函館①

 函館に降り立つ。今さっき飛んできた空を、厚い雲が覆い隠していた。遠い空、僅かな雲の切れ間から陽光が落ち、地の果てを照らしている。

 外へ出た途端、吹きつける風と霧雨が頬に刺さった。まだ八月だというのに、北海道には既に、夏の死が訪れている。シャツ一枚では心許なく、抱えていた薄茶色のコートを羽織った。寒いな、と立花が隣でぼやく。青いパーカーが風にはためいている。両腕を組んで耐えるその鼻が、ほんのりと赤い。

 近くに函館駅行きのバスが停車していた。函館空港は市街地から離れており、どこに行くにしてもまず、駅までは出る必要がある。バスに視線を向けていると、乗るのかと立花に訊かれた。おそらく立花も来るのだろう。こうも一本道だと撒けないのがもどかしい。無言のまま、バスステップに足を乗せた。奥へ進み、臙脂色のシートに座ると、立花も隣に腰を沈める。バスは静かに動き出した。

 灰に濁った空からは霧雨が降り続いていた。窓に銀の雨粒がへばりつく。彩度の低い街並みを、バスはゆっくりと掻き分けるように進む。ぼうっと窓の外を見つめていると、コンクリートの切れ間に一瞬、水平線が横切った。見間違いかと思ったが、すぐに灰がかった青と白波が一面に広がる。

「海だ」

 立花は目を見開く。その瞳が群青を映し、虹彩を鈍く光らせた。

「そんなに珍しい?」

「……ああ。東京では、あまり見ないから」

「北海道だと海は専ら観賞用なんだよね。夏でも寒すぎて、海に入る文化があんまりないんだよ。ほんと、入水自殺用かも」

 冗談のつもりだったが、立花は笑わなかった。瞳は海を向いたままだ。

「入れなくていい。見たかったんだ、海」

 あまりにも熱っぽい立花の視線は、海に浮かぶ、何かを探しているようにも見えた。

「ほんと、夏のくせに寒そうだな」

「うん、寒いよ」

「……そうか」

 答えた立花の瞳が燻んだような気がした。星野も鈍い青を見据える。荒れた海だった。この先には何も無いとでも言うように、群青は白波を立て続けていた。

 バスは目的地に辿り着く。雨は止んでいたが、踏み締めたアスファルトはじとりと黒く湿っていた。降りてすぐ、大小ふたつの真っ赤な人型が、覆い被さってブリッジをしているような妙なモニュメントが目に留まる。そのすぐ後方、横長の建物がJR函館駅だった。

「あれ、函館山かな」

 立花はさらに駅の向こうを指さす。遠くに、連なる深緑の山が見えた。山頂に平たい建物が建ち、細い塔のようなものが何本も伸びている。おそらく、あれが展望台だろう。

「そうだと思う。上にあるのが展望台かな」

 地上から展望台が見えるということは、展望台からも地上が見えるということだ。今は曇天だが、山頂を覆う雲は無い。この天気がこのまま続くならば、無事に夜景は見られるだろう。

「今なら景色も見えるだろうし、上までロープウェイで登ってきたら?」

「いや、まだいいよ。おれが見たいのは夜景だし、一人だと迷いそうだしな」

 単独での登頂を促すが、やんわり躱される。

「登るならおまえとがいい。おれのこと、山頂まで連れてってくれよ」

 加えて笑顔まで向けられる。その図々しさに星野は顔を歪めた。

「だから、気が向いたらって言ってる」

「ええー、ケチ。じゃあ腹減ったし、何か食べに行こうぜ」

「やだよ。なんで一緒に食べなきゃいけないの」

「函館名物ってイカ? 海鮮とかいいな」

 先程から、立花との会話が成り立たない。勿論、非難は聞こえているだろうが、敢えて無視されているのだろう。さすがに腹が立ってきた。ずっと、波風が立たないように気を揉んでいたが、少しくらい強く言ってもいいのかもしれない。星野は鋭く息を吸った。

「あのさあ。わたしも妹に会うとか色々都合があるから、ついてこられると困るんだよ」

「あ……そうだよな。無理に誘ってごめん」

 立花は頭を下げ、しおらしく謝った。星野は狼狽える。少し、きつく言いすぎただろうか。こうも容易く引き下がるとは思わず、なんだか申し訳なくなる。

「でも」

 瞬間、立花の無垢な目がこちらを向いた。

「おれも一人で寂しいんだよ。どうせあとで兄さんのとこには行くから、その時別れるし。だから夜景は無理でも、飯くらい一緒に食べるのはダメ?」

 うわあ、これはタチが悪い。星野の罪悪感を的確に擽ってきた。これが本音か演技かはともかく、断るのは悪手だろう。変に拒絶するわけにはいかなかった。

「……どこでもいいのなら、いいけども」

「やったあ、サンキュー、マジ女神!」

 さっきまでの不安げな態度はどこへ行ったのだろう。調子の良い言葉にげんなりした。やはり演技だったか。

「すげえ楽しみ。おいしいもん食べたいな」

 立花の声は嬉しそうに跳ねる。そんな屈託のない表情を見ていると、全てが演技だとも思えなかった。何が本当かわからない。例え、立花が意図的についてきていたとしても、その目的に見当が付かなかった。

 スマートフォンで時刻を確認すると、既に午後三時を過ぎていた。昼飯には遅いが、そろそろ向かってもいい頃だろう。

「おいしければ、なんでもいいんだよね」

「もちろん」

 よし言ったな、とほくそ笑む。立花と再会してから、ずっと振り回されてばかりだ。ここらでやり返して、一度くらいすっきりしたい。こちらに幻滅して、いなくなってくれるならさらに本望だ。望み通りうまい店に連れていってやろうと、小さな復讐心を擡げる。灰色の空の下、市電駅の方へと歩き出した。


「これ、食い物屋だったのか……」

 立花は看板を見上げて、立ち尽くす。巨大なピエロが描かれた黄色い看板の下、ソフトクリームの立体オブジェが並んで浮かんでいる。窓ガラスには「手づくりデカウマハンバーガー」「旅人よ翼をやすめていきませんか」などという、キャッチーな言葉がびっしり犇めいていた。

 函館駅前から市電に乗り、十字街駅から降りて徒歩五分、赤レンガ倉庫の向かいに、このラッキーピエロベイエリア本店は存在していた。函館で有名な、ご当地バーガー屋だ。

「さ、行こ」

「躊躇がねえな」

「わたしは一人でも行くからね。嫌なら来なくてもいいんだよ」

 ここで帰ってくれるならのが一番ありがたい。ここまで連れてきたのは星野だが、気乗りしない理由もあった。だが、立花は顔を緩く歪めただけだった。

「行かないとは言ってない。ちょっと驚いただけだ。このピエロに見覚えがあってな」

「えっ、……ピエロに?」

 星野は宙を見上げた。トレードマークのピエロはニコニコ陽気に笑っている。

「前、兄さんから、このピエロが描かれた黄色い缶の写真が送られてきたことがあったんだ。バーガー屋とは思ってなかったが」

「缶って、どんな缶?」

「わからない。多分、飲み物」

「わたしもあんまり詳しくないけど、バーガー以外にも手広くやってるみたいだから、何かしらあるのかもね」

 店員に聞いてみようか、と言いかけてやめた。そこまでする義理は無い。立花だって本当に知りたければ、お兄さんに直接聞けばいいのだ。

「しっかし、夢に出てきそうなデカさだ」

 ピエロを見上げながら、げんなりしたように立花は言う。だが、拒絶感までは感じられない。驚かすことはできたが、気持ちを削ぐことはできなかったようだ。

 この店の変なところは外観だけではない。まだ振り切るチャンスはあるだろうと、星野はソフトクリームのオブジェに挟まれた自動ドアへ近付く。入口は難なく開き、深緑色の店内が視界一杯に飛び込んできた。

「いらっしゃいませ! 何名様ですか——って、え⁉︎」

 カウンター越し、笑顔で出迎えた店員の表情が固まった。星野はぎこちない笑みを返す。

「久し振り、鈴愛すずめ

「うそ、姉ちゃん。ほんとに来たの」

「えっ。その子、星野の妹なのか」

 鈴愛の大声に引き寄せられたのか、続いて立花もすぐに店内へ入ってきた。 

「そう。だから来なくていいって言った連れてきたくなかったのに」

 星野はぶつくさと立花に向かって呟く。そんな立花を姉の連れと認識したらしい鈴愛は、小さな悲鳴を上げた。

「ひえっ、しかも男連れだ。彼氏⁉︎」

「断じて違う」

「初めまして、妹さん。ぼくは愛世美さんと高校で友人だった、立花という者です」

 星野はぎょっとする。一人称をぼくに変え、露骨に猫を被る立花は極めて不気味だ。そもそも我々は友人かという疑問はあるが、否定するのが面倒なので口を噤む。

「……あ、なんだ立花さんか」

「え、ぼくのこと知ってるんですか」

「姉から少し話を聞いたことがありまして。あれですよね。美術室で、姉が絵を描くのをずっと見ていた人ですよね」

「ちょっと、何、余計なこと喋ってんの⁉︎」

 星野は叫びながらカウンターに乗り出し、鈴愛の口を両手で塞いだ。もごもごと掌の下で唇が動く。立花はきょとんと目を丸くしていた。最悪だ。

「もういい。何食べるかとっとと決めよう」

 星野は鈴愛から手を離し、メニュー表を指し示す。早く話題を変えたかった。

「カレーとかもあるんだな」

 言われて気が付く。確かにバーガー屋にもかかわらず、ミルクカレーや丼物やアイスなどがメニューには存在していた。手広くやっているのは本当らしい。悩んだ末に立花は、ミルクカレーの中でも一番人気である、チャイニーズチキンカレーを頼んでいた。星野もダントツ一番人気であるバーガーセットを注文し、少し迷って、シルクソフトを一つ追加する。そして星野は、鈴愛にそっと耳打ちをした。

「あのさ。立花を困らせたいから、例の席に案内してくれない?」

 目線を後ろの方にやると、鈴愛はにやりと頷いた。

「おっけー。わかった」

「あと、バイト終わったらちょっと話そう」

「うん。食べたらそのまま席で待ってて」

 鈴愛は悪戯っぽく笑う。その笑みの朗らかさが以前いつもと変わらなかったので、星野はひとまず安心した。

「それでは二名様、こちらの席にどうぞ」

 先程までの悪戯顔はどこへやら、鈴愛はぱっと店員スマイルを浮かべる。恭しく案内されたのは、入口に近いテーブル席だった。

「は?」

 立花は立ち止まる。星野も足を止め、口元を抑えた。鈴愛が笑いを堪えながら言う。

「どうぞ、ごゆっくりお座りください!」

「いや、ゆっくりしたくても、座る椅子がブランコなんだけど⁉︎」

 立花のツッコミに星野はとうとう吹き出した。立花の言う通りだった。緑と白の鎖に繋がれた緑の椅子が、ゆらゆらと揺れている。鈴愛がラッキーピエロのバイトを始めた初日、店の中にブランコがあるんだけど、と驚きながらメッセージを送ってきたことが懐かしい。現物を見たのは、星野も初めてだった。鈴愛はどこか誇らしげに答える。

「会長の意向により、ベイエリア本店のこちらのテーブルのみ、お席にブランコを用意させて頂いております」

「会長の意向って何だよ!」

「子供たちがわいわい集うサーカスのような楽しい店にしたい、との思いです」

 なるほどと、星野は店内を見回す。真緑のカウンターのすぐ横、鏡張りの壁には派手なネオンが煌めき、入口前には実物大の馬の置物が鎮座している。看板のピエロ然り、確かに、サーカスと言われればそんな気もしてくる。そんな遊び心の果てで、座席がブランコになってしまったらしい。

「早く座りなよ、立花」

「……星野、謀ったな」

「座れないなら、さっさと出ていけばいい。カレー代くらいは払ってあげるからさ」

 ブランコの対面もブランコだったので、立花が座るなら星野も座るしかない。浪人生二人が、ブランコに乗って飯を掻き込む姿など非常に哀れだが、自らを犠牲にしてでも、立花をブランコに乗せて思いきり嘲笑したかった。それか、このままいなくなってくれれば一番良い。どちらにせよ、ここで引くわけにはいかない。啀み合いは膠着した。ブランコは、ゆらゆらと虚空で揺れ続けている。

「はあ、しゃーないな」

 とうとう、わざとらしく大きな溜息を吐き、立花はブランコに腰を下ろした。星野も合わせて、向かいのブランコに座る。

 緑のクッションは案外座り心地がよかった。両足を床に付けると重心が固定されるのか、思ったよりも揺れなかった。

「思ったより揺れるな……」

 対して、立花は戸惑いの声を漏らしていた。よく見ると、星野のブランコは二人掛けだが、立花の座るブランコは一人用だ。小さい分、揺れが大きいらしい。僅かに床を蹴ったのだろか、立花のブランコが少しだけ揺れる。その口元が僅かに緩んでいた。

「……まさか立花、楽しんでない?」

「いや、だって、いざ座ったら、ブランコとか何年振りだって思って懐かしくなって」

 立花はゆらゆらと揺れ続けていた。一定のリズムで床を蹴り、最早、普通に漕いでいる。

「そうやって開き直られると、なんかこっちが恥ずかしくなるじゃん」

「なら、星野も漕げばいいだろ」

 立花の言い方は、確実に星野を煽っていた。そもそも立花を辱めるためにブランコに乗せたのに、楽しまれては意味が無い。尚更、こちらだけ恥ずかしいようでは駄目だ。なにがなんでも優位に立たねばならない。星野は、ぴたりと付けていた足を床から離し、全力で蹴り飛ばした。

「大変お待たせいたしました。チャイニーズチキンバーガーセットと、ブルーベリーレアチーズシルクソフトです」

 唐突に降ってきた声にびびって、足を床へと付けるよりも早く両手でテーブルの縁にしがみ付いた。ブランコは反動で大きく揺れる。慌てて顔を上げると、緑のお盆を両手に持った鈴愛が、必死に笑いを噛み殺していた。

「ゆらゆらしてるのおまえだけじゃん」

 ひややかな声に正面を向く。冷めた目を向けた立花は、ぴくりとも揺れていなかった。

「この、裏切り者!」

「鈴愛さん、見てくださいよ。お姉さんだけブランコで遊んでたんです」

「ちがうって! 立花が先に遊んでた!」

「ブランコ、そんなに気に入ったんだね」

「だからちがうって!」

 手酷い裏切りと連携プレイだ。引くにも引けず、星野はきゃんきゃん噛みつくしかなかった。うるさいと鈴愛に一蹴され、目の前に緑のお盆を置かれる。紙に包まれたバーガーとマグカップに詰まったポテト、グラスに注がれたウーロン茶、ワッフルコーンに入ったシルクソフトがあった。鈴愛は立花の前にもお盆を下ろす。

「こちら、チャイニーズチキンカレーになります。以上、ご注文はお揃いでしょうか」

「うっわ、これ。すごいな」

 立花の声が高くなる。楕円の銀食器に粒立った白米が盛られ、肉汁がじゅわりと滲んだ唐揚げの上に、あつあつのカレーがかかっている。ほわりと湯気を立て、どこか懐かしい淡い香りが鼻の奥を擽った。

「では今度こそ、本当にごゆっくりどうぞ」

 鈴愛は涼しい顔で去っていく。星野は、しばらく鈴愛の後ろ姿を恨めしく見つめていたが、立花がスプーンを掴んだところで我に返った。そういえば、今日は朝から何も食べていない。さすがに限界だった。

 星野はバーガーの薄紙を破り、白胡麻が練り込まれたバンズに齧りつく。みずみずしいレタスが歯で裂かれ、中に挟まれた唐揚げから、熱い肉汁がじわりと溢れて舌へと染み渡る。

「うまぁ……」

 つい同意を求めて顔を上げると、立花の目も爛々と輝いていた。ぱくぱくとスプーンを運ぶ手が忙しないが、途端、その表情が曇る。

「めちゃくちゃうまいんだけどさ」

 煮え切らない立花を星野は見つめ、気が付いた。頬張る口元を隠しながら指をさす。

「あ! 立花、揺れてる!」

「うるさい。スプーンを使うと重心が保ちづらくて、揺れずに上手く食えねえんだよ」

「食べながらブランコで遊ぶなんて、行儀が悪いねえ」

「うるせえ」

 立花は半ば自棄気味に、スプーンで掬った唐揚げに勢いよく齧りついた。その反動でまた揺れる。ぐらぐら、ぐらぐら。

「なに笑ってんだよ」

 言われて初めて、笑っていることを自覚した。楽しんでいる自分に驚きつつも、星野はさらにけらけらと笑った。

「だって。揺れてる立花、子供みたいだよ」

「はいはい。おれはどうせガキですよ」

 立花は余計にむくれて、がつがつカレーを掻き込む。星野は笑う。そこで、ふと気が付いた。

 果てに殺人しかないこの旅を、自分は楽しんでいるのか。よぎった罪悪感を呑み込むように、星野は思いきりバーガーへと齧りついた。

 

「そういやおまえ、このあと妹と話すの?」

 皿が空になったところで、立花はブランコから立ち上がる。星野は咥えていたポテトを呑み込みながら、答える。

「……まあ、そうだけど」

「じゃあ、おれはその辺で時間潰してる。鈴愛へは、よろしく言っといてくれ。もう会わないだろうから」

 星野が答えあぐねているうちに、立花はひらりと手を振り、外へと消えた。

 正直、どうすれば鈴愛と二人になれるかをずっと考えていたので、向こうから消えてくれて心底ほっとした。本当にこちらが嫌がることはしない。その察しの良さがありがたく、やはり厄介だと思う。

 ポテトを食べきり、溶けかけたシルクソフトをちまちま舐めていると、ようやく鈴愛が現れた。

「おまたせ」

 鈴愛は緑のバイト着を脱ぎ、黒いセーラー服に身を包んでいた。見慣れない姿に少し驚く。そういえば、鈴愛の制服姿を見るのは初めてだ。両親が離婚して、高校に上がる前に鈴愛は函館に行ってしまったから、見る機会など当然無かった。黒い半袖からは、色白い腕が覗いている。

「セーラー服、似合うね」

「でしょ」

 満足げに鈴愛は笑う。プリーツを押さえながら、正面のブランコに躊躇無く腰掛けた。

「夏休みだけど、毎日、高校の夏期講習、バイト、予備校の連続で忙しいんだよね」

 学校から直行しているから夏休みでも制服を着ているのか、と納得した。制服を着た鈴愛はどこか幼い。星野もたった半年前には制服に腕を通していたはずなのに、その無垢さを遠く感じた。

「にしても、びっくりしたよ。確かに来たいとは聞いてたけど、こんなに急なんて。しかも、ちゃっかりしっぽり二人旅だし」

「だから違うって。立花とは偶然羽田で会って、ここまで行き先が同じだっただけ!」

「そういや立花さんは?」

「知らない」

「知らないって、どういうこと」

「わたしはさっさと離れたいの。向こうが勝手についてきて、ずっと困ってるんだよ」

「ふうん」

「鈴愛、全然信じてないでしょ」

 溜息混じりに呟くと、鈴愛は笑った。

「だって姉ちゃん、高校の時、立花さんに絵を見てもらったって嬉しそうに話してたから、立花さんのこと好きなんだと思ってた」

 無邪気な鈴愛の言葉に息が詰まる。なんで覚えているのだ。立花に再会してから、必死に頭の隅へと追いやっていた記憶が星野を襲う。橙色の西日が差し込む、絵の具で汚れた美術室の床。白いシャツ、制服に身を包み、ゆらりと佇む立花が追憶の中で、星野をじっと見つめていた。

「……そんなんじゃないよ」

「違うの? 姉ちゃんの絵を褒めるだなんてすごく見る目あるなって思ってたのに。じゃあ逆に、立花さんの方が姉ちゃんのこと好きなんじゃないの」

「んなわけない。だってあれ、コンクールに出した曰く付きの絵だよ。あんなんに興味持つ方が、趣味悪いしおかしいよ」

「自分で描いといて、そんなに貶す?」

「だってあの絵は──」

 勢いのまま口から吐き出しかけて、呑み込んだ。脳裏に絵が張り付く。黒を背景に、肌色と赤が塗りたくられた画がぐにゃりと歪む。

「……いや、あの絵は、全然上手く描けなかったから。結局コンクールも落ちた、出来損ないの絵だよ。立花だけが何故かあの絵を好きだった。ただ、それだけ」 

「そう? 私もあの絵、好きだったけどね」

「えっ」

 そんなことは初めて聞いた。だが、素直に喜べない。鈴愛はあの絵の正体を知らない。好きだなんて簡単に言わないでほしかった。

「私は姉ちゃんの絵、好きなんだよ。だから、ちゃんと描いてほしいのに。今、予備校は夏期講習でしょ。なんで来たのさ」

 鈴愛は顔を歪める。瞳の奥で微かに怒りが揺れていた。勿論、函館に来た理由など母親を殺すためでしかない。言えるわけがなかった。

「受験の息抜きだよ」

 咄嗟に立花の答えを借りたが、鈴愛の眉間に皺が寄る。これでは言い訳に足りない。

「あと、鈴愛が心配だったから」

 付け足した理由の方が本心だった。

「何の心配?」

 苛立つ鈴愛に、星野は問う。

「……母さんは元気?」

「とっても」

 声が重かった。鈴愛は薄い笑みを浮かべて、首元のホックをぷちりと外す。露わになった白い肌に、赤黒い鬱血痕が存在していた。

「私を殴れるくらいには、とっても元気」

 鈴愛の瞳には、明らかな憎しみが宿っている。星野は唇を噛む。だから、来たのだ。

「やっぱり、やられてるじゃない」

「そうだよ。だけど、これは姉ちゃんのせいじゃない。私は私の意志で母さんと暮らすことを選んだ。これは私の選択の結果だよ」

「でも、わたしがいたときは、鈴愛は殴られてなかった!」

 四人で暮らしていたとき、殴られていたのは星野だけであり、暴れる母を鈴愛と父が宥めていた。母は二人には優しかった。だから、鈴愛なら大丈夫だと許してしまったのだ。

「大丈夫。平気だって。だって、姉ちゃんも耐えてたじゃない」

「そうじゃない!」

 平然と答える鈴愛に腹が立つ。自分が殴られていた方がずっとましだった。鈴愛が殴られるのは、全部、逃げた自分のせいなのだ。無力感に胸が軋む。

「姉ちゃんは過保護すぎだよ。ほんと、こんなんで来ちゃうなら、言わなきゃよかった」

「なんで頼ってくれないの」

「だってどうしようもないじゃん」

 諦めたように言う鈴愛に、だから殺しに来たんだよ、と叫びたかった。

「……それでも、助けたいの」

 悔しかった。子供だからという理由だけで、親に振り回されてばかりいる。どうして子供は自由になれない。ただ、自由な人生を歩みたい。鈴愛にも、ちゃんと自分の人生を歩ませてやりたい。ただ、それだけなのに。

「いいんだよ、何もしなくて。心配してくれた、それだけで嬉しかったから」

 穏やかに微笑む、鈴愛の目の奥が鈍く光った。勿論、心配だったのはある。だが、違う。母からの虐待を告げる、昨日の鈴愛のメッセージ、そこに吐き出された言葉が、脳裏にへばりついて離れてくれない。

『いっそ、やられるくらいなら殺してやる』

 見た瞬間、星野は確信した。怯えより憎悪に駆られる、その感情に既視感があった。だからすぐに翌日の飛行機を予約し、ショルダーバッグに刃物を放り込んだのだ。いつか姉が燻らせた殺意が妹を蝕むのなら、今度こそ正しく肩代わりをしなければならなかった。

「……わかった。とりあえず、顔が見れて安心したよ」

 鈴愛が殺す前に殺す。それしか解は無い。鈴愛を守るためならば、いくらでも嘘など吐ける。もう、嘘を貫くしか道は無い。

「結局、いつまで函館にいるの」

「夏期講習あるし、明日には帰るよ」

「じゃあ、帰る前にもっかい会おうよ。予備校終わりの夜か朝なら、こっそり家から抜け出せるからさ」

 鈴愛の誘いに、星野は頷き返した。

「うん。また連絡する」

 勿論、嘘だった。もう二度と鈴愛に会うことはない。今夜、星野は母を殺した直後に死ぬからだ。自己犠牲を鈴愛が望まないのもわかっている。わかっているけど、鈴愛にだけは犠牲になってほしくない。これは星野の身勝手だった。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 星野は立ち上がる。乗り手を失い、ブランコが大きく揺れた。

「……そういや、姉ちゃん、ブルーベリーのシルクソフト、今日も食べたんだね」

 ブランコに腰掛けたままで、鈴愛が呟く。鈴愛の目の前のスタンドには、食べ終わってぐしゃぐしゃになった包装紙だけが残されている。鈴愛は顔を上げ、星野を見た。

「昔、家族で函館に来たときも買って食べたね。母さんが運転手で、私たちは車でゲームして待っててさ。父さんが降りて、テイクアウトで買ってきたんだよ。バーガーを食べてる間に、真夏の暑い車の中でべたべたに溶けちゃってさ。ブルーベリーのソース、頑張って舐めながら分けたて食べたから、べたべたに溶けちゃったの、覚えてる?」

「うん。覚えてる。昔も今も、変わらずおいしかったよ」

 覚えていたから、一番人気のキャラメルではなく、ブルーベリーのシルクソフトを選んだのだ。できることならば、昔、アイスを分け合ったように、ずっと姉妹二人きりで生きたかった。だが、子供は無力だ。とうとう殺人という極論しか選べず、今は、この殺意を二人で奪い合うことしかできない。

「また、一緒に食べたいね」

 だから星野は嘘を吐く。心からの本音だった。でも、嘘だ。この本音は嘘にしかなれない。

 微笑む鈴愛に背を向けた。子供の夢と思い出を閉じ込めたバーガー屋にはもう帰れない。思い出だけは綺麗なままだ。だから、それが星野にとっての救いだった。

 外に出た途端、顔に細かな雨粒が当たる。函館山の方を振り返ると、薄い靄が頂に掛かっていた。これでは夜景は駄目かもしれない。辺りを見渡すと、ラッキーピエロの特注らしい真緑と真っ赤の自動販売機が二台、そばにあった。それぞれ黄色い缶と赤い缶を売っている。立花のお兄さんが買ったのはこれかもしれないと、ふと思い至る。立花の姿はない。

 どんどん雨脚は強まっている。勿論、傘など持ち合わせていない。星野は駆け出す。車道を越え、赤レンガ倉庫の軒下に体を滑らせると、ガラス越しにショッピング街らしきものが見えた。雨宿りを兼ね、足を踏み入れる。

 歴史を感じる煉瓦造りの外観とは裏腹に、中は活気に満ち溢れていた。様々な店が所狭しと並び、函館を過大にアピールしたポップや、免税店の赤い看板が下がっている。観光客を狙った商業施設であるらしい。

 ふと、一軒の雑貨屋が目に留まる。店は黒の木組みに囲まれていて、アクセサリーや帽子が置いてあるのが見えた。傘を探すために中へと踏み入る。店内の陳列を端から眺めたが、傘は無いようだった。踵を返そうとした途端、鋭い金色のナイフが目に留まる。気が付けば、吸い込まれるように手に取っていた。

 ナイフの柄の少し上に、大きな飾りが付いている。中央に円が掘られ、そこから八つの棘のような突起が伸びていた。まるで星が弾けたようだ。星は最期に大爆発を起こすという、昔、図鑑で得た知識を思い出す。刃渡りは長くて鋭い。ペーパーナイフの類ではなく、確かな殺傷性を感じた。どこかで凶器を調達しなければならないと、空港でナイフを捨てた時からずっと考えていた。今夜に母を殺すなら、今しかないだろう。星野はナイフを強く握った。じっとりとした掌の熱が金属に伝わっていく。

 レジに持っていって、購入する。ナイフは丁重にクラフト紙に包まれ、手渡された。ずしりとした重みが恐ろしくなる。鞄の奥にぎゅうと押し込み、逃げるように店内から出た。そのまま人混みを駆け抜け、赤レンガの外へ飛び出した。

 浅い呼吸を繰り返す。いつのまにか雨は止み、遠い雲の切れ目で赤い空が焼けていた。潮の香りが鼻を擽り、気が付く。すぐ目の前が海だった。群青の海は僅かな夕陽を反射し、さざ波を立てている。

 嫌な夕焼けだ。突き刺すような頭痛が走る。あの男のことを思い出してしまう。いないのにいるような気がした。辺りを見渡したが、姿はない。それでも恐ろしくて、鞄の中に右手を差し入れ、包装紙を破った。ナイフの柄を握り締める。金属の冷たさが心地よかった。

 一年前、初めて立花と話した夕刻、星野が握っていたのはナイフではなく、絵筆だった。だが、この手中にあるのが絵筆でもナイフでも、結局何も変わっていないのだろう。あのとき、星野は絵で母を殺そうとしていた。

 きっとあの頃から、いや、もっと昔から、星野はずっと、母を殺したかったのだ。


 西日がゆらりと傾いて、美術室へと差し込む。絵の具で汚れた灰色の床が赤く染まっていく。星野は、この一人きりの夕刻が好きだった。校庭側、開けたままの窓からピストルの発砲音が響く。土を蹴る音と、笛の音。陸上部の掛け声が遠くから聞こえてくる。星野は左肩を回した。エプロンと白いセーラー服の下、筋に鋭い痛みが走った。

 眼前には真っ黒なF100号のキャンバスが聳え立っている。まるで深淵が形を成して、こちらを覗いているようだった。

 右手で強く絵筆を握り、銀色の油壺に突っ込む。勢いのままパレットの赤を攫い、穂先をキャンバスに叩きつけた。背景の黒と混ざり、鮮やかな赤はすぐに暗くなる。それから何度も、絵の具を攫っては叩きつけてを繰り返す。絵の具が肌に飛び、汗に混ざって静かに垂れた。

 額の汗を腕で拭う。汗如きを気にしてしまう時点で、既に集中が切れているのだろう。喉も渇ききっていた。休憩ついでに、飲み物でも買いに行くかと、扉の方へ振り返る。

 途端、星野は固まった。閉めていたはずの扉は開け放たれ、一人の男子生徒が入口に立ち尽くしていた。

「あー……、ごめん」

 男は、有名医大の赤本を抱えている。図書室はこの廊下の先だ。おそらく、図書館の帰りに通りかかって偶然見られたのだろう。扉を開けられたことすら、まるで気づかなかった。最悪だ。

「いつからいたの」

 星野は筆を握り締め、責めるように問う。

「はじめから」

 答えた男は、いやに真剣な顔をしていた。だから、星野は驚く。この立花という男は、星野のクラスメイトである。隅でひっそりと過ごす星野と違い、立花は比較的目立つ方の人間で、お喋りで軽薄だが、実は切れ者というキャラクターをクラスの中で確立させていた。おれは医者になるからなという口癖も、嫌味にならないような人柄だ。だが、それ以上を知らない。大して話したこともなかった。

 真剣に星野の問いに答える立花の姿は、対外的に貫かれている軽さとは明らかに反していた。いつもの立花なら、チャラく謝って、何か奢るから許してよと、適当に笑ってやり過ごしそうなものだ。今の立花に、普段の軽薄さは欠片も無い。一枚、皮を剥いだような気持ちの悪さい感覚があった。

 立花は美術室の中へと踏み入る。このまま立ち去る気は無いようだった。

「星野のその絵、なんかやばくないか」

「……やばいって何が」

「いや、気迫とか想いが、普通の絵とは全然違う。おれ、選択芸術は書道だし、美術のこととか全然詳しくないんだけど」

 言われて、心臓が跳ねた。ずきりと左肩が疼く。

 自宅の絵画教室、狭い闇夜の中に母がいる。なんであんたの方が上手いのと、母は星野を詰る。母の背後のキャンバスには、真っ青な天体とそこから這い出る、鯨を延棒で引き伸ばしたような悍ましい化物が描かれている。

 母の手には4Hの鉛筆が握られていて、床には夥しい数のスケッチが散乱している。全ては、絵画講師であると同時に画家である母の苦悩の証だった。母は星野に掴みかかる。床の紙に足を取られ、逃げ切れずに捕まる。馬乗りになった母が星野に影を落とす。月の反射光が照っている。母の顔は逆光で見えない。そのまま母は、尖る鉛筆の先を、星野の左肩に深く突き刺した。

 ふざけるな。だから描いたのだ。刺されて殴られて、傷つくたびに怒りが生まれた。描けるわたしに羨望を寄越すな。そんなことをやられても、描くことは止めない。描くことで刺し返してやる。

 この絵は、それだけを込めた絵だった。

「ああ、そうか」

 立花は言う。

「こもった憎しみが綺麗で見惚れてたんだ」

 星野は言葉を失った。絵に込めた憎悪を正しく受け取られるだなんて思ってもいなかった。鮮烈な夕陽が教室を包み、暗い影を生む。太陽の赤い光が照っている。逆光で、青く陰った瞳に問われた。

「誰をそんなに憎んでるんだ」

「……母親」

 吸い込まれるように答えていた。はっと我に返る。母親が憎いだなんて、妹にすら話したことは無かった。とんでもないことを告白してしまったと後悔したが、立花は、そっかとただ呟いただけだった。

「なあ、また描くの見にきてもいいか」

「え」

 さらなる立花の提案に耳を疑う。どうやらこの邂逅には、次回が存在するらしい。

「誰にも言わないからさ」

 ひどく優しい声だった。全て知られてしまった今、断る理由が咄嗟に浮かばない。

「……別に、構わないけど」

「お、やった」

 向けられた笑みが心底嬉しそうで、困惑する。憎しみを気に入るだなんて、変な人だ。

「じゃ、またな」

 颯爽と手を振り、立花は去っていく。不意に風が止んだ気がした。残された星野の体に、西日が熱を持ってじとりと纏わりついた。

 この翌日から立花は、言葉通り美術室へ通うこととなった。夏休みの美術室は、他の部員も来なかったため、いつも星野一人だった。そこに夕刻、立花がふらりと現れる。だから、ずっと二人きりだった。

 ある時、受験生なのに勉強しなくていいのと尋ねると、息抜きだよと笑われた。確かに、いつも美術室に訪れる立花は、宮沢賢治の『春と修羅』という、受験にはまるで関係無さそうな本を開いていた。二人きりの割に、話す時間はあまりなく、立花の横顔と耳に揺れる青いピアスばかりが記憶に残っている。

 確か一度だけ、互いの家族の話になった。立花の父親は、町田市の大病院を経営していて、兄は医大生であるらしい。星野も、中学までは札幌に住んでいたことや、三歳下の妹がいることを話したが、そのような世間話以上に、話が広がることはなかった。

 事実、絵を見てくれるのは嬉しかった。鈴愛に、立花の話をするくらいには。でも、なんで見に来るの、とは聞けなかった。聞いた途端、立花はもう二度と絵を見に来なくなる予感がしたのだ。逆に、何故母親を憎んでいるのかなど、こちらの事情についても一切訊かれなかった。きっと立花は、ただ純粋に星野の絵に棲む憎しみを観測したかったのだろう。じっと絵を見つめる立花の瞳は、いつだって深く暗い青を宿していた。

 踏み込む覚悟はなかった。星野は逃げるように、目の前の絵に向き合い続けることしかできなかった。

 そして、立花が初めて美術室を訪れてから、ちょうど二週間が経過した八月上旬のある日、絵は完成した。

 漆黒の絵の中では、月夜に煌々と照らされた肌色の体と影とが複雑に絡み合っていた。その影を切り裂くように、一本の赤い線が横切る。汗と絵の具に塗れて荒い息を吐く星野を、立花は傍らでじっと見つめていた。

 そして、問うた。

「描ききって、憎しみは消えたか?」

「消えなかったよ」

 立花の目が微かに見開かれた。星野は笑う。昨日は右腹を殴られた。こんな絵如きを描いたところで、想いなど何一つ昇華されない。やり遂げた達成感はあれど、満たされなかった。擡げた復讐心は消えず、むしろ滾っていた。

「でも、この絵で母を殺してやるんだ」

 わたしの怒りを飛ばしてやりたい。この絵が母親の醜い正体を暴いて殺してくれることを、どうしようもなく願っていた。

「ああ、そうだな」

 向けられた笑顔が優しい。この人は、父親に医者という将来を保証されているから、親を憎む星野のような人間が心底珍しかったのだろう。物見遊山でも同情でも良い。描いた憎悪が傍観者に届いたならば、それは何よりもの救いだった。

 浅い息を吐ききり、立花の青い目を見つめる。全て終わった、つもりだった。だが、そこで立花が一枚の紙をこちらへと差し出す。それは、白紙の葉書だった。

「……え、ハガキ?」

「暑中見舞い——は、もう過ぎてるか。じゃあ、残暑見舞いでいいから、なんかくれないか」

「なんかって」

「絵、描いてほしい。なんでもいいから」

 星野は息を呑む。そんなにわたしの絵が好きなのと、つい尋ねそうになった。この二週間、一度もこちらへ踏み込んでこなかった立花が、震える手で葉書を差し出している。いつもは軽薄を演じるその目が、痛切に訴えていた。

「いいよ」

 その誠実に応えたくなって、星野は葉書を受け取った。表面には、既に82円切手が貼られており、立花のフルネームと住所も律儀に記されていた。無理言ってごめん、と断りを入れる立花に、星野もなんだか気恥ずかしくなる。

「じゃあ返事ちょうだい。それでチャラね」

「おう」

 星野は、絵の具と汗塗れの顔でへらりと笑った。夕陽の陰る美術室で、確かに立花は頷いていた、はずだった。

 しかし結局、葉書の返事は無かった。夏休み中、ずっと待っていたからこそ、返事は無くとも、こちらの残暑見舞いがちゃんと届いたかくらいは確かめたかった。だが、始業式、教室に立花の姿は無かった。数日後、ようやく出席はしてきたが、話す間もなく早退してしまう。家の用事があって、と皆に笑い飛ばす立花の目はまるで笑っていなかった。

 さらにそれ以降、立花は殆ど学校に来なくなった。最初は、心配する声も多少はあったが、どうやら予備校には行っているらしく、それだけ受験に本気なのだろうと、皆、勝手に納得した。次第に立花の不在は取り沙汰されなくなり、立花が教室にいないことが当たり前になった。

 星野も秋口から美術予備校に通い詰めになり、三学期になって自由登校が始まると、互いの登校が重なることすら稀だった。卒業式はお互い出席していたが、話す機会は無かった。勿論、連絡先など知らない。クラスメイトの誰かしらに聞いて、メールの一つでも送れば良かったのかもしれないが、今更掛ける言葉が浮かばなかったのでやめた。人間関係なんてそんなものだろう。踏み込むには、多大な勇気と労力がいる。立花との関係が終わることに、正直、然程心残りはなかった。

 また、星野自身それどころではなかったのもある。コンクールに落ち、美大受験にも落ちた。復讐を成し得ることは叶わなかった。さらに春休みの最中、両親が離婚した。訊かなかったから、理由はわからないが、きっともう、父も母の狂気についていけなくなったのだろう。

 親権は平等に分配されることになった。仕事のために東京に残る父と、故郷である函館に戻って絵を描く母。どちらにつくかという選択肢は、あってないようなものだった。母を選び、母と函館で二人で暮らしたら、閉鎖的な生活の中で、いつかどちらかが殺してしまう。そんな未来はわかりきっていた。どうせ美大に行くなら東京に残りなよ、と鈴愛が先に言った。結果的に妹に甘えることになったが、別に鈴愛が譲らなければ母を殺す未来でもいいかと、本気で思っていた。

 初めて母に殴られた小五の時ですら、描くことをやめられなかった。絵を描くことは星野にとって生きることと同義だった。どんなに殴られようが、母を傷つけようが構わない。何があろうとやめたくなどなかった。そこまでして何故描きたいのか。それは、星野にもずっとわからないままだ。

 描いたって殺意が消えるわけではないし、事実、母を殺せるわけでもない。描くたびに憎悪は膨らんでいる気がする。できることならば、全部忘れてしまいたかった。それでも殺意は無くならず、描くこともやめられないまま、星野はここまで生きてきてしまった。でも、描くことより、妹の命が大切だった。

 わたしはこれから母を殺す。未来がある立花を道連れにするわけにはいかない。わたしの絵を憎悪ごと、肯定してくれたあなただからこそ、絶対に会いたくなかった。

 あなたは葉書の返事を出さなかったじゃないか。それで終わりでよかったのに、どうして今更ついてくるんだ。もう一度、わたしから離れてほしかった。


「待ってたよ」

 声が聞こえた。星野は声の方を向く。立花は、防波堤の際に立っていた。やはり消えたわけではなかったか。ナイフから指を離して、鞄の中から手を抜いた。溜息混じりに呟く。

「……いなくなってくれて、よかったのに」

「酷いな。妹との邪魔はしなかったんだから、大目に見てくれよ」

 立花の髪が仄かに濡れている。その手には、黄色い缶が握られていた。ラッキーピエロ店外の自動販売機で売っていたものだ。ピエロの大きな絵と共にラッキーガラナと書かれている。

「暗くなったし、そろそろ夜景見れるだろ」

 立花は山を見た。薄暗い夕景の中、頂の雲が消えていた。星野は、立花をきつく睨む。

「わたしは見たくない」

 既に凶器は買った。あとは母を殺すだけだ。取り繕うのはここまででいい。立花を引き離すのに、なりふり構っていられなかった。

「そんなつれないこと言うなよ」

「しつこい。嫌だって言ってる。はやくお兄さんに会いに行きなよ」

「うん。だから山頂に行きたいんだ」

「は?」

 話が噛み合わない。意図的に逸らされているのか。立花は、黄色の缶をからんと揺らす。

「何、お兄さんが山頂にいるとでも言うの」

「おまえに渡したいものがあるんだ」

「だとしても、わたしが行く義理はない」

 立花は缶をわざとらしく呷り、ゆっくりと唇を離した。僅かにその口角が上がり、自嘲が滲む。

「星野は、本当におれが邪魔なんだな」

「そうだよ!」

 とうとう星野が叫んだ瞬間、立花の顔が陰り、血の色のような夕景にゆらりと溶けた。

 立花は静かに笑って、告げた。

「邪魔なのは、おまえがこれから母親を殺そうとしてるからだろ」

 陰る目は、星野を真っ直ぐ射抜いた。噎せ返るほどの潮の香りに、喉の奥が渇く。

「……何を、言ってるの」

「さっき、ナイフ買ってたろ」

「見てたの⁉︎」

「ああ。店の外で待ってたからな。ずっと追って、全部見てたよ」

 立花は缶をべこべこ凹ませた。中身はとっくに空なのだ。濡れた髪は先刻の雨のせいだろう。潜伏の長さを思わせた。

「なんでナイフなんか買った」

「なんだっていいでしょ。なんとなくだよ。一目見て気に入った。ただ、それだけ」

「じゃあどうして、一度捨てたナイフをもう一度買った?」

 星野は目を見開く。今、何と言った。

「間違って持ってきた、とおまえは羽田で言っていたが、本当に間違ったなら買い直す必要など無い。函館でナイフが必要だから買い直した。それは、ここで誰かを殺すためだろう」

「……なんで捨てたことを知ってるの」

 おかしい。星野が保安検査場でナイフを捨てたのは、立花に再会する前だ。捨てた後に会ったはずだ。時系列が合わない。

 立花は臆せずに答える。

「逆だ。ナイフを捨てたあとに、星野に会ったんじゃない。おれは、そもそもナイフを捨てるのが見えたから、星野に声を掛けたんだ」

「なんで」

「聞いているのはこっちだ」

 立花は再度問う。

「なんでナイフを捨てた。そして何故、買い直した。その鞄の中のナイフは何に使うんだ」

 立花は証明したがっている。そのナイフで母親を殺すのだろう、と。星野は唇を噛む。はじめから気付かれていたのだ。自分の迂闊さに腹が立つ。だが、妹を守るための殺人を果たすためには、絶対に認めるわけにはいかなかった。

「……ナイフで人を殺すとは限らないでしょ。飛躍しすぎだよ」

「じゃあ、これからもそばにいてやるよ」

 空笑いを浮かべた立花は、手に持っていた缶を海に放り投げた。ぽちゃん、と海へ落ちる。辺りに人はいない。静寂が星野を襲った。

 星野は咄嗟に、鈴愛と立花の命を天秤にかけた。鞄に手を差し入れ、凶器の柄を握る。これ以上邪魔をするならば、殺すしかない。

「何が目的なの」

 本当にわからなかった。立花は空港からずっと星野を追い、ついに殺人を暴いた。今だって、言質を欲しがっている。異常なほどの執着だ。いつか、星野の絵を見続けていたように、今でも憎悪を追い続けている。

「はじめから言ってるだろ。おれはおまえと夜景が見たい。上まで登れさえすれば、何もしない。むしろ、手伝ってもいいくらいだ」

「手伝うって、何を」

「殺人をだよ」

 さも当然のように答えられた。赤く染まる海の淵で、男は死神のように立っている。

「おまえの殺人を止める気は無い」

 その瞳に揺らぐ感情を量りかねた。何かを期待しているようでもあった。星野は逡巡する。しかし、他に選択肢が無かった。

「……わかった。登るよ」

 従うしかない。そうしないと母を殺せない。立花は満足げに笑った。

 空は赤を失って、徐々に闇夜に侵され始めていた。暗闇が空と海の境界を消し去っていく。波の音が響く中、水平の境に明かりが光った。漁火だ。呼応するようにあちらこちらに光が増えていく。

 夜が始まった。もう、夜明けも希望もいらないのに、目の前の死神は静かに笑っている。ここは底だ。それなのに、終わりが始まることが、心底怖くて堪らなかった。

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