花巻①
高い青空を、無数のカモメが飛んでいく。約四時間の船旅を終え、青森へと辿り着いた。海の端、埠頭へと降り立ち、ブルードルフィン号に背中を向けて歩き出す。
足取りの重たい立花が、あくびを噛み殺しながらついてきた。
「早く行こうよ」
振り返ると、露骨に不機嫌な顔をされた。海上で星野が海を眺める間、立花はずっと甲板の端で眠っていた。まだ、眠いのだろうか。
「……なんで、おまえはそんな元気なんだ」
「昨日から寝てないのに、何故だか全然眠くないんだよね」
「なるほど。殺すのに使うはずだった体力が、有り余ってんだろ」
はは、と立花が皮肉と共に薄ら笑いを浮かべたので、むっとして睨み返す。
「だからもう殺さないって言ってるでしょ」
「なら、ゆっくり行かせてくれ。おれは誰かさんと違って、これから人を殺すんだから」
酷い挑発だ。変に乗る方が悪手だろう。無視してバス停へ向かい、青森駅行きのバスに乗り込んだ。星野が奥に入り、並んで座る。
バスは海沿いの道を走る。左側、巨大な橋に差し掛かったところで、海へ突き出た陸地に黄色い船が泊まっているのが見えた。
「八甲田丸だ」
立花は、星野越しに船を覗き込む。
「あれは青函連絡船の博物館船なんだ。函館にも似たような摩周丸って船があってな。今朝、時間があったから、乗ったよ」
「ああ。それなら、わたしもフェリーターミナルに向かうバスの中で見たよ」
「内部は、運行当時そのままでの形で残されているんだが、普通の博物館みたいに模型や資料もたくさん展示されてた」
立花の目は爛々と輝く。どうやら函館山で星野と別れてから、案外、悠々自適に函館観光をしていたらしい。
「函館で見た時から気になってたんだけど、今だって船は通ってるのに、なんでわざわざ船を展示してるの」
「おれたちが乗ったフェリーは民営、青函連絡船は国営なんだ。飛行機も青函トンネルも無い時代、青函連絡船は、青森と函館を結ぶ唯一の移動手段だったんだよ。その偉業に敬意を称して、青森と函館に一隻ずつ船を残しているんだろう」
船は既に役目を終えている。海に揺蕩う死体というよりは、眠りゆく墓標なのかもしれない。
「やっぱり、実際に行っただけあって詳しいね。船、好きなの?」
「うーん、別に」
立花の返答はそっけなかった。そういえば立花は、船上で爆睡していた。船自体に興味が無いのは本当だろう。
「じゃあ、なんでわざわざフェリーを使って青森に来たの。殺すために帰るなら、行きと同じフェリーの方がはやいじゃない」
「最期、兄さんがフェリーに乗ったから」
息が詰まる。嫌なほどにシンプルな理由だ。確かに、八甲田丸を見つめる立花の視線は熱っぽい。函館の海で、浮かぶ兄を想っていた見つめていたときの熱とよく似ている。
「まあ、正直、兄さんが函館に行くのにフェリーを使ったかは推測だったんだけどな。最期、兄さんは家を出る時に、
「ハナマキ?」
「岩手県にある市だよ。兄さんは実家の町田を出て、函館で死んだ。途中で花巻に寄ったなら、電車と船を使ったんかなって予想したわけ。実際、缶の中の手紙にそう書いてたから、見事推理は当たってたわ」
「お兄さんが目指した花巻には何があるの」
立花は、僅かに目を伏せた。
「花巻は、宮沢賢治の故郷だ」
星野は思い出す。かつての美術室で、立花が読んでいた詩集のことを。不意に目の前の立花の姿がぐらりと歪んだような気がした。
「兄さんは賢治が好きだったから。わざわざ鉄道と船で遠回りしたのも、そうやって北海道に向かった賢治を模倣したんだろう」
「模倣……」
つまり、そうやって宮沢賢治を模倣した兄を、さらに立花は辿っているらしい。
「じゃあ、立花も宮沢賢治が好きなんだね」
「……好き?」
詩集のこともあり、てっきり頷くと思い込んでいたが、立花は渋い顔を浮かべた。
「んなわけねえだろ。兄さんと賢治の話は全くしなかった。兄さんはともかく、おれは賢治に対して好意を抱くことはありえない」
「でも、詳しいのは本当でしょ」
「調べる機会が色々とあったんだ。別に大したことじゃない」
立花は窓の方を向く。これ以上喋る気は無いようだった。だが、鈴愛は葉書を見ただけで立花が宮沢賢治に詳しいとわかった。この先、宮沢賢治を追いさえすれば、必ずヒントがあるはずだろう。
「おれは、兄さんが見た景色が見たいだけだよ」
静かな決意が八甲田丸を越え、海の向こうへ消えていく。星野にとって終わりであった函館は、立花にとっては始まりだった。兄の死を悼む立花は、隣にいるはずなのに、遠い。知ることで、どうか追いつきたかった。
アーケード街に囲まれたロータリーで、立花と星野はバスを降りる。ここが青森駅だ。落ち始めた太陽が影を深め、駅前にはどこか閑散とした雰囲気が漂っている。
先立つ立花を追い、駅構内へと入る。立花は窓口の駅員に向け、ピースを作っていた。
「青春18きっぷを二枚ください」
立花が告げた名前には、聞き覚えがあった。確か、これ一枚さえあれば、日本全国の列車が何日間か乗り放題という、夢のような代物だったはずだ。だが、青春という名はなんとなく気恥ずかしい。
「その、せ……、切符で花巻まで行くの?」
「花巻どころか東京まで行くつもりだ」
立花は平然と答える。ここから東京までの途方も無い経路を案じ、同時に少し安心した。旅を長引かせられるだけ、殺人は遠のく。
「まだ夕方だ。今日中に盛岡まで行く。盛岡で宿を探して、明日、花巻に向かおう」
立花が意気揚々と声を上げると、駅員がそっと口を挟んできた。
「……あの、お客様、大変申し訳ございません。お客様方が青春18きっぷをお使いになり、盛岡駅を経由して、東京方面へと向かう場合、こちらの切符では、お通りになられない区間が存在します」
「え、そうなんですか」
「青春18きっぷは、JR線の切符なのです。それ以外の路線ではお使いになれません。ここ、青森駅から盛岡方面へ繋がっているのは、青い森鉄道という路線なのです」
駅員は東北の路線図を開く。どうやら、青森駅から盛岡駅へと向かうには二つの経路があるらしい。立花は、青森から
「ちゃんと下調べしといてよ」
「いや、こちとら純粋都民の初心者旅行だぞ。そんな複雑な路線の仕様、知るわけないだろ」
「なんで間違えたのに、ちょっと偉そうなの。ま、別に、JR使って弘前から回ればいいね」
「駄目だ。そっちは兄さんが通った道じゃない。追加料金払ってでも、八戸の方通るぞ」
「面倒くさ! ちょっとくらい違っててもいいじゃん」
「ぜってえやだ。なら一人で遠回りしろ!」
ぎゃあぎゃあと不毛に言い争っていると、駅員がおそるおそる手を挙げた。
「お客様、ここから盛岡駅と花巻駅を経由して、東京の方まで向かわれるんですよね」
「……はい、そうです」
「お客様方の目的地が花巻駅且つ、東日本のみの移動であるならば、青春18[#「18」は縦中横]きっぷではなく『北海道&東日本パス』のご購入をお勧めします。こちらは、青い森鉄道といわて銀河鉄道にもお乗り頂くことが可能です」
「それ、18きっぷと何が違うんですか」
「青春18きっぷは一日単位で五日分、期間内ならいつでもお使い頂けますが、北海道&東日本パスは、七日間連続してお使い頂く切符となっております。また、お一人様が使いきる切符となっており、青春18きっぷのように他のお客様へお譲りすることはできません」
「……なるほど。じゃあ、今日買えば、八月十三日までは使えるってことですね?」
「はい。本日から七日間の乗車が可能です」
立花の確認は、妙に日付を強調したものだ。星野は思い出す。確か八月十三日は、立花の兄から立花に最期のメールが送られてきた日だ。つまり、メールを送った直後に兄が死んだのなら、五日後の八月十三日、その日が兄の命日となる。
青春18きっぷの五日間に拘っていたのにも頷ける。立花は、兄の命日を、切符と旅の終わりに設定しようとしている。きっと、その日に父親を殺すつもりなのだろう。
「では、それを二枚お願いします」
立花は即決して、流れるように代金を支払った。星野は慌てて財布を取り出したが、静かに掌で制される。代わりに水色の切符を押しつけられた。切符には「北海道&東日本パス 八月九日から八月十五日有効 一万八百五十円」と明記されていた。
「待って。自分の分は自分で払うよ」
さっさと改札へ歩き出そうとする立花に食い下がると、冷ややかな瞳で見つめ返された。
「なあ。おまえの所持金、いくらなんだ」
「え。大体、十万くらいだけど」
「ほう。夏期講習の予備校代、パクったな」
ぎくりとした。立花はふふんと鼻で笑う。
「ほらな。金を喰い潰すしか能の無い浪人生に、窃盗以外で貯金などあるわけがない」
星野は黙り込む。悔しいことにその通りで、星野は父から貰った講習代を交通費に宛てていた。父には、友人宅に泊まると嘘を吐いている。どうせ殺して全てが終わるのだから、金など適当に使っていいだろうと投げやりだった。殺人をやめた今、これ以上金を使う方が間違っている。立花の言葉は痛い。
そこまで内省し、ふと気が付いた。
「金を食い潰すしか能の無い浪人生って、立花もそうじゃん。まさか、立花も同罪?」
「お、よく気が付いたな。そう。おれも同じ」
軽い口調で立花が答えたので、星野は深く溜息を吐いた。
「なら、尚更悪いよ。今すぐ払うから」
「別にいい。一昨日、母さんの火葬直後に、予備校代だって父さんから手渡されたクソ金だから。むしろ使い潰したいくらいだし」
吐き捨てるように、立花は言う。
「おれもおまえと同じさ。将来なんかどうでもいいと思ってるから使ってるんだ。でも、もう星野は違うだろ」
はっきり一線を引かれたのがわかった。おまえは殺さないだろ、と立花は告げる。
「できるだけ残せよ、その金。東京に帰ったら、ちゃんと予備校行き直して、絵を描け」
立花は歩き出す。だが星野は、その真っ当な提案を素直に呑むことができなかった。確かに殺人をやめたのなら、ちゃんと自らの将来に向き合わなければいけないのだろう。立花の言うことは正論だ。しかし、それでいいのだろうか。自分ばかりがぬるく守られたままで、立花の殺人を止めることはできるのだろうか。もう時間は残されていない。五日後の八月十三日。兄の一回忌に立花は、父親を殺そうとしている。
確かに星野は生きていきたいと思っている。だが、星野ばかりが五日後の先を見据えた上で、この旅についていくのはおそらく違う。
「嫌だ。払う」
星野は財布から一万と千円札を抜き、立花の掌へと押しつけた。
「立花に肩代わりされるのは違う。使った分は必要であれば、自分で稼いで父に返す。わたしも背負いたいよ」
今は、いつかの未来など考えたくない。立花との今を、ちゃんと生きたかった。
「……ああ、そう。勝手にすれば」
札は握られる。立花は振り返らないまま、改札へと呑み込まれていった。
星野は、手中の青い切符を見つめる。これさえあれば、どこまでも行ける。それなのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるのだろう。終着が破滅だからだろうか。
それでも、これさえあれば五日間は立花と共にいられる。今はこの権利に縋るしかない。切符を改札にすべらせ、吐き出された切符を、なくさないようにしっかりと掴み直す。
旅は始まった。途中下車など許されない。改めて覚悟を固め、星野は歩き出した。
青森駅を出発してから、既に二時間以上が経過していた。八戸駅での乗り換えを経て、青い森鉄道のワンマン列車に揺られている。点在していた家々は消え、列車は山中に呑み込まれる。木々の向こうで日が傾き、車内は淡い光に包まれ始めていた。ボックス席の向かい側で、立花は赤いヘッドフォンを嵌めて外界の音を遮断し、ずっと窓の外を見つめ続けている。
大きな川とトンネルを過ぎた先、閑散とした駅に止まる。駅名標に、
「ここが境界だ。この先が岩手県だよ」
ヘッドフォンを嵌めたまま、立花は呟く。
「銀河鉄道って、どっかで聞いたことある」
「『銀河鉄道の夜』のことだろう。岩手に入ったからって、なんでもかんでも賢治に肖るのは汚ねえよな」
立花が吐き捨てたので、宮沢賢治の著書だと思い至った。
「それって、どんな話なの」
問うた瞬間、列車が走り出した。すぐにトンネルが辺りを覆う。真っ暗な暗闇の中、向かい合う立花は言った。
「……ジョバンニとカムパネルラの二人が、銀河を駆ける列車に乗って旅する話だ」
「それだけ?」
「もっと詳しく知りたいなら読め。著作権は切れてるから、全文ネットに上がってる」
立花は窓に目をやる。これ以上説明するつもりは無いようだった。まだ、盛岡到着までには時間があった。星野はスマートフォンで検索して読み始めた。普段から小説を読み慣れていないのと、古い文体のため、読破にかなり苦戦した。
読み終わって、顔を上げる。既に陽が沈み、光が止んでいた。立花の輪郭がくっきりと象られている。その口元が緩やかに歪んだ。
「どうだった?」
「どう、って」
「ひどい自己犠牲の話だっただろう」
強く言い放ち、同意を求める立花に首を傾げる。確かに、物語の最後で、カムパネルラはジョバンニを置いていなくなってしまうが、言うほど犠牲的な話だとは思えなかった。
「カムパネルラは自己犠牲だったかもしれないけど、この物語はジョバンニが主人公でしょ。ジョバンニには希望があったよ」
「いや、この話は自己犠牲に憧れる願望の具現化なんだよ。自らの身を投げて人を助けるカムパネルラが理想で、賢治は凡庸なジョバンニだ。自己犠牲を果たして世界を救済するのが、賢治の究極的な目的だ」
「作者が主人公に投影してるって言うの」
「小説など大抵がそうだろ。賢治はいつだって自己犠牲ばかりだ。この童話以外にも『グスコーブドリの伝記』とか、あとは——」
立花の声を遮るように、俄かに空が狭くなった。窓の外、引き摺られるように視線を向ける。
ひらけた畑の向こう、茫洋とした夕景を逆光に巨大な山が佇んでいた。星野は思わず息を呑む。
「
立花はヘッドフォンを外して呟いた。日没を深めていく空を背景に、岩手山は紺色に光っている。聳え立つ山を隔てるものは何も無い。流れる風や夕陽の残り火を吸い、山は悠々と息をしている。
ああ、生きている。ただ在るだけの自然に対して、明確な生命を感じたのは初めてだった。矮小な人間のことなどまるで気にしていない雄大さが美しく、少し怖い。
「兄さんも、この岩手山を見たんだろうか」
取り憑かれたように立花は言う。宮沢賢治が眺めた景色を立花の兄は辿り、立花はさらにそれを追っている。宮沢賢治もお兄さんも、既に死んだ人間だ。立花は岩手山から視線を逸らさないままだ。
死の踏襲が恐い。後を追わないでほしい。だが、そんな縋る言葉に意味はあるのだろうか。結局、どんなについてきたって傍観者にしかなれず、これからどうしたらいいのかわからない。全て、自分のわがままだと割り切っているが、傲慢さに開き直れないでもいる。花巻に着くことすら恐ろしかった。そこで、全てが終わるような予感さえある。
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう——」
星野はジョバンニの台詞を口の中で転がす。だが、カムパネルラを引き止められなかったジョバンニを真似したって虚しくなるだけだった。今すぐにでも立花が、カムパネルラのように鉄道から降りて、どこかへ行ったって何も不思議ではないのだ。
死にゆく立花に、一体何ができるのだろう。目の前で悠々と青く息衝く山に問うてみたが、勿論、何も答えてなどくれなかった。
盛岡駅、0番線のホームに降り立つ。架線の向こうで西日は沈み、岩手山は紺を深めている。
立花曰く、こんな時間に花巻に行っても宿は見つからないらしいので、その日は駅前のネットカフェに雪崩れ込んだ。さすがに疲労が限界を超え、星野は泥のように眠った。
翌朝ネットカフェを発ち、四十分ほど電車に揺られて、花巻駅に着く。綺麗だが、小さな駅だった。駅の外、ロータリーの中に銀色の柱が何本も聳え立ち、天辺の風車がくるくると回っていた。それ以外には辺りに何も無く、宿泊施設どころか、店すら碌に見当たらない。車通りも疎らだった。
「これからどこに行くの」
立花は、ロータリー横のバス停を指さす。
「宮沢賢治記念館と童話村。で、あとでまた戻ってきて、大沢温泉に行く」
「温泉?」
「せっかくなら良いとこ泊まりたいだろ。昨日、ネカフェで予約取っちゃった」
観光気取りの立花に気が抜ける。死地に向かう旅とは思えない軽薄さだ。
「お、バス来たな」
やってきたバスへと立花は歩いていく。足取りは、極めて平静だ。無理にこちらを振り切ろうとしないのは、何も期待をしていないからだろう。いてもいなくても変わらない。立花にとって星野は、その程度の存在でしかない。そんなの当たり前だ。星野は、立花の期待を裏切ってここにいるのだから。
せめて、その裏切りの分くらいは縋りたかった。星野も追いかけ、バスへと乗り込む。
田園を駆ける土沢線のバスに揺られ、到着したのは、樹々に囲まれた山の中だった。バスを降りる際、運転手から黒いカードを手渡される。土沢線を利用した乗客に配っている施設優待券らしく、宮沢賢治関連の施設に無料で入館できると言う。カードには、プリズムで形成された水晶が地に刺さり、幻想的に光を放つ写真がプリントされていた。
バスは去り、立花と二人取り残される。時刻表によると、次のバスは三時間後らしい。鳴り止まない蝉の声が鼓膜を突き刺してくる。
「こっち」
林に沿って、立花は歩き出した。鬱蒼と茂る樹々の間、枯れた紫陽花の向こうに、緑色の屋根で覆われた木製の渡り階段が現れる。
「この上に、宮沢賢治記念館があるらしい」
階段の終わりはまるで見えない。中々に骨の折れそうな段数だ。星野はふうと息を吐く。
「なんか、いかにもって感じだね」
「いかにも?」
「物々しいというか。怖いよ」
星野は緊張していた。ここは、死んだ立花の兄が目指していた目的地であるし、宮沢賢治の思想に直に触れられる場所だ。ここで立花が生きるきっかけを掴まなければならない。そんな焦燥感に駆られている。
「ここは賢治が造ったわけでもないし、賢治が暮らした場所でも無い。賢治を遺したいと願う、人間たちのエゴが集結した場所だ」
立花は、なんでも無いだろと馬鹿にしたように階段を上り始める。星野は追いかけた。
「それでも、宮沢賢治を愛するその人たちがいたから、ここは建ったんじゃないの」
一歩一歩登るたびに、木が緩く軋んだ。階段横から差し込む日光差しに焼かれ、汗が滴る。足取りが重いくなる。
「でも、賢治はそんなこと望んでなかったかもしれない」
鳴り止まない蝉の声の中、立花は言う。その視線が左下を向いた。星野は気が付く。階段の傍、一段一段に平仮名を書いた紙が貼ってあった。
「よ……く、は、な、く?」
「
「え?」
「『雨ニモマケズ』だ。賢治の死後、トランクの中から手帳が見つかったんだ。その中に書かれていた、有名な散文だよ」
平仮名は段差に延々と貼られている。まだまだ続くようだった。立花は立ち止まらない。
「みんな馬鹿みたいに素晴らしい詩だって崇めるけどさ。おれは、これがふと書き落とした過失だ、という意見に賛同するな」
どこか自嘲を含んだ声だった。言い切られてもわからない。星野はこの作品を知らないからだ。知らないならば、知るしかない。
「……あらゆることを、自分を勘定に入れずに、よく見聞きしわかり、そして忘れず——」
上りながら星野は読み繋げていった。宮沢賢治は、人々を助けるために各地を飛んでいく。確かに、これでは宮沢賢治は聖人に聞こえる。立花も自己犠牲だと言いきっていた。そうかもしれない。だが、最後の一言で我に返る。
「そういうものに、わたしはなりたい……」
「おまえはなりたいか?」
顔を上げると、立花は階段の天辺で立ち止まっていた。逆光のせいで表情がわからない。
「別に、なりたくはないけれど」
「だろうな。おれも共感できなかった」
立花は、宮沢賢治の自己犠牲を忌み嫌っている。星野は確信した。
「でも、兄さんはこれになりたがってた」
立花の青いピアスが揺れる。だから死んだんだよ。そう、自嘲を混ぜた呟きは頼りない。どうにも消えてしまいそうで、慌てて星野も頂上に辿り着いた。
三百段以上の階段を上ったからか、いつのまにか山の中腹に着いていたらしい。ひらけた踊り場からは、花巻の町と遠くの山を望むことができた。駐車場の脇、山猫軒という売店を通り過ぎ、立花は止まらずに記念館へ進んでいく。引き止めたくて、背中に投げかけた。
「あのさ。宮沢賢治って自殺したの」
「してない。病死だ」
「なら、どうしてお兄さんは函館の海に浮かんでいたの」
「なんでそんなことを聞く」
「だって、お兄さんは宮沢賢治を模倣していたんでしょう。その死に方だと模倣にならない。医者になって、誰かを救うことの方が、宮沢賢治の理想には近付けたんじゃないの」
雨ニモマケズを読んでから、引っ掛かっている。自己犠牲を果たしたいのなら、医者になるのが手っ取り早いはずだ。
「違う。ちゃんと、兄さんは模倣できてる。死んだのは事故だ。あの日、兄さんは、
「どういうこと」
「父さんが、兄さんの作品を火に焚べたのが、おそらく発端だった。あの、無駄に広い庭で煌々と焼けてたんだ。ずっと書いてきた兄さんの詩や童話が、パソコンごと、全部」
星野の脳裏に、赤い炎と大人の冷ややかな目が映った。
「『医者になるのに不要だ』と言った、父さんの横で、兄さんは静かに立ち尽くしていた。おれも母さんも何もできなかったよ。やっぱり逆らったらそうなるんだなって、諦めしかなかった。その数日後、兄さんは花巻へと旅立った。その時はただの傷心旅行だと思ってたよ。星野の葉書が無いことに気が付いたのも、そこでだった」
立花は振り返らない。歩みも止めなかった。
「函館山から連絡が来たけど、兄さんが缶をの中に埋めたのは、葉書とせめて旅行中に書いた自分の作品を守るためなんだろうだとわかった。まだ、父に飼われているおれに托したって、どうにもならないのにな。メッセージを見て、馬鹿だと笑っておれは寝た」
それが一年前の八月十三日だったのだろう。
「次の日、兄が水死体で発見されたと道警から連絡があった。深夜、立待岬に寄った兄の前に、自殺しようとした地元の女子中学生がいて、その子を庇って落ちたんだ。まるでカムパネルラみたいに——」
カムパネルラの死を知って、ジョバンニのように絶望した立花の心情を想った。星野の息は絞られたように苦しくなる。
「本当に、模倣したというの」
「確証がなかったから、函館山でおまえと別れてから、立待岬でその子に会ってきた。もう、彼女は高校生になっていたけれど」
星野が母を殺そうとしていた、まさにあの夜と朝だ。立花は自嘲を混ぜて、言う。
「兄さんは、一言、『そのさびしいものを死というのだ』と言って落ちたらしい。彼女がすぐに通報したらしいけど、間に合わなかった。彼女は兄の最期の言葉を調べたらしく、賢治を懇意にしていたよ」
春と修羅の『噴火湾(ノクターン)』の一節だったかな、と立花は呟く。今際すら、賢治の言葉だったらしい。
「賢治は『そういうもの』になりたいと言った。兄さんが体現したのは賢治じゃなくて、賢治の理想だ。賢治自身は雨ニモマケズの理想にも、カムパネルラにもブドリにもなれなかった。だからこそ兄さんは、賢治自身でなく、理想の方になりたがったんだ」
「お兄さんは宮沢賢治の理想のせいで、自己犠牲をゆき過ぎて死んだっていうの?」
「そうだ」
門を抜け、記念館の入口はもう目の前だった。瞬間、立花が急に立ち止まる。星野も既のところで停止した。
「どうしたの」
立花は何かを見ていた。視線の先を追う。
木漏れ日の射し込む新緑の前、こちらを見下ろすように四角い彫刻が建っていた。分厚い直方体を抉るように放物線が右の空へと走る。線の先、一羽の鳥が瞬くように飛び上がっていた。
「なんでもない。行くぞ」
明らかに立花は動揺していた。星野は像を凝視する。その鳥は飛び上がっていたが、流星のように落ちているかにも見えた。
正体を知りたくて、近くにあったプレートを見る。瞬間、星野も固まった。
「これ、何」
「何って、そこに書いてあるだろ」
「わたし、宮沢賢治に詳しくないからわかんないんだよ。ねえ『よだかの星』って何」
「この像の通り、よだかが星になる話だ」
立花は顔を歪ませながら笑っていた。星野は確信を得るため、鞄を探る。金属の冷たさを掠めて、一枚の葉書を掴んだ。どうか、間違いであってくれと願いながら。
取り出した星空の絵をひっくり返す。葉書の表面、真ん中の宛先。そこには『立花よだか』と書かれていた。偶然だとは思えない。だから、立花の名前の由来は、きっと。
「ああ、そうだよ。おれの名前はこいつからつけられた」
立花は像を見上げる。よだかは動かないまま、飛翔している。
「正しくは
葉書を握る手が震えていた。本当に星野は、何をも知らない。
「小学生の頃にあったろ。自分の名前の由来を調べなさいって宿題。母さんに聞いたら、こいつの絵本を手渡されたんだ。読んで、心底絶望した。おれは、虐められて死ぬことを望まれているんだって」
「……そんな」
「おれはこの物語も、名前も本当に嫌いだった。なのに、兄さんがこれらを真似して死んだなんて、簡単に納得できるわけがないだろ」
でも本当だった、と立花は呟く。函館で兄が救った少女と、掘り返した兄の言葉で、立花は確信を得たのだ。
「こんな名前なんて、鷹でも兄でも、賢治にだってくれてやる。だからおれは、全部を越えてやるんだ」
立花の目が青く光る。輝きを纏ったまま、立花は言い放つ。
「よだかも兄さんも父を殺さなかった。だから、おれが父を殺す」
揺るぎない姿がそこにあった。星野は息を呑む。
全てを呑んで耐えてきた立花の思いは純真だ。それなのに、どうしてこんなにも脆く感じるのか。動かない像に比べて、あまりにも頼りない。殺した途端に弾け、今に消えてしまいそうだった。
星野は、立花を追って記念館の中に踏み入れる。不意に時の止まったような、厳かな空間が存在していた。文学館に来たのは初めてだが、どこか美術館に雰囲気が似ている。立花は立ち止まることなく、展示室へと進もうとしている。星野も、優待券を見せて入った。
入ってすぐの壁に、絵が展示してあった。尖った青い山の向こうで、赤い陽がぼんやりと輪を発している。『日輪と山』という題名と共に、宮沢賢治の名前があった。宮沢賢治も絵を描いたのだと初めて知る。文字だから対岸の世界だ、と無意識に見做していたのかもしれない。宮沢賢治も、絵を描くどうしようもなさと孤独を知っていたのだろうか。殴られたような気持ちになった。
絵から目を背けると、岩手県の形が描かれたガラスパネルに突き当たる。上部には、イーハトーブと書かれていた。宮沢賢治が定義した、理想郷を意味する言葉らしい。実際の岩手県の地名と宮沢賢治の世界がリンクしていた。宮沢賢治の内だけに存在した世界は、もはや現実を侵食しているらしい。
パネルの先、ひらけた空間に出る。中央には二重の円が描かれ、モニターと柱がそれを取り囲んでいた。同心円状に資料が鎮座し、壁までを覆っている。立花は、その円の中心に立ち尽くしていた。目まぐるしく変わる、眼前のパネルをじっと見つめている。目の前の男は、宇宙を象る空間の中で、どこまでも孤独に佇み、残酷なほどに完成されていた。今に始まったことじゃない。美術室にいたあの時から、誰をも寄せつけない眩しいほどの覚悟に、いつだって星野は引け目を感じている。
ここは、宮沢賢治の創った理想世界を、現実に反映させた場所だ。その中央に、よだかは身一つで存在している。全ては殺して死ぬためだ。それを阻止しようとする星野の方が間違っているように感じる。捻じ伏せられるほどの説得力が、ここには存在していた。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と宮沢賢治は語る言う。どの展示も綺麗だった。だが、夥しいほどの叡智に囲まれて、作品の源泉はわかっても作品や作者自体を掴むことができない。
『セロ弾きのゴーシュ』の直筆原稿と、宮沢賢治私物のチェロを横目に、展望ラウンジへと抜けた。ガラス張りの外を見る。広い森の向こうに、花巻の町と川が見えた。ようやく現実に戻ってこられた気がする。理想に酔っていた。
どうにも美しすぎる。宮沢賢治そのものが一つの神であるかのように語られている。違う。今、星野が知りたいのは、語り手の人生では無い。語り手が濾過して遺した、小さな物語の方だった。ソファに腰を下ろし、スマートフォンを握る。『よだかの星』を検索して読み始めた。
物語のよだかは理不尽に嫌われていた。名前が似ているというだけで鷹に虐げられ、市蔵への改名を迫られる。改名を嫌い、鷹に殺されることも甲虫を殺すことも嫌がったよだかは、遠くへと駆けていく。はちすずめやかわせみの兄弟に別れを告げ、星になりたいと星たちに希うが、誰もよだかを救わない。行き場を無くしたよだかは、どこまでもどこまでも落ちて飛んで、果てで星になる。カシオピアのとなり、天の川のうしろで。
読み終わり、ふっと息を吐く。先程、立花が語ったあらすじは、概ね的を射ていた。立花が物語を曲解したわけでは無いと知る。
「ちゃんと読んだのか。熱心だな」
顔を上げると、立花が傍に立っていた。星野のスマートフォンを覗き込んでくる。
「それで、何かわかったか?」
嘲笑うように立花は言う。これは期待ではない。諦めの証明だ。本当に自分は変わらないのだと、星野を下し、証明したがっている。
「本物のよだかにも兄弟がいたとか、そのくらいはわかったけど、かな。あとは、立花から聞いた通りの話だったよ」
挑発には乗らない。活路など無いが、わからないと嘆いたって立花の思う壺だろう。
「兄さんの名前も、ひすいなんだ」
「ひすい?」
「ひすいは
「代わりって」
「政略結婚だ。病院の跡継ぎの男を産むため。立花家で、母の価値などそれしか無い」
立花の瞳が、暗く鈍った。
「妾だったら、まだ愛はあったのかもな。父は母を選んだわけではないが、父に愛人がいたわけでもない。父は全てに無関心だった。妻ですらそんな扱いの家で産まれたおれたちだ。医者になれないなら、息をする価値すら無いんだよ」
立花はふっと息を吐く。些細な呼吸の全てで、父を心底軽蔑しているようだった。
「こんな環境だ。母は、元々おかしかったけど、兄さんの死が引き金ですぐに壊れた。父さんは病院に入れただけで、勿論何もしねえし。母さんの看病はずっと、おれがしてた」
星野は気が付く。お兄さんが亡くなったのが去年の今頃だとすると、夏休み明け、母親の看病で、立花は高校に来なくなったのだ。
「それで、とうとうこの間亡くなった。結局、葬式の準備も全部おれがしたよ。なのに、火葬終わった最後の最後で『母さんのためにも医者になれ』って夏期講習代の三十万手渡されて。ふざけてるよなあ。金ふんだくって式場飛び出して、テキトーに服買って、喪服はゴミ箱にぶち込んで、切符買って飛行機乗って……ま、今に至る的な?」
なんでもない、とでも言いたげな軽い口調だ。なんでもないわけがないのに、どうしようもない激情を押し込めて、笑っている。
「そういうわけだから、他に道はないよ」
宮沢賢治を崇める箱の中で、規定された男は自棄気味に語る。全ては定められているからどうしようも無い、とでも言うように。
「凶器は、持ってるの」
「火葬場からは、財布と携帯だけ掴んできただけだからな。おまえみたいにわざわざ東京で調達してくるほど用意周到じゃないよ」
薄いショルダーバッグをぽんぽん叩く。曲がり形にも医者の息子だ。刺殺も絞殺も毒殺でも、殺ろうとすれば何だって殺れるのかもしれない。
ふと、べこんと音がした。立花はバッグから、黄色の缶を取り出していた。中から紙束を引き抜いて、星野の目の前にぶらさげる。
「結果的に遺書になっちゃったこの手紙、読むか」
「いいの」
「おれの全部を知りたいんだろう」
舐められている。わかったところで何も変えられない、と立花は決めつけている。だが、断る理由は無い。星野は掴んだ。
少し筆跡が荒れてはいたが、そこには、端正な文字が並んでいた。
賢治のように、迷いの跡など全て処分してくれと言えないのは、俺が未熟だからだろうか。あの瞬間の俺は、あの時にしかいないから、過去の自分や母や弟の苦悩を喪ったことは悔しい。何度でも書くつもりだが、賢治がトランクに忍ばせた遺書のように、各地に作品を埋めていこうかと思っている。
東京を経って、今、ここは平泉だ。詩碑を通して、合祀された賢治の魂に手を合わせている。喪った影に浸るように、俺は花巻に向かっている。このまま賢治のように、
医者になることは、正しい道だと思う。学問も実習も好きだ。人間の精密さを紐解いていく実技は面白いし、己を削って誰かの命を救うのは、自分の本意でもある。その意味では、俺を医学へ導いた父には感謝している。
だが、父が、母に手を上げ、弟が医者を継ぎたくないと叫ぶたびに、俺は間違いを自覚する。医学を志すと、父の期待へ応えることになる自分のことを心底恨んでいる。医学を愛するのも俺で、父のレールの上を歩くのも俺だ。どれも紛れもない俺の意志だとしても、父の期待に真っ当に応えることで、父に沿えない母や弟を間接的に苦しめている。それが嫌で堪らなかった。
先日、父に尋ねた。どうして医者になったのか、と。それでしか生きることを許されなかったから、と父は答えた。父は今の今まで祖父の期待を裏切らず、妻を愛することなく、子を跡継ぎの道具だと思考を止めている。
文章を書き続けていたのは、父への反抗心が大きかった。焼かれるのも条理だ。俺は、父に反抗する話をたくさん書いてきたから。
俺は、父のように医学だけは選べない。医学も文学も選びたい。病人は勿論、母や弟、父すらも、俺は救いたいと願っている。賢治か、父か。そこに素因を求めることなく、俺は俺自身の答えを見つけ、貫きたい。
よだかがこれを掘り起こす時、俺はそうあれているだろうか。読んだら、また同じ場所に埋めておいてほしい。もし、俺が死んだら、全てはよだかに托したい。
よだかが必ず掘り起こすよう、大切な葉書を奪って、人質にして申し訳ない。葉書は同封したので、返す。
立花ひすい
読み終わって、顔を上げる。立花はガラス越しに花巻の町を眺めていた。星野は声を漏らす。
「葉書は、人質だったんだ」
自分の絵にそんな価値があると、立花の兄にも思われていたことが意外だった。
「人質は返すものだろ」
立花は振り返らずに言う。立花の人質であるなら、やはり立花が持つ方が正しいのではないかと思うが、訊くまでもなく、立花は譲らないだろう。深く息を吐き、星野は問う。
「お兄さんが書いた作品は、どこに」
「ああ。缶の中に同封されてたよ」
立花は缶をしまう。見せる気はないようだった。立花は、腰掛ける星野に近付いた。星野の目を真っ直ぐと見下ろして、告げる。
「おれは賢治を憎んでる。賢治がいなければ、兄さんはこんな阿呆な自己犠牲を得ることは無かったし、おれがこんなくだらない名前をつけられることは無かった」
宮沢賢治という存在に狂わされたからこその言葉だ。立花は星野の持つ遺書を抜き取る。
「兄さんが死んだから、おれは心置きなく父親を殺せるんだ」
立花は笑った。この笑みは優しさでも期待でもない。殺さないことを選んだ星野を、心底馬鹿にしている。だが、切実がわかってしまうから、やめろだなんて言えなかった。
「おまえが何したって無駄だよ」
そうだ。立花は変わらない。殺人をやめろなんて言ったって、立ち止まりやしない。
だからこそ、立花に固執する自分の本心がわからない。母親への憎しみや、妹への愛、殺人への必然が跡形もなく消えたわけではない。まだ憎い。まだ、愛している。星野だって全て変われたわけではない。どうしてこんなに立花の笑顔が痛いのか。どうしてここまでついてきているのか。どうして、あなたをなんとかしたいと思っているのか。。
「おまえは、おれをどうしたいの」
今、星野に答えられる言葉はなかった。声を詰まらせ、ただ、胸を痛めることしかできない。痛いという事実だけがあって、その理由に見当が付かない。無力なだけだ。
しかし、ここで星野が歩みを止めたら、立花は星野の預かり知らぬところで父親を殺し、そして死ぬだろう。それが堪らなく嫌だった。理由は庇護か、正義か。そんな真っ当な感情ではない気がした。
ずっと負い目がある。喪った立花を置いて、陽の光を浴びているような罪悪感が、細い炎のように揺らめいている。置いていけない。そう思うのは同情か。いや、憐れんでいないのだ。だって、あなたはこんなにも美しい。
やはり、わからない。それでも立花は星野を振り払おうとはしていない。それが、今の全てだった。
長い階段を下りて、バス通りに戻る。先刻とは反対の方向に向かう。広い駐車場を越えると、銀河ステーションと書かれた、駅のような建造物があった。ぽっかりと門が開いており、向こう側を覗くことができる。ここが、童話村の入口のようだった。
「童話村には何があるの」
先を行く立花に尋ねる。入口で貰ったパンフレットを開きながら、立花は答えた。
「さっきの記念館が賢治自体の展示だとしたら、こっちは童話の世界をイメージした場所らしい。例えるなら、さっきのがウォルト・ディズニーの生い立ち紹介で、こっちがディズニーランドみたいな感じだろうな」
「なるほど。よくわかった」
「それにしても文豪単独の記念館だってそうないのに、こうやって抽象化された夢の国なんて、日本では賢治以外に無いだろうな」
「宮沢賢治って、そんなにすごいの」
「最早、神格化に近いんじゃねえか。賢治を直接知る人間も、もう殆どが死んだ。あとは、伝承で語り継がれていくだけだから。死後、その言葉を継いで、影響される人間は多いだろうよ」
だから兄さんは呑まれたんだよ、と立花は言外に匂わせていた。宮沢賢治への憎しみは止まない。
門を抜けた石畳の上、赤と青のモニュメントにイーハトーブの英文字を見つける。ようこそ、イーハトーブの森へ。やはりここは、夢の国なのだろうか。高い木々の向こうで、青い芝生が遠くまで広がっている。夏の風が吹いて、星野の頬を優しく撫でた。
芝生の手前、立花は森の小径を歩み始めた。樹と植物の間に、ぽつりぽつりと虹色の水晶が光る。バスで貰った優待券に描かれていた水晶だ。導かれるように、プリズムの光が木の葉の隙間を縫って走る。合間には宮沢賢治の作品の引用と、花々の説明がかかれた、青い看板が等間隔で佇んでいた。
星野は立花の青い背中を追った。森の中、水辺の桟橋に虹色の十字架が建っていた。十字架は水面に反射し、虚像を結んでいた。自然の中に生える人工物が、ここの所在を惑わせている。十字架を背に立花は佇む。なんだか立花の背中ばかりを見ている気がする。函館山までは立花がついてきていたのに、すっかり先導が入れ替わっている。見失わないようにするだけで、精一杯だ。
森を出て、賢治の学校に入る。大きな椅子が置かれた白紙の空間や、真っ赤な通路、銀河の瞬く鏡張りの世界を超えていく。外のログハウスにも上った。宮沢賢治の作品に関する鳥、星、動物、植物の展示が一棟ごと、パネルと共に並んでいた。ヨタカの説明で足を止める。体長三十センチほどの、夜行性の鳥。けして美しい鳥ではないが、毎晩うるさいくらいに鳴くらしい。不意にぱっと壁が光った。ガラス越しの壁の中にヨタカの剥製が鎮座していた。星野はその姿を見つめる。茶色の斑模様から見える嘴は短い。目もどこか腫れぼったい。立花にはまるで似ていなかった。
それらの展示の全ては衝撃にならず、すうすうと星野の中を流れていった。ちゃんと情報を得ようと目を凝らしても、絵も文字も滑って、ただ小綺麗だとそればかりを思った。もしかしたら賢治さんはそう感じていたのかもしれませんね。客観ぶった解説を述べるパネルを読むたびに、どれもこれも宮沢賢治の主観では無いのだと、冷めた気持ちを抱いた。
この全ては賢治を遺したいと願った人間のエゴが集結した場所なのかもしれないだ。立花からの受け売りの言葉が警鐘を鳴らす。確かにこの地では、宮沢賢治は再構築され、実世界に根を張っている。だが、この展示だけを鵜呑みにして、『宮沢賢治』その人を信じてしまうのは、些か乱暴であるように感じる。これならば作品を読んでいた方が、宮沢賢治に近付ける。ここはまやかしの世界だ。どこか遠い。
ログハウスを下りると、芝生の平原へ繋がっていた。中央には、先ほど見た虹色の水晶がいくつも集まり、輝くメリーゴーランドのようなモニュメントを形作っていた。近々イベントを開催するのか、ステージの設営がいそいそと進められている。星野は、その横をただ通り過ぎた。ここに加わって誰かの語る宮沢賢治を聞くのではなく、自分の感じた宮沢賢治に辿り着きたい。そうしなければ、おそらく立花との対話は叶わない。
立花は立ち止まることなく、童話村の外へと出る。歩きながら、右手の腕時計で時刻を確かめていた。星野もつられて、携帯で時刻を確認する。三時間後だった帰りのバスは、あと三十分後ほどに迫っていた。
いざ、道路に向かう直前のことだった。童話村の駐車場を横切る途中、立花の足が不意に止まる。追う星野も立ち止まった。そこには、小さな貨車を象ったような店があった。近くには、白鳥の停車場と書かれた白い駅名標が立っている。前の駅が銀河ステーションで、次の駅が鷲の停車場らしい。星野は童話村の方に振り返る。その門には変わらず、銀河ステーションと書かれていた。
「行きは、こんなの気付かなかった」
「反対側を通ってたからな」
立花は露骨に顔を顰める。深入りすることで、さらに機嫌を損ねるかとも思ったが、立花が先に立ち止まったのだと思い返し、臆せず続けた。
「白鳥の停車場って、確か、銀河鉄道の夜に出てくる駅名だよね」
「ああ。童話村を銀河ステーションだと見立ててると、その隣にあったるから、この名前をつけたんだろうのかな」
口にしながら、星野は立花の表情を仰ぎ見る。その表情はやはり陰っていた。これも、宮沢賢治のくだらない踏襲だと軽蔑しているのだろうか。星野はガラス越しに中を覗き込んでみた。どうやら雑貨屋のようで、陳列された石がきらりと光るのが見えた。立花のピアスに眠る、青い宇宙を思い出す。星野は今一度振り返り、立花の髪の間のピアスをじっと探した。立花は、怪訝な表情を浮かべる。
「何」
「その、立花が付けてるピアスみたいな石が中にいっぱいあるなって、気になって」
「見たいの?」
「できるなら」
素直に答えてみた。石の類は嫌いではない。まだ、バスが来るまでは時間があった。立花も立ち止まったのだ。もしかしたら、少しくらい惹かれているかもしれない。
「わかった。入るか」
案外、素直に頷いたので面食らう。やっぱり立花も気になってたんじゃんと茶化すには、立花の機嫌がよくない気がしてやめた。ガラス戸を開ける立花に続いて、中へと入る。
白鳥の停車場は、煌めく石がぎゅうぎゅうに詰まった、銀河のような場所だった。水晶やトパーズ、地層を象ったような縞模様の石、サファイヤなどの原石やアクセサリーが、河原に並ぶ礫のように棚の上を埋め尽くしている。多くのものが星を模しており、宮沢賢治の天体世界をイメージしているようだ。
その星間を縫うように、宮沢賢治作品の豆本が数冊置いてあった。どれも掌に収まるほどの小ささだ。濃紺の表紙、よだかの星を手に取る。ページを捲ると、極小の字で物語が紡がれていた。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのをみました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。
「なあ。これ、似合う?」
立花の声が降ってきたので、星野は顔を上げる。立花は、一組のピアスを掴み、左耳に下がる青い石に重ねていた。星野は息を呑む。重ねた金色のピアスは、どこか歪んだカシオピア座のような形をしていた。
「……それ、確信犯?」
立花はこちらの豆本を覗き込んで、笑う。
「そう、わざと。よだかの星の最後に準えたら、星野が嫌がるかなと思って、やった」
「全然似合ってない。馬鹿じゃないの」
「あ、そう。じゃあ買お」
「勝手にすれば」
明らかな挑発に辟易する。立花は、カシオピアのピアスを手の中に握っていた。どうやら冗談では無く、本気で買うつもりらしい。
似合っていたから、嫌だった。耳元で光るカシオピアの瞬きは、恐ろしいほどに綺麗だった。まるで、立花がその隣に収まることが条理であるかのように——。覆すためについてきているのに、惹かれた自分に嫌悪する。
「なあ、このピアスいらん?」
立花は、耳に下がっていた青いピアスを外す。宇宙は、掌へころんと転がった。
「いらない。わたし、穴開いてないし」
「開けてやろうか」
「結構です」
「痛くないよ。ピアッサーでサクッと一発」
「だから、いいって」
痛いのが嫌なわけではなかった。死にゆく人間に、傷つけられては堪らない。開いた穴に意味を見出そうとする自分が、容易に想像できて声を荒げた。意味のある傷なんてつけられたくない。そんなものつけられたらの、一生癒えてくれないだろう。
「持っててくれよ。兄の形見なんだ」
「尚更やだよ」
葉書ですら嫌なのだ。これ以上、綺麗なものをこちらに押しつけてほしくない。
「改めて見ると、なんだかよだかの星みたいだな」
諦めたのか、立花は青いピアスを上に掲げる。ピアスは電燈の光を吸い、その中心が青く蠢いていた。
「ま、兄さんは、そんなことは何も考えず、おれにくれたんだろうけどさ」
「なんで、ピアスなんか開けたの」
「兄さんの真似をしたかったから」
きょうだいなんかそんなもんだろ、と立花は笑う。横髪の影、ピアスを失くした耳朶には、凹んだような小さな穴が開いていた。
「もう真似なんか願い下げだけど。おれは兄さんとは違う」
立花は青く揺らめくピアスを手中に収め、ぎゅうと握り込んだ。
「どうかカシオピアにいけますように、ってそのくらいは物語のよだかに祈ってもいいかな」
よだかは、カシオピアの隣で燐の火になって燃える。カシオピアにいくということは、つまり、死ぬということだ。
「願うとか信じるじゃなくて、祈るんだね」
星野からみて、祈るという自己本位な言葉は、死にたいという吐露と相反するように感じた。立花はどこか不安げに笑う。
「願うとか信じるって、見返りを頂戴っていう期待が見え見えじゃん。叶わなきゃ意味が無いみたいな、同調圧力というかね。でも、祈りは片想いだ。祈るのは自分の責任だから、祈った時点で果たされてんだよ」
「じゃあ、叶わなくてもいいってこと?」
「いや、殺したいし、死にたいよ。おれが祈るのは、おれにだけさ。物語のよだかであっても、誰かに願ったり、誰かを信じたりしたら、叶った時はそいつのおかげになるし、叶わなかった時はそいつのせいになるだろう。それが嫌なんだ。責任は自分で負いたい」
だから死ねる、と立花は呟く。果てしないほどの自己完結だった。生死には誰も介入させないと、立花は厳かに主張している。
星野は、母を殺して死のうとした自分のことを思う。あの時、星野の世界には誰もいなかった。個人で世界は完結し、一人で死にたいと願っていた。だから、死にたいと祈る立花のことを、やはり心から否定はできない。星野は、そんな完結した孤独を知っていた。
「死ぬ間際に、もっかい托すよ」
立花はピアスを持って、レジへと向かった。会計を済ませる立花を、ぼんやりと見つめる。立つ鳥跡を濁さず。一人で死にゆくくせに、星野にピアスや葉書を托そうとする、ちぐはぐさがある。踊らされる自分に嫌気がした。托そうとするのは、寂しいからではないだろう。遺したところで、その時点で既に立花は死んでいるだろうから——。
星野の眼前に、青い石が光った。立花の青いピアスよりずっと深く暗い青が、金色のチェーンの先、二重螺旋の端に括り付けられている。指に巻くようにしてチェーンを持ち上げると、螺旋に掛かる青い球の隣で、金色に輝く羽根が揺れた。
よだかの星だ。わざわざ確かめなくてもわかった。よだかを模したそのネックレスを、チェーンが食い込むほど強く握り込む。飛ぶようにレジへと進んだ。わたしも祈りがほしかった。立花は自死の祈りをカシオピアにかけ続けている。ならば、わたしは今、何の祈りをもって、立花と関わろうとしているかをわかりたい。立花を信じるのでも願うのでもなく、できることなら祈りたい。
包装を断り、そのまま首へチェーンを回す。金属の冷ややかさが首筋に触れた。軽く引っ張ると、いとも簡単に首が絞まる。星野は薄く自嘲する。まるで自ら囚われているみたいだ。おまけです、と店員から一枚のシールを渡された。それは偶然にも、よだかの星のラストシーンを切り取ったものだった。真っ赤な地平を飛ぶよだかが、赤く光りながら天へとのぼっている。星野はシールを乱雑にポケットへと入れた。
「お前も買ったの」
店の外に出ると、駅名標に寄りかかる立花が星野の方を向いた。その両耳には、一つずつ歪なカシオピアが揺れている。
「うん。一目惚れしちゃって」
「ふうん」
立花は星野の首元を一瞥したが、特に何も言わなかった。このネックレスがよだかの星を模したものだとは、多分気付いただろう。だが、向こうが触れないなら、こちらから明かすのは気恥ずかしい。歩き出す立花に、何も言わずについていく。踏み出すたびにチェーンが首筋を擦った。
駐車場の端、塗装の剥げた自動販売機が目に留まる。側面は紺色の星空で塗られており、よだかの星という白い文字と、天にのぼるよだかが赤く光る画がかかれている。先程貰ったシールと同じで、このよだかも何故だか赤い。
「なんで、のぼるよだかは赤く描かれるんだろう。よだかの星は青いのに」
作中では、よだかが赤く燃えたとは書かれていなかった。青く燃えるよだかが正しいはずなのに、絵はどうにも赤い。
「星は温度が高いほど青くなる。よだかも最初赤く燃え始めたのが、もっと燃えて、青く光ったんじゃねえの」
燃えかけだから、赤いのか。最後の最後で、ようやくよだかは青くなる。星になって、死んだから。立花は振り返らないまま進んでいく。短い髪の隙間で、金色のカシオピアが立花に寄り添うように瞬いている。カシオピアのピアスは、嫌なほどによく似合っていた。
あなたもよだかのように、殺した血で赤くなり、最後に死んで青くなるのだろうか。賢治も兄もよだかも嫌だと言いながら、結局、名前を踏襲している。皮肉ながら、これがあなたの生き方であり、確かな祈りなのだろう。それがあなたの祈りなら、どうか、ちゃんと見届けたい。終わりで死ぬと決めているとしても、今、葉書やピアスを托す役目は与えられている。まだ、そばにいられる。終わりまでは、そばにいたい。旅が終わるまでに、わたしも祈りたい。祈りを知りたい。わたしがわたしに何を祈るのか、わたしが一番知りたがっている。
首に擦れるチェーンが熱い。金色の鎖を辿って触った螺旋の先、青い石を握る。ひとりでは飛ばせない。星野は、バス停に向かう立花の方へと駆け出した。
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