函館②

 宙に浮くガラス張りのゴンドラの下で、日没の街が壺型に輝く。観光客で犇くロープウェイは、山に沿って、ゆっくりと上昇し続けていた。星野は、隣の立花の顔を覗き見る。瞳に淡い光が映るばかりで、その感情は量れない。

 最大高度に辿り着いたゴンドラは、静かに加速し、ついに止まった。僅かに揺れて、ドアが開き、人が一斉に吐き出された。途端、立花は出口へと飛び出していた。

 飛ぶ鳥のように駆ける立花に追い縋る。階段を駆け上って売店を過ぎ、阻む全ての群衆を突っ切り、外へ飛び出す。激しい夜風で横髪が散って、星野の視界を遮った。

「こっち」

 立花の声がした。髪を押さえて、姿を探す。立花は、上へと向かう人の流れに反して、下りようとしていた。どうにか追いかける。

 下りたそこには広場があった。奥には、函館山と刻まれた石碑が建っていて、そこで立花は立ち止まっていた。石碑まで追いつくと、立花は先へと分け入る。先は崖だ。一瞬、落ちるのかと思ったが、立花はしゃがんで、地面に生えた草を掻き分け始めた。

「なあ、ナイフ貸してくれないか」

 立花は目線を向けないまま、こちらに掌を差し出す。勿論、躊躇った。

「何に使うの」

「掘り進めたいんだ。もっと、深く」

 向いた立花の指先は、茶色に汚れ、爪先にぎっしりと土が詰まっていた。そんな泥臭さに、ただならない切実を感じた。

「……わかった」

 どうせこのあと、人間を刺すだけの刃だ。土で汚れるくらい、どうだっていい。鞄からナイフを取り出し、立花に手渡す。

「助かる」

 立花は刃先を地面へ突き立て、掘り始めた。ナイフはシャベル代わりとなり、草を切って、地面を深く削っていく。しばらく掘り進めていくと、不意にその手が止まった。立花はナイフを土に置く。腕を穴の中に伸ばして、そのまま引き抜く。

 戻ってきた土塗れの手には、見覚えのある黄色の缶が握られていた。

「それ、さっきの……」

 その缶は、立花が先程海に投げた物と同じだった。土の中で眠っていたせいか、塗装は所々剥がれて、少しだけ変色している。プルタブは引かれており、飲み口にはガムテープが貼られていた。立花は躊躇なく引き剥がす。穴は黒く、ぽっかりと口を開けていた。指を差し入れるが、届かない。缶を振っても、何の音もしなかった。

 立花はナイフを拾い、缶の円周を切り始める。ぐるりと回り、切られていくピエロの反対側には函館夜景の写真がプリントされており、「私を夜景に連れてって、夜景を見たら結婚しようよ」という軽薄なキャッチコピーが書かれていた。ナイフの刃先は、そんな言葉すら否定するように割り入っていく。一周したところで、ようやく缶は折り開かれた。

「……見つけた」

 立花は中身を引き抜く。出てきたのは、厚い紙束だった。その束を開く。

「ああ。やっぱり、ここにあったんだ」

 立花は立ち上がる。汚れたナイフをパーカーの裾で丁寧に拭き、星野に手渡す。

「ありがとう。助かった」

「……どういたしまして」

 星野はナイフを鞄にしまった。立花は、紙束から一枚の紙を引き抜き、こちらに向ける。

「あと、これも返すよ」

 差し出されたのは一枚の葉書だった。星野は訝しげに見つめる。だが、そこに書かれている宛名を見た途端、息が止まった。おそるおそる掴み、震える指でひっくり返す。

 星野の予想通り、裏面には絵があった。濃紺の夜空に、乳白色の天の川が流れている。青や赤や金色の鮮やかな星々がぶちまけられて、きらきらと輝いていた。

 見間違うわけが無い。これは、星野が描いて、立花に送ったはずの残暑見舞いだ。

「なんでこれが、こんなところにあるの」

「うちに着いてすぐ、兄さんに見せたんだけどさ。それから、いつの間にかなくなってて。取られたんだ。家の中、どこ探してもなかったから、きっとここだとは思ってたんだけど」

 立花の声に懐古が宿る。まるで、二度と取り戻せない何かを悼むような声色だ。

「星野の住所、葉書にしか書いてなくて。だから返事できなかったんだ。ごめんな」

 優しい声が夜風に散った。違う。今更、懺悔が欲しいわけではないのだ。

「そんなことを聞きたいんじゃない。なんで函館の山頂の埋められた缶の中なんかに、葉書があるの。お兄さんはどこに」

「死んだよ。函館の海に浮かんでた」

 これで満足かとでも言うように、立花は嘲笑する。はっきりとした加害の笑みだった。

「行く時は、ただの旅行だ、と言ってたんだけど。ちょうど一年前の八月十三日の深夜にメールが来てな。この石碑と、黄色いガラナの写真と『掘り返してくれ』って、ただそれだけ。そのあと、下山して海に落ちたんだろう。この紙の束は、おれに托されたものだ」

 立花は握り締めていた紙束を背負っていたショルダーバッグへとしまう。

「兄さんが勝手に持っていったが、これを返したかったのは、おれのエゴだ。ここまでおまえを連れてきたのもおれのわがままだよ。今までごめんな」

 既に、声は終焉を纏っていた。立花は踵を返して、歩き始める。なんで。まだ、何も解決していないのに。星野は叫んだ。

「なんで返すの!?」

 立花は振り返らなかった。展望台に続く階段を上ろうとしている。数多の人の波に紛れ、すぐにでも見失ってしまいそうだった。星野は必死に追い縋る。踊り場へと出たが、立花はさらに螺旋階段を上っていた。また追いかける。

 登り詰めた天上に立花の背中があった。手すりに乗り出し、夜景を見つめている。その輪郭は夜に溶けかけていた。今にも強風で飛ばされそうな葉書を、星野は強く握り締めて、立花へと差し出す。

「返す」

「いい。星野が持っててくれ」

 立花は振り向かないままで、ただ夜景を見つめ続けている。星野も立花の背中越しに光を見た。遮る物は何も無い。漆黒の海の上で、壺型の街が美しく輝いている。この光は、全て人が灯す光だ。だが、この天上からは全てが夜景の一部となり、一つ一つの光の意味を知り得ない。どこかの光の中では、子供が殴られているかもしれないのに、ただ美しいと思ってしまう。身勝手な美しさだった。

「これは、あなたのために描いたの」

「わかってる。だからこそ返したい。その絵だけは、綺麗なままでいてほしいから」

 立花は呟く。葉書の中では星が輝いている。しかし、葉書の中だけだ。あるはずの星々は、夜景の眩しさに霞んで見えない。頭上には、ただ黒い空がぽっかりと浮かんでいるだけだった。

「なにそれ。だってわたしはこれから母を殺すんだよ。どうせ血塗れになるだけだ」

「そうかもな。それでもおまえが持っているのが正しい。おれが持ってちゃ、駄目だよ」

「なんで」

「星野を巻き込みたくない」

「な……、なに。こんな、勝手にずっとついてきて、脅して、今更何を言ってんの⁉︎」

「違う。おれも同じなんだよ」

 そこで、ようやく立花が振り向いた。背景で街が輝くから、顔が仄かに陰っている。眩む逆光の中で、その瞳が青白く光った。

「おれも、父親を殺そうとしてるんだ」

 瞬間、ぱちんと全てのピースが嵌まった。立花の瞳は、陰る美術室を思わせた。何一つ、あの時から変わっていないのだ。何もかもが。

「星野が母親の絵に憎しみを込めていたを描いてたから、おれだって父親が憎くて良いと思えたんだ。おまえだって、憎しみは消えないと言っていただろ」

 夕陽の陰る美術室で、誰が憎いんだ、と問う立花の声がリフレインしている。あの時、星野は確かに母が憎いと答えた。そうだ。立花は星野の憎悪を一度も否定しなかった。

「おまえが空港でナイフを持っていたから、もしや、これから殺しに行くんだってわかったよのかと思って。自分と同じ境遇の人間の先を確かめたかった。だから、おれは星野を追いかけたんだ」

 やっとわかった。立花が聡かったのは、こちらの憎悪と殺意に共感していたからだ。

「一年前に兄さんが死んで、一昨日、母さんも病死した。兄さんがいないなら、医者になる意味が無い。生きる意味もとうに消えた。父だけが生きていくことをおれは許せないんだ」

 滔々と語る立花に、風が切り裂くように強く吹きつけている。その耳元では、宇宙を閉じ込めた青いピアスが激しく暴れていた。

「どこにも行けないし、誰も助けてくれない。だから、殺すんだ」

 なあ、と立花は優しく笑った。

「おまえならわかってくれるだろ」 

 立花の表情がひりついて、歪む。今にも燃えて、消えてしまいそうだった。

「わかるよ」

 だから、星野は共感を吐いた。痛い。痛いよ。あまりにも疼いて、熱い。鉛筆で刺された左肩を掴んで叫んだ。

「わかるよ。だって、今までどんなにやられて殴られて、奪われてきたと思ってんの⁉︎」

 ああ。この痛みに意味があるのだと、あなたは言ってくれるのか。

「……やっぱ、わかってくれると思ってた。おれもおんなじだから」

 立花は、へらりと穏やかに笑った。

「おれは、父さんを殺したら死ぬよ」

 立花の笑顔は、夜景に照らされてぼうっと輝く。死に向かうから美しい。いずれ消えてしまうから、こんなにも美しいのか。

「わたしも死ぬ。殺したいし、死にたいよ」

 絶対、誰にも理解されないと思っていた。家族だって友人だって、世界すら認めてくれなくても、あなただけはこの殺人を肯定してくれるのか。

「おまえが死ぬなら、おれも死ねるよ」

 ひどい殺し文句だ。それだけで充分だった。

 星野は前へ歩む。夜風で冷えきった手すりを掴み、立花と並んで、夜景を見下ろす。その光は恐ろしいほどに美しかった。

 一瞬の煌めきは、永遠の価値を孕んでいた。立花は、沈黙を切り裂くように告げる。

「おれは明日、正午のフェリーで青森に向かう。そっから父さんのいる東京まで戻る。船が出るまでなら、何でも手伝えるよ」

 嬉しい誘いではあったが、星野は首を振る。

「いい。もし失敗したら、立花がお父さんを殺せなくなるかもしれない。だから行って」

 函館は星野の終着地ではあるが、立花の終着地では無い。末路は同じでも、共には死ねない。殺人は一人で果たさなければならない。それは、最後に残った星野の矜持であった。

「なら、やっぱり、その葉書は持っててくれ。どうせ血に汚れるなら、星野が汚して」

 立花は、葉書を見つめた。星野にとっては、もうあげて終わった絵だ。

「別に、もう捨ててもいいのになあ」

「ふざけんな。失くしたら承知しないぞ」

 妙な強情さに呆れる。でも、大切だから汚したくない、という思いはわからなくもなかった。星野が、鈴愛にかける願いと同じだろう。

「わかったよ」

 思いを汲んで、鞄にしまおうした。そこで、待て、と何故か引き留められる。

「しまう前にやっぱもっかい見せて。おれ、星野の絵ほんとに好きなんだ」

「……ばかじゃないの」

 星野は苦笑いを浮かべ、立花へと絵を向ける。立花はぎゅうと葉書を握った。立花の瞳の奥に星々が焼きついていく。

 どうして、立花宛の葉書に宇宙を描いたのか。それは、一年前の星野が願ったからだ。

 美術室の約束の向こう。夕日が落ちると、星が瞬くのだろう。優しく美しいあなたは、星のように変わらないでいて。何があったって、あなたはあなたのままで存在していて。

 かつての願いを叶えるように、立花は憎悪を燻らせ、ここに存在していた。すぐに死ぬ命だ。それでも、今ここで星野を赦したのだ。

 宇宙を掴む指は離される。満たされたように、立花は笑っていた。

「ちゃんと殺してこい」

 立花の声はひどく優しかった。星野の目の奥が熱を持つ。涙がこぼれ落ちそうになるのを堪え、どうにか笑ってみせた。

「うん。ちゃんと殺すよ」

 応えるように、立花も笑った。

「最期に星野に会えてよかった」

「わたしも、立花に会えてよかった」

 さよなら、と立花は夜空に溶ける声で呟いた。思い知る。ああ、ここが終着なのだ。

 充分すぎるほどの救いだった。星野は葉書を鞄にしまい、目を瞑る。輝かしい夜景は消え去り、暗闇という無が広がっていた。ここからは一人だ。やっと母を道連れに、この世から消えることができる。鈴愛を守り、立花ごと、その殺意を守る。星野が先頭を切るのだ。

 生まれて初めて星野は、ようやく自分の生きた意味を実感できたような気がした。闇の中で、おまえならできるよ、と立花の笑顔がちかちか明滅し続けていた。

 

 星野は一人、夜道を進む。緩やかな上り坂に橙の明かりが点々と灯っていた。光は進むべき道を照らしている。迷うことは無かった。

 一軒家の前で立ち止まる。ここが母と鈴愛の住む家だ。庭には自転車が止まっており、二階の電気がついている。鈴愛の自転車だろうか。既に帰宅しているのかもしれない。携帯を取り出し、メッセージを送る。

「家の近くまで来た。もう、帰ってる?」

「帰ってるよ」

 すぐに鈴愛からメッセージが返った。星野も速攻で返す。

「母さんが寝たら、外に抜け出してきて」

「わかった。元町公園で待ち合わせしよう」

 星野は元町公園の場所を調べる。ここから徒歩十分ほどの距離にある、観光地を兼ねた公園のようだった。母を殺すために、鈴愛を遠ざけるには十分な距離だろう。

「了解」

 メッセージを返して、思案する。母が眠り、鈴愛がいなくなったら契機だ。眠る母を刺す。ただ、それだけの計画だ。完全犯罪を目指すわけではないから、殺せればそれで良い。あとは星野が、ナイフで喉を掻き切って自殺すれば終わる。終わることができる。

 本当は遺される鈴愛のために、家の中を殺人現場にしたくはなかったが、往来で殺し損ねる方が嫌だった。どちらにせよ母が死ねば、鈴愛はここでは暮らせなくなる。全てがめちゃくちゃになるだろうが、いつか鈴愛が母を殺してしまうよりは何もかもましだと思えた。

 家の塀を越えて敷地に分け入り、玄関口から死角となる植え込みに座り込む。鞄に手を入れ、鍵の所在を確認した。もしものために渡されていた、この家の鍵だ。さらに縋るようにナイフの柄を握った。もう、殺すことを迷いたくなかった。立花が認めてくれた殺意だ。正しく応えたい。

 どれくらいの時間が経っただろう。ぎい、と扉の開く音がした。星野は身を強張らせ、下を向く。人が動く気配の後、扉が閉まった。がちゃりと施錠の音がする。アスファルトを擦る足音が、遠ざかっていく。

 そのままじっとしていると、携帯が光った。画面には鈴愛からのメッセージが映っていた。

「公園着いたよ。姉ちゃんはどこにいるの」

「母さん、もう寝てる?」

「うん。いつも通り睡眠薬飲んで、二階に上がってたから、ベッドでぐっすりだよ」

 母を殺すにおいて、あまりにも都合が良すぎる。お誂え向きの状況に、ぞわりと悪寒が走った。殺してくれと言わんばかりだ。

「わかった。あと少しで着くから待ってて」

 星野はポケットに携帯を放り込み、立ち上がった。玄関の戸に鍵を差し込んで回す。取っ手を引いて、体を中へと滑り込ませた。

 玄関は暗く、静まり返っていた。土足のまま、玄関脇の階段を上る。上るたびに靴がフローリングを擦って、大きく軋んだ。物音で母が起きてしまうかもしれない。万が一、鉢合わせた時のために、鞄の中に手を差し入れる。強く、ナイフの持ち手を握った。

 階段を上りきり、二階へと辿り着く。他の戸は開け放たれ、閉まる扉は一つだけだった。開いた戸の一つから、乱れたベッドが見えている。一瞬、母を警戒したが、セーラー服が投げてあったので、鈴愛の部屋だと推測できた。つまり、閉じた扉の先に母がいる。

 星野は鋭く息を吸った。これで終わりだ。ポケットから携帯を取り出し、最期の言葉を鈴愛へと送った。

「ごめん。わたしが殺すから」

 鞄に手を入れ、携帯と引き換えにナイフを掴んで引き抜く。暗闇の中、純粋なる殺意の権化が美しく輝いていた。

 ナイフを持たない左手で取っ手を捻り、静かに扉を引いた。室内の重い空気が滲み出て、じわりと腕に巻きついてくるような感覚があった。夜が明け始めているのか、部屋の中は僅かに白み、その全貌を見渡すことができた。

 夥しいほどのイーゼルが囲む部屋の中央に、シングルベッドが置かれている。イーゼルに立て掛けられた絵の全ては、母が繰り返し描き続けている、青の天体と化物をモチーフにしたものだった。その一つを凝視する。

 青の巨星から生まれ落ちた化物は、今にもこちらを呑み込もうと牙を向けている。化物の鋭い眼光は、母の殺意を彷彿とさせた。この化物が母の投影ならば、どうしてこの絵の中だけで収まってくれなかったのだ。母の羨望は星野を刺し、憤りとなって鈴愛を殴った。

 星野は、怒りのままナイフを握っていた。そこでやっと気が付く。自分も同じなのだ。本気で絵を描けば描くほど身をもって実感する。絵を描くこととは、なんて無力なのだと。絵は現実を変えない。全ては無意味だ。その無意味さを諦めることができなかったから、母は星野を殴ったし、星野は母を殺すのだ。

 化物たちの絵を越えて、ベッドへと近付く。横たわる人影を確認した。間違いなく母親だ。

 息を殺すと寝息が聞こえた。髪に隠れて表情は見えないが、白い首筋が隙間から覗いている。ここに刃を突き刺せば、全てが終わる。かつて母に殴られた傷が疼いた。痛みを噛み締め、ナイフを宙へと振り上げる。

 母の否定は星野を緩やかに歪めた。自分の価値などわからず、鈴愛のためにしか生きられない。それが星野の全てだった。鈴愛を殴ってまで、母が生きていくことを許せない。だが、自分の生きる意味も見出せない。どこにも行けないし、誰も助けてくれない。だから殺すのだ。

『おまえならわかってくれると思ってた』

 遥か遠くで、背中を押してくれた立花の優しい声が響いた。星野は微笑む。ううん。こちらこそ、わたしのどうしようもない殺意をわかってくれて、本当にありがとう。

『おれは、殺したら死ぬよ』

 その笑顔が弾けて、消えた。ああ、あなたは本気で死にたがっていたから、わたしを追ってきたのだった。既に別れは告げた。だから、あなたは死ぬ。死んでしまうんだね。

 刃先を母の首へ定めた。覚悟を決めて、両手で握る。まるで祈りのようだった。

 わたしはあなたになりたい。あなたのように親を憎み、正しく殺して気高く死にたい。

 ナイフを握る手が激しく震えていた。これは怯えだろうか。そんなものはいらなかった。再度、憎しみを刃先に込める。憎い。本当に母が憎かった。鈴愛を守るためなら殺せると、それだけを信じてここまで来た。あとはこの腕を下ろすだけ。そんなことはわかっている。

 わかっているのに動けなかった。喉がひりついて息が上手く吸えない。手は震え続けている。どうしてだ。どうして下ろすことができない。下ろせ。殺すのだ。殺せ!

 どうしようもないと、あなたは笑っていた。

 夜景の中で笑うあなたは、ひどく美しかった。死ぬよ、と笑う立花の顔が、夜景の煌めきと一緒に焼きついて、まるで離れてくれない。あなたのようになりたい。この刃を刺せば、すぐにでもそうなれる、はずなのに。

「姉ちゃん」

 背後から声がした。星野は振り返る。

「何やってんの、やめてよ!」

 扉の入口に、息を切らした鈴愛が立っていた。星野は唇を噛んた。どうして、帰ってきた。そして、どうしてわたしは殺せない。

「殺したかったんだよ、ずっと」

 なのに、とわたしはわたしに訴える。鈴愛は星野に縋りつく。凶器を持って震えるこの手が、鈴愛のあたたかい掌に覆われた。

「姉ちゃんが殺すくらいなら私が殺す。それが嫌なら、一緒に殺そう」

 重ねられた指に力がこもった。鈴愛の力を借りて、刃先はゆっくりと下へ、母の首筋に下りていく。鈴愛の瞳には確かな殺意が宿っており、その目がわたしを見上げて、笑った。

「一緒なら怖くないよ」

 ああ、そうだ。そうだと思った。立花が殺すし、死ぬよと笑うから、わたしもそうだと誓ったのに。わたしも殺したかったのに。

 それなのに、息が苦しい。この苦しさが、立花への敬愛や共感だけだと思いたかった。でも、違う。気が付いてしまった。

「いやだ。殺させたくない」

 わかり合えたあなただからこそ、わたしはあなたに生きてほしいと願ってしまった。

 親殺しの思いに共感した。果たすことが互いの目的だ。そんなことはわかっている。それでも、その馬鹿な身勝手だけがわたしの手を留めている。わたしが殺せば、あなたも必ず殺して、死んでしまうから——。

 星野の手からずるりと力が抜けた。狙いを失ったナイフはからんと音を立て、床へと落ちる。凶器を失った隙間の分、鈴愛は固く、星野の手を握り締めた。

「……ねえ、ちゃんと話そうよ。今まで話さなかったことも、これからのことも」

「ごめん。ほんと、ごめん……」

 何に謝っているのかすらわからなかった。視界が滲み、目の奥が熱を持った。頬を次々と零れ落ちる涙を、妹の指がそっと拭った。

 眠る母親は息をしている。それは、人が生きているという紛れもない証拠だった。


 早朝の元町公園から見下ろす海は、ぼうっと青白く光っていた。産まれたての潮風が、星野の泣き腫らした目を冷やす。ぼおおと海の遠くで汽笛が鳴る。呼応するように木々が葉を揺らし、薄水色の空に雀が飛んだ。

「ここからの景色、すごく好きなんだ。街を同じ目線から見渡せるから」

 鈴愛の言う通り、函館山を背に置いたこの元町公園からは、函館の街と海を遠くまで見渡すことができた。昨晩、山頂から見下ろした一つ一つの光の正体を、ここならば、意味をもって実感できる気がした。

 でも、それだけだ。階段を下りていく鈴愛を見つめるばかりで、星野自身はその場から動けないでいる。鈴愛は振り返り、星野を見上げて告げた。

「本当に、殺すとは思ってなかった」

「……わたしは鈴愛が殺すと思ったから、先に殺さなきゃって思ったんだよ」

「やっぱ、あれを本気にしたかあ」

 鈴愛は、どこか寂しそうに呟いた。確かに、星野は鈴愛に何も確かめなかった。鈴愛が放った、殺してやるという言葉だけを信じてここまで来た。それだけだ。

「でも、殴られてたのは本当じゃない」

 吹き抜ける海風が、鈴愛のカーディガンを捲る。首元の青痣が剥き出しになった。鈴愛は首を横に振る。

「違う。これは私も悪いんだ。先に私が、母さんに酷いこと言ったの。で、殴られたから私も頬を引っ掻いてやった」

「酷いことって、何」

「昔の姉ちゃんの絵を見てたらね。母さんがいつもみたいに否定してきたの。だから、母さんは姉ちゃんをずっと怖がってるだけだろうって、とうとう言ってやったんだ」

「……怖がってる?」

 鈴愛の告白に対し、星野は思い倦ねる。昔から憎悪や羨望は、はっきりと向けられてきた。しかし、怖がるという感情には心当たりがなかった。鈴愛は告げる。

「母さんは、姉ちゃんの才能を何よりも恐れてるよ。高校最後にコンクールに出した絵、母さんのことを描いたでしょう」

「なんで知ってるの」

「見てわかるよ。私だけじゃない。母さん自身も気付いてた。あの絵の写真を見て、真っ青になってた。あれは怯えだよ」

 星野の脳裏でぐるぐると、黒と肌色を切り裂くように赤の線が走る抽象画が回る。

「そんな、嘘でしょ」

「母さんは、ありのままの感情を描ける姉ちゃんを、ずっと怖がってた。自分が虐待をする酷い母親であることを世間に告発されたくなかっただろうし、確かな才能を持つのが、画家の自分ではなく娘の方だったことを、認めたくなかったんだろうね」

「……何それ。そんな才能、ないよ」

「そんなこと無い。だって、立花さんもあの絵が好きだったんでしょ。姉ちゃんの絵に込められた想いは、ちゃんと伝わるんだよ」

 憎いのは誰なんだ、と夕影で問うた男がいた。立花が美術室の前で足を止めたのは、こちらの憎しみと限りなく同調したからだ。立花が完成まで見届けたくなるほど、あの絵は憎しみを内包していたのだろうか。

「描いたから、怖がられたの?」

 そんなのどうしようもないじゃないか。母が呼吸をするように描いていたから、私も真似して描き始め、そのままやめなかっただけだ。きっかけを作っておいて、こちらが上手くなった途端に殴って止めようとしたなんて、あまりにも幼稚すぎる。

「そうだよ」

「なら、どうすればよかったの」

 気が付いたら、縋るように妹に訊いていた。

「どうしようもない。あなたたちは絶対、一緒にいてはならなかった」

 共にそばにいた、鈴愛だからこその言葉だ。断絶しか無い。描いて、復讐をしようとした星野の選択の全てが、描く母にとっては悪手であり、ただ、不理解を積み重ねただけだった。

「だから離したのに……。父さんも同じ想いだった。取り返しがつかなくなる前に、二人を離す。そのためだけに離婚したのに」

「そんな理由で」

「私のせいだよね。離せば安心だと油断した。母さんを殺してやるなんて言ったら、飛んでくるに決まってるよね。姉ちゃんがどれほど母さんのことを憎いか、全然考えられてなかった。父さんの覚悟も無駄にしちゃったな」

 諦念を滲ませ、鈴愛は答える。星野は愕然とする。どうして気付けなかったのだ。そもそも、知ろうとすらしていなかった。不条理だと蓋をして、殺人という短絡を選んだ無知な自分が愚かしい。

「……知らなかった。わたしは父に愛されていたし、母には愛されていなかったんだね」

 父と妹の心情を鑑みても、やっぱり母が憎かった。わたしは何も悪くないじゃないか。だが、描くこと自体が罪なのだろう。母が偉大な画家だったら、わたしは母を殴るだろうか。わからない。わからないが、母の絵は嫌いではなかった。

「きっと同じなんだ。母さんこそ、姉ちゃんに愛されたかったんだと思う」

「なら愛してよ。殴る前に愛してよ。恐がる前に愛してよ。ちゃんとわたしを見てよ!」

 痛切な叫びは海風に消えゆく。歩み寄る気など微塵も無いし、わたしも母を愛せない。今更だ。ずっと前から、不理解だった。父と妹の見立ては正しい。きっと、一緒にいれば、どちらかがどちらかを殺していた。

「……そうだよね。だから、いつか限界が来るかもって思ってた。母さんの隣でナイフを振るう姉ちゃんを見た時、もう終わったと思った。なのに、どうして殺さなかったの」

 薄い水色の空、雀を蹴散らすように烏が羽ばたく。燻る想いが後ろめたくて、鈴愛を正視できなかった。わたしは、こんなにも家族を想った妹のために殺すのをやめたのではない。踏み留まったのは、一人の男のせいだった。

「……殺して、ほしくなかったんだ」

「私に?」

 そうだよ、と言えばよかったのに、上手く肯定を返せない。そうではあったけれど、やはり、本音はそうではなかった。

「本当に、けれども妹よ。今日はぼくもあんまりひどいから、やなぎの花もとらない」

 妹の唇が言葉を紡ぐ。いきなりなんだと視線を向けると、鈴愛はへらりと告げた。

「『恋と病熱』だよ」

「なにそれ、米津玄師の曲?」

「違う。宮沢賢治の詩」

 文学に疎い星野であったが、宮沢賢治が日本を代表する有名な作家であることはさすがに知っている。だが、正直なところ、教科書程度でしか読んだことがない。宮沢賢治というそんな作家の名前が、鈴愛の口から唐突にこぼれたことに驚く。

「そんなの、詳しかったっけ」

「元々好きで童話は読んでたけど、最近、話すようになった仲良くなった同級生に他にも色々と教わったんだ。『春と修羅』とか貸してもらってね。そこに載ってた詩だよ」

 そのタイトルが記憶を揺らした。落ちる西日と油彩の染み付いた美術室。ふらりとやってくる男がいつも手にしていた、本の名前。鈴愛は笑った。確かその詩集の名は、かつて美術室で立花が読んでいたものと同じものだった。今更、作者の名前を初めて知り、それが妹の口から告げられたことに動揺を隠せない。この期に及んで思い出すのは、立花のことばかりで嫌になる。

「なんで今、読んだの」

「えー、教えたくないなあ」

「なんでよ」

「だってトシが解説しちゃったら野暮だし」

「トシって誰」

「ほんと姉ちゃん、何も知らないんだね」

「仕方がないじゃん。興味も無かったいし」

 拗ねる星野に、鈴愛は言う。

「それこそ、立花さんに聞けばいいのに」

「なんでここで立花が出てくるの」

 こちらの心を読んだような発言に狼狽える驚く。鈴愛は、さも当然というように答えた。

「だって立花さん、賢治が好きでしょう」

「なんで知ってるの⁉︎」

「姉ちゃんが立花さんに描いてた葉書、出す前にちゃっかり見てたから。あんなの、賢治ファン同士なら、すぐにわかるじゃん」

「うそ、葉書?」

 慌てて葉書を取り出した。改めてまじまじと見てみたが、何の変哲も無いただの葉書だ。立花の名前と住所以外、何も書いてない。ひっくり返しても自分の絵があるだけだった。わからなくて顔を上げる。見つめた鈴愛の顔が曇っていた。

「立花さんに送ったその絵を、今、姉ちゃんが持ってるのは、どうして」

 ぽつん、と鈴愛の声が落ちた。星野と鈴愛の段差の間を、強い潮風が吹き抜けていく。

「……立花に、さっき返された。なんか、わたしに持っててほしいんだって」

「返されてそのまま別れたの? 立花さんは今、どこにいるの」

 鈴愛の後ろに、袋小路の海が見えた。汽笛の残響に呼応して、いくつもの船が白波を引いている。

「船で、東京に帰るって」

「それからどうするの」

「どうするって……」

 鈴愛は、星野を真っ直ぐ見上げている。一瞬、言い淀んだが、母の殺害に失敗し、全てが明らかになった今、妹に真実を隠す意味は無い。星野は伝えた。

「父親を殺しにいくんだって」

 口にした途端、立花の殺意が事実となって星野の唇に纏わりついた。熱い。これは現実だ。星野がやめた殺人を、立花はきっと最後まで果たすだろう。

「追いかけないの」

 言われて気が付く。そんな選択肢があることに、星野はまるで気が付いていなかった。

「今更、何のために」

「姉ちゃんが言ったんじゃない。殺してほしくないって」

 全て見透かすように鈴愛は言う。そうだ。立花に殺してほしくない。その一心で刃を下げた。だが立花は、星野が母親を殺せなかったことを知れば、心底失望するだろう。

「約束を破ったわたしに、立花を追いかける資格なんてないよ」

 風に飛ばされるほど、か細い声で呟いた。瞬間、鈴愛は弾かれたように階段を上がり、星野へと詰め寄った。

「資格って何。そんなのどうだってていい。姉ちゃんが今、どうしたいかじゃないの」

「立花は追われることを望んでいない。嫌がることがわかりきっているのに、追いかけるなんてそんなの、ただの馬鹿じゃん」

「そうだよ。追いかけるなんて馬鹿だ。相手の気持ちなんて考えられてない、ただの姉ちゃんのわがままだろうね」

「だったら無駄でしょう」

「でも、やめて、とも何も言ってないんでしょう。やってもいないくせに、どうせ無駄だと諦めてる。いや、そもそも、自分がどうしたいかすら、考えたことないんじゃないの」

 答えに詰まる。その通りだった。母の抑圧に慣れたわたしは、言ったってどうせ無駄だと決めつけて、伝えることはおろか、相手に反してまで突き通したい自分の想いなど、まるで考えたことが無かった。

「姉ちゃんが何言ったって何したって、最後に決めるのは立花さんだ。変わる保証はない。でも、変わらない保証もないんだよ」

 鈴愛は、星野の隣で問う。

「姉ちゃんはどうしたいの」

 突きつけられた問いは、切実だった。覚悟を決めなければ答えは出せない。立花の人生を懸けて、星野の人生が問われている。

 星野は目を閉じた。眠る母の前でナイフを落とし、泣きじゃくる星野に、立花が笑った。

 なあ、母親を殺せなかったおまえは、父親を殺そうとするおれをどうしたいんだ。

 血塗れの立花が、温度を失った死体の隣に佇んでいる。笑う立花は、握るナイフで自らの喉を掻き切った。赤い鮮血を吹きこぼし、青白い顔で倒れ、二度と動かなくなった。

 星野は慟哭した。

「嫌だ。立花に殺さないでほしいし、死なないでほしい。わたしが母を殺したら、立花は父を殺すし、死ぬでしょう。それが嫌だった。だから、わたしは殺さなかった——」

 これが、星野の本心だったのだ。

 星野は目を開けた。朝の函館が眼前で輝く。遠くの海面に朝日が落ち、白い船が光っていた。海を越えて、どこかに行こうとしている。追いかけたいと強く思った。

「ごめん、鈴愛。行くよ。行かなくちゃ」

 わかった、と言うように鈴愛は笑った。

「うん。いってらっしゃい」

 星野は葉書を鞄にしまう。その指先が、冷えたナイフに触れた。葉書と引き換えに鞄から取り出し、鈴愛へと差し出す。

「これ、あげるよ。わたしはもう使わないから」

「えー、やだ。こんなの持ってたら、今度こそ、本当に母さんのこと刺しちゃうもん」

「えっ」

「私は母さんのこと憎んでないけど、姉ちゃんのためなら殺せたよ」

 なんてね、と鈴愛は冗談めかして笑う。だが、昨晩、母の部屋で添えられた鈴愛の掌は熱かった。きっと、全てが冗談ではない。あれは本物の殺意だった。妹が母を殺すという星野の予感は、おそらく正しかった。姉が妹のためならば母を殺せるように、妹も姉のためなら母を殺せたのだ。

 それならば、残しておけない。殺意ごと持っていくしかなかった。星野が燻らせた殺意だ。星野はナイフを鞄へとしまい直した。

 鈴愛は安堵の笑みを浮かべて、星野を真っ直ぐと見つめていた。

「姉ちゃんが生きるなら私は生きる。だからちゃんと生きてよ。生きようとしてよ」

 星野は思う。きっと、母を殺して死んだ方が楽だ。命が止まれば、考えることも足掻くことも必要無くなる。向き合ってぶつかって、誰かと折り合いを探しながら生きていくことは、ひどく苦しいことだろう。それこそ、一人で死を選びたくなるほどに。

 それでも人は、誰かに生きてくれと願ってしまう。願われるから生きようとするのではなく、願うから生きるのだ。鈴愛も星野も、生きてほしいとどうか願っている。

 星野は誓った。

「ねえ、鈴愛。だいすきだよ。たとえ一緒にいられなかったとしても、わたしはあなたの幸せを願ってる。ずっと」

 鈴愛は目を見開く。その顔が照れたようにくしゃりと崩れた。

「私もだよ」

 わたしは妹に甘えてばかりの馬鹿な姉だ。でも、どうか、望んで生きることを許してほしい。

 星野は駆け出す。遠景の海、フェリーターミナルが対岸に見えた。あそこが目的地だ。堪らなく寂しくなって、最後に一度だけ振り向く。階段の上、わたしの大好きな妹は、朝日に照らされ、きらきらと笑っていた。


 星野は全速力で函館の坂を駆け下りた。光る海のそば、赤レンガ倉庫のバス停から、フェリーターミナル行きのバスへと乗り込む。バスは函館湾をなぞるように走る。星野は逸る気持ちを抑えきれず、窓からフェリーターミナルを探した。

 海の手前、灰色の埠頭の先に、巨大な船舶が停泊しているのが見えた。スマートフォンを取り出して調べる。昭和末期まで青函を結んでいた摩周丸という船を、博物館船として海上に展示しているらしい。青い海に揺蕩う摩周丸は、さながら船の標本のようだった。つまるところ、死体だ。海に浮かんでいたという立花の兄の死体を思い出す。

 そういえば、函館駅に向かうバスの中で、立花と海の話をした。北海道の海は入水自殺用だ、と軽率な言葉を放ったが、海を見つめていた立花は、おそらく死んだ兄のことを想っていたのだろう。フェリーターミナルに向かった立花も、既に摩周丸を見たのだろうか。兄の死を追いかけさせてはならない。海の向こうに立花をいかせたくない。改めて願う。

 しばらく沿岸を走り続けたバスは、一度海から離れて、大きく旋回する。広い公道の果て、三角柱を横に倒したような白い建物の前で停車した。ここが函館ターミナルらしい。

 星野はバスを降りて、中へと入る。吹き抜けのロビーに受付があり、頭上のパネルに出航時刻と空席状況が表示されていた。

 どうやら、この函館ターミナルからは、青森と大間行きの二つの航路があるらしい。立花が乗ると言っていた正午の出航は、青森行きの便しか無かった。チケットを取るか迷ったが、立花が本当に乗るかは定かでない。先に、とにかく立花を探すことにした。

 正面のエスカレーターを駆け上がる。二階より上は、椅子の並ぶ待合室となっていて、そのままいくつかの乗船口へ繋がっているようだった。すれ違う人々を丁寧に追っていったが、青いパーカーの影は無い。

 息を切らして一階へと戻る。売店と食堂を探し回った後で、ガラス張りの外に客がいることに気が付いた。どうやら外が、ウッドデッキとなっているらしい。潮風が吹きつけ、重くなったガラス戸を押し開けて、外へ出る。

 快晴の空を濃紺の海が横切っていた。右側、その青たちを抉るように、津軽海峡フェリーと書かれた白い巨船が停泊していた。左手近くには、銀製のハート型のモニュメントがあった。恋愛成就を狙ったもののようで、中に鐘が吊り下がっている。そのハートを覗くと、遠景の函館山がぴったりと収まった。

 ここから山頂が見えるということは、山頂からもここが見えていたはずだ。この地も、昨晩見下ろした光の一つだったのだろう。天上からでは、綺麗なだけで何もわからなかった。もう傍観は嫌だ。ちゃんと自分の意志で踏み込み、進んでいきたい。星野は踵を返す。

 だが、乗船受付の締切が、刻一刻と迫っていた。星野は薄い自嘲を浮かべた。そもそも、会える保証などはじめからなかった。ここには無謀とわがまましかない。それならば、やれることは全部やりたかった。星野は受付へと向かう。青森行き正午の便、スタンダード席のチケットを購入した。

 乗船案内のアナウンスがターミナル内に鳴り響く。星野は乗船口へと進んだ。オレンジのゲートをくぐり、船の前方から呑み込まれるように乗船した。全ては賭けだ。それでも、函館に取り残されるよりはましだった。

 緑の車両甲板を抜けて、エスカレーターを上ると、オレンジの照明が光る船内ロビーへと辿り着いた。スタンダード席の客室へと向かう。通路から枝分かれした緑色の区画で、多くの乗客が仕切りの無いままで、雑魚寝をしていた。一部屋ずつ見ていったが、立花が人々の中に紛れて眠るとも考え辛い。立花なら、きっと人のいないところを好む。振り切るように、星野は廊下を駆けていく。船内の小窓から、海と函館の街が見えた。

 走り続けた星野は、ついに端へと辿り着く。甲板へ繋がる、分厚い扉が眼前に隔たれていた。その果ての扉を力一杯、押す。

 瞬間、劈くような潮風が吹きつけた。低い天井がトンネルとなって、青黒い影を落としている。ここは、船尾へ繋がる甲板のようだ。柵の向こうで空が光り、海が鈍く揺れている。

 その柵に凭れ、海へ身を乗り出す一つの横顔があった。

「立花」

 星野は男の名前を呼ぶ。振り向いた青い目は見開かれ、星野を見定めるようにゆっくりと細められた。

「……もしかして、殺してないのか」

「うん」

「どうして……。いや、殺せなかったのなら、その理由を後学のために聞いておきたいんだが」

「ううん。わたしは殺さなかった」

「何故だ。おまえは母親が憎いんじゃないのか。今更、怖気付いたか。おまえの憎しみは、所詮そんな程度のものだったのか」

 嘲笑する立花の瞳の奥で、確かな怒りが揺れている。星野の絵に共鳴した憎しみの分だけ、鈍く美しく光っている。ひどく綺麗だと思った。だからこそ、星野は首を振る。

「今も憎いよ。だけどやめた」

「どうして」

 立花の瞳は、切実を宿していた。ああ、この人は、わたしが母を殺すことを心底望んでいる。救われたいなんて微塵も思っていない。わたしと一緒に地獄に堕ちたいのだ。

「母を殺そうとした瞬間、立花を思い出した。だから、殺意も妹も全部置いてきたんだ」

 吹きつける風に逆らって星野は踏み出した。よろめきながらも、立花の隣へと並ぶ。

「ずっと前から、死にたかった。この憎しみや殺意は、誰にも理解されないだろうと諦めて、ここまで生きてきたのに」

 海の際、冷たい柵を握った。波の飛沫が手の甲に掛かる。強く拳を握り、星野は真っ直ぐ立花を見つめた。

「今更、あなたが全部肯定するから、びっくりしたよ。絵に込めた憎悪のこともそうだし、殺人もそう。きょうだいを愛して、親を憎んで、ああ、本当に似ているって、正直、すごく嬉しかった」

 煌めく天上の共感は救いだった。あなたが地獄に堕ちていくから、確かに赦された。

「でもね。本当に、馬鹿だと思うんだけど、あなたがわたしを理解してくれたから、わたしはあなたに死んでほしくないと思ってしまった」

 死に向かう立花に心から共感した。堪らないほど愛おしくなった。だから、あなたが死ぬのは悲しいと、愚かにも思った。

「わたしが殺したら、あなたは絶対に殺すでしょう。だから、死ぬのも殺すのもやめた。立花に死んでほしくないから、わたしは生きることにしたの」

 星野は息を吐く。ああ、ちゃんと伝えられた。星野の髪を海風が揺らす。追いかけてよかった。追いつけてよかった。

 立花は視線を落とし、海を見つめていた。耳に下がるピアスが深海の色を孕んで、瞬く。その唇が、おもむろに開かれた。

「……そんなくだらない理由でやめたのか」

「くだらなくてもいいよ。わたしはどうしても、立花に死んでほしくないだけ」

「おれは死ぬよ変わらないよ」

 横顔に浮かぶのは、明確な拒絶だった。

「おまえが母親を殺すのをやめたとしても、おれは変わらない。父親を殺して、おれは死ぬすよ」

 海水は重く揺れている。呼応するように船は揺蕩い、星野の重心がぐらついた。

「おまえには、まだ妹がいるじゃないか。おれの兄さんは死んだ。母親も死んだ。腐りきった父しか遺っていない。もう失うものなど、何も無いんだ」

 立花の独白は、波へと攫われる。ざあざあと鳴る、波の合間で立花は叫んだ。

「どうか何か変わってくれ、おれだってまともに生きたいって、死ぬほど願ったよ。でも、駄目だった。どうしようもないんだ」

 星野は、家族を喪ったわけでは無い。一人きりになった立花の心情を真に理解することはできない。だが、真っ当を選べなくて殺人に縋る、そんなどうしようもなさだけはわかるつもりだ。わかりたかった。

「そんなおれに何を願うんだ」

「それでも、生きてほしい」

「おれは生きたくないんだよ。早く殺して、死にたいんだ。他人のおまえがやめたところで、おれには何の関係もない」

 立花の言う通りだ。殺したって殺さなくたって、はじめから互いの行き着く場所は違う。殺したって、わたしたちは一つになどなれない。偶然出会って、わたしが勝手に救われただけだ。わたしごときがやめたところで、立花が倣ってやめるとは思えない。その赦しに偽りは無い。でも、わかるよと笑って、あなたの死を肯定するのはもう嫌だった。

「わたしはあなたが、生きたいと変わることを信じたい。わたしは変わった。全部、あなたのおかげだ」

 はっきりそう伝えた瞬間、海へ逸らされていた瞳が星野の方を向いた。青い眼光が、星野の覚悟を貫く。立花は嗤う。

「おれはおれを変えられなかった。それなのにおまえは、おれですら変えられなかったおれを変えられると思うのか」

 波音に嘲笑が響いた。そこで気付いた。立花が軽蔑するのは星野ではない。立花自身だ。だから、星野が信じたいのも、立花の意思だった。

「立花が、生きたいと思える理由を一緒に探したい。そのためにここまで来たんだ」

 星野はありったけの声で叫んだ。潮風に吹かれ、冷えた体に熱が宿った。信じたい。諦めたくない。そんな馬鹿な意地だけが、ここに宿っている。

 立花は星野を見つめる。瞬間、ふっとその口元が緩んだ。

「……しゃあねえなあ」

 立花はくしゃりと破顔した。その顔が、心からの笑みを浮かべたように見えて、星野は困惑する。

「いいよ。気が済むまでついてくれば」

「えっ」

「だっておまえ、梃子でも動かなそうだし、実際ついてきちゃってんだもん。振り払う方が面倒くせえ」

 呆れを忍ばせながら、立花は続ける。

「おまえの想いは勿論エゴだけど、おれがやめろって言うのもエゴだろ。結局、おまえもおれも、平等にわがままなだけだ。そういうエゴ、嫌いじゃないんだ」

 星野は唾を呑む。絶対、拒絶されたままで、無理矢理ついていくことになると思っていた。下された結論に驚きを隠せない。

「……本当にいいの?」

「しつこいな。いいって言ってんだろ」

「殺さないで死なないで生きてほしいって、この先、多分、しつこく言い続けるよ」

「おう。おまえの気が済むまで、やってみれば?」

 立花は何も期待していないと、はっきり言っている。星野の願いに対する答えはノーだ。立花は、殺人の志を変えようとしない。だが、星野にやめろと言わなかった。

「じゃあ、行こうか」

 立花の誘いに応えるように、汽笛が鳴った。まもなく出航するのだろう。わからないから、星野は尋ねた。

「どこまで行くの」

 立花は当たり前だと言うように、笑った。

「東京。父さんを殺して、おれが死ぬまでだよ」

 立花は歩き出す。星野はその背中を追った。

 行き着く先は船尾だった。ひらけたデッキは展望台のようだ。階段を上る立花を追いかけて、天辺に立つ。頭上には、果てない青空が広がっている。

 ゆっくりとフェリーが動き出した。手すりを掴んだ手の甲に、海の飛沫が跳ねてかかった。船頭が青森に向くから、船尾は後ろを向いて進んでいく。船より後ろの濃い海に、鋭い白波が立っていた。まるで波が傷痕のようだ。傷を引いては、ずっと船へついてくる。

 遠くに函館山が見えた。ぼんやり光る山の麓に、鈴愛と別れた元町公園を探していた。

「さよなら」

 荒れゆく波の合間に呟いた。勿論、妹や母どころか、隣の立花にも聞こえなかっただろう。誰かに伝えたかったわけじゃない。燻った殺意に、別れを告げたかっただけだ。

 妹への愛と母への憎悪を離して得たこの旅路は、救いかそれとも心中か。行く先は何一つわからない。

 それでも今、わたしは生きようとしている。

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