗代。そこに決めたから」

 返事は無い。寝息も聞こえなかったが、確かめる意気地は無かった。星野はバスローブを直し、譲られた布団へと身を丸める。毛布を被り、目を瞑った。

 惨めだとか、嫌われたくないという怯えは勿論あるが、ここで立花に跨って、既成事実で縛る気はまるで起きなかった。無理に繋ぎ止めても、そんなのは脅迫と変わらない。あなたの主体が欲しい。あなたに、わたしを選んでほしかった。

 猶予なんて無い。手を離した途端、立花は迷わずに殺人へと向かうのだろう。全ては口約束でしか無い。確約などこれっぽっちも無いけれど、どうかわたしが目覚めた時、まだこの部屋で、あなたに眠っていてほしい。

 何もわからない空白の明日に、強く願うことしかできなかった。

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