カシオピアで燃えるあなたへ

青村カロイ

終着

 白い光が闇の中を流れては消えていく。流れ星にかけられる願いなど、なかった。

 星野愛世美ほしのあぜみは、微睡みから目を覚ました。明るかったはずの車窓は暗闇を映し、無数の白いライトが尾を引いて通り過ぎていく。どうやら、眠る内に電車が地下へ潜ったらしい。電車は徐々に速度を落とし、掲示板が光る無機質な駅で停車した。ここは、京急線羽田空港国内線ターミナル。終着駅だった。

 トランクを引く人々に流されて下車し、改札を抜ける。東京モノレールの駅の横を通って、突き当たりのエスカレーターに乗った。上りきって視界がひらける。ガラス張りの天井から陽光が降り注ぐ、飛行機の出発ロビーだ。

 にいちゃん待って、と一人の男の子が星野の横を駆けていく。人混みに紛れゆく背中を見つめながら、今が夏休みであることを実感した。夏休みなど、今の星野には関係ない区切りだ。人混みを振り切るように抜けて、保安検査場へ直進する。上着のポケットからスマートフォンを取り出し、表示したQRコードを入口の機械に翳す。上部から出てきた黄色い紙を引きちぎり、列に並んだ。

 その保安検査証に印字された文字を見つめる。SN1572便、座席番号11B、東京羽田発、函館行き。函館という行き先の果てしなさに溜息が漏れた。今の時代、飛行機で空を横断できるとはいえ、本州と北海道とを隔てる海は、物理的な距離を物語っている。中学生の頃まで札幌に住んでいたが、あの頃から函館は遠い場所だった。尚更、東京の多摩から向かえば、遠く感じる。この距離はどうにも苦しい。逸る気持ちばかりが空回っていた。

 列が進み、ようやくレーンに差し掛かる。緑のトレイに上着と鞄を乗せ、検査員に引き渡す。銀のレーンの上を滑るトレイは、X線検査の装置に呑み込まれた。荷物を追うように、星野自身も金属探知のゲートをくぐる。出口で荷物の到着を待った。

 そこで、検査員に声を掛けられる。目の前に流れてきた荷物が検査員によって回収された。どうやら先程のX線検査で、鞄の中に気になる物が映り、中を直接調べたいらしい。いいですよと頷きながら、何のことだろうと記憶を探る。

 星野がそれに思い至ったのと、検査員が取り出したのが同時だった。眼前に、二つ折りのナイフが現れる。その潜む刃先が、ひやりと首筋へあてられたような感覚に襲われた。

「捨ててください!」

 辺り一帯に響くほど、強く鋭い声が飛び出た。検査員は唖然として、星野を見つめる。

「……搭乗までまだお時間がありますので、一度カウンターへ戻り、そこでお預けいただければ、機内に運ぶことは可能ですが」

「いえ、間違えて持ってきちゃったんです。持っているのが間違いなんです。処分してください。すみません。本当にすみません」

 とにかく謝罪を捲し立てた。確かに、意図的に持ってきたのは事実だが、刃物類を一切機内に持ち込めないことを失念していた。ここで変に止められたら、全てが終わってしまう。まだ、スタートラインにすら立てていない。額にじわりと汗が滲んだ。

 必死の懇願は叶い、処分は受理された。星野のナイフは、他の刃物類も入れられている透明ケースの中に捨てられ、紛れてわからなくなった。鞄を受け取り、肩に掛ける。刃物を失って先程より軽くなっているはずなのに、何故か重たく肩へ沈んだ。全てが後ろめたさに直結している。こんなところで立ち止まっている場合ではない。とにかくここから立ち去ろうと一歩踏み出した、その瞬間だった。

 甲高い電子音が背後で響いた。振り返るとゲートの下に一人の男が立ち止まっていた。どうやら金属探知のゲートに引っ掛かったらしい。頭を下げ、かちゃかちゃとベルトを外そうとしている。俯く頭の両耳朶、少し長い横髪の隙間から、銀のピアスが揺れている。

 その派手なピアスのせいで止められたのではないか。訝しげな視線を留めていたら、男は不意に顔を上げた。そこで視線がかち合う。

「星野じゃん」

 名前を呼ばれて唖然とする。目を疑った。なんで、あなたがここにいるのだ。

「久し振り。おれのこと覚えてる?」

 溌剌とした声は、過去を鮮明に呼び覚ます。思い出は痛みを孕んでいる。問われる声に頷きたくなかった。覚えてるという肯定から逃げるように、男の名前を口にした。

「……立花たちばな、早く退かないと邪魔になる」

「あ、そうだった」

 立花は、鈍く光るバックルを緩めてベルトを抜き、重厚な銀の腕時計を外した。星野は驚く。そんなにも多くの金属を付けてゲートを通っていたのか。まるで、ここで止めてほしいと願っているみたいじゃないか。動くたびに、立花のピアスがゆらりと揺れる。

「……そのピアスのせいじゃないの」

「お、そうかも。外すの忘れてた。ちょっと持ってて」

 立花は慣れた手つきでピアスを外し、こちらへ差し出した。星野は固まる。つい、ピアスが目に付いて口を挟んでしまったが、面倒を見るつもりはまるで無かった。ピアスなど、その辺に置くなり、検査員に渡すなりすればいいのに、どうして星野に渡すのか。受け取りたくなど無いが、列はつかえているし、周りの視線も痛かった。立花の無垢な瞳は、星野をじっと捉えて離さない。

 とうとう根負けして、溜息混じりに指を開く。掌の上へふたつ、青のガラス玉が落ちた。

 ピアスを見て、気が付く。先程から耳元で揺れていたのはピアス本体ではなく、キャッチに繋がる針金の方だった。針金の先端には、透明なガラスと銀の楕円が振り子のようにぶら下がっている。本体のガラス玉も一見すると青いが、よく見ると透明だった。底に青のインクが沈殿しており、正面から見ると球全体に反射して青を錯覚させる。まるで、小さな球の中に宇宙が閉じ込められているようだった。赤い血が通う星野の掌の上、閉じ込められた宇宙だけが、きらきらと輝いている。

「助かった」

 星野は顔を上げる。再検査を終えた立花は、身支度を整えていた。青のパーカーと赤のヘッドフォンが目に付く。立花の指が、掌の上のピアスを摘んだ。指先が微かに皮膚を掠り、触れたところが熱を帯びる。そんな淡い熱すら恐ろしかった。立花は、にこやかに告げる。

「会うのは高校の卒業式以来、半年振りか」

「そうだね」

 確かに卒業式以来ではあるが、当日は一切、言葉を交わしていない。立花とのまともな接点は、ちょうど一年前の夏、美術室で星野が絵を描き、立花がそれを見ていたあの二週間だけだ。絵の完成と共に関係は終わった。むしろ、立花の方から断ち切られたはずだ。もう過ぎ去った時間であり、思い返すこと自体が無駄だと、星野はずっと信じていた。

「なあ、少し話さないか」

 だから、目を丸くする。今更、何を話せと言うのか。

「いい。もう搭乗時刻だから、行かなきゃ。立花も急いだ方がいいでしょう」

 わざと素っ気ない言葉を並べた。他の人間なら、もっと自然にあしらえただろう。立花が相手だから動揺している。かつての美術室で、青く陰る瞳が、星野の絵を見て問うた。

『誰を憎んでいるんだ』

 絵の本質を射抜いた言葉に、確かに星野は答えてしまった。だから立花だけは、星野の憎悪を知っている。今も覚えていたら、容易に勘付かれてしまうだろう。これから星野が、母親を殺しに行くことを。

 母親への憎しみは燃え盛ったまま、星野の内に存在している。憎いから殺したい。その純真たる想いは、絵を描き、そこに憎悪を込めたときから、寸分も変わっていなかった。危ういからこそ、わかっている。この計画は、他者にばれたら潰えて終わりだ。立花であっても信用はできない。これからの函館での殺害計画は明るみに出て、二度と果たせなくなる。

「まだ、時間に余裕あるだろ」

「わたしには無い。じゃ、またね」

 律儀にまたね、と笑ってみせたのは、下手な拒絶だと見透かされる気がしたからだ。円満に別れたい。波風など立てたくなかった。

 だが、立花の通る声が、星野の背を刺す。

「なんで急ぐんだ。おまえだって同じ函館行きじゃねえか」

 声は心臓まで届いた。星野は立ち止まる。どういうことだ。ばくばくと心臓が脈を打つ。おもむろに振り返り、立花を見た。

 ごめん見えたんだ、と立花はへらりと告げる。立花の人差し指は、星野の持つ保安検査証を指した。そして、お返しというように、立花は反対の手を差し出す。その指には、挟まれた黄色い保安検査証にはが挟まれていた。星野は目を凝らす。そこにも、確かに函館と書かれていた。

「なんで」

「すごい偶然だよな。しかも、これ、席も隣じゃね?」

 言われて、座席欄を注視する。立花の座席は11Aだった。星野は自らの保安検査証を再度見る。そこには、11Bと書かれていた。

「うそでしょ⁉︎」

「ほんと、すっごい偶然。だから、どう足掻いても函館までは一緒なんだわ」

「……そんな」

「すまんなあ。まあ、旅は道連れ世は情けって言うじゃん。きっと楽しいよ」

 へらへらと告げる立花に、怒りが湧いた。ふざけないでほしかった。星野の旅の終着は殺人だ。道連れと共に心中しろとでも言うのか。絶対に、同行者などいてはならない。巻き込むわけにはいかないし、止められるわけにもいかない。一人旅しか有り得ないのだ。

 だが、ここで狼狽えたところで、隣人である事実から逃げられるわけではない。拒絶も許容もできないから、ここは受け流すしかないだろう。

「……そうだね。函館までよろしく」

「ああ。こちらこそ、よろしくな」

 星野は覚悟を決めた。穏やかな表層とは裏腹に、早く消えてくれとしか願っていない。函館までやり過ごして、さっさと撒いてやる。最悪、立花ごと殺すしかない。きっと一人も二人も変わらないだろう。

 星野の渦巻く胸中など露知らず、じゃあ行こうか、と立花はすたすた歩き始めた。星野は追う。函館行きの搭乗口は、搭乗待合室の端にあるらしい。水平型のエスカレーターに沿って、先の見えない通路が奥へ続いていた。右側は一面ガラス窓で、飛行機の離着陸が見渡せるようになっている。吸い込まれそうなほどに、青い空だった。

「そういや、星野はなんで函館に行くの?」

 エスカレーターに足を乗せた途端、立花が振り返った。星野はぎくりと体を強張らせる。立花には何気ない世間話でも、こちらにとっては核心に迫る問いだ。なんとか平静を装って、微笑んでみる。

「立花は?」

 質問を質問で返すのは悪手かもしれない。だが、まずこちらが答える前に、立花の出方を見たかった。立花は臆せずに答える。

「おれは、殆ど観光みたいなもんだよ。兄さんから物を受け取るついでに、色々回ろうと思ってんだ。函館行くの初めてでさ。夜景とか綺麗なんだろ。ぜひ見たいんだよね」

「お兄さん、函館にいるんだ」

「なんか、どうしても直接取りに来てほしいものらしくて。困っちゃうよなあ」

 立花の声が嬉しそうに跳ねた。このご時世、郵送ではなく手渡しだとは珍しい。余程、特別な物なのだろうか。相変わらず、兄弟仲は良いらしい。

「……実は、わたしも妹に会いに行くんだ」

 星野は、ほんの少し逡巡してから、答える。嘘を吐く時は、少しの真実を混ぜた方がばれにくい。函館で妹に会うのは本当だ。

「星野もなのか」

「行き先どころか目的まで一緒だなんて、すごい偶然だね」

「確かになあ。でも、おれの兄さんはともかく、星野は札幌出身なんだから、妹が函館にいてもあんまり驚かんな。札幌も函館も同じ北海道だし、すぐ近くなんだろう」

 星野は面食らう。星野の出身地など、以前美術室で一度話しただけだ。よく覚えている。

「札幌と函館は、別に近くないよ」

「そうなん?」

 立花は無垢に首を傾げている。他意はなさそうだ。だから、恐ろしい。これ以上何も思い出さないでほしかった。星野は答える。

「札幌函館間は、二百五十キロ以上離れてるよ。札幌を多摩だとすると、函館は静岡や愛知に着けるほどの距離だ。勿論、新幹線も通ってないから、車でも電車でも半日掛かる」

「あれ、青函トンネルに新幹線って通ってなかったっけ」

「通ってる。けど、線路は函館まで。札幌に来るのは、まだ何十年も先」

 言いながら、自嘲を薄く浮かべる。その完成を星野が目にすることはないだろう。

「函館って、すげえ遠いんだな」

「うん。だから、札幌から向かうより、こうやって東京から飛んだ方が早はやいよ」

 星野の言葉に呼応するかのように、ちょうど飛行機が飛び立っていくのが窓越しに見えた。空ばかりが自由だ。だから、憎らしい。

「そんなに遠いなら、星野も函館初めてなのか」

「いや。昔、一度だけ行った。五稜郭とか夜景とか、なんとなく覚えてるよ」

 答えた途端、封じ込めていた記憶が蘇る。タワーから見下ろす、若々しい緑の星型の城跡。ロープウェイの上、ぼんやりと浮き上がる夜景。肉汁の弾けるバーガーと冷たいソフトクリーム。頭の片隅で眠る思い出は、どこか甘くて痛い。家族四人の函館旅行は、思い出すたびにじんわり疼く。

「なあ」

 ひどく優しい声がした。

「せっかく会えたんだし、一緒に夜景でも見ないか」

 おれは函館初めてだからさと、立花は笑った。その笑顔は、ガラス越しの陽光に照らされている。あまりにも眩しすぎた。上手く応えられずに、目を逸らしてしまう。

「……さすが大学生だね。わたしはどうも観光気分になれなくて。だって、浪人だし」

 もっともらしい理由を並べて、躱した。浪人生なのは本当だが、二度と美術予備校に戻るつもりは無かった。未完の絵を残し、夏期講習を蹴ってここにいる。母を殺すことができるのなら、もう絵を描けなくても構わなかったい。全ては母殺しのためだ。

 その切実を、はっきりとした声が貫く。

「おれも浪人だよ」

 驚いて顔を上げた。星野は気が付く。立花自身が光っているのではなかった。逆光だ。眩むような光を背に、青に陰る瞳が揺らめいている。

「だって途方もないだろ。束の間の息抜きくらい、許されたっていいじゃないか」

 立花の瞳は果てのない青黒さを宿している。家族で行った、いつかの夜景がちらついた。この誘いに乗れば、失われた過去をなぞる優しい旅ができるのだろうか。どうせ全て終わるのだ。最後くらい、穏やかに終わりたい。

 だが、駄目だ。星野の予想する未来では、妹がナイフを握っている。その矛先が母親に向いた。笑う妹は、思いきり刃先を母親へと突き刺す。笑顔がべしゃりと血で染まった。

 絆されている場合ではなかった。訪れる未来を、星野は変えなければならない。こうやって痛みを赦されてしまうから、立花と話すのは嫌だったのに。

 通路の果てで、エスカレーターが途切れた。後ろを向いていた立花は、降り時を見失って躓く。よろめく立花を抜かし、星野は告げた。

「気が向いたらね」

 そのまま振り返らなかった。足並みを揃える気はない。星野には、何に代えてもやり遂げなければならない目的がある。最後に許されたいなどと血迷って、立花を巻き込むわけにはいかなかった。背後で立花が、そっかと呟いたのが聞こえた。甘い落胆が耳に纏わりつく。振り払うように進んだ。

 ようやく、函館行きの搭乗口へ辿り着いた。案内は既に開始しているようで、乗客たちは次々に搭乗口をくぐっていた。星野はスマートフォンを取り出し、搭乗券代わりのQRコードを機械に翳す。立花は、そんなんできるのと目を丸くしながら、紙の搭乗券を取り出していた。今度は立花も止められること無く、搭乗口をくぐる。受け取った搭乗案内で、改めて座席を確認する。星野が11Bで、立花が11Aだ。おそらく立花が窓際だろう。機内までの通路を歩きつつ、それとなく先頭を譲った。目にした窓ガラスの外、澄み渡った空を背景にSN1572便が鎮座していた。

 機内に入ってすぐの通路を曲がって進む。前から数えて十一列目の右側に、座席を二つ確認できた。先に立花が入り、塞ぐように星野が座る。座席の下に荷物をしまい、上着を脱いで膝へと掛けた。シートベルトを締めて、出発を待つ。

 まもなくして、機体が動き出した。しばらくはふらふらと地上を走行していたが、滑走路に入った途端、動きが直進に変わった。次第に速度を加速させていく。突然、機体が大きく揺れた。ふっと体が浮いたかと思うと、大気加速した分の重力が体にのしかかり、全身がシートに押し付けられた。宙へと飛んだ、その刹那、飛行機はあっという間に高度を増していく。

 隣人に目をやる。立花は窓の外を見つめていた。赤のヘッドフォンは首元に落ちて、髪の隙間から覗くピアスの先端が、窓から降り注ぐ太陽の光を乱反射している。星野も立花越しに窓の外を見つめた。地上は既に見えなくなっていた。白い雲が絨毯のように敷き詰められ、上空には青い空が広がっていた。全てが白と青で覆い隠されている、美しく塗り潰された都合の良い世界だ。なんだか見ていられなくなって、背凭れに体を預ける。目を瞑り、闇へと潜った。

 闇は死を呼び起こす。死は、こんな闇のような無と等しいものだろうと星野は思った。

 魂など無く、死んだらそこで終わりだ。現世に希望は抱いていないし、浄土も地獄も信じていない。だから、殺せる。函館で母親を刺殺し、そのまま、自らの喉を掻き切って死ぬつもりだ。死と共に自分の存在ごと、無に還したい。

 死んだ後も世界は続く。母親を殺すことが、結果的に妹を守ることになったとしても、妹のためであるとは絶対に言えない。星野が死ねば、妹は悲しむ。後追いをされるかもしれない。それもわかっている。

 それでも殺人を選びたい。妹の代わりじゃない。星野が殺したいのだ。これは復讐であり、大義は無い。もう、母親を憎み、殺すことでしか星野は生きられないし、それは同時に死を連れてくる。

 この旅は片道なのだ。終着まで辿り着きたい。旅の終着で母を殺し、どうかちゃんと死なせてくれ。

 それだけをただ、願っている。

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