花巻②
バスから降りると、花巻の駅前だった。朝と変わらず、駅の前には銀色の柱が聳え、天辺の風車がからからと回っている。ロータリーに、大沢温泉行きと書かれたバス停を見つけた。乗り継ぐだろうと思って立ち止まると、立花は素通りする。
「え、温泉行かないの」
「今行ったところで、早くてチェックインできん。まだ行くとこがある。少し歩くぞ」
有無を言わせず、立花は線路に背中を向け、駅から離れていく。追って花巻の町へと踏み込んだ。低いアーケードに昔ながらの商店が並んでいる。その殆どにはシャッターが下りていた。コンクリートを蹴って、広い水色の空の下を歩く。現在も宮沢さんが住んでいる宮沢賢治の生家を通り、宮沢賢治が通ったらしい小学校を過ぎていく。どの建物も極めて普遍だ。本当に何の変哲もない田舎町だった。そんな庶民さに触れるたび、記念館や童話村で祀られていた宮沢賢治の姿と剥離していく。今度は、平凡すぎて何も無い。日常ばかりでどこにも宮沢賢治は感じられない。これでは、まるでただの人間じゃないか。
進んでいくと、ぽつぽつと建っていた住宅もなくなって、より空が広くなっていった。車道の脇に背の高い木が並び、隙間に白い鳥居が見えている。星野はふと、バス停で足を止めた。すぐ隣に、赤茶色の屋根に覆われた待合所があった。括り付けられた木製のベンチの上、何故か駅名標が貼ってある。星野は文字を読み上げた。
「……ふてくは?」
「バカ。右から読んではくちょう、だろ」
立花が呆れたように言い放つ。見ると、すぐ下に、白鳥の停車場と書かれている。恥ずかしさのあまり、頬が熱くなった。
「また、白鳥? さっきも童話村にあったのに、同じのが二つもあるの?」
照れ隠しで、咄嗟に誤魔化す。だが、純粋な疑問でもあった。いくら宮沢賢治に肖っているとはいえ、童話村の店と名前が同じだなんて、あまりに近距離での重複だ。どちらかが譲ってもいいのにと思う。
「確かに、わざわざ白鳥に拘らなくても、鷲の停車場でもサウザンクロスでも、他にいくらでも銀河鉄道に因んだ駅名はあるじゃねえか、って指摘は真っ当なんだがな」
立花は向かい側の歩道の上辺りを指さす。そこには「400メートル先 イギリス海岸」と書かれた標識があった。共に、沿岸に佇む宮沢賢治のシルエットが描かれている。
「全部、あれのせいなんだよ」
「イギリス海岸?」
「実際は北上川なんだけどな。イギリスの白亜の海岸に似ていると、賢治が名づけたらしい」
「それが、白鳥の停車場とどう関係するの」
「イギリス海岸は、銀河鉄道の夜に出てくるプリシオン海岸のモデルなんだよ」
立花は白鳥の駅名標をそっと撫でる。
「作中で、白鳥の停車場から降りてすぐがプリシオン海岸だから、こうやって、イギリス海岸のそばにあるのが正しいんだ」
おれはあの店よりもこっちの方が筋が通って好きだな、と立花は呟いた。
「賢治は特段ここが好きだったらしくてな。教師をやっていた頃、教え子たちをよく、イギリス海岸に連れてってたらしい」
「これからイギリス海岸に行くの」
「ああ」
立花は頷く。そう、と相槌を返しながら星野は、心臓がどくどくいっているのに気が付く。神聖視されていた記念館も童話村も、実際に過ごしていた生家も小学校もどこか宮沢賢治に遠かった。それなのに、宮沢賢治が本当に愛していたと聞いた途端、ぐっと実在が近付いた気がして、怖くなった。
白鳥の停車場を過ぎて、横道を曲がった。灌木に囲まれた狭い道を進んでいく。道が消えて、土手を踏み締めながら上った。上から見下ろす。眼下に、淡い西日に煌めく川がゆったりと流れているのが見えた。
「北上川だ」
土手を駆け下り、川へ近付く立花を追った。傍で、ひまわりが風に揺れ、隙間からピンクのコスモスが咲くのが見えた。夏と秋の狭間。函館から南下するたび、少しずつ季節を逆走している。時の流れに逆らっている。
川の側に辿り着く。柵を越えた先、たっぷりと水嵩の満ちた川が流れている。川の水は空の色を反射し、鈍く黄色に光っていた。すぐそばに、背丈を越すほどの大きな看板が立っていた。星野は近付く。イギリス海岸について、写真を交えて解説しているようだ。だが、そこに写る川は、目の前の容積を満たした川とは大きく異なっていた。水が干上がり、ぼこぼことした白い岩のようなものが露出している。星野は首を傾げた。
「なんだか、写真と違くない?」
「賢治が見ていたイギリス海岸は、今とは違って水位が低く、凝灰質の泥岩が写真のように浮き上がっていたらしい。近年できたダムのおかげで川の水量が安定したんだ。そのせいで泥岩は沈んだ」
「宮沢賢治が見てた頃ってことは、大体、今から百年前くらい前?」
「ああ。だが、この川の底には、その頃と変わらず第三紀……いや、第四紀更新世の海の証が眠っている」
「第……三? なに、四?」
「百年なんか目じゃない。何万年も昔だ。果てしないほど、過去ってことだよ」
立花は目を細めて、川を見つめた。なんだか変な心地だ。百年前の宮沢賢治に思いを馳せても、当の宮沢賢治は、さらに昔の何万年前のイギリスを想っている。立花は川を隔てる柵へと近付いた。川縁の遊歩道を、流れに沿って歩き始める。
「賢治はここで、くるみの化石を見つけたんだ。ジョバンニとカムパネルラも、プリシオン海岸で同じのを見つけてたろ」
銀河鉄道の夜に対する星野の知識など、列車で一度読んだ程度の付け焼き刃だが、言われてみればそんなことが書いてあった気もする。星野は川を見つめた。くるみが眠る水の上が、緩やかに落ち始めた夕日に照って、星をぶちまけたようにちかちかと瞬いている。宮沢賢治はここに太古の海と、銀河を見ていた。
「そのくるみを見つけたことが、太古の歴史の証明になったのかな」
「ああ。だから証明のために作品を書いたんだろう」
「証明のために、書いた……」
宮沢賢治当人の想いなど知る由も無いのに、何故だか、違うと言いたくなった。しかし、根拠は雑然としている。渦巻く心は上手く言葉にならない。
「おまえだってそうなんだろ」
立花は振り返らない。指摘の先は賢治か。星野か、兄か。星野は自問する。我々は、本当に何かを証明したがっているのだろうか。
「ここだ」
立花が立ち止まったのを合図に、星野は顔を上げる。先程まで縁を歩いていた広い本流から、細く川が枝分かれしている。柵も無くなり、石段を下りれば、今にも水に触れられそうだった。さらにその向こう岸、緑の木々が生い茂る陸地の下に、黄土色と白が折り重なる地層がぽっかりと浮かんでいた。
「うわ、すごい」
感嘆の息を漏らした星野に対し、立花は低い石段を下りて水面に近付く。しゃがんでそっと水際を撫でる。手がちゃぷんと浸って、沈んでいく。
「つめてえ」
「そりゃそうでしょう」
星野も下りて隣へとしゃがみ、渚に手を伸ばした。流れる水が星野の指を押した。太古から流転する世界の重みを感じる。これが、宮沢賢治のみた銀河の正体なのだろうか。
「なんか、はじめて水に触った気ぃする」
立花はもう片方の手も、川へと浸した。
「はじめてって」
「函館でも船でも、見るばっかだったろ」
「まあ、……確かにそうか」
立花は、ちゃぷちゃぷ川を掻き混ぜる。
「兄さんの浮かんでた海も、こんなつめたさだったんだろうか。ま、滑落したなら、海面は硬いか」
なんでもないことのように言うので、反応に困る。立花は変わらず笑っていた。その手元が、ぐるりと大きく渦を巻く。
「カムパネルラのモデルは色々あるらしいが、昔、ここで溺死した賢治の級友だという説もあるらしい。カムパネルラがザネリを救ったから、兄は自己犠牲を踏襲しちゃったんだよな」
「賢治はともかく、函館で自殺しようとしていたその子のことは、恨んでいないの」
「それが兄さんの選択だったなら、おれにはどうすることもできない。偶然、そこに兄がいただけ。誰のことでも救ってただろ。その子に罪は無いよ。」
立花の瞳に、諦めが宿る。
「賢治も兄もおまえだって、間違ってない。作品として証明された事象に縋って、踊らされるおれが悪いんだ」
絵に込めた憎しみを解いた、立花のことを思い出す。確かに憎しみを込めた。だが、それを受け取られるとは思っていなかった。
「証明だなんて、そんな大層なこと信じてない」
「でも、ちゃんとできてるよ」
立花の声が皮切りだった。星野は、はっとする。眼前の海に佇む宮沢賢治を見た。黒帽子を被る男はしゃがんで、何かを拾う。瞬間、世界は銀河の輝きを放った。男の傍を、くるみを手にしたジョバンニとカムパネルラが、ラピスラズリに煌めく海を駆けていく。
これまで、立花と共に数多の宮沢賢治の痕跡を追ってきた。何を見たって、像はあやふやだった。今までずっと、上手く信じられなかったのに、その実在が一気に押し寄せてきた。星野は目を閉じ、妄想を振り払う。
「……表現なんて、科学でも歴史でも無いから事象の証明なんかできない。絵や文では、世界のルールなんて書き換えられないよ」
「でも、おれの世界は狂った」
「違う。いや、結果的にはそうでも、証明したいと思って、かいているわけじゃない」
立花の拳が、水の中でぎゅうと握られた。
「じゃあ、何のために」
問われた問いは、無意識の中で川に投げていた。
「意味づけだよ」
答えたのは星野だったか、既に死んだ宮沢賢治や立花の兄だったのか、よくわからない。だが、星野は続ける。
「他の人間には何気ない川でも、宮沢賢治にとってはここが銀河だった。だから、書いた。そう見えたから、ただ、意味を書いた」
星野は告げる。正しさは無いと祈っていたかった。表現など、あまりにもエゴで主観なものだ。
「その力が強かったから、現実を上書きした。結果的に証明が成されてしまっただけ」
それほどまでの強い創造の力は恐ろしい。母の絵を描くことで、振るった自分の憎しみのことを思う。それは立花の共感を呼んだ。
なるほどな、と立花は呟く。別に、狂わされた結果は変わらないし、悪意が無いからと言って許される話では無い。だが星野は、立花には知ってほしいと思った。星野のことはどうだっていいから、兄と宮沢賢治のことは赦してほしかった。
「賢治の『青森挽歌』のパクリだったんだよなあ」
「何が」
「兄さんの遺作」
立花は呆れたように笑った。
「おれだって、春と修羅は賢治理解のために死ぬほど読んだんだ。さすがにすぐ気付く」
「パクリじゃなくてオマージュだったんじゃないの」
「オマージュだったとしても稚拙だよ。もう死んだからはっきり言うけれど、兄さんに、作家としての才能はまじで無かった」
おまえに読ませるのは恥ずかしい、と立花は言いきる。そこまで言われると逆に気になってくる。
「どんなのだったの」
立花は水面を見た。大きく息を吸う。唇が動き、静かに言葉を紡いだ。
「わたくしのこんなさびしい考えは、みんな夜のためにできるのだ。夜があけて海岸へかかるなら、そして波がきらきら光るなら、なにもかもみんないいかもしれない。けれどもとし子の死んだことならば、今わたくしがそれを夢でないと考えて、あたらしくぎくっとしなければならないほどの、あまりにひどい現実なのだ。感ずることのあまり新鮮にすぎるとき、それを概念化することは、きちがいにならないための、生物体の一つの自衛作用だけれども、いつまでも守ってばかりいてはいけない——」
「それが、お兄さんの最期の詩?」
立花はふっと息を吐く。
「そんなわけないだろ。これは賢治の心象スケッチだ。兄のは、これの劣化版だよ」
「身内に厳しいなあ」
「ああ。本当に、だめな兄さんだった」
秘匿したいのだと察する。兄の詩は、立花だけの秘密なのだ。きょうだいなら、そのくらいの秘密はあるだろう。星野は苦笑する。
「でも、やっぱりさすがだよね。賢治オタクは、みんな空で唱えられるわけ?」
「おれはオタクではないが」
即座に否定した立花に吹き出す。普通の人は絶対に暗唱できない。そういえば、もう一人、すんなり読んだ人間がいたっけ。
「いや、鈴愛も言ってたんだよ、確か——」
トシが解説しちゃったら野暮だし、と妹の顔が意地悪そうに笑った。
「……トシ」
「あ?」
「さっき立花、トシコが死んだって読まなかった? トシコって、何」
「とし子は賢治の妹だ。賢治の生前に病死している。妹の死を偲んだから、賢治は花巻から青函を越え、樺太へと向かったんだ」
「妹……」
宮沢賢治にも、妹がいたのか。鈴愛は解説を野暮だと言った。鈴愛がトシのことを解説したら野暮だとは、どういう意味だろう。
「恋と病熱っていう詩、知ってる?」
鈴愛は立花に聞け、とも言っていた。立花は、ああと頷く。なんでもないように告げた。
「今日はぼくの魂は
ふっと風が吹いた。漣が揺れる。波に呼応するように、立花の耳のカシオピアが揺れた。
星野の心臓が、俄かに跳ねた。ごめん、と妹に謝った自分がいた。いいよ、と妹は笑い返した。妹の、全てを見透かしたような俯く視線がこちらを向く。透明薔薇の火に燃えたっていいよ。赦すよ。
「……ああ、そうか。鈴愛はわたしに『賢治のように、妹よりも恋を取った』と皮肉を言ったのか」
星野は呟く。立花が呼応して、星野を向く。立花の目の奥で、深いサファイヤのような青が揺れている。自分の胸元に下がる、青いよだかも揺れていた。他の人には何気ないあなたでも、わたしにとっては意味のある人だった。
死なないで。
そう強く願うのに、殺そうとするあなたにも、どうしようもなく惹かれている。わたしが見るあなたは、今にも壊れてしまいそうで、だから、こんなにも美しい。二つの想いは相反したまま、どちらも本心だった。あなたから目を離せない。これは全て、わたしだけの意味づけだった。
星野の手が泳ぐ。暴れて、水の中でやわらかな曲線を描いていた。描きたい。今すぐにでもあなたを描きたい。止められない。この瞬間を描いて、あなたを残していたい。張り裂けそうなほどの切実を願う自分に、ようやく納得が落ちた。
「わたし、立花が好きなんだ」
気が付いたら、想いが零れ落ちていた。
「好きじゃなかったら、ついてきてない。好きだから、ついてきたんだ……」
納得しかなかった。西日の陰る美術室で絵を好きだと笑ってくれたあの時からきっと、ずっと。父親を憎み、兄を愛するあなただから、わかるし、わかってほしいと願っていた。その共感がいつか恋になった。自覚できなかったのは、家族を蔑ろにしている罪悪感があったから。
でも、恋だった。だからわたしは、母を殺せなかったし、死ねなかった。あなたが好きで、あなたを見ていたかったから。
「そうか」
立花は目を逸らさなかった。波立たない川を背景に、星野を見つめ返して、告げる。
「それでもおれは変わらないよ」
目の奥で、青い炎が揺れている。
「おまえがおれを好きでも嫌いでも関係ない。おれは殺すし、死ぬよ」
眼前の水面は変わらない。夕陽を映して鈍く光り、太古と変わらないままで輝いていた。すぐ上の空を、大きな飛行機が切り裂いていく。全てを壊すような爆音が響いた。現実がやってくる。ただ、それだけだった。
駅に戻って送迎バスに乗り、大沢温泉へ到着する。狭い車内で体が固まったのか、立花は降りた途端、大きく伸びをした。対して星野は、必要以上に小さく縮こまっていた。
イギリス海岸から駅へ向かう道、また、バスの中で特に会話もなかったせいか、星野はふと、考えていた。
もしかしなくとも、自分は先程、立花に告白をしたのではないか。自覚した途端、顔に熱が集まる。バスの隣、間を開けて座る立花との距離を、急に意識し出した。納得はしているが、予想外の結論に動揺を隠せない。基本的に自分は、ひどくつまらない人間だ。ただ描いて、母に殴られてを繰り返す人生でしかない。今まで、他人に恋情を挟む余裕がどこにも無かったし、恋心どころか、人生において妹と母以外の他者に特別な感情を抱いたことなど無かった。その隙間を綺麗に射抜かれたのか。母を憎む心情と妹を想う気持ち、そして絵を描く自分を肯定されてしまったら、逃げ場など無い。
当たり前だが、立花の顔は涼しいままである。変わらない、とは呪いの言葉だ。本当に自分は、この親殺し予備軍のことが好きなのか。これからこの人間は、殺人を犯そうとしているというのに。あまりにも不毛すぎる。頭を抱える星野に反し、立花は浮かれた声で言う。
「この大沢温泉ってさ、何棟かに分かれてるんだよ。本当はもっと立派な旅宿もあったんだけど、賢治が、この湯治屋自炊部に泊まったらしいから、ここにしてみた」
眼前に建っているのは、群青の瓦が張られた木造二階建ての古民家だった。二階に並ぶ焦茶の障子がどこか懐かしさを醸し出している。ここに宮沢賢治が来ていたと言われても、納得できる佇まいだった。立花は、瓦屋根をくぐって中へと入る。星野も踏み入れて、スリッパに履き替えながら、ふと思う。そういえば、部屋はどうなっているのだろう。立花に任せきりで、何一つ把握していなかった。
「本日から一泊、二名で予約した者です」
外靴を持って向かうと、立花が帳場で手続きをしていた。番頭がにこやかに微笑む。
「はい。確かに承っております。和室、一室でのご予約で間違いないでしょうか」
「ちょ、ちょっとまって」
そうです、と今にも頷こうとしていた立花に無理に割り込み、上擦った声で問い詰める。
「まさか、同じ部屋なの?」
「ああ。別に問題無くね」
いや、問題大アリでしょうが。こちとらさっき、告白したんだぞ。だが、立花は平然としたままだ。星野は番頭に向き直る。
「あの。もう一室、空いてたりしませんか」
「ええと、すみません。あいにく本日は満室でございまして」
星野は、夏休みの繁忙期を心底恨んだ。
「もしかして何か手違いがございましたか」
「いえいえ、こいつが急にわがまま言い出しただけなので! なんも問題無いです」
立花はにこりと笑みを浮かべた後、星野に振り返り、きつい眼光を向けた。
「だから言ったろ。おれは変わらないって」
ああ、そういうことか。どことなく浮き足立っていた星野の心に、冷や水が掛かる。同室にしたのはわざとでも嫌がらせでも無い。そもそも立花が宿を決めたのは昨晩、星野が恋心を自覚するよりも前だ。
つまりこれは、たとえおまえがおれを好きでも何の意味も期待も無いよ、という牽制だ。
「……わかったよ」
思ったよりも拗ねた声が出た。不思議だ。一体、何に対して不満を抱いているのだ。期待しているのか。だとしたら、何に。
「お部屋の方、ご案内いたします」
別の仲居が帳場から出てきて先導した。先を進む立花についていく。廊下は、人ひとりがやっとすれ違えるほどの狭さしかない。低い天井に、赤い光が灯ったぼんぼりが点々と下がっていた。帳場横の土産屋を過ぎると、すぐに突き当たりへ辿り着く。そこで仲居は立ち止まった。
「こちらが、お部屋となっています」
「へっ」
思わず変な声が出た。立花も目を丸くしている。ここは、どう見ても廊下の途中、ただの曲がり角だ。だが、確かに壁には「本館十八号 ここは客室前、お静かにお願い致します」という張り紙が貼られていた。仲居は躊躇なく戸を引く。
中に入ると、和室一間の客室が広がっていた。星野は驚き、廊下を振り返る。壁一枚向こうを、人々が普通に歩いている。
「なんですか、この部屋」
「すみません。この一室だけ他の客室と異なって特殊なお部屋となっており、ご不便をおかけいたします。また、こちら内鍵となっておりまして、外からは鍵が掛けられないため、外に出る際は、帳場に貴重品等をお預けください」
「しかも内鍵なんですか⁉︎」
「実はこれで、希望されるお客様が多い、人気のあるお部屋なんですよ」
仲居はやわらかく微笑む。星野はたじろぐ。人気などと価値づけられると、何故か得した気分になるのは人間の性だろうか。
「案内、ありがとうございます」
戸惑う星野を置き去りに、猫被りの立花が答える。ではごゆっくり、と仲居は去った。
廊下にいては通行の邪魔だ。星野は立花に続いてすごすごと部屋に入り、戸を閉めた。立花はスリッパをぱかぱかと擦って、靴箱にスニーカーを突っ込む。星野も倣って、靴を並べて踏み入れた。
前室の奥に六畳の和室がある。畳の中央には炬燵机と座椅子が置かれていた。立花はさらにスリッパも脱いで畳へと上がる。肩からショルダーバッグを外し、端に投げた。
「おお、めちゃくちゃ森だな」
立花は窓枠に乗り出す。立花越しの外、鬱蒼と茂る木々の中に旅館が続いている。星野も畳へ上がり、上着を脱いだ。クローゼットを開けると、薄い浴衣と丹前が入っていた。そういえば、旅に出てから服を一度も着替えていない。ふと、着ている自前のシャツを摘む。
「浴衣かあ。あんま好きじゃないんだよね」
「うわあ、びっくりした」
立花が後ろからクローゼットを覗き込んできた。思ったよりも近くて驚く。慌てて、少し距離を取った。
「浴衣って、着てるとはだけてくじゃん。あれ、すげえ嫌なんだよね」
「じゃあ、立花は浴衣着ないの?」
「そもそもおれ、寝るときは全裸だからな」
「は⁉︎」
「服着て寝ると落ち着かないのよ」
「はだけるのは嫌なのに⁉︎」
「最初から着てなければ、気にする必要無いじゃん」
嘘でしょ。今夜も同室で全裸を貫く気なのか。星野はひくりと固まる。
「まあ、さすがに。おれを好く女の前での分別くらいありますよ」
立花はニヤリと笑う。酷い。揶揄われた。無駄に全裸を想像してしまった。
「……ばっかじゃないの」
星野は立花から目を逸らす。顔が赤らんでいる自覚があった。咄嗟に浴衣とタオルを掴み、鞄にぎゅうぎゅうと詰め込む。
「おい、どこ行くんだよ」
「うるさい」
どうせ小さな旅館だ。逃げる場所はない。でも、こんな個室で二人きりでいるよりはましだった。今は、立花の顔をまともに直視できる気がしなかった。
「別行動かよ。さみしいなあ」
背後で響く立花の声は、へらへら跳ねている。心にも無いことを言いやがって。振り返らずに、扉へと向かう。逃げるように廊下へと飛び出した。
狭い館内をあてもなく進む。すれ違う客にぶつかりそうになって、ようやく我に返った。人のいないところを探し、ずるずると壁に凭れる。顔が火照ったように熱い。立花への恋心については納得している。ここまで立花を追ってきた、自分の行動に辻褄が合うからだ。だが、何も考えず、自覚をこぼしたことを後悔している。隠したままなら、もっと平静に関われていただろう。立花の些細な言動に振り回されるのは疲れるし、ひどく情けなくなる。無駄に照れて、慌てふためく姿を立花にはあまり見られたくなかった。
火照る頬を抑えて、歩き出す。すぐ横の部屋に、銀色の調理台と昔ながらのガスコンロがずらりと並んでいた。浴衣を着た若い学生が集まり、何やら肉などを焼いている。そういえば、ここは湯治屋自炊部だと立花が言っていた。名前の通り、自炊ができるのだろう。肉の焼ける匂いにつられ、急に空腹感を感じた。風呂に入るつもりだったが、先に夕食を済ませてもいいかもしれない。
館内を彷徨っていると「お食事処やはぎ」と書かれた提灯を見つけた。店先には料理の写真と、艶のある食品サンプルが並んでおり、蕎麦と天ぷらが大々的に宣伝されていた。
戸を開け、奥の座敷に腰掛ける。辺りを見ると、浴衣を着た客が殆どだった。皆、風呂上がりか酒のせいか、顔が赤く上気している。メニューを眺めると、。店先でのおすすめと変わらず、蕎麦を推していた。本格自家製麺の十割水車蕎麦らしい。他にもつらつらと蕎麦の効能が書いてあったが、蕎麦に明るくない星野には、いまいちぴんと来なかった。入口で見て美味しそうだった、おろし海老天そばを注文する。
お茶を啜りながら、入口を見る。立花が入ってこないことに安心した。まだ、顔を合わせたくない。こちとら、先刻好きだと自覚したばかりなのだ。何も無いとはわかっていても、二人きりでは心臓が持たない。
しばらくすると、蕎麦が運ばれてきた。汁にひたひたと漬かった蕎麦の上に、衣に包まれた海老天と、大根おろしと青葱が乗っていた。箸で大きく混ぜて、ずずっと啜った。麺におろしと汁が染み渡って美味しい。海老天を齧ると、口の中でぷりぷりと踊った。ぺろりと平らげる。
セルフサービスの漬物とお茶を飲み干しながら考える。食後すぐの風呂は気乗りしないが、まだ、六畳一間に戻りたくはなかった。風呂に行けば、しばらく回避できるだろう。
店を出て、壁にあった案内図を見る。どうやらこの大沢温泉には、全部で五つの浴場があるらしい。この湯治屋から他の棟にも行けそうだった。五つ入れる宿など、中々にない。全ての風呂を制覇するのも時間潰しには良いかもしれない。
帳場で貴重品を預けて、山水閣の方に抜けていく。コインランドリーを横目に階段を下り、一つ目の湯、豊沢の湯に辿り着いた。赤い暖簾をくぐる。
脱衣所は、黒い木組みに覆われており、シックで清潔感のある空間だった。脱衣所には誰もいなかったが、籠は疎らに埋まっている。微かにシャワーの水温が聞こえた。星野は服を脱ぎ、持参していた浴衣と共に籠へと突っ込む。そういえばこの三日、着替えていないだけでなく、風呂にも入っていなかった。
自分ではわからなかったが、もしかしたらかなり臭っていたかもしれない。立花に臭いと思われていたらやだなと思いつつ、向こうも似たような状態だったと思い至る。先程、廊下で見かけたコインランドリーのことを思い出した。あとで洗濯しようと決意する。
ハンドタオルを片手に浴場へと入る。ぼんやりとした橙の光が灯る、石造りの風呂だ。浴槽の向こう、大きな窓が開いている。昼間なら美しい景色が見られそうだ。
ひとまず、シャワーで体を洗った。髪に指を通すと、ぎしぎしと引っ掛かる。昨日、青函フェリーの海風で付いた潮のせいだろう。念入りに洗い流してから、湯船に向かう。足先で温度を確かめてから、ずぶりと全身を沈める。お湯の浮遊感が気持ち良く、手足を思いきり伸ばして、湯船に揺蕩った。
しばらく浸かると、温まったので浴場を出る。バスタオルで体を拭き、清潔な浴衣に腕を通した。髪をドライヤーで乾かし、火照った顔に化粧水を叩く。身支度を整えて、豊沢の湯を後にする。そのまま、次の風呂へ向かった。
先に帳場で洗剤を買い、コインランドリーに服をぶち込む。洗濯が終わる前に、残りの風呂を巡ることにした。薬師の湯、かわべの湯、南部の湯を順にはしごしていった。特に、かわべの湯が良かった。かわべの湯は女性専用の露天風呂であり、さらに、ちょうど星野一人しかおらず、貸切だった。夜風に吹かれながら、ゆったりと湯に浸かることができた。
残る温泉もあと一つだ。最後の一つである大沢の湯に向かう。提灯が灯る戸を開け、長く続く檜の階段を下りていく。この大沢の湯も、かわべの湯のように露天風呂だろうか。期待に胸が高まる。階段を下りた先の扉を開けると、すぐ眼前に露天風呂が広がっていた。闇夜に白い湯けむりが上がり、石造りの浴槽を覆い尽くしている。
湯船の真横、木製の棚が並ぶ脱衣所がある。湯船と脱衣所の間に仕切りは無い。僅かに脱ぐのを躊躇したが、浴槽に人影は見えない。また貸切だろうか。脱いだ浴衣を棚に入れ、ハンドタオルを手に、入浴した。
「あったかあ……」
お湯に浸かると、つい感嘆の声が漏れた。手足の末端が痺れるような熱い湯だ。星野は浴槽を奥へと泳ぎ、石の縁で耳をすませる。真っ暗でよく見えないが、下の方から微かに水の流れる音が聞こえた。
「お、川かな」
タオルを湯に浸からないよう、石の上に置く。星野は湯から上半身をあげ、せせらぎの方へ乗り出そうとした。
「ああ、きっとそうだろうな」
「え」
星野は声のした方に、反射で顔を向けた。目を疑う。そこには、湯に浸かる立花がいた。
「うわああああああ、え、なん、なんで」
ばしゃ、と一瞬で湯に沈んだ。両手で必死に体を隠す。石の上のハンドタオルをひったくろうとしたが、取ろうとしたら、裸体が見えてしまうのではないかと躊躇して、固まる。
「なんでって……、おれも風呂に入りにきたんだが、って以外に理由あるか?」
「なんでそんな冷静に答えてんの⁉︎ 聞きたいのは、なんで同じ風呂に入ってんのってこと![#「!」は縦中横]」
「は? おまえ、なんも知らないで来たの」
「なんもって」
「ここ、混浴だぞ」
「うっそ」
散々表示出てたじゃねえか、と立花は呆れた表情を浮かべる。星野は必死に記憶を辿る。ここ、大沢の湯に関する碌な記憶が無い。女性専用だった、かわべの湯まではちゃんと表記を確認していたはずだ。自分の迂闊さに頭を抱えたくなる。
「そもそも浴場が一つなら、入る前にここが女湯か男湯かは考えねえか?」
「さっき入ったお風呂が女性風呂だったから、完全にここもそうだと思い込みました」
「は、そんなことあるか⁉︎」
「だって……」
立花の全裸発言を散らすのに必死だったんだもん、という言葉を呑み込む。そもそも、全裸発言に気まずくなって出てきたのに、事実全裸を見る羽目になっている。最悪だ。
「……立花はなんで混浴にいるの」
「風呂制覇。温泉好きなんだよね。こんなにたくさん風呂がある宿に来たなら、全部入んないと損だろ」
「ううーっ」
入った理由すら同じで、再度頭を抱えたくなった。だが、抱えたら、抑えている胸が露わになるので、ぶくぶくと沈んだ。
「今までもなんとなくは感じてたけど、星野って、やっぱ考えなしのバカなんだな」
目を背けた星野を刺すように、立花の呆れた声が響いた。
「女子なら普通、裸を見られたリアクションも『きゃあ』とかじゃねえの。なんで『うわああ』なんだよ」
「うるさい」
「どうすんだよ。おれが話し掛けなかったら、おまえ普通に湯から上がってただろ」
「うるさいうるさい」
「まあ、安心しろ。おれは見てないし、見たとしても、なんもしないから」
「うるさーい!」
「おまえもなんもすんなよ」
「しない! するわけない!」
火照る顔をさらに温めるように、お湯がひりりと纏わりつく。熱い。だが、出られない。一体、このあと、どうすればいいのか。星野が目を瞑る間に、立花がどこかに行くことを願うしかない。
「熱いなあ」
立花がぼやく。星野は湯煙を睨んだ。
「熱いなら、早く出ていってよ……」
「風呂は、熱いと感じてからどれだけ長く入れるかが勝負だろ」
「そんなんいいから。立花が出てくれないと、出られないから、早く出て!」
「みてみて、もう皮膚真っ赤なんだが」
立花は左手を伸ばしてくる。見ないといいつつ、見られるのはいいのか。意識しているのも星野ばかりで虚しい。そろり、と慎重に視線をやった。確かに、立花の腕は茹蛸のように赤くなっている。
「そんな赤くなって。のぼせるよ」
「まだいけるさ」
立花はくるりと体を回す。こちらに向いた右肩に、裂けたような深い切り傷が見えた。
「……その肩の傷、何」
「いやん、星野のエッチ」
「は⁉︎ ちっ、ちがうが⁉︎」
童貞みたいなリアクションだな、と立花はけらけら笑う。いや、せめて例えるとしても処女ではないだろうか。いつもは服に隠れて見えないところだから、そんな大きな傷があることなど、まるで今まで気が付かなかった。立花は問う。
「おまえにはもうねえの」
「何が」
「母親にやられた傷」
同意を求められて、即座に納得する。つまり、その傷は父親につけられたものだろう。星野は、自らの左肩を抱きながら答えた。
「……左肩に残ってる。鉛筆刺された時のやつ。見せないけど」
「鉛筆? また、すごい凶器だな」
「デッサン用の鉛筆って、色々種類があって、中でもすごい硬いのがあるんだ。さらに、敢えて芯を長く削り出すのがルール。それをぐさって、肩に一刺し。傷自体は癒えたんだけど、皮膚の中に芯が入り込んじゃって、痕が消えない」
他の傷は薄くなったが、左肩の傷だけは消えずに残っている。
「お互い、大変だったなあ」
立花は苦笑を浮かべる。これは同情では無い。やはり共感だ。
「なんで刺されたんだ」
「描くなって、ただ、それだけだったと思う。でも、どんなに殴られたって、どうしても描くことはやめられなかった」
闇夜に浮かぶ母の顔を思う。殴られたって、描くことはやめられない。そんなことは、画家である母が一番わかっているはずだった。
「直接手を出すのは、わかりやすくていい」
立花の声に、仄かに羨望が混じる。
「父さんは成績の下がったおれを殴るんじゃなくて、おまえの育て方が悪いって、母さんを殴ってたんだよ。ま、理には適ってんだけど。おれは腐っても跡継ぎだし、傷つけるわけにはいかねえだろうしな」
「殴られてないなら、その傷はなんでついたの」
どうせ五十歩百歩だ。両方地獄なのは変わらないから、問うた。立花は右肩を庇う。
「これは母さんを庇ったんだよ。さすがにワインの瓶を振りかぶられたら、間に入るしかねえじゃん。あんの外科医、無駄に腕っぷし強くて、あの時は庇うことしかできなかった」
立花は手刀を振り下ろし、自らの右肩に当てる真似をした。おそらくワイン瓶が割れて破片が刺さり、傷を残したのだろう。
「当時は、そりゃあ騒ぎになったんだけど、綺麗に揉み消されたな。それ以来、さすがにまずいと思ったのか、母さんは殴られなくなった。その直後に、兄さんが医大に合格したのも大きかったかもしれん。おれも、かなり目溢しを貰えるようにはなったけど、やっぱり兄さんと比べると医者の卵としては落第点だった」
星野と立花が通った高校は、歴とした進学校だった。星野の成績は中の下くらいだったが、下から数えた方が早かったが、確か立花は、常に上位二十位以内をキープしていたはずだ。それでも駄目なのが 立花の世界なのか。
「こんな環境で熱意を保ててたら、それこそイカれてるよなあ。おれと違って兄さんは医学が好きだったけど、それだけじゃ生きられなくて、結局は書いていたわけだろ」
諦めたように立花は笑みを浮かべる。せせらぎが、遠くで響いた。
なれ、と殴られても医者になりたくなかった立花。描くな、と刺されても描き続けている星野。真逆ではあるが、親がいなかったらもっと自由に生きられたのに、という思いは通底している。だからお互い、殺したいと願った。やはり、居場所は無いままだ。
「星野は、まだ描きたいの?」
「うん」
モチーフに問われる。逡巡なく頷いていた。
「じゃあ、抗ってでも描こうとするおまえは、相当イカれてるな」
「……そうかもね」
「母親に許されたわけでもないんだろ。また描いて、また刺されたなら、もう一度星野も、殺すために舞い戻るかもな」
立花の口元が嬉しそうに緩んだ。ああ。そうやってこちらに期待をかけるのか。
「殺しはしない。そう決めた。わたしは、ちゃんと憎しみを描いて生きていくんだ」
立花の言う通り、殺したいと思うほどの憎しみは無くならないだろう。だから、描くのだ。この憎しみを描き続けていたい。いつか母親がいなくなって、復讐という枷が完全に消えたとしても、星野は描くことを選んでいくような予感があった。
「なら、こんなところで油売ってないで、早く将来のために描きなさんな」
先上がるわ、と立花が呟く。互いが全裸であったことなど、まるで忘れて、湯から立ち上がった立花の背中を目に留める。濡れた黒髪の下、男性らしい筋肉質の白い肌が、茹って赤く染まっていた。右肩には大きな切り傷が刻まれている。勲章だとは美化したくない、虐待の傷だ。だが、綺麗だと純に思う。ありのままで必死に生きてきた、等身大の体だからだろうか。また、知らずのうちに指が動いていた。水の中でどんなに指を動かしたって、形にはならない。意味など無いのだ。でも、立花を描きたいという衝動は止められない。
一人残され、立花の去り際の言葉を反芻する。将来のために描けと言われた。だが、本当に、将来のために絵を描かなければいけないのだろうか。母に疎まれたって、なにがなんでも描き続けている。誰かに認められる絵を描きたいのか。そんな気持ちなど、初めから無い。星野にとって、予備校に戻るとか美大に入るとか、絵が上手くなるかどうかはもう、さして重要な問題では無いのだ。ただ、立花を描きたい。どこまでも美しく、気高く描きたい。そのために、どこまでもついていって、終わりまでを観測したい。その先も、できることなら生き続けてほしい。そのために描いているし、それが自分の意味づけだと信じていたかった。
立花が出てすぐに、星野も大沢の湯を出た。最後の長湯が堪えたのか、さすがに少しのぼせて、目眩がした。自動販売機でミネラルウォーターを買い、一気に飲み干す。コインランドリーで乾いた服を回収し、廊下の端、本館十八号の客室へ戻った。
戸を引くと、鍵は掛けられておらず、容易に開いた。ひっくり返るスリッパと、和室の気配で立花の在室を察知する。星野は内鍵の錆びた蝶番を掛けて、中へと入った。立花は座椅子に腰掛け、浴衣の胸元を広く開けていた。全裸でなかったことに安心したが、やはり、目のやり場に困る。
「それ、洗濯したの?」
抱えていた服を下ろしたところで、立花が青い缶を呷りながら尋ねてきた。
「うん。コインランドリーで。だってさすがに汚いじゃん」
「そうか。葬式直後に買った服だから、新品だと思い込んでたけど、確かにずっと着てるもんな」
立花の服は部屋の片隅に投げ捨てられている。星野は開封済みの洗剤の小箱を取り出した。
「洗濯するなら、余った洗剤、あげるよ」
「サンキュー、あとでランドリー行くわ」
ひょいと箱を投げると、立花は缶を持ったままの手で、器用にキャッチした。ナイスキャッチと呟きかけたところで、缶のラベルに銀河高原ビールと書かれているのに気が付く。
「酒……」
「星野も飲む?」
「……それ、どうやって手に入れたの」
「普通に買った」
「いや、未成年じゃん」
「こんなもんがあるんだよなあ」
立花はにやりと笑って、机上にあったカードを掴み、ひらひら掲げた。保険証だろうか。そこには『
「……まさか、偽造カード?」
「あー、多分な」
「多分って、どういうこと」
「さあ。兄さんに色々便利だからって、高校入る時に作ってもらったから、これが実在する人間なのかもよくわかんねえんだよなあ。年離れてんだから、普通に兄さんのを貸してくれてもいいのに。その辺、潔癖だよな」
「とか言いつつ、多用してるんでしょ」
「あはは、そうだよ。『立花よだか』よりはありふれた名前だから、色々と便利でさ」
缶ビールを呷りながら、けたけた笑う。その顔は赤い。これは相当飲み慣れていそうだ。
「そもそも、この旅館もこの名前で取ってる。未成年ってばれたら、色々めんどいだろ」
「じゃあ、わたしも共犯になってるのか」
「殺人計画黙認してるんだから、今更だろ」
「別に、わたしは認めてるわけじゃないし」
ぼそぼそと抗議したが、立花にはしれっと無視された。空になったのか、ぷしゅと次の缶が躊躇なく開けられていく。
「殺人計画といえば、明日は兄さんの遺書にも書いてあった平泉に行くから」
「平泉?」
「ここからもう少し、岩手の南に行ったところの方にある寺院群だ。中尊寺金色堂って聞いたことないか」
「奥州藤原氏のとこ?なんとなく、は」
「そうそう。そこまで行ったら、旅は終わり。兄さんの軌跡はもう無いから」
終わりの言葉に心臓が冷える。星野はスマートフォンで日時を確認した。現在時刻は、八月十日の午後十一時過ぎだ。
「じゃあ、平泉が終わったら、すぐに殺すの」
「いや、明々後日の十三日に殺す予定だ。兄の一回忌に父の死を捧げたい」
何も準備してないから、明後日の一日は予備日かな、と立花はぼやく。
「仙台まで南下してしまえば、新幹線もある。東京まではすぐだ。おれの命もあと三日。それまでの息抜きだよ。こんなものは」
立花は機嫌良く、酒を喉へと流し込む。そういえば、羽田でも立花は息抜きだと笑っていた。あの時は、立花も親を殺したがっているとは露ほども思っていなかったが、息抜きが前提となると、この酒も意味が違ってくる。これは逃避ではないのか。
「だから、飲んで忘れようってこと?」
「それ以外に何があるのさ。星野も飲もうよ。一人で飲むのさみしいんだよ。今ならおれのおごりー」
甘えたように陽気に笑う立花の本心はわからない。星野は溜息を吐いた。
「……酒、飲んだこと無いんだけど」
「今ならおれの奢りだよ」
「奢られたくないってはじめに言ったじゃん」
「そういや、その切符代、お前の方が百五十円多く払ってただろ。その分だと思えば」
星野は目を丸くする。勢いで渡した切符代は、確かに少し多かったような気もする。律儀に覚えられていたことに驚くが、立花には案外そういうところがある。
「じゃあ、デビューじゃん。飲もうぜ」
対等を出されると、弱い。口にしたさみしいなんて口実で、どうせ、本気で思っていない。だが、応えたくなる。これが、惚れた弱みなのだろうか。
星野は机上の缶を取る。結露で濡れた親指で、銀河高原ビールのラベルを撫でる。これも宮沢賢治の踏襲ビールなのと問うと、立花はそうだろうなと曖昧に笑った。偽造カードで買ってもらった未成年飲酒。最悪の人生初飲酒だなと自嘲しながら、銀のプルタブを引いた。飛んだ炭酸の白い泡が、親指の付け根へと飛ぶ。
「じゃあ、乾杯」
立花がにへらと笑って、こちらに缶を差し出してきた。
「これ、何に対しての乾杯なの」
「うーん、星野の初飲酒?」
「違法だから、別にめでたくないけどなあ」
「じゃあ、おれの殺人祈願?」
「それはもっと最悪」
「ごちゃごちゃうるさいな。深く考えんなよ。酒があるから乾杯。それでいいだろ」
もはや、押しつけるように立花は缶を持った手を伸ばす。面倒臭いと思いつつ、乾杯に拘る意固地さを可愛く感じた。そっと缶をぶつけると、かんと鈍い音がした。そのままぐいと一気に缶を呷る。独特の苦味が鼻へと抜けた。美味しくはないが、飲めなくもない。
「……にがい麦の味って感じ」
「はは。うまさよりも酔えるかどうかが重要だよ」
「立花は酔ってんの」
「ほどほどかなあ。おれ、あんま酒強くないんだよねえ」
でも好きなんだよと呟く立花は、確かに少し酔っているのか饒舌だ。星野もまた、ビールを舐める。だが、酔うという感覚はよくわからない。
「楽しいな」
酩酊しているのか。頬を赤らめて立花は微笑む。その笑みには、何一つの偽りも無いように感じ、胸がざわりと蠢いた。
「……本当に?」
「ああ。なんでそんなことを確かめるんだ」
「いや、三日後に死ぬって決めてるのに、本当に心から楽しめるのかなって」
立花はぐいと酒を呷る。浴衣がはだけて、肩から落ちた。それを直しながら呟く。
「今、こうやって旅しててさ。おれは少なからず、楽しいと思ってるよ。星野もそうじゃないの」
「楽しいよ。でもこんなのは刹那だ」
「そうだ、刹那だ。でも、そもそも続ける必要なんかあんのか。今、楽しければそれでいい。残りの三日間はきっと幸せ。それ以上に何がいるって言うんだ」
立花は心底納得しているようだった。星野だって、楽しいのは嘘では無い。だが、三日後に潰える楽しさに、全幅を預けられるほど楽観的にはなれない。立花の定義する最大の幸福が、星野には激しい焦燥として映る。
きっと、不満が顔に出ていたのだろう。ちびちびとビールを啜る星野に、立花は問う。
「じゃあ、おまえはおれに何を望んでるの」
楽しい以上に何がいるのだ、と立花は純粋に尋ねている。改めて問われると、星野にもよくわからない。
「わかんない。でも、このままじゃ、なんかやだなと思う」
「今更、勧善懲悪か? おまえだって殺そうとしてただろ」
「もう、やめたもん」
「だから、おまえがやめたって、おれはやめないって言ってるだろ」
「それはそうだけど」
やめろとは言えない。星野だって、やめろと言われて殺害をやめたわけではないし、憎しみだって未だ消えていない。だが、それ以上に、立花のことを大切に想っている。だから、踏み止まっている。
強制はできない。だけど、選んでほしいと願っている。できることなら、殺さず死なず、生きることを。
「おれは死にたい。それを変える気はない。その上で、おまえはおれに何を望んでんの」
釘を刺すように、立花は語気を強めた。拒絶の色が目の奥で光る。星野は怖気付く。この意志を納得させる根拠を持っていない。否定されるのは辛い。下手なことを口にして、嫌われたくもなかった。星野が押し黙っていると、立花は深く溜息を吐く。
「無いなら、ちゃんとまとめて出直してきな」
「……まとめて出直せって、聞いてくれはするの」
「言うのはおまえのエゴだからなあ。でも今のおまえには、エゴすらないよ」
星野は目を見開く。そんなことはないだろう。エゴしかない自信だけはある。まだ、伝わっていないのだろうか。星野は、喉の奥から塊を吐き出すように口を開いた。
「……立花が好きだからついてきたの」
「それはわかってる。けど、それだけだろ」
ああ、それだけだ。だが、それ以上に何があるのだ。想いの行き場が無くて、唇を噛む。好きだから、恋人になってと懇願でもすればいいのか。三日後に殺人と自殺を目論むする相手に。あまりにも未来が無さすぎる。
「おれは変わらないよ」
刹那的な意固地にすら、見惚れていた。
好きだ。好き。それしかない。描きたいとか、殺さないでとか、死なないでとか、たくさんあるけれど、結局はただ、この人が好きだという想いしかないのだ。
「それでも好き」
「無理」
「好き」
「無理だって」
「好きなの」
「だから無理だって言ってんだろ」
ほら、こうなるじゃないか。原始的な想いをどんなにぶちまけたって、立花が返報してくれるとはまるで思えない。
「おまえはおまえを知らなすぎるよ」
そんなことない。わかってるよ。だが、叫んだところでまた、告白と拒絶の問答の繰り返しになるだけだ。
「もう、この話は終わり。せっかくのうまい酒が不味くなる」
立花は缶をちゃぽちゃぽ鳴らし、一気に飲み下す。星野も、半分以上中身が残った缶を傾けた。苦味の中に、少しの頭痛を覚えた。これが酔いなのか。初めて知った。
「酒、無くなったし、洗濯してくる」
立花は空き缶を転がして、近くに投げられていた洗濯物を掻き集めた。星野が渡した洗剤の小箱も掴む。
「先に寝てていいから」
引き止める理由は無い。立花は内鍵を開けて戸を引き、人の歩く廊下へと消える。開いた鍵をわざわざ閉める気にもならない。蛍光灯が照らす部屋の中で、外から響く鈴虫の声がじいじいと大きくなった。
畳に転がる缶ビールを拾う。洗濯した服をハンガーに掛けて、戸棚を開けて布団を引き摺り落とす。特段、眠いわけではないが、やることもなかった。六畳の端と端に目一杯離して、二組の布団を敷く。
支度を整え、布団に浴衣のままで身を投げ出す。施錠していない部屋で眠るのも考えものだが、こんな変な部屋、皆不審がって開けないだろうし、閉めたら立花が入れない。電気も消さずにつけておくことにした。布団まで敷いたから、甲斐甲斐しく歓迎しているようで嫌になる。だが、起きて、おかえりと、迎え入れる図々しさは無かった。
布団に潜り込み、毛布を深く被る。久し振りのちゃんとしたやわらかい布団だ。こんなにもありがたいものなのか、と少し感動を覚える。星野は目を閉じて、思考する。
立花には非難されたが、好意以上に与えられる答えは、やはり思い付かない。親を殺したい立花だから好きになった。好きだから尊重したい。立花の選択が殺人でも自殺でも、別に何だっていい。あなたは、あなたの思うままに生きてほしい。ただ、死に向かう立花を苦しいと思うのも、紛れもない本心だった。だって立花が好きだから。好きだから生きてほしい。
『おまえはおれに何を望んでんの』
好きだから止められないし、好きだから止めたい。それが答えであり、どちらも星野のエゴだった。二者は相反して、どっち付かずだから、星野にエゴがないように映るのだろうか。
変わらない立花を、無理に変えたいわけでは無い。星野だって、変えられたわけでは無いからだ。人は変わらない。だが、変わりたいと思えば変わることができる。それを証明したい。星野は立花に特別な意味づけをした。星野の殺意を肯定したから、立花は有象無象の通行人でなく、ただ一人の替えの利かない人間になった。恩も価値もある。その情は恋心以前の話であり、恋慕が無くとも変わらない。揺るがない想いがあるから、立花のために生きようと思ったのだ。
だから、あなたにとっての意味を知りたい。どうしたらわたしは、立花にとって価値のある人間になれるのだろう。立花の期待に応えず、親殺しを果たせなかった。殺すのも死ぬのもやめて、このまま逃げようと言ったところで、予備校を辞めたニートに甲斐性など無い。救うための力は無く、別に立花に好かれている愛されているわけでも無い。連れ出したって、傷の舐め合いを続けたまま、互いが緩やかに破滅していくだけだ。
こんなわたしでは、立花に与えられるものが何一つ無い。与える殺意も金も無く、愛すら擦り抜けていく。立花の言う、「楽しく」三日間を消費する資格すら怪しい。
ぎい、と扉の開く音がした。星野は薄く目を開いて確認する。立花が帰ってきた。起きていると気付かれたくなくて、目を閉じて鼻で息をし、寝たふりをする。服をしまう音、蛇口をひねる音、水の流れる音、そのひとつひとつが耳に入ってくる。一挙一動が想像できて、落ち着かない。
しばらくして、ぱちんと潰える音がした。布団の擦れる気配の後に、沈黙がやってくる。星野は目を開く。電灯は消え、部屋全体が暗闇に包まれていた。
闇の向こうに、立花は横たわっているはずだ。こんなにも近くにいるのに、手を伸ばす勇気は無い。この人を蝕む終わりは三日後にくる。揺さぶってでも止めたいが、冷めた目で見つめ返されることが怖かった。
暗闇を貫き、鈴虫の声を押し除けるように、立花の鼾が響き渡った。風情も感傷も殺す、酷い鼾だ。こちらの気など知らずに、眠りやがって。だが、眠る立花にすら、安心を覚える。まだ、死んでいない。だから、鼾すら愛おしかった。ああ、確かにこれは恋だ。
わたしがあなたを好きになって死ぬのをやめたように、あなたがわたしを好きになったら、死ぬのをやめてくれるんじゃないか。
儚い願いが浮かんでは、消える。全ては立花の鼾に掻き消された。それでも願う。あと三日。どうか、僅かでもあなたにとって価値のある人間になれたらいい。なりたいよ。
星野は強く目を瞑り、暗闇へと沈んだ。
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