仙台①

 晴天、遮る雲が薄い。じりじりと日差しが地を焼く、平泉駅に降り立った。

 花巻駅から電車で一時間弱。南下するほど暑くなるのはわかっていたが、まだ岩手県を出ていないのに、ここまで違うものか。星野は腕を捲って、胸元を開けた。立花もパーカーを脱いでTシャツ一枚になり、ぱたぱたと襟口を仰いでいる。

「あっちぃ……」

「同感」

 項垂れながら、平泉巡回のバス乗り場へ急ぐ。このまま炎天下にいたら干涸びてしまう。

「げえ。バス、三十分後じゃん」

 立花が嘆いたので、星野も時刻表を覗く。三十分に一本のバスは、今さっき、行ったばかりのようだった。

「このまま三十分待つ?」

「これからの天気があんまり良くないらしいから、無駄に待ちたくはないなあ」

 立花の言う通りだった。先程、平泉駅から降りた時に、反対方面の列車が大雨によって遅延しているというアナウンスを聞いた。仙台方面にある雨雲が、こちらへ迫っているらしい。こんな快晴に雨なんて信じがたいが、電車を遅らせるくらいの雨雲だ。相当強い雨なのだろう。

 星野は、さっき取ったパンフレットを開く。世界遺産群とあって、いくつかの寺院が点在していた。巡回バスは通っているが、徒歩での距離も書いてある。一番の近場は毛越寺か。ここから歩いて十分も掛からない。

「どこから行くつもりだったの」

「特に決めてない。金色堂近くに兄さんが見たらしい賢治の詩碑があるから、そこにさえ行ければいい。でも、毛越寺は見たいかも」

「毛越寺、歩いて十分くらいらしいよ」

「う、そうか」

 立花は呻く。その額を汗が伝う。迷う間にも、日がじわりと肌を焼く。

「境内にさえ入ればどうにでもなる。歩くぞ」

「わかった」

 この猛暑は、嵐の前の静けさだろうか。荒れなければいい。そう願いながら、駅前通りを真っ直ぐ進んでいった。

 平坦な街並みの先に、鬱蒼とした緑の森が眼前に映る。山道の前に、毛越寺と書かれた白い杭が打たれている。思ったよりは近かったが、すっかり汗だくだ。拝観料を支払い、山門をくぐる。

 硬い地面を蹴って進んだ。木々が落とす日陰が、体を冷やす。境内の奥、木々に阻まれてのぞいているのは、本堂だろうか。

「なんか、雰囲気あるな」

 曖昧な感想だったが、わかるような気がした。宮沢賢治記念館と童話村は、山中にあったとはいえ、人の手で造られたものであり、イギリス海岸は自然そのままの場所だった。ここでは、自然と事物が融和している。俗世を離れた、別の世界という感じがした。

 常香炉に群がる人を横目に、本堂に辿り着いた。財布から小銭を掴み、賽銭箱へと投げる。首に下がった、よだかの石を指に絡める。目を瞑って、合掌した。

 隣にいる立花のことを想った。殺してほしくないのも、死んでほしくないのも、あなたのことが好きなのも全部、星野のエゴだ。それらを無理にぶつける気はない。だから、この旅の中でどうか、立花自身が生きる理由を見つけてくれれば、と願う。

 目を開けて、振り返る。立花は棒立ちのまま、こちらをまじまじと見つめていた。

「随分と長い参拝だったな」

 立花のことを願ってたんだよとは、気恥ずかしくて口にできなかった。

「立花は手、合わせないの」

「うん。だって、おれは神なんざ信じてないから」

 立花の、良く通る声が境内に響く。星野は狼狽えて、しいと人差し指を唇に当てた。

「ちょ、ちょっと、どうすんの! 信心深い人が近くにいたらやばいって⁉︎」

 星野が叫ぶと、立花は緩く笑った。

「そう言う星野は信じてるのか、神サマ」

 問われて面食らう。先程の願いも、神頼みのつもりは無かった。強いていうなら、立花自身に願いをかけたようなものだろう。

「……お寺でも神社でも手は合わせるし、何かしら願いはするよ。でも、神様を信じて願っているかと訊かれると、違うかもしれない。神がいるかどうかは、あんま考えたことなかった」

「日本人なんて、大体そんなもんだよな。仏教と神道すら一緒くただし、神とは何等関係ない、観光地の池や滝にすら小銭を投げる。いつも神と共にあるわけではないのに、今際の際に神に縋って、災害は神のせいにする。都合良く、神を思い出しては使ってんだ」

「立花は、神を信じていないの」

「ああ、おれは無神論者だ。だが、神を信じていないって結論に達したってことは、いるかいないか曖昧にしている奴らよりは、神の実在については考えてるとは思うんだけどな」

 立花は賽銭箱の向こう、黄金に光る薬師如来を見つめた。

「本物の信者は、おれ如きが信じてないと言ったって、神の実在を信じるだろう」

 薬師如来は微笑みを湛えて坐り、神々しい光を放っている。周りには手を合わせて、真摯に祈る人々がいる。立花は彼らを一瞥する。

「おれ自身は神を信じてないけど、宗教のことは好きなんだ。人間の考え方の根幹が知れるからね」

「人間の……、考え方の根幹?」

「人が何を導にして生きていきたいか、宗教を知るとよくわかるんだ」

 立花は境内を見渡す。スマートフォンで写真を撮る観光客、真摯に祈る信者、おみくじを引く学生、多様な人で賑わっている。全員今を生きているよな、と立花はぼやく。

「宗教っていうのは、死後の世界の存在が前提なんだ。死後の世界は素晴らしい場所で、そこで良い暮らしをしたければ現世で正しい行いをしなさい、と教えられる。宗教において死は始まりであり、死後の世界が本番だ。だから、逆算するように現世での生き方が決まる。良く生きようと信者は頑張るわけだ」

「そんな、レールを辿るような上手い話があるの」

 そんなもの信じられない、と言外に言った。立花も星野の皮肉を察したようだった。

「事実、死後の世界があるかなんて、死んでみないとわからない。だが、それを逆手に取って、生き方のレールを与えるのが宗教の役目だ。されば死後、理想郷で救われる。羨ましいよ。おれも信じて救われたいね」

「そんなこと、少しも思ってないでしょ」

「はは、ばれたか」

 立花は薄く笑う。瞳が少し揺れていた。この宗教への博識さは、信心に縋った裏返しの果てに得たものなのかもしれない。本気で救われたくて調べたけれど、救われなかった。そんな無念が垣間見えた気がした。

「なあ。この平泉一帯が、どうして世界遺産に登録されたのか、おまえは知ってるか」

 星野は首を横に振る。立花は本堂に背を向け、左の向こうを指さした。池だろうか。広い庭園を呑むように水がきらきら瞬いている。

「平泉——仏国土、『浄土』を表す建設・庭園及び考古学的遺跡群。ここはな。奥州藤原氏が、この世に死後の世界を表現しようとして造った理想郷なんだよ。現世浄土なんだ」

「ここが浄土……」

「ああ。かつて、みちのくの争いで犠牲になった人間だけでなく、鳥獣魚介の霊魂も浄土へ導かれますようにと、そんな祈りが込められて造られた世界なんだ。この平泉は」

 吸い込まれるように立花は歩き出す。木と木の切れ間、そこから水場が広がっている。その傍に石と立て看板があった。星野は看板の文字を読む。

「『夏草や兵どもが夢の跡』……」

「さすがに有名だよな。松尾芭蕉だし」

「これ、ここのことを歌ってたんだ」

 元禄二年、一六八九年に詠んだ芭蕉直筆の俳句を刻んだ石であると、立て看板には記されている。

「今からおよそ三百年前か。芭蕉が詠んだ時ですら、源平の争いは既に跡には残っていなかった。芭蕉の時点で、五百年経ってるから当然だが」

 少しひしゃげた二つの石が同じ句を歌い、芭蕉の見た夏の景色を具現化していた。辺り一杯には、夏の青草が無垢に揺れている。

「賢治の歌に、こんなのがあるんだ」

 立花は芭蕉の句碑を過ぎ、砂利を踏んで進む。当たり前のように、空で読んだ。

「『桃青の夏草の碑はみな月のあおき反射のなかにねむりき』」

 青空の中、不意に月の光が落ちた。イギリス海岸の時と同じだ。ここに宮沢賢治がいる。

「……夏草の碑って、芭蕉の句碑のこと?」

「ああ。桃青ってのは芭蕉の俳号だ。賢治はここを訪れ、歌を詠んだ。月ってことは、おそらく夜だったんだろう」

 確か、修学旅行だったかなと立花は呟く。星野は月夜に句碑を見つめる、若かりし宮沢賢治の眼差しを見た。

 立花は水際に佇む。宮沢賢治の幻の横をすり抜けて、星野も並ぶ。水が美しく、鏡のように輝いている。

「血みどろの争いの業を償うため、平泉は浄土として生まれ変わり、その歴史を芭蕉は浪費した。そんな芭蕉の碑すら浪費した賢治の影を、おれたちは追っているんだよ」

 立花が吐息を漏らした途端、どこかから鐘の音が届き、星野の鼓膜を重く震わせた。

「こうやって軌跡を辿ると、彼らは神様でも物語でもなく、本当に生きていたんだと、ようやく信じられる気がするんだ。かつて確かに生きていたはずなのに、自分が観測できないだけで途端に遠くなる。人は、忘れていく生き物だから」

 声の末尾が、鐘の音の余韻と混ざって消えた。眼前の水面は大海のように揺蕩っている。立花も宮沢賢治の影を見ているのだろうか。いや、違う。横顔を見て気が付いた。辿るのは兄だ。結局、立花はどこまでも兄を求めている。

「……この世とあの世が地続きだなんて、そんなわけがない。浄土なんて、人間が考えた詭弁であって、本当は存在しない。兄さんはこんなところには行けてないんだよ」

 いない兄に言い聞かせるように、立花は呟く。水面に映るのは自身の像だった。

「本当にあるなら、おれだってとっくに死んで、浄土に向かってる」

 こぼされた吐露に顔を上げる。立花はもう、眼前の現世を見てはいなかった。

「立花が神を信じていないのはどうして」

「野暮だなあ」

 立花は笑う。

「神を信じて死んだ、兄を肯定したくないからだ。おれは兄さんと生きたかったから」

 神を否定しながら、立花は願っていた。

「浄土が本当にあるなら、兄の幸せを願えるけれど、どうしても信じられないんだ。死の先に、こんな綺麗な世界があることは」

 九百年前から存在し、これからも遺されていくだろう悠久の流れは、あまりにも美しい。ここが浄土だと信じてしまいそうになる。でも立花は否定する。それは、きっと兄が好きだからだ。生きた、兄が好きだったから。

「ずるいな」

「何が」

「そこまで想われる、お兄さんが羨ましい」

「おまえだって、妹が死んだら同じことを思うよ」

 立花はそう言うが、星野は死を知らない。死によって狂う全ては、遠い世界にある。確かに母を殺そうとしていたが、遺される鈴愛に向き合っていたわけではなかった。

 立花の揺るがない殺意の中には、もう大切な人がいないという理由が大きくあるのだろう。立花は、兄を踏襲したいわけでは無いが、死んだ兄は、立花を留まらせることができなくなった。立花の未練は、もう現世にいない。

 そんな真摯さを前にして怖気付く。星野には、何も言う資格などないのではないか。兄のようになれる気がしなかった。過ごした月日の長さも、関係の深さも血縁も、何一つ勝てない。

「やっぱり、ずるいよ」

 立花の言動全てに、死んだ兄が根を張っている。立花の母だってよだかという名をつけた。父すらそうだ。殺したいほど憎まれている。家族の話にどうして割り込めるだろう。あと二日。何も叶わないし、報いは無い。

 わたしはあなたに何も与えられない。何が欲しいのと問うたところで、殺したいし死にたいと返ってくるだろう。阿呆らしくて、呑み込んだ。そんな星野を置いていくように、眼前で悠久を描く浄土の流れは空と雲を鮮やかに映し、滔々と輝き続けていた。

 毛越寺を後にし、中尊寺に向かう坂道を登る。バスとの乗り合わせが悪く、また、徒歩を選ぶこととなった。立花は、本当に間が悪いとぶつぶつ文句を言いつつも、先導を譲らなかった。炎天下でのアスファルトの照り返しを受けながら、言葉少なく歩いていく。

 そのうち道が開けて、車通りが増えた。観光客も増え、皆、赤い前掛けを下げた地蔵を目印に山道へと登っていく。ここからが中尊寺に向かう道らしい。擬えるように登る。

 山道に分け入ってすぐ、群生する杉の樹で辺りが囲まれ、日差しが遮られた。太陽どころか、空すら見えないほど高い杉林だ。日が消えたおかげか、かなり涼しく感じる。登るたびに杉は本数を増やし、内を覆い隠していった。合間に竹が混じり始め、目の前を黒と白の、斑らの蝶が飛び去っていく。

 星野はふと足を止める。目の前に、ぐにゃりと曲がる幹と広がる緑の葉があった。近くにあった、アセビという表記を見つめる。

「どうした」

 立花の声が降る。星野は答えた。

馬酔木あせびの木がある」

「アセビ?」

「うん。この木には毒があってね。馬が食べたら酔ったようにふらつくの。馬が酔う木って書いて、馬酔木あせび。でも、あぜみとも言うんだって。これから愛世美わたしの名前をつけたって、昔、母さんに聞いた」

 愛する世界は美しいなんてすごい名前だね、と問うたことがあった。それは当て字で本当は花の名前なの、と嫋やかに笑った母を思い出す。眼前のあぜみの低木は、その青い葉を静かに揺らしていた。

「ああ。確かこれ、アンドロメダだっけ」

 立花は呟きながら坂を下りてくる。あぜみの前で止まり、幹へと手を伸ばした。

「アンドロメダ?」

「『アンドロメダ、あぜみの花がもう咲くぞ』って『水仙月の四日』で賢治が言ってんだ。海外で咲くアンドロメダの花に似てるから、あぜみは日本のアンドロメダとも呼ばれるらしい。花は早春に咲くはずだから、もう散ったんだろう」

「あぜみも宮沢賢治に繋がるの」

「ああ。アンドロメダって星座にもあって、それはギリシア神話が元になってるんだ」

 そんな大層な花であったことに素直に驚いた。宮沢賢治だけでなく、星座や神話にも存在しているなど、まるで知らなかった。宮沢賢治の童話の一部にあると聞いて、ほんの少し心が躍る。よだかとお揃いだ。

「アンドロメダの神話って、どんななの」

「ギリシア神話では、アンドロメダは王妃カシオピアの娘なんだ。ある時、カシオピアが娘のアンドロメダの美しさを自慢したら、海の神ポセイドンの怒りを買って、海にティアマトっていう化物を放たれてしまう。化物を鎮めるために、アンドロメダは生贄になるんだ。アンドロメダは海の岩に括られ、化物の犠牲となるところだった——」

「……海の神、ポセイドン」

「知ってるか。さすがに有名だよな。海王星も、そこから名づけられたらしいし」

 海と惑星。ふと、星野の脳裏によぎる絵があった。震える声で尋ねる。

「もしかして、海王星って青い?」

「青いよ。大気に含まれるメタンが、赤い光を吸収して青の光を残しているだけだけど」

 海王星の青さは海のおかげじゃないのに、海の神や王だなんてナンセンスだよなあ、とぼやく立花の言葉が頭に入ってこなかった。

 青の星から産まれる化物、それに襲われるアンドロメダ。左肩が疼く。酷く心当たりがあった。

「母が描いてた。海王星と化物を」

 立花が、あぜみから手を離す。

「そうなのか」

「ああ、函館の部屋にもあった。夥しいほどの数の絵をね。いつから描いていたんだ。この愛世美なまえをつけた時からか。それか、わたしを憎み始めてから、アンドロメダとポセイドンのことを知って描き始めたんだろうか」

 神話に準えて、全身全霊で呪われていた。絵にしても足りずに、拳が振るわれたと今更知る。

 押し黙る星野に、立花が目を輝かせた。

「おっ、もしかして殺しに戻るか!」

「嬉しそうにするんじゃない。戻らないよ」

「ええ、そんなあ」

「知ったところで、どうにもならないから」

 母に詰め寄りたい衝動がないわけではない。だが、確信を得たところで和解は遠く、母の描くモチーフが変わるわけでもないだろう。母の憎しみは、母だけのものだ。

「アンドロメダは生贄にされてどうなるの」

「まだ神話の話すんの?」

「だって、ちょっと気になるし……」

「ははっ。結局、おまえも囚われたままじゃねえか」

 ああそうだ。それでも知りたくなるのが表現者の性だ、と開き直るにはまだ恐れがある。だが、母に尋ねることを選ばない分、できる限りを知り、星野なりに噛み砕きたかった。

 覚悟を汲まれたのか、立花は笑う。

「いいよ、話してやる」

 立花は、本当に憎しみと殺意にばかり優しい。

「岩に括られ、荒波に揉まれたアンドロメダが、今にも化物に襲われかけたその瞬間、ちょうどペガススに乗ったペルセウスが通りかかって、見事化物を退治するんだ」

「助かるんだ」

「ああ。ギリシア神話って、大抵容赦なく死ぬんだけどな。そのあとアンドロメダとペルセウスは結婚して、めでたしめでたしさ」

 呆気ない終わりだ。正直、アンドロメダが死ななくて、星野は安堵を覚えていた。

「ペルセウスもなんか聞いたことある」

「星座だろうな。ペルセウスもアンドロメダもペガススも、全部、秋の星座になってる。ペルセウス座は毎年、大きな流星群があるから有名だろうな。銀河鉄道の夜の作中に、ケンタウルス祭ってあるだろ。それは、ペルセウス座流星群のことなんだよ」

「また、宮沢賢治だ」

「おれの知識はそれしか無いから」

 やはり、オタクじゃないかという非難を呑む。立花だって、好きで詳しくなったわけではない。自虐の滲む知識が、どこか苦しい。

「ペルセウス座流星群、年によって違うが、大体、八月十三日頃が極大だったかなあ」

 その立花の何気ない呟きに、はたと星野は動きを止める。慌てて携帯を取り出し、今日の日付を確認した。八月十一日。顔を上げて叫ぶ。

「八月十三日って、それ、明後日じゃん。しかもお兄さんの命日でしょう」

 星野の指摘に、立花はきょとんとした表情を浮かべた。

「本当だ」

 知識が先行し、気付いていなかったらしい。

「去年、兄さんもみたんだろうか」

 立花の声に悲壮が混じる。気を抜けばすぐに踏襲だ。本当にこの人は、宮沢賢治と兄のことしか考えてない。

「みてたなら、みるの」

「いや、流星群のことは遺書には書いてなかったしな。もしかしたら、立待岬で見てたかもしれんが、類推の域は出ないな」

 唸る立花を見て、星野は気が付く。兄をなぞりたいのは立花だけだ。こちらは踏襲したいとは思っていない。全てを追う必要など、本当は無いのではないか。追わなくたっていいじゃない。

「……ねえ」

 吐き出した声が上擦っていた。顔に熱が灯る。

「みようよ。せっかくだし」

 立花の無垢な目がこちらを向いた。

「おれ、その日に死ぬけど?」

 瞬間、冷や水を掛けられる。ごめん、と口にしかけて、なんで謝らなければならないのだと我に返る。

「……立花だって、夜景、誘ったじゃん」

「あれはおまえに葉書を返すためだろ」

「そんなことは知らなかった。あの時、ついてったんだから、お返しについてきてくれたっていいじゃん」

 言葉を重ねるほど、恨みがましくなる。惨めだ。やはり、兄に勝てるわけなどない。面倒臭い奴だと思われているだろう。振り絞った勇気が途端に萎んでいく。

「おれ、雨男なんだよ」

 へ、と星野は顔を上げる。立花はがしがしと髪を掻いていた。

「……まあ、流星群って、別に極大の日だけにみられるわけじゃないし。一日ぐらいずれても問題無いしな」

「え」

「どっかで晴れて、気が向いたらな」

 立花は踵を返し、坂を登り始める。星野は咄嗟に追いかけて、並んだ。立花の顔を覗き込む。

「いいの⁉︎」

「だから、気が向いたらだよ」

「なんで急に」

「……兄さんはみてなくても、賢治はペルセウスみてるだろうし。おれはみたことないから」

「絶対みれるよ! だって、わたし、晴れ女だもん」

 歯切れの悪い立花に堂々と言い放つ。雨男も晴れ女も、迷信だとはわかっているが、どうか希望を繋ぎたかった。

「なるほどな。だから、函館の夜景は見れたのか」

 立花は優しく微笑む。これは遠回しの感謝なのだろうか。照れが襲って、顔にじわりと熱が集まる。隠せはしないから、ずっと好意は垂れ流しだ。

「期待してる。程々に」

 所詮、死ぬまでの時間稼ぎにしかならないのかもしれない。だが、それでも手を伸ばしていたい。少しでも、死なない可能性に繋がるのならば、諦めたくはなかった。

「一応言っとくけど、おれはアンドロメダを救うペルセウスでは無いから。それだけはよろしくな」

 立花は飄々と言い放つ。一瞬、何のことだと考えたが、アンドロメダとペルセウスは結婚してめでたしめでたし、という神話の結末をすぐに思い出し、頬がかっと熱くなる。

「いっ、言わないよ⁉︎」

「まあ、ペルセウスも祖父殺しの肉親殺しではあるけれど」

「なっ、納得しないでよ」

「ははは。夢見てないなら、いい」

 立花は高笑いする。完全に恋心を揶揄わられていた。ずっとそうだ。立花は拒絶でも肯定するでもなく、ただ星野の恋心を許容している。むしろ、面白がってすらいるくらいだ。尚更厄介なことに、星野は揶揄われることに対し、嫌悪感が無かった。きっと、恋心を当人につつかれて喜んでいる。なんてことだ。最悪である。

 変な期待が乗らないように、気を引き締める。見返りなどいらなかった。ただ、どうか延命したい。いつかみるだろう、輝き落ちるペルセウスの星々に願った。

 どうか、ペルセウスよ。アンドロメダじゃなくていい。死にゆくよだかを救ってくれ。

 

 あせびの木を過ぎ、杉林の中、月見坂を登っていく。数多の観光客とすれ違いながら、立花を追って進んだ。

 坂の上、讃衡蔵さんこうぞうと書かれた建造物へと辿り着く。どうやら、中尊寺の宝物庫らしい。讃衡蔵の奥の方で、金色堂への拝観券を発行しているようだった。制服を着た学生集団とすれ違う。修学旅行だろうか。

 拝観券は高校生五百円、大人が八百円だった。千円札を出し、二百円のお釣りと共に、緑の拝観権を受け取る。平成三十年八月十一日。刻まれた日付の重みを感じる。平成最後の夏と共に函館で終わるはずだった命を引き伸ばし、こんな浄土まで辿り着いてしまった。

「大人になってしまったんだな」

 立花は、手元の薄緑の券を見つめてぼやく。きゃっきゃと騒ぐ、高校生たちの喧騒が遠い。

「本当に、もう大人なんだろうか」

 たった半年前までは、自分たちも高校生だった。高校生では無いから大人、というラベルを貼られているだけで、自分が大人になったことなど何一つ信じられない。成人したら、大人になれるのだろうか。それとも大学生になったら、社会人になったら、自動的に大人になれるのだろうか。

「そんなわけないだろ」

 立花は薄く笑う。きっと今は、大人でも子供でもどちらでも無い。無力な子供には戻りたくないし、力のある大人にもなりたくない。このままでいたかった。星野は笑みを返す。

「なら、マージナルマンかなあ」

「うわあ、懐かし。倫理の授業を思い出した。今、おれの頭でレビィンが駆け回ってる」

「急に受験生っぽいこと言い出すな」

「あー、このまま心理学者や哲学者の名前を叫びまくって、そこにいる高校生に受験のプレッシャーでも与えてやろうかな」

「やめなさい」

 くだらない問答だ。でも、楽しく感じている。立花の笑顔にも毒気は見られない。純粋な笑みに惹かれると同時に、苦しくなった。楽しい。だから、刹那で終わらせたくない。続いてほしいと願うことは、果たして罪なのだろうか。

「そろそろ行くか」

 立花は拝観券を揺らめかせ、金色堂覆堂へと足を向ける。終わりの始まりだ。楽しさが終わることを恐れ、星野は一歩を躊躇した。

 瞬間、後ろで雷の轟きが聞こえた。星野は振り返る。何も無い。見上げた杉の間には、変わらず青空が煌めいている。立花が何も反応しなかったので、きっと、聞き間違いだったのだろう。既に立花は中尊寺の入口に差し掛かり、拝観券を渡していた。星野も追いかけて、中へと入る。

 中尊寺参道、舗装されたスロープを登っていると、ふいに立花の歩みが止まった。金色堂覆堂の前、杉と杉の間に、苔の生えた荒削りな石碑がある。傍の木札に、賢治詩碑と書いてあるのがわかった。だから立ち止まったのか、と即座に納得する。

 石碑には、記念館で散々見た、宮沢賢治自身の細くて荒い筆跡で、一編の詩が綴られていた。

 

  中尊寺


 七重の舎利の小塔に

 蓋なすや緑の燐光

 大盗は銀のかたびら

 おろがむとまづ膝だてば

 赭のまなこたゞつぶらにて

 もろの肱映えかゞやけり

 手触れ得ね舎利の宝塔

 大盗は禮して没ゆる

 

 これはどういう意味なの、と立花に尋ねかけた、その瞬間だった。眩むような閃光が走って視界が白む。間髪を入れずに、背後から襲いかかってくるような雷鳴が轟いた。杉の葉を越えた頭上から、大粒の雫がぼとぼと落ちてくる。

「うわっ」

「やべっ、走るぞ」

 この金色堂境内で、雨を避けられる場所など一つしかない。星野と立花は、濡れたコンクリートを駆け上がり、金色堂覆堂の入口へと滑り込んだ。

 白い息を吐く。外界を振り返ると、地に大きく跳ね返るほどの豪雨が流れ落ちていた。すぐに中へと駆け込んだつもりだったが、全身が濡れていた。服が肌に張り付くのが気持ち悪く、上着を脱ぐ。濡れそぼった髪を絞ると、水滴がぽたぽたと落ちた。

「ひどい雨だね。豪雨の予報は本当だった」

「これじゃあ、もし傘があったところでどうにもならん。止むまでは外に出られんだろう」

 立花はフードを脱いで、パーカーを絞った。中の髪はじっとりと黒く濡れており、枝分かれした髪の間で、金色のカシオピアが鈍く輝いて揺れていた。

「なんか寒くない?」

 星野が肩を抱く。雨で冷えた寒さとは別だ。この建物自体の室温が低い気がする。

「ここにあるものを守るためだろう」

 ぽつりと立花が呟いた。何があるのか調べるために、ポケットの中からパンフレットを取り出し、開く。だが、文字は雨で滲んでおり、紙同士張り付いて破れかけていた。星野は諦め、パンフレットをぎゅうと丸めた。

 闇の先を見つめて、問う。

「この先に何があるの」

「燐光だと賢治は言ってる」

「燐光?」

「さっきの詩碑には、そう書いてあった」

 立花はパーカーを羽織り直し、奥に歩み出す。星野も続く。立花の姿は闇へと溶ける。闇の先から、声だけが聞こえた。

「ここ中尊寺は、法華経ほけきょうを経典とする、大乗仏教天台宗の信仰下に創設されてんだ」

「法華経?」

「仏教の教えの一つをまとめた書物だ。キリスト教でいう聖書みたいなもん。賢治は、法華経の敬虔な信者だった。文学だけでなく法華経の信者としても認められたから、ここに石碑があるんだろう。事実、さっきの詩碑を建てる際、賢治は金色堂に合祀されてる」

「合祀って」

「合わせて祀る。その字の通り、ここには賢治の魂が祀られているんだ」

 星野は思い出す。この平泉は、奥州藤原家が、平和を願い、浄土を現世に具現化した地であることを。

「そんな法華経信仰の賢治が、ここで何を見て、何を感じたのか。……おれも本物は初めて見るよ」

 教えないということは、見て感じろということか。宮沢賢治が惹かれたもの。この先に一体、何があるのか。僅かな震えが星野を襲った。それでも星野は踏み出していく。見えたのは、光。引き寄せられるように近付いた。

 眼前に現れたのは、隅から隅、裏表までが一面金箔で荘厳された、巨大な仏堂だった。

 金銀の細工や螺鈿蒔絵で埋め尽くされた内陣の中心で、阿弥陀如来と菩薩が重い光を放ちながら、静かに笑みを湛えている。阿弥陀如来から放たれる黄金の光は、まるで星のように内部から発光しているようだった。この黄金の中には核がある。

 これは、息衝く何かから発せられた光だ。

「燃えて光ってる」

 瞬間、外界から大きな雷鳴が轟いた。星野は、自分と金色堂の間に隔てられたガラスの存在に漸く気が付く。眩いほどの金色堂の存在は、隔てたガラスなどとうに超越していた。

「この中に、人間の遺体があるんだ」

 ガラスのすぐそばに、黄金の光に照らされた立花が佇んでいた。

「法華経の精神を基に、平泉に現世浄土を築いた張本人——藤原三代たちと四代の首が、ミイラとしてこの内部に安置されている」

 目の前の黄金の内に、人間の、しかも藤原公の遺体があると聞いて、途端に納得が落ちた。ここに、みちのくの平和を願う創造主自身が眠ることで、平泉は現世浄土としての説得力を持つのだ。遺体が、信仰の光として永遠に燃え続けるから。

「これを宮沢賢治も見たの」

「ああ。賢治の詩にあった緑の燐光とは、金色堂の放つこの光、そのものだろう。さっきの賢治の詩を単純に解釈すれば、金色堂に『大盗』が入ったが、この偉大さに恐れをなし、何も盗まず礼をして帰った、ということだろうな」

 確かに、この神々しさの前ではどんな泥棒でも逃げ出すかもしれない。眼前で光る黄金の輝きには、それほどまでの絶対性を感じた。

「だが、そんな匿名の大盗の話を賢治がわざわざ書くわけがない。おれは、大盗は源頼朝の例えだったんじゃないかと思っている」

「え、源頼朝って、まさに藤原氏と平泉を滅ぼした張本人じゃないの」

「ああ、そうだ。だが、頼朝は、平泉を滅ぼしたあとも、中尊寺を壊さなかった。むしろ、平泉文化を鎌倉のまちづくりに反映させたくらいだ。だから、頼朝は『大盗』として平泉を滅ぼし、文化を盗んだとしても、金色堂自体には『手触れ得』なかったんだよ。頼朝ですら中尊寺には敬意を払い、『禮して没ゆ』った。賢治は、宿敵である頼朝をあえて描写することで、絶対的な中尊寺の価値を歌ったんだろう」

 目の前で阿弥陀如来が微笑みを讃えている。無量の光は、千年もの間、放たれ続けている。宿敵である、源頼朝の赤いまなこすら奪って。

「これは不可侵の棺桶だ。外からはいくらでも盗み見られるけど、内は決して変わらない。藤原氏の遺体もそうだし、賢治の魂だってそう。死をもって完成されたんだ」

 死をもって完成。その言葉に、激しい既視感を覚える。金色堂から放たれる光に共鳴するように、立花の耳元のカシオピアが瞬く。

「おれもそうなりたい」

 立花の声を皮切りに、燐光に呑み込まれかけていた星野の意識が戻る。切実な響きに、馬鹿じゃないのと非難することができなかった。

 俄に目が眩む。白い閃光が走って、世界がまた明るく光った。光より一拍遅れた雷鳴が、激しい雨を連れてくる。光と音の間隔が狭い。雷は極めて近くに落ちたようだ。

 騒めく人々の声に引き戻される。星野と立花だけでなく、ひどい豪雨のために誰もが覆堂を出られないでいた。怖がった子供が、あらんかぎりの声で泣き始める。だが落雷は、甲高い泣き声すら掻き消して轟き続ける。

 立花は黙ったままだった。外界の危機など気に止めず、じっと金色堂を見つめている。金色の燐光が、立花の瞳を緩やかに蝕み始めていた。

 ここに雷が落ちたら死ぬかもしれない。そんな際でも、立花は動じない。死にたいからだ。今、ここで、藤原氏の遺体と宮沢賢治の魂と共に眠ったって構わないと本気で思っている。 

「本当に、そうなのかな」

 疑問は声となって、雷鳴の合間に漏れた。立花は阿弥陀如来から目を離し、こちらを向く。雷に掻き消されるかと思った嘆きは、ちゃんと立花まで届いたらしい。

「何が」

 立花の瞳の奥が光り輝く。理想の完成のために自らを抽象化した、藤原氏と宮沢賢治はひどく美しい。だが、もっと人間臭く、泥臭い想いだってあると信じたい。

 理想を崩せ。所詮、藤原氏も宮沢賢治も、ただの死んだ人間なのだ。綺麗なまま辿らせて、立花を失うわけにはいかなかった。

「……宮沢賢治、本当に、大盗を源頼朝だと思ってたのかな」

「さっきも言ったろ。賢治は中尊寺の絶対性を破滅者を通して書いたんだ。敵ですら守る、法華経の崇高さを表現したかったんだろ」

 立花の語気は強い。他の正解などまるで求めていない様子だった。しかし、あくまで、源頼朝説は立花の解釈だ。この旅で、付け焼き刃だとしても星野だって宮沢賢治に触れてきた。立花だって宮沢賢治に会ったことは無いから、百年前の人間と相対しているのには変わり無い。真に宮沢賢治を理解できないという立場は、同じなはずだった。

「じゃあどうして毛越寺の句では、松尾芭蕉のことを『桃青』って俳号で直接呼んでいるのに、こっちの源頼朝は婉曲的なの」

「知るか。リズムが合わなかったんだろうよ。『銀のかたびら』で武士ってことは充分にわかるじゃねえか」

「『銀のかたびら』だけだったら、武士かもってところまでしかわからない。芭蕉のように個人までの特定にはならない。源頼朝だと捉えられるけど、他の可能性だってある」

「なるほど。つまり、おまえは『大盗』を別の存在だと思ってるんだな」

 立花の目が問うていた。目の奥は映った金銀が揺らめいている。量られている。反抗している。生意気なことを言えば、とうとう立花に見限られるかもしれない。だが、何もしなければ、どうせ立花は死ぬ。それならば、当たって砕けたかった。

「あの詩から、賢治の自罰を感じた。だから『大盗』は賢治自身であると思う」

「……賢治の、自罰?」

 そうだ。同じ表現者だから感じる。宮沢賢治は黄金に輝く、この『死に向かって輝く理想』をみた。だから、己を責めた。

「確かに源頼朝のことも重ねているのかもしれない。でも、燐光に対して、拝んで礼をしたのは賢治自身だよ」

「それはおかしい。だって大盗だぞ。なら賢治は、一体何を盗もうとしたんだ」

 問われた瞬間、確信が生まれた。

 賢治は賢治、星野は星野の意味づけがあり、同じ景色を見たって、同じものを感じられるわけではない。だが、表現という根源的な衝動に違いは無い。わかってしまうから、星野は叫んだ。

「金色堂の瞬間の美しさを、盗もうとした」

「……美しさ?」

 立花の瞳が光って、当惑に揺れた。静かに歪む、そんな表情すら描いて切り取って、永遠にしてしまいたいと星野は願っている。

「拝みたくて、触れられないくらいに美しかったから、せめて賢治は詩に書いたんだ」

 美しいからかきたいのだ。生きて、かいて、辿る。ただ、それだけの繰り返しだ。

「でも、美しいものの瞬間をかいたって、何も変わらない。美しさは止められないし、いつかは朽ちていく。かくことでは、何も変えられない。でも、かいてしまう。無意味なことをしているとかくたびに思う。だから、かくこと自体が自罰になる」

 隔てられた果てない永劫の黄金に向き合う。これは、千年変わらなかった。これからも遺産として、人が守り続けていくのだろう。ガラスの向こう、黄金の棺桶の中、触れることはできないままだ。不可侵な死に比べ、自分の生はなんて醜い。

「……銀河鉄道の夜を読んでから、ずっと考えてた。賢治の創作の目的は何だろうって。立花が言うように、賢治は本当に自己を犠牲にしてまで、誰かを救いたかったのかな」

「それ以外に何がある」

「確かに自己犠牲は理想として書かれている。でも、ザネリを救ったカムパネルラは賢治自身じゃない。賢治自身を投影したよだかに至っては、誰も救わず、自己犠牲の果てで星になっただけ。だれかを救うのは、いつだって賢治じゃない理想の方だ。そういうものにわたしはなりたい、と理想を願うだけで終わってる」

「そんなことはとっくにわかってる。だから、その理想を叶えるために賢治は芸術に身を呈したんだろ」

「違う。創作は理想の証明にはならない。理想をなぞるだけじゃ、創作は続けられない。創った理想の方に現実が殺される。だから賢治はカムパネルラを生かせなかったし、よだかが鷹に打ち勝つ姿を書けなかった。わたしも幸せな母を描けなかったし、母もわたしを絵の中で化け物に食わせることしかできなかった!」

 描けないのだ。どうせ虚構なのだからと、幸せを祈って筆を握ると、手が止まる。笑顔の母は一度も描けなかった。内に抱く憎しみが膨れ上がって、背中が軋む。それは違うから描くなと、現実が剥離する。望むならかいてもいいと、甘い囁きは聞こえるが、かいたら二度と現実には戻れない。だから、かけない。

 幸せになれないから、わたしたちは創作に逃げている。だが、虚構ですら、本当の幸せに辿り着けないのだ。母を描いて呪うことが大義だとか、立花を描いて慈しむことが崇高であるなどと、胸を張れたことは一度も無い。何をしたって、現実など変えられないのに、変えたいと願うだけで、結局変わらないものしかかけない。果てしなく無意味なのに、かくことをやめられない。

「どうして自分は、周りの期待に応えるように生きられない。表現という、毒にも薬にもならない衝動に身を焦がしている。自分の生が間違いであると、自罰を重ねて、滅私したがっている。だから大盗は礼して没し、よだかは飛んで星になった」

 賢治は、愛するイギリス海岸を銀河に変えた。阿弥陀如来の燐光を盗み、この世の果てで星になりたいと願った。願わくば、この美しいものたちが、愚かな自罰の果てで燃える時、少しでも光を放ちますように、と。

「自罰を糧に、誰かを救いたいわけではない。生きること、書くことが自体が自罰なんだ。自罰する自分を憎み、同時に誇らしげにも思っている。自罰すると、ひどく美しいものが書けるから」

 悔しいことに、理想をまるで体現できない愚かな虚構は、馬鹿みたいに美しい。かきたいあなたが不変で、美しいからだろうか。

「自罰は手段ではなく、目的だ。自罰はわたしが生きるために必要だと、賢治も告げているような気がする」

 途端、金色堂を隔てるガラスが冷やされ、みるみると白く曇り始めた。永遠の光が止み、立花の目が金から黒へと暗く濁った。

「……賢治の目的が、自罰」

 立花は反芻する。微かな呟きを消し去るように、わああと歓声が上がった。星野は声のした出口の方を向く。雨宿りをする観光客の奥、外界が一筋の日の光で煌めいていた。

「雨、止んだの」

 だが、屋根から落ちる雨音に変わりはない。まだ、雨が降り続いているのなら、一体何があるのだ。星野は出口へ近付く。群衆を分け入り、靴の爪先が僅かに濡れる境界で止まった。

 生い茂る杉林の前で、雨粒の一粒一粒が燦然と輝く光を反射する。幕間にスポットライトが落ちるように、緩やかな弧が赤から紫のスペクトルを映し出していた。

「虹だ」

 七色の虹は、低く小さな弧を描く。杉の深緑を背景に輝くから、まるで金色堂からの出口を祝福するアーチが、不意に現れたようだ。今にも誘われている。この先が浄土だ、と。

 絶え間ない周りのシャッター音で我に返る。隣に立花はいなかった。星野は振り返る。立花は白く濁るガラスの傍で止まったままだった。星野は群衆をすり抜け、立花の元へ戻る。

「すごい。虹が出てたよ。アーチみたいで、ほんとにくぐれそうな、小さい虹!」

 立花は顔を上げる。だが、返事は無かった。

「早くしないと、消えちゃうよ」

 立花は動かない。屋根に当たる音が静かになった。雨足が弱まっている。ぽんと傘を開く音があちこちで鳴った。人々が金色堂から出ていくと同時に、歓喜の声が聞こえてくる。雨が止んでしまえば、虹は消えてしまう。

 美しい刹那を見せたい。それ以上に、立花を一人、囚われた黄金の傍に置いていきたくなかった。

「行こうよ」

 星野は手を伸ばし、立花の袖を引く。濡れたパーカーに触れたその瞬間、立花の手が大きく振れた。行き場を失った星野の手が、宙で惑う。

 振り払われた。事実を理解するのに一時を要した。立花は目を見開く。何故か、振り払った立花の方が、ひどく驚いているようだった。

「……ごめん」

 虹は星野の背後で煌めいている。一瞬の奇跡を残そうと、皆、懸命にシャッターを切っている。立花は星野の横を擦り抜けた。星野は振り返る。立花は外と覆堂の境界で止まり、虹を見ていた。

 どうして振り払って、謝ったの。

 尋ねる勇気も、また一度手を伸ばす度胸も無かった。拒絶の理由を星野は考える。しかし、何もわからなかった。

 杉の隙間から、雨露がぼとぼと落ちて、濡れた草の香りが立ち昇る。遠雷の音に紛れ、微かに蝉の声が帰ってきた。厚い雲が割れ、眩い太陽が覗く。空の明るさと反比例するように虹は霞み、次第に消えていった。

 完全に虹が消えて、人がいなくなっても、立花はそこからしばらく動くことはなかった。

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