第4話 怪物

 男が颯爽と廊下を歩いている。

 禿げ上がった頭に窪んだ眼窩の奥で引き締められた双眸、立派な口髭を蓄え厚い胸板とぴんと伸びた背筋、白衣の下にきっちりと結ばれたネクタイは今年結婚三十年目を迎える妻が選んだもので、美しい幾何学模様が彼の知性をより引き立たせている。

 学都総合医療センター診療部長の御堂坂はエレベーターで病院の一階におりると挨拶する職員の間をすり抜けながら、廊下の一番奥にある巨大な扉を開けて中に入る。途端に立ち込める血の匂いが御堂坂の鼻をくすぐる。戦場のような喧騒に包まれているER(救急外来)で黙々と患者をさばいている一人の手術着に白衣を引っかけた男を見つけると、御堂坂は無言で歩いていく。

「懲戒委員会の正式な処分が決定した」

 背後からかけられた言葉に、日崎は振り返る。研修医に患者をまかせると血液の着いた手袋を脱ぎ捨てマスクを顎まで引き下ろし、日崎は御堂坂と共にERの外の廊下へと出る。懲戒委員会が行われたのは四日前。日崎は各診療科の部長を前に、恭しく頭を垂れ、まるで事前に用意したかのような謝罪文を暗唱したのだが、果たしてその効果があったのか。とにかく判決は下ったらしい。

 廊下に出ると御堂坂が懲戒委員会の結果を伝えるのを、日崎は腕組みをしたままやや緊張した面持ちで聞く。

「部長代理から医長への降格人事、半年間給与の20%カットが決定した。手術は今日から再開していい」

「首にしないんですか?」

「それを望んだ者も大勢いた。君は優秀だが敵も多い。特に仲曽根先生はもっと重い懲罰を望んだが、」

「あなたが反対した、というところですか?」

「そうだ」

「感謝はしませんよ。この病院を一番の病院にしたいというあなたの願いをかなえるために俺はやっているんです」それから日崎はふうと息を吐き、御堂坂にたずねる。「先日渡したビデオは見ましたか?」

「あんなものどうやって手に入れた?」

「それはいいんです。今回の帰国では、最初のVIP患者の手術以外、執刀は加冬にさせて自分は指導的助手として前立ちをしています。そうやって上手くごまかしていますが、手の震えは年々ひどくなっています」

「どんな外科医も多少の手の震えはある。人体の構造上仕方がないことだ」

「多分、目も以前と比べてあまりよく見えていませんよ。あなたから話をして下さい」

 御堂坂は険しい顔で眼鏡を外すとハンカチでレンズを拭き、再び高い鼻の上に戻す。

「彼はもう飛行機の中だ。次に帰ってくるのは三週間後だそうだ」

「国際学会に参加するのはいい。彼の名前で全国から患者が来るのも事実です。ですが、彼にはもう手術をさせるべきじゃありません。いつか事故が起きますよ」

「どこから手に入れたかもわからない海外の手術ビデオ一つで、この病院の長年の功労者を断罪など出来ない」

「もし大きな事故が起きれば、それこそ過去の栄光はすべて地に落ちることになります。病院としてはそちらの方がはるかに痛手のはずです」

「懲戒委員会の結論は伝えたぞ。仕事に戻れ。半年間の減給だ」

 そう言うと御堂坂は、話は終わりだと踵を返す。

「首にして下さい。そうすれば彼のことをマスコミにすべてぶちまけて、ついでにこの病院の勤務体制を労基に告発してやる」

 振り返らずに御堂坂は歩いていく。

日崎は唇を鳴らすと減給かよ、と吐き捨てる。



 日崎はERに戻ると救急医の山上を見つけ出す。

「今、この瞬間からお役御免だ。手術室に戻るよ」名残惜しいな、と日崎は肩に手を置くが、それを払いのけて山上は言う。

「何が手術室に戻るだ、ふざけるな。お前のせいで研修医が一人減って、救急外来はただでさえ人手不足なんだ。今日一日は手伝ってもらうぞ」

「救急外来は楽しかったがここは俺の生には合わない。血は嫌いなんだ」

「お前、外科医だろ」

 その時、救急コールの担当をしていた看護師が、山上に向かって大声を上げる。

「山上先生。外傷CPA(心肺停止)が来ます」

 その言葉にERが異様な緊張感に包まれる。

「四十代男性、交通外傷、トラックを運転していて電柱に突っ込んだようです。シートベルトはしていたようです。現場で心肺停止となり挿管、ルートは確保済み。あと八分で到着します」

「それと、もう一件、」別の看護師が声を上げる。「同じ事故に小学生の少女が巻き込まれました。詳細は不明ですが、現在ショックバイタルの模様。受け入れはどうしますか?」

「現場はどこだ?」

「ダウンストリート18丁目」

「それだとここが一番近い。二台とも受け入れると言え」

 山上はそう答えるとゴーグルをはめ手袋を着け直す。

「本気で受けるのか?」

「血は嫌いなんだろ? 怖かったら引っ込んでていいぞ」

 山上の言葉に日崎はマスクを鼻の上まで引っ張り上げて言う。「一日だけだ。あと一日だけだぞ」

 それからガウンを来て手袋をはめると日崎は看護師に言う。

「加冬と春日、外傷当番の外科医を呼び出せ。研修医をありったけかき集めるんだ」

 一斉にERのスタッフが動き出す。

 外傷性心肺停の救命率は最悪で5%を切る。ほぼ助からないとわかっていても、患者を前にして彼等は諦めることを知らない。加温した生理食塩水がずらりと並べられ、レントゲンを撮るための放射線技師とエコー検査の技師が集められる。治療に当たる医者達は皆、マスクにゴーグル、黄色いガウンに手袋を着けERの入り口の前にずらりと並ぶ。

 日崎と加冬はERでいつでも開胸出来るように準備し、春日と山上が少女の受け入れ態勢を整えている。彼等は一言も口を開くことなく、救急車の搬入入り口をじっと睨みつけている。

 やがて遠くから救急車のサイレンが近付いてくるのが聞える。車のエンジン音まではっきりと聞こえた時、医者達はERの入り口の扉から続々と外に飛び出していく。

 病院に到着した救急車は一台だけで、日崎は停まった救急車の後部扉を、ばんばんと平手で叩く。扉が開き、中から患者を乗せたストレッチャーが下ろされる。救急隊は必死に患者の心臓マッサージを続けている。

「四十代男性、トラックの運転手、自損事故、高エネルギー外傷です。かなりの速度で電柱に突っ込んだようです。シートベルトは着用、救急隊接触時にはまだ内頚動脈の触知可能でしたが、車からおろすのに手こずって現場で心肺停止となりました。気管挿管し18ゲージで2ルートとっています。生理食塩水を全開投与、アドレナリンを二度投与しています。最終波形はPEAです」

「二番に入れよう」

 救急隊と共に、医者達は患者を二番診察室へと運んでいく。

「子供の方は?」

 山上が救急隊員にたずねる。

「すでに現場を出ています。あと二分で到着します」



「移すぞ、1、2、3」

 患者が二番診察室のストレッチャーに移される。すぐに研修医が心臓マッサージを引き継ぎ、山上はプライマリーサーベイを開始する。

「採血四本、点滴全開で落としてくれ」

 現場から駆けつけてきた制服警官もERにやってくる。「子供は無事か?」警官がたずねるが、「まだ到着していません」と忙しそうに看護師は言い返す。

「一体、何があったんだ? 子供が道路にでも飛び出したのか?」

 山上が警官にたずねる。

「目撃者がいないため詳細は不明です。ただ、運転手は飲酒運転で先月から免許停止になっているようです」

「何だと?」思わず日崎は声を上げて聞き返す。「飲酒運転で自損事故をした挙句、子供をはねたのか?」

「そうかもしれませんが、まだ詳細はわかりません。だから、そいつから話を聞く必要があるんです。助かりそうですか?」

 警官は必死に心臓マッサージを続ける研修医を見ながら言う。

「見通しは暗い。治療の邪魔になるから、話はあとにしてくれ」

 強い口調の山上に、警官は大人しく引き下がる。

「聞いたか? 飲酒運転だぞ」

「ああ、最悪だ」

「先生、次来ます」

 看護師が診察室に入ってきて言う。

「こっちは引き受ける。子供の方に行ってくれ」

 日崎の言葉に、ああ、と山上はうなずくと診察室から飛び出していく。ほどなくしてサイレンの男が近付いてくるのが聞える。日崎が視線を患者に戻した途端、患者の胸にエコーを当てていた加冬が声を上げる。

「タンポナーデ」

 エコーでは心臓の周囲に大量の出血が溜まっている。

「ドレナージしろ」

 日崎が言い、加冬は救急カートの上の消毒のボトルを手にする。「誰か清潔手袋をつけて心マを代わって」加冬は心臓マッサージをしている研修医を肩で押しのけると、患者の胸に消毒をどぼどぼとかける。すぐさま消毒液に覆われた患者の胸を、清潔手袋を着けた別の研修医が押し、心臓マッサージを再開する。看護師から心嚢ドレナージ用の穿刺針を受け取った加冬は、心臓マッサージをする研修医に、止めて、と鋭い声で言う。研修医がぱっと手を離すと、加冬はエコーガイド下に患者の心嚢内に針を刺す。ドレナージを開放するとどろっとした黒い出血が20mlほど引ける。タンポナーデが解除されたのを確認し、心臓マッサージが再会される。アドレナリン、加冬の言葉に新たに強心剤が追加される。

 救急車のサイレンの音が消えてすぐに、二番診察室の扉の前を慌ただしく複数の足音とストレッチャーの車輪がきしむ音が通り過ぎるのが聞える。

「着いたのか」

 日崎は唸るようにつぶやく。「代わろう」日崎は研修医と心臓マッサージを代わる。心臓マッサージをしながら、ちらりと患者の顔を見る。この男が飲酒運転で少女をはねた。日崎は一瞬どす黒い感情が自分に湧き上がるのを感じるが、それを振り払うように一心不乱に心臓マッサージを続ける。

ドレナージから三分後、「心拍再開、戻りました」看護師の言葉に日崎は手を止める。急いで血圧を測り、昇圧剤を開始する。

「ドレーンからまだ出血続いています。手術室に行かないと」

 加冬が言うが日崎はいいやと首を振る。

「もう一度プライマリーサーベイを行い、状態が安定したらCTに行くぞ」



 一番診察室に少女が運び込まれる。

「七歳の少女、通学途中で交通事故に巻き込まれました。トラックにはねられ街路樹の生垣に飛ばされました。現場接触時血圧70/40、脈拍140、酸素飽和度は90パーセントでリザーバー10リットルを投与、意識レベルはGCSでE2V2M5、末梢はまだ確保出来ていません」「俺の合図でゆっくり移すぞ、気をつけて、1、2、3」山上の合図で少女が救急隊のストレッチャーから移される。研修医が素早く衣類を切り、看護師が静脈路を確保する。「入った」「生食を一本全開で投与」頭元に回り込んだ山上が気管挿管し春日が全身を検索していく。

「瞳孔は?」「対光(反射)はまだある」「左足が潰れています」研修医が悲痛な声を上げるが、「そんなのはあとだ」腹部を触診しながら春日が唸るように言う。エコーを当てると春日は振り返り看護師に声を上げる。「消化器外科をすぐに呼んでくれ」「出血しているのか?」山上の問いに春日はくそうとつぶやく。

 突然診察室の外で大声が響く。振り返ると女性が少女の名前を叫びながら部屋に入ってこようとしているのを看護師が止めている。春日はグローブを外すと一旦少女から離れ、部屋の前に立つ女性に話しかける。

「先生、娘は、生きているんですか?」「お母さんですね。医者の春日です。お子さんは今朝、交通事故に巻き込まれ救急車で運び込まれました」「生きているんですか?」「大丈夫、生きています。今、みんなで治療しています」「事故ってどんな、」「トラックに接触したんです」「はねられたの?」春日は一度、言葉を切ると、はいと答える。ああ、そんなと声を上げると取り乱したように母親はもう一度部屋に入ろうとする。春日はそれを押しとどめる。「部屋に入られると治療の邪魔になります。みんなで力を合わせて治療していますので、お母さんはあちらで待っていて下さい」でも、と春日の白衣を強く摑む母親に春日はもう一度言う。「お母さん。私達はお子さんを助けたいんです」

 さ、こちらです。看護師が母親を待合室に案内し、春日は再び診察室に戻る。

「お母さんか?」

 山上の言葉に春日はああと答えると再びグローブをつける。

「血圧は?」

「点滴が二本入ったがまだ低い。外科はどうした?」

 山上が声を荒げ、看護師が急がせますと答える。

「意識は?」

 まだだ。春日が小さく舌打ちをする。



 CT室で日崎と加冬は険しい顔で画面を見つめている。

 急性大動脈解離破裂。事故の衝撃で、大動脈が解離し破裂している。他にも多発肋骨骨折、胸骨骨折、肝損傷が認められている。

「すぐに胸を開けるぞ。手術室に連絡しろ」

 日崎の言葉に加冬が怪訝そうにたずねる。

「神宮寺先生はいませんし、誰がやるんです?」

「俺に決まっているだろうが。夏休みはもう終わりだ」



 がこん。

 日崎が足元のスイッチを蹴ると手術室への扉が開く。

廊下を歩き、ロッカールームに向かう。着替え終わるとロッカーの扉を閉じようとするが、ふと扉裏の鏡に映る自分の顔が目に入る。自分と目が合う。何て顔だ。これは苛立っている時の顔だ。俺は何にそんなに苛立っているのだろうか。子供が交通事故の犠牲になったからだろうか。それとも自分に下された懲戒委員会の処分が想像以上に重かったからだろうか。いや、処分の重さは関係ない、処分を受けたこと自体に俺は傷ついている、自分のやり方を正面から否定されたことに、俺は俺で信念をもってこの仕事をやっている、若い医者達に同じことを求めて何が悪い、などと俺はセンチになっているのだろうか。は、くだらん、手術に集中しろ。外傷性CPAの死亡率は95%以上。俺は今、勝てない勝負に挑もうとしているんだ。集中しろ、集中しろ、くそう、どうしようもない苛立ちや怒りや暴力性みたいなものが渦巻いて俺をのみ込もうとしている。どうした、俺はこんなに弱かったのか?

「今日から復帰?」

ロッカールームから出ると不意に声がかけられる。振り返ると美咲が手術着姿で腕組みをしてこちらを見ている。

「よろこんでいないようだな」

「酷い顔。ちゃんと寝てるの?」

「顔は生まれつきだ」

「運転手の方?」

 運転手の方、ということは、「子供の方も手術になるのか?」

 ええ、と美咲はうなずく。「腹腔内でかなり出血をしているみたい。CTを撮って、これからOR1に上がってくる」

「何の罪もない七歳の女の子が死にかけているのに、俺はその子を轢いた酔っ払いの手術だ。俺に罰を与えるために病院側が仕込んだんじゃないのか?」

馬鹿なことを言って、と美咲がつぶやく。そしてもう一度日崎の顔を見てたずねる。「本当に大丈夫?」

 その問いには答えず、日崎はOR3に向かって無言で歩き出す。「三週間ぶりだものね。あいつでも手術前に緊張するのね」そうつぶやくと、美咲はすぐに自分の仕事を思い出し歩き出す。

 日崎がOR3に入ると、すでに患者は麻酔がかけられている。

 麻酔科が手早くCVラインをとり、研修医が両側の橈骨動脈にAラインを入れている。日崎は電子カルテの前でCT画像をもう一度見ている加冬の方へと歩いていく。

「ここで裂けてます」加冬が遠位弓部にある内膜亀裂を指さす。大動脈基部から両側総腸骨動脈まで全大動脈が解離し偽腔が大きく開存している。

「血圧が下がっているぞ」

 麻酔科が言い、二人は顔を見合わせるとルーペをはめて廊下にある手洗い場に向かう。手術室の廊下の複数の手洗い場で、医者や看護師達が入れ替わり手を洗っている。日崎は消毒で手を濡らすと黙々と手を洗う。加冬と二人、並んで手を洗っていると、そこに大柄な一人の中年の医者が並んで手を洗い始める。医者の姿に気付いた加冬が小さく会釈する。

「復帰して早速手術か?」

 自分を解雇しようとした外科部長の仲曽根の皮肉を無視して日崎はたずねる。

「先生が呼ばれたということは、女の子ですか?」

 日崎の問いに仲曽根は眉をひそめ、それからそうだと短く答える。

「そっちはトラックの運転手か?」

 ええ、と日崎は感情のない声で答える。

「両方助かるといいがな」

 仲曽根はそう言うと、タオルで手を拭きながらOR1へと歩いていく。

 日崎は感情のない声で、そうですねと答えると手を拭いてアルコールを刷り込みOR3の前に立つ。

 加冬が横に並ぶように立つと、日崎は大きく息を吐き、行くぞと低く言う。がこんと足元にあるドアセンサーをキックすると、OR3の扉が開く。顔の前で両手を上げた二人の医者がずいっと部屋に入る。

「音楽だ」

 日崎の言葉で外回りの看護師がラジカセをつけ、部屋の中には騒音にも似た激しいリズムが刻まれる。ガウンを着ると日崎は言う。「7の手袋をくれ。魔法のかかった奴だぞ」ばちんと音を立てて手袋を着けた日崎は、すでに消毒され胸の部分だけが開いたドレープがかけられた患者の前に立つ。

「メス」

 ぱっと患者の胸に真っ赤な線が一筋のびる。



 OR1でも手術が開始されている。

 仲曽根は部下達を率いて部屋に入り手早くガウンを着ると手袋をつける。

 麻酔科が仲曽根に血圧が下がっていますと伝える。仲曽根は動揺することなく少女の右脇に立つ。

「みんないいか、肝臓と脾臓、腸管の損傷も疑われる。かなりの出血だ。だが慌てることなく適切に処置をするんだ。輸血の準備は十分に出来ているか?」はい、と麻酔科が答える。「では始めよう。メス」

 少女のお腹が開いた瞬間、大量の出血があふれ出す。

「何て酷い状態なんだ。肝臓が裂けてる。ガーゼ、もう一つだ。そこを押さえろ」

 想定を超える出血量に、麻酔科が看護師に輸血をかき集めるように指示をする。

「未クロスでいい。とにかくありったけの血液を持ってきてくれ」



 OR3でも術野は赤く染まっている。すでに人工心肺が回り、患者の心臓は止められている。日崎は上行大動脈を切開し、大動脈基部の断端形成を行っている。

「脱血が悪いです」

 臨床工学技士の言葉に、日崎はああ、と眉間にしわを寄せる。

「心臓はぺちゃんこだぞ」

「ボリュームがとられます。どこかで出ています」

 術前のCTでは肝損傷も疑われている。ヘパリン化で出血が増えたのか? 日崎は患者の腹部を触るが膨隆はない。横隔膜も挙がってきていない。お腹じゃない。麻酔科が経食道心エコー検査で、患者の胸腔を確認する。

「左胸腔に大量に溜っているぞ」

「胸腔は空いていないぞ。術野の血が垂れ込んだんじゃない」

 日崎はくそうとつぶやいて電気メスで心膜を切開する。左胸腔に入ると、大量の出血があふれ出す。

「吸引、」吸引器によって大量の出血が人工心肺に戻される。「胸腔に出ていた分は送ってくれ」

「ボリューム戻りました」

「術前CTでは胸腔にたまりはなかった。弓部以降で大動脈が破裂しているんだ。体温は?」

「膀胱温26℃」

「循環停止する」



 OR1の床に血液が広がり、医者達の靴は皆、赤く汚れている。

「出血が止まりません」

「肝切除する必要があるな。Pringle法を行う。肝門部を出してくれ」

麻酔科がちらちらと術野を見ながら、必死に輸血を送り続けている。

「輸血が追い付きません」

麻酔科の悲鳴に仲曽根はそれでも語気を荒げることなく冷静に言う。

「何単位入った?」

「RBCが20単位、FFPが18単位、血小板はまだ届いていません。何とかなりそうですか?」

「わからない。よし、肝門部を遮断した。五分ごとにコールしてくれ。肝臓を部分切除する」 

 仲曽根が流れるような動きで手を動かす。

 助手の外科医が必死についていくが、術野は変わることなく血液があふれ出し続けている。

「先生、」助手がその時、絶望の悲鳴を上げる。「肝臓の裏から真っ黒い血が出ています」

仲曽根がはっとして助手の手を押しのけ、自らの手で探る。

「肝静脈か下大静脈が裂けてる」

 仲曽根が汗のにじんだ額にしわを寄せ、初めて声を荒げて言う。

「Schrock shuntをする時間はない。とにかくパッキングするしかない。ガーゼだ、ガーゼをもっとくれ」

 仲曽根が分厚いガーゼを何枚も肝臓周囲に詰める。

 怒号が飛び交う戦場のような光景を、外の廊下からじっと見つめていた春日は、救急外来で見た少女の真っ白な顔を思い出しながらつぶやく。

「頼む、頑張ってくれ」



 救急外来の外の駐車場にはパトカーが二台停まり、制服警官が一人、無線で何やら報告をしている。嵐が過ぎ去ったERを看護助手や清掃員が黙々と片付けている。救急外来の奥のカンファレンスルームで、山上は事故を担当する警官と話し込んでいる。

「目撃証言はなく、運転手と被害者の両方が手術中となると、こちらも事故の状態を現場検証から推し量ることしか出来ませんが、」警官が山上に一枚の書類を手渡す。「運転手は現在、免許停止中です」

「ああ、たしか飲酒運転とか」

「ええ。無免許運転での事故となれば、かなりの重大事件です。運転手の血中アルコール濃度の検査結果の提出をお願いします」

 警官の言葉に山上はわかりましたと答える。二人組の警官のうち、一人が署に連絡してきますとその場を離れると、残っていた大柄の制服警官は顔馴染みなのか山上に声を潜めてたずねる。

「ねえ、先生、実際のところどうなんだい? あの子は助かりそうかな」

「わかりませんね。ですが、手術をしている仲曽根部長は外傷外科の分野でも有名な外科医ですから。彼に助けられなければ、この街であの子を救える医者はいませんよ」

「署のみんながあの子の無事を祈っているんだ」

「ええ、私達もです」

「あの子は、」警官が何かを思い出したかのように口にし、一度、小さく頭を振ったあと山上を見る。「歩いていたのは通学路ではなかったらしい。忘れ物をしていったん家に取りに帰ったんだよ。学校に遅れそうになってそれでいつもと違う道を走っていた。両親に友人、学校の先生、みんなから愛されているいい子なんだ。何とか助けてくれ」

 全力を尽くしますよ。山上は疲れ切った顔で答える。

 それじゃあ、と書類をまとめた警官は部屋から出ていく。山上はしばらく何かを考え込んだあと部屋から出る。先程まで少女がいた第一診察室を、扉の窓から覗き込む。床にこぼれおちた血液を、清掃員がモップで拭いている。その様子をじっと見ているところに、看護師がやって来て耳打ちをする。

「いや、君達はマスコミには何も答えるな。ナマズを呼んでくれ。あんな風に病院の前にマスコミに張り付かれたら、他の患者にも迷惑になる」

 そう言うと大きく息を吐き、山上は診察室の前から立ち去る。他の看護師がやって来て、十分後に救急車が来ます、と伝える。救急医の山上に休んでいる暇も立ち止まっている暇もない。



 OR3に美咲が入ってきて、麻酔科側から術野を覗き込む。それに気付いた日崎が不機嫌そうに言う。

「休んでる間に俺の腕が鈍っていないか監視しに来たのか?」

「あなたが看護師を怒鳴りつけていないか監視しに来たのよ」

「あの子はどうだ?」

 美咲の皮肉に取り合わず、日崎はたずねる。

「頑張ってるわ」

 日崎が大きく息を吐くと、顔を覆うマスクがふっと持ち上がる。日崎はちらりと美咲を見たあと、再び術野に視線を落とす。しばらく淡々と手を動かしたあと、ふと手を止めて顔を上げると、美咲はまだその場にいて、じっと日崎のことを見ている。

「もしこちらが早く終わることがあれば、駆けつけますと仲曽根先生に伝えてくれ」

「ええ、伝えるわ」

「こちらの手術が無事に終わればな、」そう低い声でつぶやくと日崎は再び手術に戻る。

 美咲は術野で踊る日崎の指先をじっと見つめる。素早く正確に、日崎は血管を縫い上げていく。神宮寺に鍛え上げられた日崎の腕は三週間のブランクなどなかったことかのように素早く繊細に動き続けている。これまで多くの外科医を見てきた美咲だが、あの若さでこれだけの技術を持つ心臓外科医はそう多くない。それだけに、彼が病院から処罰されたことに美咲はショックを受けたが、古くからの付き合いとはいえ彼の素行に問題があることは明らかだ。命のやり取りをしているのだから、多少の逸脱は目をつぶれよ、日崎自身はかつてそう言ったことがあったが、それが通用するのはこうやって最前線で闘い続ける彼の姿を知っている者達の間だけで、手術室から一歩出た彼を弁護する者はいないのだろう。願うことは一つ、彼がその才能を惜しむことなく発揮し、多くの患者を救ってほしい。だがいつか彼が自滅するだろうことも美咲にはわかっている。その時が来るのが少しでも遅くなるように、彼女は時に彼を叱咤し見守っている。もちろん本人は、余計なお世話だと聞く耳を持たないのだろうが。



 診療部長の御堂坂が、家族控室で待つ少女の両親の元にやってくる。

「診療部長の御堂坂です」

「手術の様子はどうですか?」

 たずねる父親の顔は憔悴しきっている。手術が開始されて三時間以上が経過しているが、手術室からの一報はまだない。混乱と不安がずっと続いている中、ただただ待ち続けている両親を気遣うように、御堂坂は席に座らせる。

「お嬢さんは肝臓と脾臓、腸の一部が傷つき、出血をしています。脾臓はすでに摘出し、腸管の出血も止まりましたが、肝臓が大きく傷ついており、現在医師達が必死に治療を続けています」

 母親が悲鳴にも似た唸り声を上げながら父親の胸に顔をうずめる。

「助かるんですか? 助かると言って下さい」

「手術をしているのは、この国でもトップクラスの外科医達です。彼等を信じて今は待ちましょう。また手術の様子がわかり次第お知らせに来ます」

「お願いします。どうか娘を、お願いします」

「全力を尽くします」

 御堂坂は両親に一礼すると家族控室から出る。そこに廊下の向こうから病院顧問弁護士の西園がやって来る。

「マスコミの対応はどうなっている?」

 歩きながら御堂坂がたずねる。西園は参りましたよ、といつもとまったく変わらない表情のまま答える。

「警察から正式な発表があるまで、当院から話すことはないと追い払いましたがね、すでに運転手の名前はネットに出ています」

「どういうことだ? うちのスタッフが漏らしたのか」

「さすがにそれはないでしょう。事故を起こしたトラックに運送会社の名前がしっかりと載っているのがテレビでも報道されています。当然、会社の人間は誰が事故を起こしたかは知っていますからね」

「運送会社からリークされたのか」

「あくまで推測ですが。飲酒運転で免許停止状態になっていることを会社が知っていて、それでも仕事をさせていたのなら今回の事故は会社の命取りになります。会社としてはそんなこと絶対に認めたくないでしょうが、良くない噂も聞く会社ですから。一枚岩ではないのかもしれません」

 御堂坂は眉をひそめて西園を見る。

「いずれにせよ、子供が犠牲になったんです。慎重に対応する必要があります」

「まだ死んでいないぞ」

「輸血拒否の少年の一件は、和解条項にマスコミに公表しないことも入っていますから表沙汰にはなりませんでしたが、今回は隠しようがありません。少女が死ねば病院の評判は傷つきます。理不尽でもそれが世間です」

 御堂坂は大きく息を吐くと、禿げ上がった額に手を当てる。それから祈るように手術室で戦う外科医達に向かってつぶやく。

「頼むぞ、救ってくれ」



 OR3では日崎がメスをふるっている。

「んんん、んーんー、んんー」

 手術室に流れる音楽に合わせ鼻歌を歌いながらもマスクの下の顔はまったく笑っていない。こういう時の日崎は恐怖と抗い怒りと闘っている。手術室の端で見ている美咲は、ただただ日崎がこの戦いに勝てるように祈るしかない。

「あったぞ、ここだ。ここで外膜が破綻している。メッチェン、切り取るぞ。そう、そこだ」

 日崎が術野の深淵、かなり奥深くで大動脈を切除する。

「くそう、大動脈がぼろぼろだ。もう少しそこを引っ張って、おい、もっとちゃんと見せろって。それじゃあ縫えない」

 日崎が声を荒げるがたじろぐことなく加冬が術野を展開する。

「そうだ、そこだ。分かるだろう? フェルト、違う帯状フェルトだ」

 肺の裏の方で、日崎が長い器具を駆使しながら断端形成を行っている。んんん、んーんー、日崎は鼻歌を歌いながら必死に手を動かす。怒りと戦う。まばたきを忘れたかのように見開かれた両目は血走っている。

「よしそれでいい。縫合する。人工血管、3-0をくれ」

 吻合部から視線を一切逸らすことなく手を横に伸ばし、看護師が音もなく持針器をその手に握らせる。よく他の外科医の手術では音を立てるように器械を手渡す看護師がいるが、日崎はそれを好まず絶対に優しく器具を渡すように要求する。それだけ繊細な世界なのだ。0.1ミリで生死を分ける世界。粗野な振る舞いを排除しようとする日崎は、暴言こそ吐くがその指先のふるまいには粗暴さの欠片もない。

 んんん、んーんー、んーんんんー、歌い、そして頭を小さく揺らしながら日崎の持針器が踊る。踊る心臓外科医がみるみるうちに血管を縫い上げていく。

 縫い上げると日崎は持針器を投げ捨て、それから人工血管に送血官を接続する。

「分枝から送血するぞ。ポンプ、」日崎の言葉に臨床学技師が準備出来ていますと答える。「分枝から1リットル、いや、鎖骨下からはもう送れない。エア抜きはこのまま行う。ゆっくり送って、オーケー、そのまま、フローダウン、」「フローダウン」臨床学技師が復唱する。「人工血管を遮断した。バックアップ」「バックアップです」「水をくれ」日崎が差し出した右手に大きなスポイトが手渡される。日崎は吻合部に水をかけ、出血の漏れがないかを確認する。

「出ません」加冬が安堵のため息をつく。難関の一つを突破し、日崎の表情もようやく緩む。完璧だ。日崎が喉の奥でつぶやいた時、OR3に一人の医者が入ってくる。マスクの下の見慣れない顔に、外回りの看護師が声をかける。

「先生、清潔中です。扉を閉めて下さい」

 慌ててその医者は部屋に一歩入ると扉を閉める。日崎はちらりと振り返るとめずらしいなと声をかける。

「こんなところで何をしている? 血は嫌いだろう」

「君のご機嫌を伺いに来た」

「手術中だぞ。28℃まで復温してくれ。頚部分枝を再建する。4-0、」

「手術は順調か?」

「かなり厄介な状況だったがな」

「そうか、助かるんだな」

 日崎は怪訝そうにもう一度振り返る。

「何だ、そんなことを言いに来たんじゃないんだろう?」

 医者は答えず、日崎は手に持っていた持針器をそっと下に置く。

「先生?」

 看護師が思わず日崎を見る。日崎は上半身をしっかりと扉の方に向けたまま、そこに立ち尽くす春日を見ている。

「何があった?」

「あの子は死んだ」

「何だと?」

「死んだんだ」

「音楽を止めろ」

 ぞっとするほど低く冷たい声で日崎が言い、慌てて外回りの看護師がラジカセを止める。

「いつだ?」

「ついさっきだ。肝臓の裏でIVCが裂けていて修復出来なかった。出血が止まらず、先程死亡確認をした」

 美咲がそんな、と思わず声を上げる。

 日崎は無言で向き直り、術野をじっと見る。

 何度かマスクが膨らむ。日崎が深呼吸をしながら怒りに抗う姿に美咲は自分の心臓が鷲掴みにされた気分になる。日崎はしばらく術野を見て、それから置きっぱなしになっていた持針器に再び手を伸ばす。

「そこを持って。縫合する」

 手術が再開される様子を見たあと、春日は無言で部屋から出て行く。



 仲曽根が患者家族控室で残酷な報告をしている。両親は泣き崩れるが、やがて医者と看護師に促され、部屋から出てICUに向かう。途端、廊下の向こう側から無数のフラッシュがたかれ、カメラを持ったマスコミが両親から一言を聞き出そうと傍若無人の振る舞いで押し寄せる。中曽根の怒号が響き、警備員がマスコミ達を排除しようとその場は大混乱になる。



 OR3は静寂に包まれている。

 日崎は必要最小限のこと以外、口を開くことなく淡々と手術を進めている。加冬もそれに倣い、何もしゃべらない。

「吻合終了、遮断解除するぞ。LVベントストップ、」「LVベントストップ」「ボリューム入れて、」「ボリューム入れました」「ルートベント引いて。先生、バギングお願いします」日崎の言葉に麻酔科医がバッグで肺を加圧する。「ルートベント引いてます」心臓に溜まった空気があらかた流れ出たのを確認すると、日崎はルートベントを止め、心臓のボリュームをとるよう臨床工学技士に指示する。「ヘッドダウン」日崎の言葉に麻酔科医がベッドを頭が下になるように傾ける。「もっと脱血して、一度、LVベントも回して、そうだ。よし、ポンプいいか、」「はい」「フローダウン、遮断解除する。ベント両方引いて、オーケー、ゆっくりとフローバックアップ、」「バックアップです」「水をくれ」日崎の右手に再びスポイトが手渡される。

「出血、ありません」

「さすがだな」

 麻酔科医の言葉に、日崎はつれなく答える。

「ああ、知ってる。今日も助けたしな」

 自嘲気味に言い、日崎は心臓のペーシングを始める。しばらくして心臓が動き出すのを確認すると日崎からどす黒い感情があふれ出す。

「飲酒運転で交通事故。小学生の少女が巻き込まれた。七歳の少女が死んで飲酒運転の人殺しが助かるなんて間違っている。こいつは死んで償うべきだ」

 日崎がつぶやくように言った言葉は、静寂の中にある手術室の隅々に届き、その言葉に全員がぎょっとした顔で日崎を見る。美咲は何かを言おうと思わず一歩足を踏み出すが、それ以上近付けなくなり立ち止まる。日崎は心臓が動いている様子をじっと見つめている。自分が助けた命に殺意を抱いている。医者であることを忘れたかのような様子で立ち尽くす日崎だが、やがて何かを払拭するように低い声で言う。

「音楽だ」

 外回りの看護師がラジカセのスイッチを入れ、再び手術室に音楽が流れる。



 八時間四十二分の手術を終え、日崎と加冬は患者と共にICUに戻ってくる。ICUの奥には医者達が集まっている姿が見える。診療部長の御堂坂、外科部長の仲曽根、そして春日の姿もある。ICUの看護師長が日崎の元にやってくる。

「先程葬儀屋さんが到着されて、これから女の子のお見送りです」

 そうかとだけ日崎は言い、少女と両親、そして医者達がICUから出て行くのを見送る。春日が日崎に気付き、ちらりとこちらを見たが、日崎はうなずくだけで自分はその輪に加わろうとしない。振り返ると手術を終えた患者に、看護師が手早くモニターを張替え点滴をつなげているのが見える。

「ご家族がお待ちです」

 運転手にも家族はいる。当たり前だ。どんな人間でもたとえ悪人でも人殺しであっても家族がいても不思議はない。看護師にすぐに行く、と答えると、日崎は手術が無事終わったことを伝えるためにICUの家族面談室へと歩いていく。その様子を黙って見ていた加冬の元に、手術室から美咲がやってくる。

「日崎先生は?」

「患者家族にIC中です」

「彼、本当に大丈夫? 私達に暴言を吐いても患者さんには絶対にあんなことを言う人じゃないでしょう」

 ええ、と加冬は言うとそれから怪訝そうに美咲を見る。

「日崎先生とは古い仲なんですよね。もしかして、昔、付き合っていたとか」

 加冬は手術からの重い空気を振り払うようにおどけた調子で言うが、美咲は優しく微笑むと否定するように頭を振る。

「父の主治医だったの。彼が初めて執刀した手術だった」

 そうですか、と答える加冬に美咲は言う。

「術後に父は死んだ」

 加冬ははっとするように美咲を見る。

「もちろん恨んではいないわ。彼は出来る限りのことをやってくれた。誠実に父の命に向き合ってくれた。今でも感謝している」

 それじゃあと言い、美咲はICUから出て行く。加冬は思う。日崎が患者の多くを助ける姿を目にし過ぎて、彼が人間であることを忘れていた。彼の最初の手術で患者が死んでいたという事実に加冬は唖然とする。そして、加冬は歩いていく美咲の背中を目で追いながら、自分が日崎という人間について何も知らないことを思い知らされる。



 夜勤帯の当直医に、日勤帯の申し送りをし終えて山上が一息ついた時、制服警官が二人、ERに入ってくる。

「今朝の交通事故のトラック運転手の手術はどうなりましたか?」

「まだ手術中だと思うが、」

 そう言いながら山上は電子カルテを開く。

「いや、先程無事に終わったようだな。ICUに戻ったらしい」

「採血の結果はどうなりました?」

「採血?」

「血中アルコールの濃度です」

 ああ、そういえば、と山上は検査結果を呼び出す。

「現場にはブレーキ痕がなく、まったく減速することなく電柱に正面衝突し、車は大破しています。よく助かったものですね」

「女の子は助けられなかったがな」

 山上の言葉に警官は苦々しくええ、と答える。飲酒運転の末に少女が犠牲になったことはやり切れない。救急医も警官も、数え切れない悲惨な事件や事故を目にしているが、それでも今朝起きた事故は簡単に受け入れられるものではない。

「さて、血中アルコール濃度は、」

 と、採血検査結果を見ていた山上の手が止まる。血中濃度は、

「正常だ」

 山上がつぶやき警官達がえっと怪訝そうな顔をする。血中アルコール濃度は0.1mg/ml以下、正常範囲を示している。

「患者は飲酒運転ではなかった」

「では何故、事故を起こしたんです?」

 警官の言葉に山上は、さあなと眉をひそめたまま答える。



 夜のICUで一人、日崎は腕組みをしたまま患者のベッドの方を向いてイスに座っている。夜勤の看護師達が処置をする様子を眺めたまま、日崎はそこから動けないでいる。


20240527

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