第5話 院内感染

 ばたむ。

 ICUの扉が開き心臓外科医の日崎と加冬が駆け込んでくる。

「どうした?」 

 8番ベッドに駆け寄るとベッドサイドで看護師が手短に状況を告げる。

「突然血圧が下がりました。二時間前まで普通に会話もしていたんですが、熱が39℃あります」

「39℃? 手術をしてまだ二日だぞ。感染を起こすのは早過ぎる。ラインから入ったにしても抗生剤は投与しているしな」そう言いながら日崎は手早く患者を診察する。「息、傷、水だ」

「いききずみず?」日崎の言葉を看護師がきょとんとした顔で復唱する。

「術後発熱の主要原因だ」日崎は聴診器を患者の胸にあてる。「息、呼吸は問題ない」ベッドわきにかけられた尿バルーンを見る。「水、尿は肉眼的にはきれいだ。あとは、傷、」そう言いながら日崎はお腹にあてられたガーゼを剥がす。途端、大量の膿が創部からあふれ出す。ひっと看護師が小さく悲鳴を上げる。「先生、腸が出ています」

 患者のお腹の傷の一部が開き、中から腸がはみ出している。患者は自分のお腹で起きている惨状に思わず悲鳴にも似た声を上げる。

「手袋をくれ」

 日崎は清潔手袋を着けると腸をお腹の中に押し込みガーゼで傷を覆う。

「大丈夫ですからね、すぐに治しますから」

 日崎は患者に努めて明るく言うが、患者は顔面蒼白で言葉を失っている。自分の内臓と対面すれば誰でもそうなる。日崎は看護師にガーゼを固定するように言うと、加冬に鋭い口調で言う。

「すぐに手術室を用意させろ」



 ざあざあと水が流れる音が手術室の廊下に響き渡る。

 日崎と加冬は手洗い場で並んで手を洗っている。消毒で何度も指先や手の平を擦りつけそれを洗い流す。苛ついているのかいつもより激しく手を擦っている日崎の手術着のお腹を、飛び散った消毒液の茶色い泡が汚す。

「CRP 12.1、WBC 14200、プロカルシトニンは3.8です」

 やってきた看護師が、先程提出した採血結果を読み上げる。「今朝のCRPは5でした」加冬の言葉に、日崎はどうなっているんだと舌打ちをする。「プロカルシトニンも高いですし感染ですね」「当たり前だ。あの膿を見て感染だと思わない奴がいるのか?」「私に当たらないで下さい」「冗談じゃないぞ、まったく」日崎はざあざあと乱暴に手の泡を洗い流すとタオルで拭ながらOR3に向かう。加冬はいつものように優雅に手を洗い流すと、すらりとした長身をひるがえしそのあとに続く。

 OR3に入ると日崎は言う。「音楽だ」

 どんどんと体の芯に響くような重低音が響き、手術室に魔法がかかる。日崎は滅菌ガウンに袖を通すといつものように手袋を二重にはめ、患者の前に立つ。すでに消毒され滅菌ドレープが掛けられた患者の患部が、天井からつり下がった無影灯に照らされている。電気メスや吸引管をドレープに固定し終えると、タイムアウトもそこそこに日崎はメス、と手を伸ばす。

 離開してしまった創部を延長するように、二日前の手術の傷を開いていく。お腹が大きく開けられると、それまで腹腔内に収められていた腸があふれ出し、音楽に合わせて踊っているように見える。日崎は不機嫌そうにお腹の中をかき回す。大小合わせて年間三百件近くの執刀で術後創部感染率は1%を切っている日崎にとって、腹部の創部が感染したのはいつ以来か記憶がない。しかも腸が外に飛び出るほど派手に創が開いたのは初めての経験だ。単なる術後の創部感染とは思えない。日崎を嫌な予感が包み込む。

「後腹膜はきちんと閉じられていますね。感染兆候はなさそうです」加冬の言葉にそうだなと日崎はつぶやく。二日前に行われたのは腹部大動脈瘤に対する人工血管置換術で、置換した人工血管は後腹膜の奥にきれいに収まっている。後腹膜腔自体には感染兆候はなく、人工血管は顔を見せていない。

「人工血管まで感染が及んでいたらアウトだったな」

 感染は腹壁の傷だけで済んだらしいことに、日崎は一応の安堵を覚える。最悪の事態は免れた。腹壁を観察すると全層に渡って感染がおよび、一部壊死している。

「くそう、腹壁は膿だらけだ」汚くなった組織を電気メスで切除しながら日崎が言う。

「どうします? このままじゃあ、お腹、閉じれませんよ」

「筋膜だけ寄せて、持続吸引で帰るしかないな。数日かけて抗生剤治療を行い、感染が落ち着いたら再度閉腹する」

 洗浄、5リットル洗うぞと日崎は看護師に言う。大量の生理食塩水をどぼどぼと腹腔内に注ぐ。腹腔内を洗浄しながら加冬が言う。「今朝、創部を見た時は特に問題はありませんでしたよ。たったの半日でこんなに感染が進みますか?」

 加冬の言葉はもっともだ。こんな酷い創部感染は見たことがない。激烈な壊死を伴う急激な経過、普通じゃない。日崎は唇を鳴らすと、大量の生理食塩水を腹腔内に流し込む。

 洗浄を終えると二人は壊死していない部分の筋膜を縫って寄せ、その上からVAC(持続吸引システム)を装着する。スポンジを切り、創部に乗せていると、OR3の扉が開いて美咲が入ってくる。美咲は麻酔科医側に回り込み、体を乗り出して術野を覗き込む。

「派手にやったわね」

「今は気が立っている。小言は聞きたくない」日崎は顔を上げると美咲を見る。「言っておくが、手術前に俺はちゃんと手を洗っている」

「これで三件目ね」

 美咲の言葉に日崎はむっとしたように言い返す。

「何を言っている。今年はまだ一例も創部感染で再手術になっていないぞ」

「そうじゃなくて、今日一日で三件目なの。患者の創部が突然感染で開いて再手術になったのは」

 ぴたりと日崎の手が止まる。何だと? 加冬も呆気に取られたように美咲を見る。「他の科でも起きているのか?」

「みんな一週間以内に手術した患者よ。今、OR4で整形外科の患者が手術中。突然の高熱に創部からの排膿、敗血症性ショックになっている」

日崎と加冬は顔を見合わせる。どうやら想像以上に事態は深刻らしい。

「とにかく、急いで閉じよう」

 VACを装着し終えると、日崎はガウンと手袋を脱ぎ捨て、まだOR3に残っていた美咲に詰め寄る。興奮しているのか、鼻息でマスクの表面が上下する。

「一体、何が起きているんだ?」

「まだわからない。でも、整形外科と心臓外科に泌尿器科、複数の科で同じようなことが起きている」

「院内感染か?」

「どの症例も短時間で創部が哆開し、敗血症になっている。これが広がったらまずいことになるわ」

「もうなってる」

 そこに看護師が一人入ってくる。

「師長、外科から緊急手術の依頼です。四日前の手術患者の創部が開いたようです」



「まずいことになった」

 診療部長室には外科部長の中曽根をはじめとして、心臓外科、整形外科、泌尿器科の創部感染が発生した四科の部長達が集められている。彼等に加えて麻酔科部長、脳神経外科、形成外科、耳鼻科など外科系の部長達と、ICUおよび手術室の看護師長も呼び出され、診療部長室は苛立つ人達であふれかえっている。

「たった一日で四件の創感染、いずれも術後一週間以内の患者で、急速に敗血症性ショックに至っている。すでに二名が死亡した」

 机の向こうからの御堂坂の言葉に、部屋の隅で腕組みをして壁にもたれかかっている日崎が言う。

「菌がいるんですよ」

「そんなことはわかっている。問題はどう対処するかだ」

 御堂坂は感染症科部長の山野辺の方を見る。

「四件の患者からは、いずれも創部からグラム陽性球菌が検出されています。連鎖球菌状に見えますが、菌の同定には時間がかかります。経過から劇症型溶連菌感染にも見えますが、それにしても病状の進展が早過ぎます」

 ソファに座った山野辺は額の汗を拭きながら言う。

「人食いバクテリアか」

 御堂坂の言葉に、長身の学都総合医療センターの顧問弁護士は苦言を呈す。

「その言い方はよして下さい。マスコミにそんなことを書かれたらとんでもないスキャンダルになります」

 西園がたしなめるように言うが、その冷静な口調に泌尿器科部長は猛然と言い返す。

「マスコミが何だ。こっちは患者が死んでるんだぞ」

 御堂坂がまあ、落ち着けと言葉を挟むが、日崎は不満をあらわにする。

「落ち着けですって? あの腹の膿を見たらとても落ち着けませんよ」

「足の膿もです」と整形外科部長も続く。

「創感染手術をした手術室はすでに汚染されていると考えるべきです。実際に手術を行ったOR2から5までは閉鎖、患者が入院していた三階病棟、四階病棟、ICUも汚染区域です。患者を担当した四科すべての医者と麻酔科医の感染検査から行いましょう」

「医者からの感染だと言うのかね?」

 麻酔科部長が心外だと言わんばかりの口調で山野辺にたずねる。「誰かが感染源になっているんです。順次絞っていくしかありません。まずは医者の検査、それから該当患者と接触した看護師、リハビリや検査技師のコメディカルに検査範囲を広げていきます。医者でなければ病棟か手術室が感染源ということになります」

「ちょっと待って下さい。私達は創感染患者を受け入れただけですよ。どうして私達が感染源だと疑われるんですか?」手術室看護師長の美咲は憤慨した様子でたずねる。

「感染しているのは皆、術後の患者です。手術室で菌をもらった可能性は否定出来ません」

「手術室は院内で最も清潔な場所です。うちのスタッフは清潔操作について皆、きちんと訓練されたプロばかりです」

「普段の働きぶりを見ても、新人教育が行き届いているとは思えないがな」日崎がぼそりとつぶやき、美咲はちょっと、と声を荒げて日崎を睨みつける。

「四件目の外科の患者も、術後は一日、ICUにいたんだろう? ICUの担当した看護師のリストがほしいな」泌尿器科部長が言う。

「泌尿器科と整形外科の感染患者はICUに入っていないんですから、私達に原因があるというのは筋違いです。ドクターの方をよくお調べになった方がいいのではありませんか?」ICUの看護師長が言い返す。

 誰もが互いに責任をなすりつけ段々と声を荒げていく中、御堂坂はいい加減にしろと大声で一喝する。「全員黙って話を聞くんだ。君達はプロだろう。礼節を保ちたまえ」

 御堂坂が睨みをきかせ、ようやく診療部長室は静かになる。

「山野辺先生。感染拡大を防ぐための具体的なスケジュールを教えてくれ」

「はい。OR2から5までの消毒はすでに始まっています。該当患者に関わる医師、看護師、コメディカルの検査でも感染源がわからなければ、感染を発症した時点で入院していた三階病棟、四階病棟、ICUのすべてのスタッフの検査を行うことになります」

「菌が出たとして、その人物が感染源か、新たに患者から感染したのかをどうやって区別する?」

 御堂坂の質問に山野辺は答える。「毒性がかなり強い菌です。患者から新たに感染した場合は通常、何かしらの症状が出ているはずです。一方、最初に菌を持ち込んだ人物は無症候性のキャリア(保菌者)だと思われます。それで見分けるしかありません」

「しかし病棟のスタッフ全員まで感染検査の手を広げることになれば、結果が出るまでいつまでかかるかわからないな」

 ええ、と山野辺もうなずく。

「外科と泌尿器科の患者が三階病棟、整形外科が四階病棟、そして心臓外科がICUに入院中だったんだな」御堂坂が確認するように言う。それぞれの科の部長達はええ、と首肯する。だがしばらくして整形外科部長はそういえば、と口を開く。「あの患者はたしか四階病棟が満床だったため、術後の二日間、三階病棟で管理されたあと、一昨日、四階病棟に転棟となったはずです」

「それは本当か?」御堂坂が眉間にしわを寄せる。「偶然とは思えない。心臓外科は、」

 御堂坂が日崎の方を見ると、日崎は両目を見開いて立ち尽くしている。「心臓外科の患者も、手術前は三階病棟に入院していましたよ」

 診療部長室の医者達が顔を見合わせる。「正解かもしれんな」御堂坂が腕組みをして唸るように言う。「感染した四人、全員が三階病棟にいたことがあるのか」

 山野辺は御堂坂の言葉にうなずく。「わかりました。三階病棟のスタッフから優先的に検査を行いますよ」

「一つよろしいですか?」黙って医者達の議論を聞いていた西園が声をかける。「感染源の特定はけっこうですが、この感染症に有効な治療法は見つかっているんですか? すでに衛生局と保健所には連絡済みですが、四十八時間以内に感染制御のめどが立たなければ、最悪、新規患者の受け入れの停止命令が下る可能性があります」

「病院を閉鎖しろと言うのか?」御堂坂があせりをにじませて言う。

「脅しではないはずです。たった半日ですでに二人亡くなっているんです。すぐに衛生局の調査員がやってきます。それまでに感染制御の計画書を作成し、われわれがきちんと対処でいることを示す必要があります」

 御堂坂は改めて山野辺にたずねる。「治療プランを聞こう」

「今のところ、有効な抗生剤はまだ特定出来ていません。とりあえず広域に抗生剤を使うしかありませんが、多剤耐性の可能性も高いでしょうね。培養結果が出るまでは、手探りで治療するしかありません」

「いいだろう。すぐとりかかってくれ。とにかく次の感染者を絶対に出すな」

 診療部長の言葉に、医者達はぞろぞろと部屋から出ていく。部屋から出て行こうとする日崎に御堂坂が言う。「患者には何と説明している?」

「術後の創部感染とだけです」

「それでいい。院内感染で他の患者が亡くなったことはまだ言うな」

「手術室を閉鎖し、ICUの一画に隔離しているんですよ。家族もすぐに何か起きていると気付くはずです。下手に隠すのは得策とは思えませんがね」

「四件の患者の菌が同一のものであると証明されるまでは、いたずらに家族を刺激するな。それよりも治療に全力を尽くすんだ」

「簡単に言ってくれますね、」

 日崎がそう言ったところでPHSの音が鳴り響く。御堂坂はぎょっとした顔で日崎を見る。日崎はため息を一つつくと白衣のポケットからPHSを取り出し耳にあてる。

「どうした。ああ、わかった。すぐに行く」

 日崎がPHSを切ると、御堂坂が新たな患者か、とたずねる。

「今朝の患者です。血圧が下がっています。感染がコントロール出来ていません。三人目の死亡症例にならないように祈っていて下さい」

 日崎はそう言うなり足早に部屋から出て行く。



 日崎が足早にICUに向かっていると、後ろから手術室看護師長の美咲が追いかけてくる。「ちょっと、さっきのは何? うちの新人に懲戒委員会に訴えられたからって、仕返しのつもり?」

 二人は早足で歩きながら目も合わさずに会話する。

「訴えられていない。取り下げられた」

「だったらどうして恨むのよ」

「俺に絡むのはよせ。忙しいんだ」

「忙しいのはこっちもよ」

 日崎は階段を駆け下り、美咲は廊下を大きく曲がる。

 ICUに駆け込むと、そこは異様な光景が広がっていた。

 一番奥の一画はビニールのカーテンで隔離され、その奥には手術用帽子にマスク、ガウンと手袋で厳重に身体防護をしたスタッフが忙しなく動き回っている。ビニールのカーテンのこちら側で加冬は腕組みをして患者を診ている。

 日崎は加冬の横に来ると、天井から吊り下げられているモニターを見る。血圧が70台、心拍数120台、加冬は手に持っていた血液ガスの結果を日崎に差し出す。

「ラクテートは7.2、アシドーシスも進んでいます。カテコラミンもどんどん増えていますし、ボリュームを入れ続けないと血圧が保てません」

 加冬は淡々と言うが、その内容はかなり厳しい現実を突きつけている。モニターには患者の体温が39℃と表示されている。

「VACは?」

「膿が出続けています。クーリングでも熱は下がりませんし、感染がコントロール出来ていません。採血結果も多臓器不全が進行しています。このままでは、」

加冬がちらりと日崎を見ると、最後まで聞かずに日崎はうなずく。

「ああ、」

「吻合部が、」

「ああ、」日崎はふうと大きく息を吐く。「破裂は時間の問題だ」

「破裂しなくとも、このまま多臓器不全が進めば明日まで持ちません。もう一度、家族に話しますか?」

 日崎は相貌を引き締めると、面談室に通してくれと静かに言う。



 ICUの面談室に、患者家族がずらりと並ぶ。

 手術は問題なく終わりました、そう話したのがたった二日前。人工呼吸器も離脱し、今朝までは普通に会話していた。立ち上がり歩行訓練も始めていたというのに、この数時間で再手術となり、さらにそこからわずか数時間、再び集められた家族の表情には不安と不信感がない交ぜになって浮かんでいる。

 日崎はもう一度、状況を話す。院内感染である以上、どんな言い訳をしたとしても落ち度は医療機関側にある。助かるはずだった患者が生死の境を彷徨っている中、ただただ誠実に話をするしかない。

 日崎はいつもよりはゆっくりとした口調で、しかし感情は込めず淡々と経過を説明する。こういう時はまず事務的に経過を説明し、患者家族の表情や質問から、その理解度やどの部分に疑問を持っているかを敏感に読み取り、今後の展望については時に感情を込め時に冷淡に話すことが求められる。日崎はそういう患者側の空気を読むことが手術の技術以上に重要だと考えており、実際のところ、それが下手であるばかりに患者側と揉め、訴訟になる医者は少なくない。悪意はなくともトラブルは起きる。どんなに優秀な外科医でも、患者側との繊細なコミュニケーションが取れなければ必ずトラブルを引き起こす。心臓外科という死亡率が高い科であるからこそ卓越した話術が求められるし、日崎の本質的な優秀さは手術以上にこの患者説明のうまさにある、と同席する加冬は思う。だが、その口の上手さは医者側の欺瞞を許すことにもつながる。医者は時に、自分達の都合で事実を捻じ曲げる。

 二日前に行われた腹部大動脈瘤の手術は特に問題なく終了しました。術後経過も良好で、翌日には抜管し、今朝もお元気に会話が出来ていました。しかし昼前から高熱が出始め、腹部の創部から大量の膿を認めました。先程、膿をすべて除去し、腹部を洗浄してきました。何らかの感染が起きていますが、菌がどこから入ったかはわかりません。一番危惧しているのは先日移植した人工血管に菌が感染することです。人工血管感染が起きた場合、感染のコントロールが難しく、全身に感染症が蔓延することで命を落とす可能性があります。また人工血管が感染することで吻合部、つまり人工血管を縫い合わせたご自分の血管部分が感染で脆くなり、そこが破裂することがあります。吻合部破裂を起こした場合は、大量出血で突然死の可能性もあります。

現在、感染症については非常に強力な抗生物質を使っていますが、まだ熱も続いており、感染が十分にコントロール出来ていません。徐々に全身の臓器にもダメージが出てきています。菌の種類がはっきりすれば、効果のある抗生物質も判明し、治療が進みます。

「どうしてこんなことになったのですか? 手術はうまくいったとおっしゃっていたはずですが、一体、どうして、どこから菌が入ったのですか?」

 感染源は不明です。ただ、今回は動脈瘤がかなり大きく、破裂の危険性が高かったため、発覚から三日たらずで準緊急手術をさせていただきました。手術が待てない状態だったため、手術前の検査が不十分な部分もありました。そのため、元々どこかに菌が隠れていた可能性もあります。また糖尿病のコントロールも不良であったため、ちょっとした感染症でも重篤になるリスクが高いことは、手術前にお話しした通りです。通常はあまり起こることではありませんが、今回みたいに緊急で手術となった場合には、菌が隠れていて手術後に免疫が落ちた状態で感染症が悪くなることがあります。糖尿病がそれを助長している可能性もあります。いずれにせよ引き続き、感染症に対して出来る限りの治療をさせていただきます。他に何かご質問はありますか?



 ばたむ。

 ICUの扉を乱暴に開くと、日崎と加冬は廊下を歩いていく。

「どうして本当のことを家族に言わないんですか?」

 加冬が不満気に日崎に言う。日崎はエレベーターのボタンを押すと加冬の方に向く。自分より背の高い若く正義感の強い彼女が自分を責めるような視線で見下ろしている。

「お前なら何て言うんだ? この病院に人食いバクテリアが蔓延しています。こんな病院で手術をしたから感染したんです。そう言うつもりか?」

 ちん、と音がしてエレベーターが到着し、扉が開く。二人は鉄の箱に乗り込むと扉を閉める。ゆっくりとエレベーターが上昇し始めると、加冬はエレベーターの壁に寄りかかる。

「いくら先生の口が上手くとも誤魔化し続けることなんて出来ませんよ。感染の危険があるから面会させられないなんて、患者家族のストレスはたまる一方です。面会したらしたで、何ですかあのビニールのカーテンは。あれを見れば誰だってこの病院で何か大変なことが起きていると気付きます」

 エレベーターをおりると二人は医局に向かって歩いていく。

「院内感染のこと、患者家族に話すなと上から言われているんですか?」

「院内感染だとまだ決まったわけじゃない」

「誰が信じるんですか、そんなこと。同時多発的に複数の科で劇症型の創部感染が起きたんです。同一の菌が広がった以外にあり得ませんよ」

「お利口だな。だが今は口を閉じておけ」

 医局に入ると、二人は疲れ切った顔でどっかりとソファに腰を下ろす。日崎は机の上のガラスボールに入ったチョコレートに手を伸ばすと、一つずつ包装を剥がし口の中に放り込んでいく。今日は朝からまともな食事はとっていない。絶対に長生きは出来ないな。早死にのリスクファクターに、心臓外科医の仕事、と書くべきだ。

 血糖値が上がると、ぐったりとソファの肘掛けに体を預け、日崎は加冬を見る。加冬は長い足を組み、不満気にこちらを見ている。

「そんな目で見るな。四例すべてが同じ菌だと確定するまでは、院内感染については緘口令が敷かれている。これは理事会の正式な決定だ」

「病状説明は主治医と患者間の問題です。理事会から口を出されるべきことではありませんよ」

「お前はいつも正しいことばかりを言うな」

「患者の糖尿病のせいにして」

「気に入らないか?」

「大いに不満です」

「俺もだ」

 そこに春日がやってきて、二人を見下ろすように立つ。

「保健所の聞き取り調査は終わったのか?」

 春日の問いに、加冬は怪訝そうに眉をひそめる。

「そんなことをやっているんですか?」

「今日の予定手術はすべて中止、救急車の受け入れも先程停止された。手術室は全部屋閉鎖されたぞ」

 何だぞ、と日崎は体を起こす。

「事態は思ったより深刻だ。君達もさっさと聞き取り調査を受けた方がいい。先程、医局には下手をすれば病院その者の閉鎖もあり得る旨が通達された」

 その時、医局の奥から大声で怒鳴る声が聞こえる。三人が思わずそちらの方を向くと、医者達が集まって何やら言い争いをしているのが見える。のっそりと立ち上がった日崎は春日と共にそちらの方へと歩いていく。加冬はうんざりしたように息を吐くと、ソファの背もたれに後頭部を乗せる。

 医局の奥では、すでに保健所からの聞き取り調査を終えた医者達が、顧問弁護士を取り囲んで詰め寄っている。

「病院全体の封鎖の可能性はどういう意味かね? 外科系病棟だけで十分だろう。われわれ内科には関係のない事態だ」

「それはずいぶんな言い草ですね。これは病院全体の問題ですよ」

 ナマズは内科医師に冷ややかな視線で答える。衛生局に保健所、マスコミを相手に矢面に立たされているナマズにしてみれば、あまりにも身勝手な意見だ。

「実際問題、感染が確認されているのは外科系病棟の三階病棟、四階病棟、そしてICUだろう? ICUはすでに隔離作業が済んでいるし、われわれの業務とは切り離されているはずだ」

「感染源が医者なら、すでにこの医局は汚染されていますし、皆さんも感染している可能性があります。そうなったら、病院全体に広がるのは時間の問題だと何故、わからないんです?」

 挑発的なナマズの物言いに、循環器内科医の江崎は皮肉めいた口調で言う。

「外科医が感染源と言うのはたしかにあり得ますね。朝から晩まで緊急手術はご苦労ですが、ちゃんとシャワーを浴びているのかも怪しい物ですから」

 いつも身なりを整え、高級なネクタイを締める色男の言葉に、今度は消化器外科医が噛みつく。

「俺達を侮辱するつもりか? この病院は手術室の売り上げで持っているんだ。誰が稼いでやっていると思っているんだ?」

「何て言い草だ」

 内科系、外科系の医者達が入り乱れ、言い争いはどんどん大きくなっていく。日崎はエゴとプライドをむき出しにした言い争いを、腕組みをしたまま無言で見ている。収拾がつかなくなった時、突然、医局にPHSが鳴り響く。今日ばかりは悪い知らせしかもたらさないその音に、一同が一瞬、静まり返る。日崎が振り返ると加冬がPHSを耳に当てたままこちらを見ている。

「すぐに行きます」そう言うと加冬はPHSを切り、日崎に向かって言う。

「腹部が腫れてきてVACから大量の出血。ショック状態です」

加冬が医局から飛び出すと、日崎はナマズに向かって言う。

「手術室をすぐに開けろ」

「衛生局が封鎖中です」

「知ったことか。開けさせろ」



 日崎と加冬の二人はICUに駆け込む。

 すでに患者の血圧は橈骨動脈が触れないくらいまで下がり、麻酔科医が輸血をポンピングしている。看護師が二人に経過を説明する。

「突然、VAC内に大量の出血が出て血圧が下がりました。お腹がこんなに張っています」「血圧 48/21」麻酔科が悲鳴にも似た声を上げる。「感染で吻合部が破裂したんだ。もう一度開ける。江崎を呼べ。ハイブリッド(手術室)で、IABO(大動脈内遮断バルーンカテーテル)を入れるぞ」「ハイブリッドは閉鎖中です」看護師の言葉に日崎は舌打ちをする。「だったら開胸してクランプするしかない。手術室に行くぞ」

 看護師が大至急移動の準備を進める。日崎は加冬に、家族に状況を説明し同意書を取るように指示を出す。準備が出来次第、患者を乗せたベッドは勢いよく運ばれ、手術室の廊下を走っていく。

 すでに連絡を受けていた美咲が手術室の廊下で叫ぶ。「OR3はまだ消毒が済んでいない。6番を使って」

 患者をOR6に運び込む。手術台に移し、麻酔科が素早く筋弛緩薬を投与する。すでに挿管されCVも入っている状態で手術の準備はすぐに整う。家族への説明を終えた加冬がOR6に飛び込んでくる。日崎と加冬はルーペを着けると部屋を出て手を洗う。

「開腹すればその場で心停止するかもしれない。肋間開胸で下行(大動脈)をクランプ(遮断)してから腹部を開ける」

「間に合いますか」

「一か八かだ」

 その間にも手術室では看護師がてきぱきと手術の体位を整えている。二人は手を洗い終えるとOR6に戻りガウンを着る。グローブを着けると患者の腹部につけられていたVACごと消毒していく

「RBC10単位、FFP10単位、大至急持ってきてくれ」

 麻酔科の怒号が響く中、日崎は胸部を消毒するとドレープを広げ、メス、と左手を出す。ぱっと第六肋間にメスを走らせ、止血する時間も待てないといった様子で、メイヨ―でざくざくと筋肉を切り開いていく。開胸器をかけ、ぐいっと肋間を大きく開き、指で下行大動脈を素早く剥離する。「遮断鉗子」手に滑り込まされた金属製の長い鉗子を胸腔内に突っ込むと、日崎は下行大動脈を遮断する。「噛んだぞ」日崎はそう叫ぶと麻酔科の方を見る。「これで出血はかなり抑えられるはずだ。血圧は?」麻酔科は必死に輸血をポンピングしていたが、しばらくして血圧が六十台まで上がったと返答する。「だがまだボリュームが追いつかない。アルブミンでいいから持ってきてくれ」麻酔科医の声に、看護師の一人がOR6から走って出て行く。「頼むぞ。バイタルが安定したら腹を開ける」

 大量の輸血が投与され、少しずつ患者の血圧が上がっていく。「血圧が九十台に乗った。いいぞ、やってくれ」

 麻酔科の言葉とほぼ同時に、日崎は腹部に取り付けられていたVACを外す。途端に腹腔内に貯留していた大量の血液があふれ出し、OR6の床が赤黒く染まる。腸管をよけ後腹膜を観察すると、今朝の感染の手術の時とはうって変わり、後腹膜は黒々と膨隆し、大量の血種が広がっている。

「腎静脈をどけてくれ。大動脈を遮断し直したい」「吸引、ガーゼをもっとちょうだい」「ここだ、ここが裂けてる。中枢側の吻合部だ、押さえろ、そうだ、そこだ。遮断鉗子、」普段、心臓外科の手術をする部屋でないこともあり、突然の緊急手術に準備が追い付かず、OR6には十分に腹部大動脈瘤の手術用の器械が揃っていない。日崎はさっさとよこせと大声を上げる。「急げ、死ぬぞ」日崎の怒号が響き、差し出された血まみれの手に遮断鉗子が滑り込まされる。「くそう、ああ、ここだ、よし、腎動脈上で遮断するぞ。よし、大動脈遮断」日崎ががちりと腹部大動脈を遮断する。「遮断鉗子、もう一本、末梢側を、そう、末梢側はまだ裂けていない。人工血管でいい。よし遮断した」

 破裂部位を挟み込むように上下で血管を遮断する。破裂部位からあふれ出していた血液はほぼなくなる。それから日崎は胸腔に突っ込んでいた遮断鉗子の方を開く。「下行の遮断は外すぞ。外した、腸管血流再開、問題ないか?」麻酔科医は、大丈夫だ続けてくれ、と答える。

 日崎は血種を除去しながら改めて視野を展開する。

「ここだ、見えるか、ここで吻合部が破綻している」

 日崎の言葉に加冬がうなずく。

「吻合部がぼろぼろだ。もっと中枢で再吻合するしかない」

「どうにかなりそうか?」

 麻酔科医の問いに日崎はマスクの下で大きく息を吐く。

「人工血管をすべて除去して、新しい人工血管で、再置換を行う」

「挿管チューブから血性痰が上がってきている。口腔内からも出血が続いている。DICだ、本当に何とかなるのか?」

 感染で凝固能が破綻し、術野の出血が止まらなくなる可能性もある。麻酔科医は看護師に追加で輸血をオーダーする。全身状態は最悪だがここで引き返す選択肢はない。日崎はいくぞとつぶやくと、人工血管を一気に切除する。



 手術室控室のモニターの前には、多くの医者やスタッフが集まり、映し出される手術の様子を、固唾をのんで見守っている。一番先頭に陣取っている御堂坂の元に、手術室看護師長の美咲がやってくる。

「部長、中曽根先生から連絡がありました。今朝、手術を行った外科の感染患者が亡くなったそうです」

 御堂坂はモニターの画面越しに、祈るように日崎に言う。

「三人死んだ。頼むぞ日崎、何とかしろ」



 日崎は感染した人工血管をすべて除去し、吻合部周囲の感染した壊死組織を切除していく。正常な血管組織が露出したところで加冬が問う。

「リファンピシン浸漬人工血管はすぐには用意出来ません、どうします?」

「菌はまだ同定出来ていない。何が効果があるかはわからないんだ。通常の人工血管を使う。吻合後、人工血管を大網でくるむ」

「大網充填しても感染したら、」

 加冬の言葉に日崎が顔を上げる。日崎のヘッドライトに照らされて、加冬は思わず片目をつぶる。日崎はもう一度術野に視線を落とし、むき出しになった大動脈を見る。それでも、「やるしかない」

 日崎の言葉に加冬も覚悟を決めたかのようにうなずく。

「人工血管をくれ、縫合する。3-0、」

 日崎の手に持針器が滑り込まされる。



 病院ロビーにはマスコミが集まっている。

押しかけたマスコミの質問に、フラッシュの光の海の中、顧問弁護士の西園は表情を変えずに淡々と答える。

「院内感染で死亡したのは何人ですか?」本日死亡した患者は三名ですが、それが同じ菌の感染によるものかどうかはまだはっきりしません。現在、衛生局、保健所の調査が進められていますが、亡くなったのはいずれも大きな手術のあとで起きた感染であり、共通の病原体による感染を断定する証拠はまだありません。「それでは何故、保健所が介入しているんですか?」仮に同一の菌による院内感染であった場合に、感染の拡大を未然に防ぐためです。「感染対策は十分にとられているんですか?」もちろんです。院内の感染対策チームが保健所と連携し、現在新たな感染は認められていません。「死亡したのが病院側の感染対策が不十分だったためだと、家族が病院側を訴える用意があるとの情報もありますが、」そのような話は、こちらは何も聞いていないため、お答え出来ることはありません。「死亡した症例以外にも、感染が認められた患者は何人いるんですか?」個人情報に関わることなのでお答え出来ません。「人食いバクテリアが病院内に蔓延しているとの噂もあります。ご意見を聞かせて下さい」よろしいですか。感染で患者が死亡したことは事実ですが、まだ菌は同定されていません。結果がわかり次第、皆さんにはきちんと時間を設けて説明いたします。今、現在お話出来ることは異常です。それでは会見を終わります。

 ナマズが踵を返すと追いかける記者からいくつもの質問が背中に投げかけられるが、警備員がそれを押しとどめる。ナマズは振り返ることなく歩いていく。乗り込んだエレベーターの扉が閉まったと同時に天井を仰ぐと大きくため息をつく。



 手術が終わり、日崎と加冬は患者と共にICUに戻ってくる。

 すでに窓の外の日は落ち、薄暗いICUを歩く二人の足取りは重い。ベッドサイドでは看護師達が一斉に点滴や心電図モニターの整理を始めている。日崎はベッドサイドのイスに腰掛けると、その様子をぼんやりと眺める。加冬もぐったりとした様子でICUの柱にもたれかかり腕組みをしたまま無言で立ち尽くしている。

 診療部長の御堂坂が日崎の元にやってくる。

「感染対策チームが菌を同定した。多剤耐性の溶連菌だが感受性のある抗生剤の投与プランを用意した。早速投与を開始する。これで抑え込めればいいがな」

「亡くなった三人も、同じ菌に感染していたんですか?」

「そうだ」

 日崎はちらりと御堂坂を見ると、それから患者を見る。

「家族に話しますよ」

 日崎の言葉に御堂坂は、わかっていると答える。「院内感染であることは確定した。このあと、衛生局と保健所からも正式に発表される」

「それまでに話さないと、」

 日崎はそう言うと立ち上がり、患者家族が待つ面談室へと歩いていく。

 面談室には日崎と同じくらい疲れ切った顔の家族の顔が並んでいる。日崎は現在、院内感染により複数の患者が術後に感染を起こしていること、それにより人工血管感染を起こし吻合部が破裂していたことを説明する。人工血管感染を起こしたら致命的だと説明を受けていた家族に動揺が浮かぶ。

「チャンスはまだあります。感染した人工血管はすべて取り除き、新しい人工血管に置換しました。さらに人工血管を感染に強い組織でくるんでいます。すでに菌の正体も判明し、効果のある抗生剤治療が開始となります。抗生剤が効けば、助かる可能性は期待出来ます」

 その言葉は半分祈りだったが、日崎は何一つ包み隠さず、患者家族の質問に丁寧に答えていく。患者家族の不信感がそれで消えたわけではないだろうが、彼等も命を救った外科医をそれ以上責めることはせず、最後には納得したという態度を見せる。日崎はこの先も全力で治療に当たりますと深々と頭を下げると、重い足取りで面談室からベッドサイドへと戻ってくる。

 患者のベッドサイドには御堂坂に加えて顧問弁護士の西園が待ち構えている。

「死亡した三例のうち、一例の患者家族が病院の責任を求める訴訟を起こす準備をしているようです。まだ先方の代理人から連絡はありませんが、こちらの責任を完全に否定することは難しいでしょうね」

 当たり前だと日崎は冷たい口調で言う。「歩いて手術を受けに来て、手術は成功したのに感染症で死んだんだ。家族が納得出来るはずがない」

 御堂坂は小さくため息をつくと、ここの患者家族は何と言っている、とたずねる。

「今はまだ何も、とにかく患者が助かることを祈っています」

「もし何か患者家族が言ってきたら、すぐに教えてくれ。初期対応を誤ると、おおごとになる可能性もある」

 ナマズの言葉にそれまで黙って聞いていた加冬が我慢出来ないとばかりに口を開く。

「それは死んだら教えろという意味ですか?」

 加冬の怒りの込められた声に西園は一瞬ひるむが、それからすぐにいつもの感情のない声で、そうは言っていませんと答える。加冬は再び口をつむぎむっつりと黙り込む。日崎は加冬を見たあと、それから御堂坂の方を向く。

「それで、感染源が誰かはわかりましたか?」

「まだだが患者に接触した可能性のある全職員の細菌検査はすでに終わっている。いずれ結論は出る。今は待つしかない」

 日崎はそうですかと答えると患者を見る。

 モニター上の血圧はまだ弱々しい。



 夜中のICU当直室で日崎は気絶するように眠っている。

 意識が完全に途絶え、寝息だけが響く部屋の扉がノックされる。

「先生、起きて下さい」

 ノックの返事も待たずに扉を開けた看護師が、申し訳なさそうなそぶりは一切見せずに日崎に声をかける。日崎はのそりと起き上がると時計をちらりと見る。夜中の二時。ノックくらいしろよなと悪態をつきながら日崎はベッドから抜け出す。「ノックはしました」その言葉に、返事はあったかとたずねるが、看護師は無視して先に歩いていく。

 裸足に医療用サンダルを引っかけ、寝間着代わりの手術着で無精髭の日崎は患者のベッドサイドに歩いていく。夜のICUは薄暗く、ベッドサイドの患者の足元に小さな光がともっている。

「血圧が上がってきました。ノルアドを下げますか?」

 モニターを見ると、心電図も力強く、血圧は100を超えている。

「アシドーシスは?」

 看護師が血液ガスですと結果を手渡す。

「良くなっている」

 日崎がつぶやくと、熱も下がりましたし乳酸値も改善しています。抗生剤が効いていますね、と看護師が答える。

 日崎は薬の流量を調整し、それから手術室は、とたずねる。

「明日には通常運転に戻れるそうです」

「他の患者は?」

「新たな感染者は出ていません」

「保健所の調査は?」

「知りません」

「感染源は?」

「知りません」

「何で知らないんだ?」

「私が何でも知っていると思ったら大間違いですよ」

「人を夜中に叩きおこしたのに、違うのか?」

 看護師は日崎のおしゃべりに付き合っている暇はないと無視を決め込んで仕事に戻る。日崎はしばらくモニターを睨みつけていたが、目がさえてしまってすぐに寝付けそうにはないなとICUから出て行く。



 医局に入るとソファで加冬が気絶するように眠っている。他の科の院内感染患者の手術に駆り出された研修医達もあちこちでダウンしている。

 日崎は加冬が眠るのとは反対側、向かい側のソファにどっかりと座る。ふうと大きく息を吐くと、加冬が横になったままぱちりと目を開ける。それに気付いた日崎は、寝ていろと低い声で言う。

「先生は寝ないんですか?」

 日崎はふんと鼻を鳴らす。

「お前、ちゃんと風呂に入っているのか?」

「それが女性への言葉ですか? セクハラで訴えますよ」

「よせよ。俺は今、保護観察処分中だ。俺を首にするつもりか?」

 加冬はふふと笑うと寝がえりをうち、天井を見上げる。

「それも悪くないですね」

 日崎はソファに背もたれると天井を仰ぎ、ふんと鼻を鳴らす。

「血圧が上がった。アシドーシスも改善している」

「ええ、知っています。私が先生にも伝えるように看護師に言ったんです」

「お前に先に電話があったのか?」

「寝起きの先生の評判がどれくらい悪いか、知らないんですか?」

 あっそ、と日崎はつぶやく。

 加冬はのっそりと起き上がると髪をかき上げる。

「感染源がわかりました。三階病棟の派遣の看護師だったようです。今月から採用になったらしく、どこで感染したかは不明です。症状の出ないキャリアだったようですね。件の看護師はすでに隔離され抗生剤治療が開始されています。あれから感染の拡大はないようです。幸運でしたね」

 幸運?

 日崎は唇を鳴らすと小さく頭を振る。

「三人死んだ。幸運からは程遠い」

「でも、一人助けましたよ」

 そうだな。

 加冬はそれからお休みなさいとつぶやくともう一度横になり、間もなくして寝息を立てる。日崎もそのまま目をつぶり、ゆっくりと眠りに落ちる。

 こうして長い一日が終わる。

 すべての消毒を終え、閉鎖が解かれた手術室の扉から、立ち入り禁止のテープがはがされていく。部屋の中にはすでに明日の準備を終え、消毒済みのぴかぴかの手術器具が並べられている。また忙しい一日を迎えるまでのつかの間の時間、手術室には沈黙が訪れている。

 お休みなさい。


 日崎功郎。殺人容疑で逮捕勾留まで、あと171日。



20240602

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