第6話 ふるえ

 白衣の上からコートを着た男が二人、病院前のファーストフード店から出てくると、紙袋片手に大通りを渡る。病院の裏手に回り、職員専用玄関から入ると医局に戻ってくる。

「指輪を飲み込んだのか?」

 日崎は紙袋の中身を机の上に広げながらたずねる。

「浮気相手に会うために外していたらしい。帰宅した時、カバンに入れたままの指輪を子供が見つけて口に入れて飲み込んだんだ。慌ててERに連れてきたが、まあ、腸に穴をあけるようなものではないからな」

 春日の言葉に日崎は下品な笑い声を上げる。

「出るのを待つしかないよな」

「夕方になって旦那がやって来て修羅場さ。普通は指輪を外す用事なんてないし、それを鞄に入れっぱなしにしておくこともないからな」

 日崎はイスに深々と背もたれるとコーラをずずと音を立ててすする。自分のバーガーの包みを開けて一口噛んで日崎は、おい、ふざけるなよと声を荒げる。

「ピクルスがまた入っている。入れるなと言っているのにどうしていつもミスを繰り返すんだ、あの店は」

 日崎を無視して春日はその隣で黙々と自分のバーガーを食べる。

「それでその夫婦はどうなった? 夫は浮気妻を許したのか?」

「さあな。もしそうなら、今頃はトイレで回収した指輪をもう一度つけてるだろうな」

 日崎はふんと笑うと、医局をぐるりと見回す。午前中の忙しい時間帯、医局は閑散としている。たまにはこんな暇な午前中があってもいいな。

「今日は大きな手術だって言っていなかったか?」

「神の気まぐれで俺はお役御免だ」

「いいじゃないか。君もたまには休養が必要だよ」

「俺はちゃんと毎日さぼっている」

 その時、日崎のPHSが鳴る。

「はい、日崎、」

 日崎の表情がはっと曇り、わかったと短く答えるとPHSを切る。

「何かあったのか?」

 春日の言葉に日崎は苦々しげに答える。

「全能の神の手術室だ。問題が起きた」 


 

 惨劇が起きていた。

 日崎がOR3に飛び込むとすでに床は血の海となり、戦場のような怒号が飛び交っている。患者の左側、助手を務めていた加冬が日崎の姿に気付くと、先生、と悲鳴にも似た声を上げる。

「ポンプはまだか」患者の右側、術者の神宮寺が叫ぶ。臨床工学技士があと十分かかりますと答える。くそったれ。何をしやがった。日崎は状況も聞かずに自分のルーペを着けると手術室を飛び出していく。手洗い場のスイッチをキックすると、ざあざあと流れる水で乱暴に手を洗い、OR3に戻ってくると素早く清潔ガウンを着てグローブをはめる。ガウンの紐を日崎の背後で結びながら、手術室長の美咲が手短に状況を説明する。

「弓部置換後、止血中に末梢側吻合部が破裂。人工心肺はすでに回収済みだったため、現在再度プライミング中。心停止になり心臓マッサージを開始、心拍再開しましたが血圧は50台、またすぐに止まりそうです」

「弓部置換? 術前カンファでは上行置換で終わらせるはずだったろう?」

「術中に拡大手術に変更になったの」

 余計なことをしてくれる。日崎は小さく舌打ちをする。助手の位置に立つ加冬が、日崎と代わるタイミングを計り何度もこちらを見てくる。執刀の位置にいる神宮寺は日崎が手術室に入ってきたことも気付かずに、必死に止血を試みている。美咲が日崎に何事か耳打ちし日崎は振り返る。手術室の扉の横にある窓から、廊下に立つ診療部長の御堂坂の姿が見える。御堂坂は日崎に向かって右手をくるりと回してみせる。くそったれ、厄介な仕事ばかり押し付けやがる。日崎は両手を顔の前で上げたまま患者の方へと歩いていく。

 日崎は加冬のいる助手の位置ではなく患者の右側、執刀医の場所に向かう。神宮寺の横に立つとぐいと体を乗り出し、術野を覗き込む。ようやく日崎の存在に気付いた神宮寺が声を荒げる。

「何をしている?」

「代わって下さい。あとは私がやります」

「ふざけるな。誰に向かってそんな口をきいているんだ」

「診療部長の御堂坂先生の命令です。手術を代わって下さい」

 日崎が断固とした口調で言い、神宮寺は思わず背後の手術室の扉の方を振り返る。窓から廊下に立つ御堂坂の姿が見え、神宮寺は突然持っていた器具を壁に投げつける。がちゃんと派手な音が手術室に響き渡る。それから後ろに下がり、神宮寺はマスクを下げる。

 神宮寺がどいた席に日崎は立ち、それから目の前の助手側の位置に立つ加冬を見る。加冬はそんなことをして大丈夫ですかと言わんばかりの表情を浮かべるが、日崎の手はすでに動き始めている。加冬は慌てて意識を手術に集中させる。

「ポンプはあと何分かかる?」

「あと五分下さい」

「冗談だろ、これ以上はもたないぞ」

 麻酔科医が怒鳴る。血圧は40/21、心臓はいつ止まってもおかしくない。日崎は出血箇所を指で押さえるが、押さえる脇から大量の出血があふれ出す。

「そこを押さえろ、見えない、そうだ、肺を押し込んで、くそ、大動脈がぼろぼろだ、吸引、もっとだ。見せろ、おい、ちゃんと見せろ、これじゃあ縫えない」 

 日崎は血の海にもがきながら、一瞬の視野を出した瞬間に右手を看護師に差し出す。

「3-0フェルト付き」

 長い持針器が右手に滑り込まされ、日崎は日崎にしか見えていない道筋に針を走らせる。これで止まらなければ心臓が止まる。その恐怖の波を泳ぎながら日崎は出血部に糸をかける。人殺しになるか、それとも命を助けるヒーローになるか、その恐怖に抗うように日崎は目を見開き無意識のうちに鼻歌を歌う。んんんん、んーんー、歌声の中、日崎の針が踊る。



 手術室控室は騒然としていた。

 手術着姿の神宮寺が大声で怒鳴り散らし、御堂坂と彼に呼ばれた顧問弁護士の西園、手術室看護師長の美咲以外の人間は、蜘蛛の子を散らすように部屋から出て行く。

「あと少しで止血出来る状況だった。こんな屈辱は初めてだ。命令だと? 誰に命令しているつもりだ」

 御堂坂はしかし、神宮寺の怒声にも怯むことなく冷静に返答する。

「途中からモニターで見ていました。吻合中、あなたの手は震えていました」

「手のまったく震えない外科医など存在しない。あれだけ奥深くの視野で縫合すれば、誰だって多少は震える」

「多少なんてものではありませんでした。今だって、」

 はっとして神宮寺は自分の右手を見る。怒鳴りながら振り回している右手の手首から先が小刻みに震えている。

「そんな状況では手術は出来ません」

「ペンを渡せ」

 神宮寺の突然の言葉に一同は虚を突かれる。神宮寺は美咲に向かって右手を差し出すとペンを渡せともう一度鋭く言う。美咲は白衣のポケットに入っていたボールペンをまるでメスを手渡す時のように神宮寺の右手に滑り込ませる。ペンをメスのように握った瞬間、神宮寺の手の震えはぴたりと止まる。

「見たか。手術には何の問題もない。出血したのは高齢で血管が弱かったからだ。それは誰がやっても起こり得ることだ」

「以前のあなたではこんなことは起きませんでした」

 に神宮寺は大きく詰め寄ると、御堂坂に向かって顔をぐっと突き出して言う。

「この病院は私の名前でもっているんだ。私がいるから寄付金が集まり、全国の若い医者がここで研修を希望する。私が推薦したから君は診療部長になれたんだ、勘違いするな」

「とはいえ、これで患者が死ねばまた問題になります」

「一年前のことを蒸し返すつもりか?」

 御堂坂は神宮寺に向かって冷静な声で言う。

「あの事件はすでに解決済みですが、今回のようなことがあれば再検証せざるを得ません」

「このままでは済まさんぞ」

 神宮寺は右手の人差し指を御堂坂の眼前に突き付ける。その指先が震えていることに気付くと、神宮寺は憮然した表情のまま黙って踵を返し部屋から出ていく。ドアを乱暴に閉じる音が響いて御堂坂は大きくため息をつく。

 嵐が過ぎ去った部屋の中で御堂坂は美咲にたずねる。

「君はこの病院でもう十年以上手術室に勤務している。彼の手術も長年見てきたはずだが、最近の彼の手術をどう思う?」

「どう、と言われましても、この二、三年は執刀されるのは月に一度程度ですし、私は直接神宮寺先生の手術につくことはほとんどありませんのでわかりかねます」

「君ならそう答えるだろう。これはオフレコで聞くが、看護師長という立場は忘れて手術室看護師のプロとして率直な意見が聞きたい。彼にメスを握らせることについてどう思う?」

「個人的には、あくまで個人的な意見ですが、自分の家族の手術なら神宮寺先生には頼みません」

 そうか、と御堂坂はつぶやくと、ご苦労だった下がっていいと美咲を退室させる。西園は御堂坂に困ったことになりましたね、とため息をつく。

「神宮寺公彦。この国を代表する、世界的な心臓外科の権威。彼の名前があるから患者が集まり若い医者が集まるのは事実です。それに、医学雑誌の病院ランキングで三年連続ベストテンを獲っていますしね」

「雑誌のランキングなんぞはどうでもいい」

「ですが部長、一年前の悪夢を繰り返すのは御免です。今手術中の患者が死ねば、そして執刀医が途中で変わったとなれば、訴訟になる可能性は極めて高い。私が憂慮しているのはその部分です」

「君の腕の見せ所だろう?」

「患者が死んで訴訟になれば、私達は神宮寺先生の手術に問題がないことを証明しなければなりません。神宮寺先生に問題あるとわかっていて執刀を許し、それで患者が死んだとなれば病院側の責任問題になります」

 西園の言葉に御堂坂は顔をしかめてモニターを見る。

「だから日崎に手術をさせているんだ」

 OR3の流血の惨劇はまだ続いている。



 小児科医の春日は吹き抜けを横断する廊下を颯爽と歩くと、13階のリハビリテーション科に入る。以前、治療を担当した15歳の少女の様子を見にやってきた春日に、神経内科の梶田が手を上げて応える。梶田に案内され、春日はリハビリテーションを行っている少女を遠くから見る。やせ細った十五歳の少女が理学療法士の力を借りて、平行棒で歩行訓練をしているのが見える。

「ようやく最近はリハビリにも積極的になってきてね。若いから筋力的には機能の回復は十分見込めるが、」

「後遺症がある?」

「見当識障害に記憶障害、食事もトイレも自立していない。これを見てくれ」

 梶田は電子カルテを開き、少女の画像データを呼び出す。画面上に頭部MRIの画像が映し出される。

「T2でhigh intensityな領域が散在している。心肺停止による低酸素血症が原因だろう」

「改善の見込みは?」

「可能性はある。まだ発達段階の子供の脳だからな。だが、複雑な家庭環境を考えると、元の生活に戻れなくなった場合のことも念頭に入れておかないとな。母親はこの一カ月、見舞いにも来ていない」

 春日の脳裏に、数カ月前の出来事が思い返される。ネグレクトで餓死寸前の状態で救急搬送された少女。ICUで心肺停止となり必死の治療でようやく一命を取り留めた十五歳は、命が助かった今も本来必要のなかった戦いを強いられている。

「父親は?」

「再婚して新たな家庭があるからな。傷害が残った子供をそう簡単に引き取れはしないさ。そうなれば施設行きも考えなければならない」

「まだ十五歳だ」

「そうだな。だが今、われわれに出来ることはただリハビリを続けることだけだ。会っていくか?」

 ええ、と春日は答え、二人の医師は少女の方へと歩いていく。



 OR3の悪夢はまだ終わりそうにない。

 日崎がモニターをちらりと見る。

 出血はようやく止まったが、心臓の動きはおぼつかない。血圧は80/42。

「どうする。PCPS(経皮的心肺補助)で帰るか?」

 麻酔科の問いに日崎はいいえと首を振る。

「腹部にも動脈瘤がありますからね、足から送血すれば脳梗塞になります」

「カテコラミンは相当量入っている。Hbももう戻った。麻酔科側からこれ以上出来ることはあまりないぞ」

 ええ、と日崎はうなずく。止血は出来ている。術野でもこれ以上出来ることはない。

「八十二歳だぞ。弓部以降は動脈硬化が強すぎて多少の瘤化は無視して手を出さない、術前カンファでそう決めたはずだろう」

 日崎は責めるように加冬を見るが、彼女だって神宮寺が弓部置換をやると決めればそれに従うしかないことはわかっている。ただ苛つきをぶつけただけの日崎を、しかし加冬は無言で受け止め、日崎もそんな加冬に呼応するようにむっつり黙り込む。しばらく感が込む日崎に加冬がたずねる。

「脳梗塞を回避するなら、人工血管と送血管をつなぎ、大腿静脈脱血のセントラルECMOを着けて帰りますか?」

 加冬の提案に日崎は険しい表情で答える。「問題は、補助循環をつけても、多臓器不全が進めば延命にしかならないということだ」

 日崎は外回りの看護師に、部長につないでくれ、と声をかける。看護師が日崎のPHSのボタンを押し、診療部長の御堂坂につながったことを確認すると日崎の耳にPHSを押し当てる。

「部長、日崎です。出血は止まりましたが血圧が低い状態です。セントラルECMOを装着して帰ることも出来ますが、正直救命の見込みは低いです。延命にしかならない可能性も高いですが、どうしますか?」

 ええ、ええ、と日崎は何度かうなずく。それからわかりましたと低い声でつぶやくと、看護師に切ってくれと告げる。PHSが耳から話されると、日崎は加冬を見る。

「セントラルECMOで帰る」

 つまり病院としては、何が何でも患者が1パーセントでも助かる可能性があるなら手を尽くせということだ。

この年齢で補助循環を装着して手術を終えてもまず助からない。補助循環は悪魔の機械だ。機械が血流を維持し続ける限り人間は生き続ける。たとえ脳が死んでも体は生き続ける。尿が出なくなり点滴で体はどんどんむくみ、顔は土気色になり、悲惨な姿になっても機械で延命させられる。そんな患者をこれまで何人も見てきた。だがこれは医療事故だ。だから殺すな。絶対に殺すな。絶対に生きた状態で手術室から戻れ。それが病院側からの要請だ。わかっている。わかっているが。くそったれ。

 日崎は臨床工学技士にPCPSを組んでくれと指示する。二人の心臓外科医は黙々と手を動かし、手術室にはただモニターの音が弱々しく響いている。



 会議室には診療部長の御堂坂、外科部長の中曽根、麻酔科部長の太田と顧問弁護士の西園が集まっている。手術を終え呼び出された日崎はマスクを顎までおろしてはいるものの、キャップを被り手術着に手術用のサンダルの格好のまま、すすめられたイスには座ろうともせずに扉の前に立っている。

「いささか大げさな反応ではないかね? 手術中に吻合部が破裂したとして、それが術者の責任とは言い切れないだろう。患者は高齢者だ。動脈は脆く、誰が縫合しても出血の危険性はあった」

 外科部長の仲曽根の言葉に太田はうなずくが、御堂坂はイスに背もたれたままそれに反論する。

「患者の動脈が脆弱であることが予想出来たからこそ当初の手術プランでは上行置換術の予定となっていた。そうだな?」

 日崎がええ、と答える。

「だが、患者からとった術前の同意書には、術式の欄に『人工血管置換術およびそれに関連する拡大手術』と明記されている。これは術中の判断で術式が変わり得るという意味だ。それを患者家族に事前に説明し了承も得たということではないか? どうなんだ、日崎先生」

 仲曽根の言葉に日崎は再びええ、と答える。

「だとすれば術中に術式を変更したこと自体に問題はあるまい。その判断の是非についても、患者の弓部大動脈が瘤化していたのは術前検査でも明らかだ。術中に弓部の動脈瘤を残せば破裂のリスクが高いと判断して、拡大手術に踏み切ったのだとすれば、これは不幸な事故だった、そう言うしかないのではないか?」

 仲曽根と神宮寺はお互い年齢も近く、若い頃からお互いの存在を強く意識してきたはずだ。仲曽根が神宮寺からメスを奪うようなことをするはずがないのは、御堂坂はわかっていたが、それでもただやみくもに身内を守るのが自分の仕事ではない。これは手術中に起きた予期せぬ事故だが、それを防ぐことが出来たかを一例一例きちんと検証することでしか医学は進歩していかない。

「術前カンファレンスでは、日崎先生が執刀することになっていたな。神宮寺先生が執刀することになった理由は?」

 御堂坂の質問に日崎は淡々と答える。

「わかりません。誰が手術を執刀するのかは、神宮寺先生の決定権があり、私はそれに従うだけです」

「君が今回の手術を行っていれば、やはり同じように術式は変更したと思うか?」

 御堂坂の問いに日崎はしばらく考え込む。

患者の年齢、体力、ADL、血管の性状、その他全身状態、術式を決定する因子は無数にある。それらの条件から患者がどこまで手術に耐えられるかを考え、その範囲内でどのような手術をすれば最も利益が最大化されるか、さらに医者や医療施設のレベルも鑑みて手術の内容は決定されていく。その複雑な過程は術者が最終的に決定されるべきで、術者がやれる、術者がやる、と決めたのであれば、その術式を第三者が間違っていると否定することは難しい。

「弓部に動脈瘤があったのはたしかです。術中の判断で拡大手術をする可能性はありました」

「では、今回の事故に神宮寺先生の過失はまったくなかった、それでいいかね?」

 御堂坂の問いに、日崎は顔を崩すと一同を見回す。

「そんなわけないでしょう?」

 日崎の言葉に、仲曽根と太田が眉をひそめる。御堂坂は、それはどういう意味かねとたずねる。

「出血したこと自体には責任はありません。患者の血管が脆弱だった。あれは術中合併症には違いありませんが、誰がやっても起こり得ることです」

「では、何が問題なのだ?」

「問題は出血しことじゃありませんよ」日崎は小さく頭を振ると、唇を鳴らし不遜に言う。「問題は、その出血を止められなかったことです」

 日崎はかぶっていた手術用の帽子を脱ぐ。寝癖のように乱れた髪の毛があらわになる。

「昔の神宮寺公彦ならあんな出血、簡単に止められていた。患者を殺しかけることなどありませんでしたよ」

「手のふるえが原因か?」

 いいえ、と日崎が顔を歪める。

「単純に腕が落ちているんですよ」

 あまりにストレートな日崎の言葉に、仲曽根は明らかに不機嫌そうな表情を浮かべる。

「随分、思い上がった意見だな。君は、神宮寺君の腕を非難するつもりか?」

「以前の神宮寺公彦に、私は遠く及びませんよ。ですが、今の彼は手術をするべきじゃありません。手のふるえをカバーするために無理なハンドリングして不用意な剥離や、周囲組織の損傷が目につきます。判断能力が落ち、目もかなり悪くなっています。二年前からバイパス(冠動脈バイパス術)はやらなくなっています」

「手術記録では、彼は何件もバイパスを執刀しているはずですが、」

 口を挟んだ西園を日崎は一蹴する。

「たった五分でも彼が手術に入れば彼が執刀したことになっています。記録上はね。ですが、実際にはほとんど彼は手術をしていません。しているのは私です」

 会議室がざわつく。仲曽根が御堂坂をちらりと見るが、御堂坂はそれに答えない。

「今では一年の半分は国際学会の講演、病院視察に手術指導と海外を飛び回っています。この病院にいるのはせいぜい一年の半分、その中で、自分で執刀する手術はほとんどありません」

「だが海外で彼は何件も手術をしているのだろう。問題があるとは思えんがな」

 仲曽根の問いに日崎は無表情で答える。

「全国に彼の教え子はいますからね。海外では必ず誰か一人以上、各病院の心臓外科部長クラスの医者を帯同させています。最近は、山際大学准教授の斉藤先生が手術を行い、彼は助手の位置からマイクで手術を解説するというスタイルをとっています。彼の海外の手術はパフォーマンスに過ぎません」

 なるほど、と御堂坂は答える。

「日崎先生の言いたいことはよくわかった。他に言いたいことがなければ、下がってもらってかまわない」

 日崎は踵を返すと扉のノブを摑む。ふとそこで立ち止まり日崎は全員を見る。

「一年前、決着をつけるべきだったんですよ。彼からメスを取り上げるべきです」

 日崎は失礼しますとも言わず、部屋から出て行く。

 がちゃりと扉が閉まると、仲曽根は荒々しく非難する。

「生意気な小僧め。あんな口をきいて、君は黙っているつもりか?」

 御堂坂は仲曽根をなだめつつ話を続ける。

「神宮寺先生にもう手術が出来ないとまでは思わないがが、彼がかつての彼ではないことはたしかだろう。昔の彼はこの病院で誰よりも多くの手術を行い、多くの命を救ってきた。誰よりもこの病院に金をもたらし、彼の言葉は絶対で誰もが彼の言葉に従ってきた。この病院は彼の城で、彼の言葉には神通力があったが、最早それは昔の話だ。ここの若いスタッフには彼の姿を見たことがない者もいるだろう。彼を神と崇める者はもういない。神は死んだ。たとえ神宮寺公彦であっても患者を殺せば裁かれる。そのことに彼は気付いていないが、それを受け入れてもらう必要がある」



 ICUに戻った日崎は、術後の患者の様子を見にいく。

 患者の胸からは太いチューブが生えている。足の付け根から入れられたもう一本のチューブが心臓から血液をポンプの力で吸い出し、胸のチューブを通して大動脈に血液を送っている。補助循環の流量は4リットルほど出ている。だがまだ血圧は低い。加冬はベッドサイドで難しい顔をして腕組みをしたまま立っている。

「血圧が低いな」

「flow (流量)を出すのに、volumeがかなりとられます。いつまでECMOが回り続けるかはわかりません」

「アシドーシスは?」

「補正はしていますが、心肺停止蘇生後も、血圧四十台がかなりの時間続きましたからね。厳しい状態です」

「家族にはもう話したのか?」

「はい。術中に破裂したこと、救命のために補助循環を装着したことも説明しました」

「家族は何か言ってきているか?」

 加冬はちらりと日崎を見て、頭を振る。

「今のところは。八十二歳で大動脈瘤の手術となれば、術前からシビアなことはわかっているでしょうから」

「歩いて外来に来て、歩いて入院して、歩いて手術室に入ったんだ。歩いて帰るために手術を受けたんだぞ」

「もちろんです」

 日崎は両手を腰に当て、苛立ちを必死に抑え込む。



 会議室では神宮寺の処遇についての話し合いが続いている。

「手術は無事に終わったことですし、患者家族が何かを言ってきているわけでもありません。大事にすべきではないのではありませんか?」

 麻酔科部長の言葉に御堂坂は机の上で手を組んだまま難しい顔をしている。何故、御堂坂が今回のことをこれほど問題視しているのか、仲曽根は理解出来ずにいる。そこでふと先程の光景を思い出す。

「あの若造が言っていた、一年前、とは何のことだ?」

 仲曽根の言葉に西園がめずらしく表情を変え、ちらりと御堂坂を見る。仲曽根は何かあるなと御堂坂に再度問う。

「君があの若造に好き勝手言わせるのも何か理由がありそうだな。もし何かあるのならここで言ってもらわねば、こうやって臨時会議を招集した意味がない。何かあったのか?」

 御堂坂はしばらく逡巡していたが、それから一同の顔を見回し、慎重に口を開く。

「昨年、神宮寺先生が執刀した僧帽弁形成術の患者が、退院後に心不全の急性増悪で再入院し、その後に死亡した事例があった。再入院となった時点のエコー検査では、手術した僧帽弁の縫合が外れ、僧帽弁逆流が再発していた。急性心不全ですでに多臓器不全の状態で再手術も出来なかった。患者は入院して四日後に死亡した」

 その事件は初耳だ、と仲曽根が責めるように言う。

「事故調査委員会が介入したが、手術直後、退院時のエコー検査では逆流は制御出来ており、手術そのものに問題があったとは認定されなかった」

「退院後に縫合が外れ、逆流が再発したのか。解剖は行われなかったのか?」

「患者家族が希望されませんでした」

 西園が代わりに答える。

「家族は納得したのか?」

「患者自身が高齢であったこともあり、組織が弱く、怒責した時に血圧が上がり、脆弱な組織が切れたという説明に納得された」

「高齢なら何故、弁形成を? 弁置換で良かっただろう」

「今回と同じだ。術前判断では僧帽弁置換術の予定だったが、神宮寺先生が執刀し、術中に形成でいけると判断した。そのこと自体に問題はないというのが日崎先生も同意していたが、手術の助手をした日崎先生が神宮寺先生の手の震えに気付き、個人的に私に報告してきた。それから一年間、日崎先生には神宮寺先生の手術に注意するようにお願いしていたが、」

「今回の事故が起きた」

 仲曽根の言葉に、御堂坂はふうと大きく息を吐くと机の上で手を組む。

「一つよろしいですか?」西園が麻酔科部長に尋ねる。

「麻酔科の先生達の目から見て見て、神宮寺先生の手術手技に疑問を感じたことはありませんか?」

「そのような報告を、私は受けていませんな」

輸血拒否患者の手術に術後感染など、手術部門を悩ます事例が続いているだけに、麻酔科部長の態度はかなり慎重になっている。これ以上のトラブルを避けたいというのが本音だろう。

 議論は煮詰まっている。神宮寺公彦が問題を抱えているのは事実だが、決定的な判断材料はない。だが御堂坂としてはここで神宮寺を見逃せば、さらに大きな問題が起こる予感がある。その懸念を振り払いたいのはここにいる誰もが同じだが、それでも伝説的な名医を弾劾する決断などそう簡単に下せるものではない。

無言が続く中、外科部長の仲曽根はそれらをすべて鑑みた上で提案する。

「彼には健康診断を受けてもらう。それで問題がなければ彼からメスは取り上げない。これで誰にも文句はあるまい」



 春日教明は考える。

 生まれながらの疾患に限ったとしても、子供が重大な病気にかかる確率は決して低くない。学生時代の同級生の中にも先天性心疾患で手術を何度も受けたことがある子や、兄弟が病気で死んでいる子は当たり前のように存在していた。だがこの仕事に就き、そんな子供ばかりを診ていると、自分がこの年まで大きな病気もせずに健康に生きてきたことは奇跡に思えるし、そもそも病気にかかる確率なんてことを考えだしたら自分で子供を作ることをためらってしまうかもしれない。知らない方がいいことはたくさんあるし、知ってしまったことで人生の選択が限られることもある。

 とはいえ春日が結婚していないのも子供を持っていないのも別に彼が自ら避けているわけでなく単にチャンスがなかっただけだし、春日自身は自分の子供を持ちたいと願っているが、まあ、こんな生活をしていたら誰かと出会うチャンスも情愛に基づく関係性を築くチャンスも、子供が健康に成長する確率よりは低い気がしてくる。

 そろそろ仕事をセーブするべきかなと時々思うが、それでも毎日のように救急車で運ばれてくる小児救急の患者を診るたびにその思いはいつも後回しにされる。過酷な運命を前にして、それでも必死に生きようとする子供達の姿を見るたびに。

「おい、待てって、」

 エレベーターがどんと揺れてはっと顔を上げると、日崎が体を割り込ませ扉に挟まっているのが見える。

「強引だな」

 呆れる春日を無視して日崎は七階のボタンを押す。

「相変わらず子供相手にお遊戯か? 暇そうでうらやましいな」

 春日の脳裏に、今朝の必死にリハビリをする少女の姿が浮かぶがそれはすぐに打ち消される。悪態をついた友人の目の下は黒々とした隈をたたえている。何日ろくに寝ていないのか春日はたずねたくなる。

「相変わらず子供嫌いは治らないのか?」

「あいつらは俺達と連続性のある生き物とは思わない。あれは別の生き物だ。涎と鼻水がとめどなく流れ出るんだぞ」

「君も三十年前はそうだった」

「信じないね」

 春日は一度、心臓外科の中でも先天性心疾患はやらないのかとたずねたことがある。日崎の答えは絶対に手を出さない、だった。子供が病気になると親は気が狂う。日崎の言葉は当たっている。特に先天性疾患の場合、母親は病気の原因が自分にあると自らを責めることがある。子供だけじゃない、そんな親も相手にしなければならないんだ。小児科なんて仕事をやってるお前はまともじゃない。日崎はそう言ったが、医療訴訟も多く、人の生き死にに直結する心臓外科を続けている方がまともな生活からは程遠いと春日には感じられる。

 お互いがお互いに、理解を超えた地獄の中であがいているのを見ているからこそある種の尊敬や絆があるのだろうと春日は思うが、それをわざわざ言葉に出して確認する必要はないし、何よりそんな会話はしたくない。

「今日は大変だったらしいな?」

「相変わらず耳が早いな」

「どっちにつくつもりだ?」

 春日の問いに日崎はさあなと答えるとどんとエレベーターに背もたれる。

「彼のことは嫌いだったろ?」

 春日が意地悪く言うと日崎はふんと笑う。若手時代に自分がどんな酷い目に遭ってきたかを知っている友人に隠し事は出来ない。

 日崎が何かを言おうとした時、エレベーターが止まる。

 二人はエレベーターを降りると別々の方向へと歩いていく。



 御堂坂と西園が廊下を歩いている。

 背後から御堂座を呼ぶ声がするが、二人は気付かずに話をしながら歩いている。

「待てと言っているんだ」

 突然の大声に廊下を歩く人達が驚いた表情で立ち止まる。振り返った御堂坂の元に、スーツ姿の神宮寺が大股で近寄って来る。

「神宮寺先生、どうかしましたか?」

「これは何のつもりだ? 私に健康診断を受けろと言うのか?」

 神宮寺の手には一枚の紙が握られている。

「先生が安全に手術を行える状況かどうかを確かめるためです。健康状態に問題がなければ今回のことは不慮の事故として処理をします」

「問題があれば」

「これ以上、この病院での手術を許可するわけにはいきません」

「いい加減にしろ。私を誰だと思っているんだ?」

「権威を振りかざしても無駄です。お忘れでしょうが、私は診療部長です。すべての医師の診療行為を管理する権限があります」

「わかっているのか? 私は神宮寺公彦だぞ」

「私達に証明して下さい。先生はまだ手術が問題なく出来ると。検査は本日受けていただきます。検査結果が出たところで臨時委員会を招集し、そこで処遇を決定します」

 失礼、と言い、御堂坂と西園は歩いていく。

 神宮寺はその背中を、屈辱的な表情を浮かべながら睨みつける。



 ICUで術後の患者の状態を見てる日崎と加冬の元に御堂坂がやって来る。

「ちょっといいか?」

 日崎は御堂坂とICUを出ると廊下の突き当りのエレベーターホールに入る。

「容態はどうだ?」

「ドレーンからの出血はほとんどありませんが、ECMOのflowを保つのにvolumeを入れ続けています。なかなか厳しい状況ですね。臓器障害も進んでいますし、この二三日が山でしょうね」

「彼は何か言っているか?」

 御堂坂の問いに日崎はいいえと短く答える。唇を鳴らすと、仕事以外の会話はもう何年もまともにしていませんからねとつぶやく。

「これからどうするつもりだ。本気で彼を糾弾するつもりか?」

「彼はもう外科医じゃない。手術をするべきじゃありませんよ」

「外科医の師匠と弟子は、父親と息子みたいなものだ。君の気持ちもわかるが、」

「俺の個人的な感情は関係ない。関係ありませんよ」

「そうか?」

 日崎はふんと鼻を鳴らすと御堂坂の顔を覗き込むように見る。

「俺をパワハラで病院は糾弾しましたがね、俺自身は十年以上彼にパワハラを受けてきました。だがそれで彼を恨んでいるとでも? もちろん当時は毎日彼を殺してやると思っていたし、人間的にも彼のことは嫌いですが、別に恨んじゃいないし謝ってもらいたいとも思っていません。あなたも外科医だからわかるはずです。外科医は自分より上手い人間の言うことはきくしかない。どんな理不尽でも、自分より上手い人間には逆らえない」

「だが、今では自分の方が上か?」

「そういう話じゃありませんよ。年をとれば誰でも衰える。たとえ腕が落ちても、過去の仕事を含めて敬意が払われるべきです。だが、彼は、」

 日崎は言葉をそこで切ると、窓の外を見る。

 病院前の大通りに車が何台も通り過ぎていく。まるで残酷に時間が流れていくかのように、車の流れは止まることはない。

「彼は偉大な医者で、今でも重要な仕事をしています。医者としては尊敬に値します。だが、最早彼は心臓外科医ではありません」

 御堂坂はふむと鼻を鳴らすと、何故だ、とたずねる。

「術前に患者に手術説明をし、信頼を勝ち取り、手術を行い、術後も責任をもって患者を診る。それがこの国の心臓外科医の生き方です。少なくとも俺はそう教わってきた。だが彼は今日も、術後に一度もICUに来ていない。患者の様子を知ろうともしない。命に責任を負わなくなったのなら、最早心臓外科医じゃない」

 日崎の言葉は御堂坂自身にも深く突き刺さる。診療部長となり、自らも手術室に入ることはほとんどなくなっている。患者の術前説明をすることも術後管理をすることもない。医者ではあるが外科医ではない。その言葉は残酷な響きを持っているが、御堂坂はそれをすでに受けて入れている。

「彼には健康診断を受けてもらうことになった。その結果次第で彼の処遇を決める」

「一年前に終わらせるべきだったんです」

 またそれか、と御堂坂は苛立つ。

「あなたとナマズは、患者が遠方から来ていて、亡くなったあと遺体をすぐに引き取りたいという遺族感情に漬け込み、彼等が断るとわかっていて、断るようにも誘導した上で解剖を勧めた。あとから家族が医療過誤ではないかと訴えてきた時、こちらは解剖を勧めたが家族がそれを断った、医療過誤があったかを証明するチャンスを手放したのは患者家族の方だと主張し、その訴えを退けた。汚いやり方だった。患者の命に対して、とても誠実とは言えないやり方だ」

「病院を守るためだ」

「違いますよ。彼を守るためだった。だが、あの時、彼にきちんと心臓外科医として責任を取らせるべきだったんです。患者の命に責任をとる、それを放棄したあの時、彼は心臓外科医でなくなった」

 日崎はくそうと小さく吐き捨てる。

「だがこれは彼だけの問題じゃない。俺達全員に責任があります」

 日崎は両手を白衣のポケットに突っ込むと御堂坂を見る。

「昔はもっと単純だった。患者を治すことだけを考えていれば良かった。どこかおかしい。俺達は一体何をやっているんです?」

 御堂坂はそれには答えず、委員会の日時が決まったら連絡する、とだけ言い歩いていく。みんな壊れているんだよ、日崎は小さくそう言うと、ICUに戻っていく。



 翌朝、OR3では軽快な音楽が流れていた。

 頭を小さく振りながら鼻歌を歌う日崎は、患者の冠動脈に採取した静脈グラフトを縫合していく。

「32号沿いに、空港が移転したあと地にショッピングモールが建てられていて、」「ああ、ありますね。行ったことはありませんが」「そこの三階のラウンジの片面が、一面ガラス張りになっていて、外には昔の空港の広大な滑走路が広がっているだろ」「いや、だから行ったことありませんけど」「そこでコーヒーを飲んでいたんだが、そうしたら机の向かい側に小さなガキがやってきた」「男の子?」「で、そいつが言うんだ。このイス使っていますかって」「先生の座っている、向かい側のイスってことですか?」「俺は好きに持っていけって手で合図をしたんだ。そうしたらそのガキはありがとうって頭を下げてイスを引きずっていった」「ええ、それがどうしたんです?」

 日崎は手を止めて顔を上げる。加冬の顔がヘッドライトで照らされ加冬はそれを嫌がって顔を逸らす。日崎は再び顔を下げるとバイパスの吻合を再開する。

「俺は礼儀正しい子供が好きだ」「子供は嫌いじゃなかったんですか?」「ほとんどのガキは嫌いだ。子供らしさなんてそんなもの崇める奴の気が知れない。子供の無軌道さは親の教育が行き届いていないことの証明に過ぎない」「私は好きですよ、子供」「あいつらの理解出来ない振る舞いには恐怖すら覚える」「大袈裟ですね」「きっと自分が厳しく育てられたせいだな」「先生は礼儀正しくはありません」「きちんと礼儀正しく振舞う子供を見るのは好きだし安心する」「それは何よりです」「俺は礼儀正しいからな。秩序が好きなんだ。きちっと何でも完璧にやりたい」

 かみ合わない二人のやり取りが飛び交う中、日崎の手はしなやかになめらかに血管を吻合していく。針をカットし、音もなく糸を結紮する。吻合部に生理食塩水をかけ、一滴の血液の漏れもないことを確認すると日崎は完璧だ、とつぶやく。


 

 手術を終えた日崎は看護師に術後の指示を出すと医局で何かを食べようとICUから出て歩いていく。エレベーターホールでエレベーターが到着するのを待つ。音がして顔を上げるとエレベーターの扉が開く。そうすると、そこにはスーツ姿でカバンを持った神宮寺が立っている。日崎は無言でエレベーターに入ると、神宮寺に並んで立つ。

 日崎がボタンを押すと扉がしまり、がたんと一度揺れてからエレベーターが動き出す。

「今日は何の手術だったんだ?」

「バイパスです。問題なく終わっています」

「私が憎いか?」

 日崎は前を向いたまま小さく口を開いて笑う。

「あなたの元に来て最初の数年間、毎日理不尽に怒鳴られ、奴隷のように扱われ、一ヶ月間で家に帰れるのは四日だけ、時間外労働は一カ月で三百時間、地獄の日々でしたよ」

「何故、辞めなかった?」

「決めていたんですよ。殺されない限り、最初の五年間は何があっても辞めないと。ただ黙って続ける、そうすればいつか物になる、そう信じてやっていました。物にならなければあなたを殺して辞めるつもりでした。命拾いしましたね」

「まだひよっこだ」

「あなたはこの仕事をくれた。人生をくれた。感謝はしています。ですが、」

 がたんともう一度揺れてエレベーターが止まる。日崎はそのまま言葉の続きを言うことなくエレベーターをおりる。

 ですがあなたにはもう、何の興味もない。

 日崎は何故かおかしくなって喉を震わしながら歩いていく。何故だか知らないが、笑いが止まらなくなる。



 その日の夕方、学都会総合医療センターでは臨時会議が招集されていた。

 診療部長の御堂坂、病院常任顧問弁護士の西園、看護部長、事務長、各科の部長が勢ぞろいする中、神宮寺は大きな机の真ん中の席に座り、むっつりと黙り込んでいる。

 御堂坂は神宮寺の一連の検査結果の説明を仲曽根に促す。

「検査結果が出ました。採血検査、神経学的診察、視力検査、聴力検査を行いました。神経学的に異常はなく、視力、聴力共に手術をするのに問題となる所見はありませんでした。血液検査ですが軽度の脂質異常症、そして、甲状腺の機能亢進症を認めました」

 仲曽根の言葉に一同がざわつく。

 御堂坂は仲曽根に確認するように問う。

「甲状腺機能亢進症?」

「はい。採血検査上、明らかな甲状腺ホルモンレベルが上昇していました。彼の手術中の手の震えは甲状腺機能亢進によるものであり、結果が出たのち、速やかに内服加療を開始しています」

 御堂坂は神宮寺を見る。

 神宮寺は御堂坂と視線が合うと、小さく口元を歪めてみせる。

「健康診断結果は以上です。神宮司先生自身も手の震えを自覚していますが、これは治療出来る疾患であり、このことがすなわち彼の執刀医としての資格を否定するものではありません」

 御堂坂は何かを考えたあと、それから一同を見回す。

「他に何か意見はあるかね?」

 神宮寺を前にして意見を言えるものなどないとわかっていながら、それでも御堂坂はあえて問う。予想通り誰もが沈黙している。それはつまり病院としては神宮寺が手術を続けることを肯定していることを意味している。

 一つだけ、と神宮寺が口を開く。

「私は今回、このような検査を受けるなどという屈辱的な要請を受けたが、結果的には感謝することになったようだな。御堂坂先生。今回の検査はこの病院で正式に行われた検査結果であり、検査結果を口外することは患者の守秘義務違反にあたる、そうだな?」

 御堂坂は神宮寺の意図を理解し、それからええ、と低い声で答える。

 神宮寺の手の震えが甲状腺機能亢進症によるものだとしたら、震えの症状自体が秘匿特権に守られることになる。神宮寺の手の震えのことを病院の外に漏らすことを一切禁じるということを意味している。神宮寺の主治医の中曽根以外、これから神宮寺の手の震えについて語ることはタブーになる。

「話は以上だな?」

 神宮寺は一同を見回すと、満足そうにうなずき、部屋から出て行く。

 


 会議が終わり、部屋から一同がぞろぞろと出て行く。

 御堂坂は自室に戻ると日崎を呼び出す。

「聞きましたよ」

 部屋に入るなり日崎は言う。

「彼の勝ちだ。もう、彼には手を出せない」

 日崎は唇を鳴らすと小さく唇の端を歪めてみせる。

「彼が手術をする際には張り付いていろ。何とか患者を守るんだ」



 その日の夜。

 病院の地下駐車場に二人の男が立っていた。

 高級車を前にして神宮寺と仲曽根が向き合っている。

「上手くいったな」

 神宮寺がつぶやくように言い、仲曽根は不満げに神宮寺を見る。

「本当に君の手は大丈夫なのか? 手術は出来るのか?」

「君に心配される筋合いはないな」

 仲曽根は辺りを伺うと、声を落としてたずねる。

「あの血液は、本当に君の血液なのか?」

 神宮寺はふんと鼻を鳴らすと仲曽根を見る。

「もう一度、採血を行うか? 君の処方した薬で治療はすでに始まっている。今更私の採血をしても、当然、甲状腺ホルモン値はすでに変わっているはずだ」

 仲曽根は苛立ちを押さえるように目の前に立つ男を見る。

 同時代に生き、外科医として名誉も名声も最高峰に辿り着いた男。

 自分はもしかしたら、悪魔に手を貸したのではないか、あの若造の言葉が今になって正しいのではないかと仲曽根の背中に嫌な汗がつたう。

「また、明日には海外に旅立つらしいな。君の名前を冠した病院を設立するという噂も聞いている。君は、本当に優秀だな」

「それはどうも」

「だがそれは政治家としての評価だ。外科医としては、もう自分でもわかっているはずだ。メスを置け。今なら、不名誉な誹りを受けることなく引退することが出来る」

「仲曽根。君とは長い付き合いだな。君はこんな島国の小さな病院の主で満足する器なのだろうが、私は違う。自分と同じだと思わないことだな」

「忠告はしたぞ、神宮寺。この先は、私も君をかばいはしない。これは友人としての最後の忠告だ」

「外科医に友人などいらない。信じるのは自分だけだ」

 神宮寺はそう言うと、高級車に乗り込み派手な音を立てて駐車場を出て行く。仲曽根は黙って自分の車の方へと歩いていく。



 春日はリハビリテーション科に向かう。

 部屋の隅で、十五歳の少女がリハビリを続ける様子をいつまでも眺めている。

 そこにふらりと現れた日崎が、春日に並んで立ち、少女の姿を見つめる。

「本当は子供が好きなんだ」

 どうしてここにと春日がたずねるよりも先に、日崎は答える。

 春日は小さく笑ってそれに答える。

 嘘つけ。


 日崎功郎。殺人容疑で逮捕勾留まで、あと154日。



20240607

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医師・失格 眼鏡Q一郎 @zingcookie

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