第3話 児童虐待

 九時三十八分。

 OR3(第三手術室)で手術が行われている。音楽に合わせ足でリズムを取りながら、心臓外科医の日崎はご機嫌にメスを走らせている。手の中で鋭利な鋏が踊り、強固に癒着した組織から、魔法のように心臓がはがされていく。患者を挟んで日崎の前には、長身の女性医師が立っている。長い髪を手術用のキャップに無理矢理詰め込んだ涼しい目元の女医は、日崎の素早い手術に遅れることなくついていく。

「酷いものだな。前の手術はいつだった?」日崎の問いに前立ちの加冬が答える。「三年前です。この街に引っ越してくる一年前だったみたいですね」「転勤がもう少し早ければな、最初から俺がやっていればこんな目には遭わずに済んだ。よし、右房はこれで出た」

 日崎が黙々と手を動かしていると、手術室看護師長の美咲がいつの間にかOR3に入って来て、背後から術野を覗き込む。

「上手いものね」

 ちらりと美咲を見たあと日崎はうんざりしたような表情で言う。

「俺の子守りに来たのか? 言っておくが今日はまだ誰も殺してないぞ。そうだろう?」

 日崎の問いに、直介の看護師は「はい先生」とすまして答える。眉をひそめた美咲と目が合った加冬は、「今のところは」と付け加える。

美咲はそれから日崎に顔を近付けると背後からぼそりと耳打ちをする。途端に日崎の手が止まり、それからゆっくりと首だけで振り返る。日崎の表情から言わんとすることを理解したのか、「ええ、今着替えています」と美咲は答える。

 まったく。

 日崎はつぶやくと唇を鳴らし、それから外回りの看護師に言う。「音楽を止めろ」

 がちゃりとラジカセが切れる音が手術室に響き、空気が張り詰める。

「何があったんです?」

 加冬の問いに日崎は答えない。しばらくしてOR3の扉が開き、一人の手術着姿の男が入ってくる。長身でがっちりとした体形。マスクとキャップの隙間から除く髪の毛は灰色で、目尻には深いしわが刻まれているが、ぎらぎらとした瞳には威圧感を讃えている。

「神宮寺先生、」

 加冬が思わずつぶやく。

「お帰りなさい。来週じゃなかったんですか?」

 日崎は手を動かしながら、振り返りもせずに言う。

 男はそれには答えず麻酔科側に回り込み術野を覗き込む。

「何の症例だ?」

「五十二歳男性、高度僧帽弁閉鎖不全に対し、三年前に他院で僧帽弁形成を施行。その後、逆流が再発、MVR(僧帽弁置換術)予定です」「機械弁か。何故、もう一度弁形成をトライしない?」「前の手術がお世辞にもうまいとは言えず、後尖をかなり切り込んでいます。再形成は不可能です」「お前にはな」

 そう言うと、男はOR3から出て行く。

「おい、まさか、本気じゃないだろうな」

 日崎は外回り看護師を見る。看護師は扉の方へとかけより窓から外の廊下を見る。振り返ると日崎に向かって頭を振ってみせる。「冗談だろ」思わず日崎は天井を仰ぐ。

 数分後、ルーペをつけ手を洗った男が手術室に戻ってくる。ガウンを着て手袋を着けた男は問答無用で術者の位置に来て、日崎に代われと言う。日崎は黙って後ろに下がる。「下手糞だな。私が留守の間に一体何人殺したんだ? いつになったらまともな手術が出来るようになる?」

 日崎は黙ってガウンを脱ぎ捨てると手袋を外す。

「たったの五十人だけです」

 そう言うとさっさと部屋から出て行く日崎に男はふんと鼻を鳴らし、それから助手の加冬にそれじゃあ始めようと声をかける。

「メッチェン」 



 小児科医の春日がERにやってくると、救急医の山上がこっちだと一人の患者の元に案内する。診察ベッドのカーテンを少しだけ開き、奥のベッドを顎で指す。春日が覗き込むと、ベッドの上にはやせ細った一人の少女が横たわっている。点滴がつながった少女のまったく脂肪がついていない手足が病衣から伸び、頬はくぼみ眼窩は落ち込んでいる。

「十五歳の少女、数週間前から学校に出てこなくなり、心配して家を訪れた中学校の担任教師が家で倒れているのを発見し救急要請した」春日は山上を見る。山上は、ああ、とうなずく。「児童家庭局の話では、ネグレクト状態だったようだ。食事が与えられず餓死寸前だ」

「餓死? 信じられない」

 それから春日はカーテンを開くと少女の方へと歩いていく。春日は穏やかな口調で少女に話しかける。

「やあ、こんにちは。先生は、春日と言います。気分はどうかな?」

 少女は怯えた瞳で春日を見るが、ゆっくりと答える。

「気分が悪いの」

「どこか痛いところはない?」

「ない、」

「そうか、大丈夫だよ。すぐに先生達が治してあげるからね」

 それから春日と山上は揃って診察室から出る。

「暴力は受けていないのか?」

 春日は険しい表情を浮かべてたずねる。

「明らかな外傷はない」

「家庭環境は?」

「二年前に両親が離婚。自宅は母親と二人暮らし。母親は現在、新しい交際相手の家に入り浸っている。家にはほぼ帰らず、十五歳の少女は放置されていた。今、三田先生と児童家庭局の職員が母親に話を聞いている」

「三田先生。婦人科の?」

「思春期外来が専門だ。拒食症の患者も多く担当している。今回はるい痩が高度、全身状態を考えて小児科にも介入してほしいそうだ」

「本当に十五歳か? 小学生にしか見えない」 

 慢性的な栄養不良で著しい身体の発達が障害され、身長も体型もおよそ十五歳には見えない。どう見ても小学校高学年程度の体つきをしている。

「生理も来ていないらしい」

「精神発達遅滞は?」

「担任の話では、受け答えは普通のようだが、専門家の診察は必要だ。心の傷も大きいだろうし、全身状態が安定したら精神科のケアも必要だろうな」

「これは明確な児童虐待だ」

 春日がそう言ったところで、看護師が険しい表情で二人の元にやってくる。

「採血結果です。驚かないで」

 プリントアウトされた採血結果と血液ガスの結果に目を通すと、信じられないという唸り声を春日は上げる。「酷いな。電解質は滅茶苦茶、肝機能、腎機能も低下している」

「点滴を三本入れたがまだ尿が出ない。よくこれまで生きてこられたものだ」

「ICUに上げよう」春日は閉まっているカーテンを睨みつける。「話はそれからだ」



 学都総合医療センターの常任顧問弁護士の西園は、病院八階にある自室で高級な革張りのイスに深く腰掛けていた。長身に高級スーツに身を包み、カーリーヘアに彫の深い顔は外国人のようだが、生まれも育ちもこの街の彼は、もう十年近くこの病院の法の番人として病院と医者達を守り続けている。

 今、西園の目の前には二人の男が立っている。一人は西園と同じように高級そうなスーツに身を包み、もう一人は対照的に肘の擦り切れた古いジャケットを着ている。高級そうなスーツの男が西園に言う。

「依頼人は学都総合医療センターを訴えることにしました。あなた方は未成年の治療において、保護者が拒否する治療を断行しました。これは不法行為であり、依頼人の息子に対する傷害に当たります」

 先日、外傷による少年の救急患者がいたが、両親は宗教的理由で輸血を拒否し少年の命が危険にさらされるという事態があった。病院側は少年からの同意のみで輸血を断行し、手術を受けた少年は命が助かっている。少年はすでに退院間近な状態まで回復しているが、家族は輸血を断行した病院側を訴えることにしたらしい。あとから弁護士が騒ぎ出すことは想定内だったが、入院中とは思ったより早かったな。

「輸血をすることが障害に当たると主張されるのですか? 一般医療の範疇ですよ」

「あらゆる医療行為にはリスクが伴います。アレルギー、感染症、副作用があるからこそ、その治療の必要性と危険性を説明し同意書を交わす必要がある。あなた方はその医学における誠実さを故意に踏みにじった」

「拡大解釈が過ぎますね。傷害と言われますが、息子さんに輸血をしたことによる実害を証明出来ますか? 少なくとも本人の同意を得た上での治療ですし、むしろ、自らの信仰を理由に息子さんの輸血を拒否することは児童虐待に当たる可能性があります。息子さんは輸血を希望するという明確な意思表示をしました。我々を傷害で訴えるのは少々無理があると思いますが」

「虚勢を張るのはかまわないが、免責同意書があるにも関わらず輸血を断行した病院側に対する訴訟で、この数年、私は負けなしだ」

「ええ、存じ上げています。あなたは有名人だ。多くの事例で多額の和解金を勝ち取っておいでのようですね。お会い出来て光栄です。握手を求めた方がよろしいですか?」西園はそれからいけすかない弁護士の横に立つ依頼人、あの少年の父親を見る。「ずいぶん頼もしい相手に依頼しましたね」

「依頼人に直接話しかけるのはやめていただきたい」

「だったらあなた一人で来ればいいのに」

 西園は机の上にあった水差しで、コップにこぽこぽと音を立てて水を入れる。ゆっくりと時間をかけて水を飲んだあと、西園は二人に向かってにっこりと笑う。

「さてと、手間を省くために、こちらのスタンスを明確にしておきましょう。あなたは自信たっぷりで強気に出れば和解金を吊り上げられる、そう思っておいでのようですが、あいにくこちらはそれに付き合う気は毛頭ありません。調べましたが、この手の裁判であなたはほとんどのケースで判決になる前に和解し、巨額の和解金を手にしています。ですが、こちらは和解に応じる気は一切ありません」

 西園の言葉に、父親は思わず弁護士の方を見る。

「ほら、あなたの依頼人は不安に思ったようですよ。話が違うんじゃないかと」

 それから西園はじっと父親を見ると、耳まで裂けたかのように残酷に口元を歪めて言う。

「あなた、本当は最初からお金が欲しかったんじゃありませんか? あなたは熱心に自分を説得する春日医師を見てこう思った。この医者なら最後には自分達の同意なんて無視して輸血すると。信仰とは厄介なものですね。あなたにとって息子は大事だが、仲間から裏切り者と思われるのはもっと重要な問題だった。自分はあくまで拒否をしたにも関わらず病院側が輸血を断行したとなると、仲間には言い訳が立ちます。結果的に息子も助かり、おまけに不法医療だと病院を訴えれば一財産手にすることも出来る。最初からそういう計画だったのではありませんか?」

「おい、何てことを言うんだ」

 憤る父親に弁護士は声を荒げる。

「依頼人に直接話しかけるのはやめていただきたい」

「医療訴訟は病院が最も嫌うことです。訴訟費用だけでなく、裁判が続く限りマスコミにさらされ大きな打撃になります。だから大抵の病院はそれを恐れて言い値で示談する。金余りの大病院からふんだくってやれ、勇ましいことです」

「私の依頼人を侮辱するのはやめたまえ」

「あなたは私が息子の命を利用したと言うのか?」父親が顔色を変えて声を荒げる。

「違うと言い切れますか? 結果的にあなたは負けたことがないと豪語する弁護士を引き連れてやって来たんです。息子さんはまだ退院もしていないというのに、ずいぶん手回しのいいことです。最初から準備していたとしか思えません。大したものですよ。あと一歩で大金を手に入れられる。息子さんもさぞ鼻が高いでしょう」

「そんな言い方はよせ」

「いいえやめません、私は弁護士です」

 それから西園はぎっとイスに背もたれると父親と弁護士の両方を順番に見る。弁護士は不意打ちを食らったことが余程気に入らないらしく、眉間にしわを寄せぴくぴくと鼻をひくつかせている。

「訴えるならお好きにどうぞ。われわれはいつでも受けて立ちますよ。和解交渉はしません。裁判所で会いましょう。私はありとあらゆる手を使ってあなたを徹底的に攻撃します。息子の命をないがしろにした危険な思想を持っていることを世間に知らしめなくてはなりません。ああそうだ、あなただけじゃない。息子さんにもつらい思いをしてもらうことになります」

「息子、どういう意味だ?」

「裁判になれば、私達の行った輸血が不法行為に当たるのか否かが争点になります。そうなれば当然、息子さんにも証言してもらう必要があります。彼自身が治療に同意したんです。彼が自らの意思で輸血を受けたと裁判で証言すれば、もうこの先息子さんを教会に連れて行くことは難しいかもしれませんね。お仲間は息子さんを許してくれますか。あなたも教会に居場所がなくなるかもしれません」

「何て汚い奴なんだ」

 相手方の弁護士が怒りに唇を震わせる。

「侮辱と感じたのなら謝罪し撤回します」

「帰りましょう」

 弁護士が父親を扉の方へと促す。その背中に西園が言う。

「この病院の医者達は日々、多くの決断をしています。臓器を誰に移植するのか、誰を救い、誰をあきらめるのか。毎日毎日、彼等はそうやって人の生き死をいつも決断している。毎日ですよ。そんなことが出来るのは医者だけだ。そんな彼等を守ることが私の仕事です。彼等とこの病院を守るためなら私はどんな汚い手でも使います。だから私はナマズと呼ばれています。地面に這いつくばって、泥にまみれている」

 父親は信じられないという顔で部屋を出て行こうとするが、扉の前で立ち止まり振り返る。

「いいか、私は絶対に息子の命を利用したりはしない。絶対にだ」

 その言葉に偽りはないのだろう。だが、西園はプロだ。思っていなくとも言いたくなくとも、言うべきことを言う。

「ええ知ってます。ですが私はナマズなんです。汚れることには慣れています」

 ばたんといきおいよく扉が閉まる音を聞いて、西園はやれやれと息を吐く。これで和解金が少しでも抑えられればいいのだが。



 手術室から出た日崎のPHSが鳴る。「はい、日崎です」画面には診療部長の番号が表示されている。日崎は立ち止まると、すぐに行きます、そう言って電話を切るなり足早に階段を上がる。

 診療部長室の扉をノックすると、中から入れ、と低い声が響く。扉を開けるとそこには外科部長の仲曽根、内科部長の佐島、そして循環器内科部長の堂前の姿が揃っている。病院の主要診療科のトップが勢揃いしている様子に、日崎は嫌な予感がよぎる。

「何の悪さがばれたんです?」

 日崎の不謹慎な言葉を無視して、部屋の奥にいる診療部長の御堂坂が言う。

「扉を閉めるんだ、日崎先生」明らかな不機嫌そうな声に、日崎は無言で扉を閉じる。後ろ手にドアノブを握り扉に寄りかかるように立つと、それで、と医者達を見る。「何かありましたか?」

「研修医の君沼先生が、当院での研修中断を申し出た。来月から関連病院に移ることになった」

「それを知らせるために呼び出したんですか? メールでよかったと思いますが、」

「いい加減、そのふざけた態度を改めろ。君は自分の置かれている立場がわかっているのか?」

 仲曽根は日崎を断罪するような強い口調で言う。どうやらこの吊るし上げの首謀者は彼らしい。佐島や堂前は観客席からその残酷ショーを眺める観客といったところだろう。

「何です? まさか、研修医が辞めたのが私のせいだと言うんですか?」

「少なくとも彼はそう言っている」

 御堂坂は机の向こうから日崎を見たまま言う。

「冗談じゃありませんよ。彼は八人いる研修医の中でも評価が低かった。彼に厳しかったのは私だけじゃありません」

「君が特に厳しかったと彼は言っている」

「こんなことは言いたくありませんが、仲曽根先生の外科では研修医を雑用にこき使い、佐島先生の内科ではアルコール中毒や精神疾患などスタッフドクターが担当したがらない患者を研修医に押し付けています。この病院は研修にシステムに問題がありますよ。部長だってその現状はわかっているでしょう?」

 日崎の恐れを知らない物言いに、中曽根は断固とした口調で言い返す。

「雑用も厄介な患者も誰もが最初に通らなければならない通過儀礼だ。ここは研修病院だ。彼等もそれがわかっているから、毎年うちにも内科にも新人の入局者が大勢いるんだ。心臓外科には加冬先生以降、若手が誰も入っていない。それが答えだろう」

「心臓外科は命に直結する科です。当然要求水準は高くなります。私が厳しいからって、私のやり方が間違っていることにはならないでしょう」

「君は教育のつもりなのだろうが、君の求める水準に達しない研修医を君は容赦なく切り捨てる。未熟なことを許さない。だが未熟な彼等を一人前にするのが君の仕事だ」

「部長。この病院をこの街で一番の病院にすると言ったのはあなたです。当然、この病院で働く医者には最高水準が求められます。だからこの病院は研修医に厳しい病院として知られているんです。これまでだって研修医が辞めたことは何度もあるでしょう? この病院が最高を目指す以上、避けられない犠牲です。彼はその犠牲者の一人なのに、それを全部私一人に押し付けるんですか? 彼が私の名前を出したのは、つい最近私に叱られたから、言い訳に使えると思ったに過ぎませんよ」

 日崎は矛先を御堂坂に変えて訴えるが、中曽根は意に介さない。

「日崎先生、君は衆人環視の中で、彼を一時間も叱責したんだぞ」

 それは事実だ。反論出来なくなった日崎に、御堂坂は冷静な口調で告げる。

「日崎先生。君の言い分はわかった。だが一人の研修医が辞め、その理由に君を名指ししているんだ。研修委員会の記録にも残っている。病院理事会は君に対する正式な懲戒委員会を望んでいる」

 お好きにどうぞ。日崎はうんざりして、わかりましたと答える。「それで懲戒委員会はいつです?」

「追って連絡する。それまでは、君の手術を禁止する」

 何ですって。思わず日崎は声を上げる。

「明日以降も予定手術は入っています。緊急手術だって、どうするんですか?」

「神宮寺先生は、そろそろ加冬先生が手術をする時期だと考えているようだ」

「冗談じゃありませんよ。あいつにはまだ無理だ」

「彼女は優秀だ。君の下でくすぶらせておく方が、病院の損失だよ」

 仲曽根がまたもや口を挟む。何がどうしてそうなっているのかは知らないが、どうやら加冬に入れ込んでいるらしい。

「日崎先生。これはすべて決定事項だ。指示あるまで救急外来をカバーしろ。話は以上だ」

 御堂坂が言い、日崎は小さく唇を鳴らす。「お気の召すままに」



 春日はICUに入ると少女の元にやってくる。

 ベッドで少女は苦しそうに目を閉じている。春日は尿量を確認するが、まだほとんど出ていない。「ガスは?」看護師が血液ガスの結果を春日に渡す。「アシドーシスが改善されません。K(カリウム)もまだかなり低いです」

「次の採血検査は?」

「三田先生の指示で、夕方に再度採血検査をする予定です」

「夕方? ここはICUだぞ。何てのんびりしているんだ」

 そこに別の看護師が新たな点滴を持ってやってくる。

「IVH(中心静脈栄養)を始めるのか? 早過ぎるだろう」

「三田先生の指示です。血糖も低いので」

 春日は何かを言おうとしたところでPHSが鳴る。NICUからの電話に春日はてきぱきと指示を出す。「ええ、それじゃあ2㎎から投与を開始しよう」電話を切ると看護師に告げる。「悪いがNICUに戻るよ。三田先生には電解質を十分注意するように伝えておいて。何かあったらすぐに電話して」

 それから春日はベッドサイドにしゃがみ込んで少女に言う。

「今、みんなで治療しているよ。点滴の薬ですぐに良くなるからね」

 立ち上がった春日に少女が言う。「先生、ありがとう」

「またあとで来るよ」

 そう言うと、春日はICUから出ていく。

 入れ違いで日崎がICUに入ってくる。

四番ベッドには、手術を終えたばかりの心臓外科の患者がいる。ベッドサイドの加冬は、近付いてきた日崎に早速文句を言う。

「私を一人見捨てて、どこに行っていたんですか?」

「さぼってた。手術はどうなった?」

「弁形成を試みましたが結局上手くいかず弁置換になりました」

当然だろうなと日崎は思う。最初からそうすべきだったんだ。モニターやドレーンを確認する。血圧やスワンガンツの値、モニターの心電図波形は安定している。ドレーンからの出血もほとんどない。手術は無事に終わったらしい。

「大変でしたよ。弁形成が失敗してから終始ご機嫌斜めで、手術室の空気がどんなだったかわかります?」

「ご愁傷様」

「今度私を生贄にしたら一生恨みますよ」

ふん、と日崎は小さく鼻を鳴らす。家族への説明はしておいてくれ、加冬にそう告げると日崎はICUを出て行こうとする。

「ちょっと待って下さい。先生の患者でしょう?」

「もう違う。お前が主治医だ」

「どういうことです?」

「俺はしばらく救急外来勤務になった」

「何で、誰を殺したんです?」

「予定手術はお前と神宮寺先生でやるんだ」

「さっきの話聞いていなかったんですか? 生贄は嫌です」

「文句なら診療部長に言うんだな」

「ずっと神宮寺先生と手術したら私、胃潰瘍になります」

「薬は出してやる」

「私が死んだらどうするんです?」

「葬式は出してやる」

「ちょっと」

 聞こえない、そう言いながら日崎はICUを出て行く。

 なーによう、と加冬が唇を尖らせた時、ICUの反対側から大声が響く。

「止まった」

 誰か来て、という叫び声に加冬は弾かれたように走り出す。ICUの入り口近くのベッドで、看護師が心臓マッサージをしているのが見える。周囲の看護師達が慌てて救急カートをベッドサイドに運び込み、患者の背中にマッサージ用の背板を入れる。加冬はベッドサイドに駆け寄りすぐに異変に気付く。ベッドに横たわっているのは、「子供?」一瞬動揺が走るがすぐに冷静さを取り戻し、加冬はアドレナリン投与の指示を出す。

「何の患者?」

「ネグレクトで、飢餓状態で発見された少女です。高度脱水と腎不全、栄養を始めたばかりでした。突然VF(心室細動)になりました」

「DC準備出来ました」

「200J、非同期、チャージして、離れて」

 加冬が少女の胸に除細動器をぐっと押し当てる。ばん、と心電図にスパイクが走る。

「VF、戻りません」

「心マ続けて。ガスは?」

「血液ガスの結果です」

 看護師が手渡した血液ガスの結果は、代謝性アシドーシスをきたす一方で、K(カリウム)は2.2mEq/Lまで下がっている。

「2.2、どうしてそんなに低いの?」

 看護師の一人が挿管はどうしますか、とたずねる。

「小学生に挿管した経験なんてないわ」

「十五歳です」

「冗談でしょう。とにかく、小児科を呼んで。ポータブルは?」

「救急外来に呼ばれているそうです。終わり次第こちらに来ます」

 心臓マッサージが続く。

「もう一度DCを打ちましょう」

「準備出来ました」

「200J、非同期、チャージして、離れて」

 加冬が少女の胸に再び除細動器をぐっと押し当てる。ばん、と心電図にスパイクが走る。やがて、ピッピッと規則的な音と共にモニターに波形が映し出される。

「洞調律に復帰。血圧を測って」

「血圧60/41、脈拍42回」

「DOA 3ml(/HR)で開始。もう一度血液ガスを測って」それから加冬は少女の肩をばんばん叩きながら耳元で言う。「わかりますか? 聞こえますか?」反応はない。「元々意識はあったの?」

「はい。意思疎通は可能でした」

「まいったわね」

 加冬は少女の瞳孔を確認する。まだ開いてはいない。

 そこに春日がICUに飛び込んでくる。

「一体、どうしたんだ?」

「CPA(心肺停止)になりました。VFが出て、DC二回で洞調律に復帰」加冬はそれから、挿管をお願い出来ますかと言う。春日は手袋をつけると、小児用の挿管チューブをすばやく入れ、人工呼吸器に接続する。看護師が血液ガスの結果を手渡す。

「Kが2.3しかない。Refeeding症候群だ。だから言ったんだ。電解質の補正をしろと。やってくれたな」

「カテコラミン開始しましたが脈拍変わりません。血圧も60台のままです」

 加冬は仕方がない、とみんなに言う。

「循内を呼んで、カテーテル室に行くわよ。体外ペーシングをすぐに準備させて」



 学都総合医療センターの診療部長、御堂坂が忙しそうに廊下を歩いている。

 すべての科の医者を統括する診療部門の責任者である診療部長の彼の元には日々、病院中のあらゆる問題が持ちかけられる。六十歳をとうに過ぎているというのに、彼には休まる暇もない。足早に歩いていると、背後から部長と呼び止める声が響き、御堂坂は足を止めて振り返る。白衣をたなびかせながら駆け寄ってくる日崎の姿に、御堂坂はうんざりしたかのようなため息をつく。

「さっきのはどういうことですか。この間の仕返しですか?」

 先程の診療部長室には循環器部長の堂前の姿があった。二カ月ほど前、患者の誤診ではないかと循環器内科とやり合ったばかりだ。

「彼等は大人だ。そんな子供の喧嘩のような真似をするはずがない」

「わかるものですか。手術を取り上げるなんて、やり過ぎです」

「日崎。君の研修医への態度は、これまでにも何度も注意してきたぞ」

「あなたも外科医ならわかるでしょう? この仕事に完璧を求めて何が悪いんです?」

 御堂坂は日崎を廊下の端に促すと声を落として言う。「懲戒委員会ではとにかく反省していることを示せ。今回の件は仲曽根先生を始め、各科の部長がかなり腹を立てている。委員会にお前の味方はいない。大人しく頭を下げろ」

「命がかかっている仕事なんです。仕事が出来ない奴に価値はない。俺は自分で自分の仕事を貶めることは出来ません」

「君のために言っているんだ。謝罪すれば守ってやる。しなければ、本当にどうなっても知らんぞ」

 日崎は唇を鳴らすと両手を腰に当てたまま天井を仰ぐ。

「もう、救急外来に戻れ。それともまだ何かあるのか?」

 日崎は唇を尖らせるとしばし考えたあと、声を落として御堂坂に言う。

「どうして帰国を早めたんでしょうね」

 日崎の言わんとすることが伝わったのか、御堂坂は眉間にしわを寄せて聞き返す。

「気になることがあるのか?」

「患者の義理の弟は未未市議会の代議士です。偶然だと思いますか?」

「彼は世界の神宮寺だ。彼の名前でこの病院は設立許可が下りたし、補助金も出た。患者自らが彼の手術を希望し彼に連絡を取ったとしても不思議はない」

「患者からは一言もそんな話は出ていませんでしたよ」

「理由はどうあれ手術は上手くいったのだろう? 喜ばしいことじゃないか」

「今日の所は、です」

「何が言いたい?」

「とにかく、部長も気にはしておいて下さい」

 そう言うと、日崎は歩いていく。その背中に御堂坂は言う。

「救急外来は反対側だぞ」

 日崎は足を止めるとため息を一つつき、それから踵を返して反対側に向かって歩いていく。

 やれやれと歩きだした御堂坂が三度角を曲がったところで再び背後から呼ぶ声がする。聞きなれた声に嫌な予感しかしないなと思いながら御堂坂は振り返る。足早に追いかけてきた顧問弁護士の顔に御堂坂はため息をつく。

「部長、聞きましたか?」

「聞きたくなくなったよ。君がそう言う時は厄介ごとばかりだ」

「今朝入院した十五歳の少女が先程ICUで心停止になったようです」

「今、何て言った?」



 カテーテル室にモニターの心拍数の音が響いている。

 キャップにマスク、放射線防護プロテクターの上からガウンを着込んだ男が、カテーテル台に横たわる少女の前に立っている。男の指先が細いワイヤーを器用に操り、目の前のモニター画面には少女の静脈内を進むワイヤーが浮かび上がっている。

「十五歳だって?」

 循環器内科医の江崎英治は画面を見たまま言う。カテーテル室の端にキャップにマスク、手術着の上から放射線プロテクターを着けた女医が腕組みをして立っている。そうです、とため息交じりに答える加冬に江崎はどうして心停止に、とたずねるが、彼女は答えない。以前起きた大動脈解離の誤診事件以来、加冬の中には江崎に対する拭いきれない不信感がある。先輩医師に面と向かって無礼を働く気はないのだが、どうしてもとげとげしさが態度に滲み出る。

 無言で突っ立ている加冬に江崎は再び問う。「児童虐待だって?」「ネグレクトだそうです」加冬の代わりに看護師が答える。「信じられますか? 十五歳で二十キロしかないんです」「過度なダイエットかもしれないだろう」江崎が言うと、「本気で言っています?」と加冬の不機嫌そうな声がカテーテル室に響く。

江崎は手を止めると、ちらりと部屋の隅に立つ加冬を見る。「どうして心臓外科がこんな子の担当をしている?」加冬はふうと息を吐く。「私は偶然通りがかっただけです」「まあ、君達ならそうだろうな」「どういう意味です?」「心臓外科医はいつもトラブルと共にある」江崎の皮肉に加冬はうんざりした顔でそっぽを向く。いい感情を持っていないのはお互い様らしい。江崎自身は悪い人間ではないが、心臓外科との因縁はまだ続いている。当然か。

「入ったぞ」

 江崎の声に加冬は画面を見る。江崎がペースメーカーを設定し、モニター上の心拍数が安定する。

「ありがとうございました」

 江崎はガウンと手袋を脱ぎ捨てながら加冬に言う。

「十五歳が院内で心停止したんだ。厄介なことになるぞ。巻き込まれる前にさっさと主治医に返した方がいい」

「ご忠告どうも。そうしますよ」

 江崎はふんと鼻を鳴らすと研修医に、固定しておいてくれと指示を出し、カテーテル室から出て行く。



 御堂坂の部屋では小児科医の春日と婦人科医の三田が激しく口論している。机についた御堂坂は両肘をつき、むっつりとした表情で二人の言い争いを聞いている。顧問弁護士の西園はソファに座り腕組みをしたまま目を閉じている。

「どうしてK(カリウム)の補正をしていなかったんです?」

 春日は苛ついたように三田に言う。

「もちろんしていましたが、refeeding症候群のカロリー負荷についての定まった見解はありません。当然Kの低下は念頭に置いて、少量のカロリーから開始していましたし、Kの投与も開始していました。こんなに急速にKが低下するのは想定外でした」

「採血結果を見たんですか? P(リン)も1.1まで下がっていました。ATPが枯渇し多臓器不全も進行しています。電解質を十分に補正しない状態で高カロリーを入れれば、どうなるかご存知でしょう?」

「春日先生。私はこの病院を受診する思春期の患者、全員の治療をたった一人で行っているんです。今日も朝から外来をしながら救急外来に呼ばれ、合間にICUに来て治療の指示を出していました。出来る限りのことはやっていました」

「子供が一人死にかけたんですよ。あなたの忙しさなんて言い訳にはならない」

「そこまでだ二人共」

 御堂坂が低い声で言い、思わず春日と三田は口を閉ざす。

「心停止の時間は?」

「八分ほどです。心拍再開後も徐脈が続き体外ペーシングを。循環は落ち着いていますが、挿管し人工呼吸器管理中です。まだ意識は戻っていません。脳障害をきたした可能性はあります」

 春日の答えに御堂坂は唸るように喉を鳴らす。

「十五歳が心停止に脳障害か」それは悪夢でしかない。「定期的にKを測定し補充していたんだな?」

 御堂坂の問いに三田はええ、と答える。「ですが補充が間に合いませんでした」そうか、と御堂坂はうなずく。

「話はわかった。まず春日先生。この先は君が患者を担当するんだ」

「私の患者ですよ」

 三田が思わず声を上げるが御堂坂はそれを一蹴する。

「三田先生、ここまで患者の全身状態が崩れた今、外来の合間に担当させるわけにはいかない。多忙であることを持ち出したの君の方だ。担当から外す」

「納得がいきません」

「いい加減にしたまえ。患者の心停止の責任を君一人に押し付けることはしないが、事実患者が心停止したんだ。しかも入院後にだぞ。あってはならないことだ。防ぎ得た心停止であることは君も同意せざるを得ないだろう」

 まだ何か言いたげな三田に御堂坂が最後通告をする。

「十五歳の少女に脳障害が残れば、君はどう責任をとるつもりだ? 大人しく引き下がるんだ」

 三田は不満げに二人を見たあと、わかりましたと苦々しくうなずき部屋を出ていく。

 扉が閉まると御堂坂はふむとつぶやき、ぎいとイスに背もたれる。部屋の隅でじっと様子を見ていた西園が春日にたずねる。

「患者の家族には何と説明したんですか?」

 春日は西園を一瞥したあと、御堂坂に向かって答える。

「母親には、一度心停止になったが治療により現在は落ち着いているとだけ」

「脳障害の可能性については?」

 まだです、と答えた春日に、御堂坂は怪訝そうな表情を浮かべる。

「何故、そんな大事なことを話していないんだ?」

「あの母親を保護者と認めるわけにはいきません。彼女を虐待していたんですよ。離婚した父親と連絡が取れました。今、こちらに向かっています。父親が到着し次第、再度ICを行います」

 そうかと御堂坂は言う。

「児童家庭局は何と言っている?」

 御堂坂の言葉に西園は険しい顔で答える。

「少女の体に外傷があるわけではありませんし、明確な虐待の証拠もありません。食事代はきちんと渡していたと母親は話しているようです。思春期の少女ですからね。飢餓が原因で心停止に至ったとしても、過度なダイエットが原因だと主張されれば母親の過失を証明することは難しい」

「つまりどういう意味です?」

 春日の問いに、西園は淡々と答える。

「少女の監護権は今も母親にあります。父親が来たとしても、法的には患者の保護責任者は母親です」

 納得出来ませんね、と春日は吐き捨てるように言う。

「父親が到着するのは?」

「夕方です。電話をした看護師の話では、母親を殺しかねないくらい激怒していたようです。当然ですがね」

 春日の言葉に西園は、なるほどとうなずいたあと冗談とも本気ともつかない口調で言う。「それじゃあ、警備員を待機させておかないと」



 十七時きっかりに日崎は救急外来を出る。

医局に向かって歩いていくと、廊下の反対側からこちらに向かってくる一団の姿が見える。高級スーツを着込んだ男を中心に、数人の男達が談笑しながら歩いてくる。輪の中心にいるのは神宮寺で、その周りを彼の取り巻きの製薬会社や学会関係者が固めている。神宮寺は日崎の姿に気付くと足を止める。

「今回はいつまでこちらに?」

 日崎は努めて明るい口調で、何事もなかったかのようにたずねる。

「来月四日までだ。それまでにお前の問題を解決しろ。まったく、いつまでも手のかかる奴だ」

 神宮寺はふんと鼻を鳴らすと、取り巻き達を引き連れ歩いていく。

 その背中を見ながら、神宮寺を囲む一段の中の一人の男の姿に、ああそういうことかと日崎は一人うなずく。



 ICUで少女のベッドサイドにいた春日は、廊下側から聞こえる大声に気付いて振り返る。扉がばたんと開いて、一人の中年の男性がICUに入ってくる。その背後には件の少女の母親の姿も見える。看護師が男をなだめるように声をかけるが、男はそれを振り切ってICUにずかずかと入ってくる。ICUを歩き回りながら辺りを見回し、少女と春日に気付くと駆け寄ってくる。

 少女の名を呼びベッドの柵を握って大声を上げる。ICUのスタッフ達が何事かとざわつく。男は涙を流しながら柵を掴んだまま膝から崩れる。駆け寄ってきた看護師が男を立たせたあと、ベッドサイドにあるイスに座らせる。

「主治医の春日です。お父さんですか?」

「先生、娘は、娘は、」

 春日は静かに少女の身に起きた状況を一つ一つ説明する。男は混乱と怒りのない交ぜの状態のまま、春日の言葉に必死にうなずいている。娘の手を握り、すまない、すなまい、お父さんが悪かった、お父さんが悪かったと泣いている姿に春日は胸が鷲掴みにされる気がする。一通りの説明を終えると、父親を残してベッドサイドから離れる。ふとICUの入り口を見ると、怯えて立ち尽くす母親の姿が見える。春日はICUの看護師を捕まえると、母親に面会させるなと冷たい声で指示を出す。



 今夜は緊急手術がないのか、夜の手術室は閑散としている。

薄暗い廊下でOR3の窓から手術室の中を一人の男がじっと眺めている。手術着姿の男は誰もいないOR3のベッドを見つめている。

「いつまでなの?」

 いつの間にかやってきた美咲が横に並んで立つ。耳が早いなと日崎は他人事のように言う。

「大丈夫?」美咲の言葉に、日崎はああ、と平然と答える。だがしばらくして美咲の方を向いて言う。「いいや」

 美咲は何も答えず並んでOR3の無人のベッドを見つめる。これまでここで大勢の命が救われた。何人かは死んだ。それでも今、横に立つこの男がいい医者であることは間違いないと美咲は知っている。手術を奪われたこの男は、どうやって生きていくのだろうか。

 しばらくして日崎がふと美咲の顔を覗き込む。

「今夜、時間あるか?」

「え?」



 春日はナマズの部屋で尋問を受けていた。

「母親は病院が娘を誘拐したと騒いでいます。母親の面会を禁じたんですか?」

「これは明確な虐待だ」

「その証拠はありません。子供が目を覚ますには母親の声が必要なこともあるでしょう?」

「彼女には逆効果だ」

「春日先生。離婚後から父親には法的には少女の監護権はありません。保護者は母親です。病院側に彼女の面会を拒否することは出来ません」

「病状から病院側が面会謝絶にすることはめずらしくない」

「面会謝絶? 父親は面会しているのでしょう」

「DVを受けた女性を夫から守ることだってある。少女の心に傷が出来たらどうする」

「肝心の本人は意識がない状態です。輸血の時の一件のように、少女が明確に母親との面会を拒否すればその理屈は通りますが、今、少女に意識はありません。とすると少女に関するあらゆる決定権は監護権者の母親にあるんです。それくらいわかっているでしょう?」

 春日は大きく息を吐くと、監護権を父親に変更する方法は、とたずねる。

「正式な裁判所命令が必要ですが、少女に質問することも出来ません。現状、われわれに出来ることは何もありません。面会させて下さい」

「駄目だ」

「ですから、あなたにそんな権限はないんですよ、春日先生」春日が何かを言おうとするが、ナマズは春日に向かって念を押す。「母親に面会させます」

「ナマズめ」

 春日は忌々し気にそう言うと、部屋から出ていこうとする。

「春日先生」

「まだ何か?」

「先月の輸血の少年の件もそうですが、あなたは児童虐待に過剰に反応し過ぎなのではありませんか?」

「何が言いたい?」

「何か個人的な理由でも?」

 西園の言葉に春日は一瞬言葉に詰まる。それからすぐに、「ぼくのプライベートは関係ない」と答える。

「もちろんそうです。プライベートは関係ない。だからあなたも病院にいる限りは、プロに徹して下さい」

 春日は何かを言い返そうとするが、言葉を飲み込み部屋から出て行こうとする。春日がドアノブを掴んだところで、ああ、そうだと西園が言う。

「決着がつきましたよ」

 ええっと春日は振り返る。

「まだ書類にサインはしていませんが、二百六十万で和解出来ました。保険でカバー出来る範囲ですしね、裁判を考えれば上々の出来ですよ」

「そうか。いい腕だな」

「ナマズの割にはね」



 病院近くのダイナーのカウンターで、手術着にダウンジャケットを引っかけただけの男としゃれたコートにニット帽の女性が並んで座っている。

「どこに連れていってくれるかと思ったら、ここならあなたよりも私の方が常連よ」

 美咲が口を尖らせて言うのを無視して、日崎はずいっと彼女の前にファイルを置く。

「何これ? 英語、神宮寺先生の手術記録のコピー?」

「この二年間、国内外で行った手術の記録だ」

「こんなのどうやって手に入れ、いえ、いい。聞かないでおくわ」

「賢明だな。第一助手のところを見てくれ」

「TAKANORI SAITO、ああ、斉藤先生。以前うちにいた」

「ああ、神宮寺先生の一番弟子だ。今は山際大学の准教授をしている。神宮寺先生が海外で手術を行う際には常に帯同させているようだ」

「それがどうかしたの? 慣れない病院でやるなら自分の愛弟子を連れて行くのは不思議なことじゃないでしょう?」

「手術記録を読む限り、この術式は神宮寺先生の手順とは違う」

「手術のやり方が、という意味?」

「記録上は、術者は神宮寺先生、助手が斉藤先生になっているが、」

「どういうこと。神宮寺先生は手術をしていないの?」

 日崎はファイルを閉じると美咲を見る。

「今日の手術、患者は市議会議員の親戚だ。神宮寺先生の帰国は来週のはずだったのに、まるで今日の手術に合わせたかのように現れた。誰かがVIPの手術があることを教えたんだ」

「誰がそんなこと」

「取り巻きの中に、人工弁のメーカーの人間がいた。きっとそこから情報が漏れたんだろう。だが問題はそこじゃない。問題は、どうしてここにきて帰国を早めてまでVIPの手術をしようとしたのかだ。世界の神宮寺だぞ。名声は十分ある。金だってもう欲しくないだろう。海外でのんびりしてくれば良かったのに、そうしなかった」

「言っている意味がよくわからない」

「俺にはあせっているように見える」

「何に?」

「手術の腕が落ちている」

「まさか。今日だって、」

「ああ、今日はうまくいった。だが俺の目には、かつてほどの冴えは感じられない。手術に迷いがある。自分でもそれがわかっているから、海外に斉藤先生を連れて行きカバーさせている。あるいは、」

「執刀を代わってもらっている?」

「かもな」

「なるほど。話はそれだけ?」

「それだけ」

 そう言うと、日崎はぐいっとビールを喉に流し込む。美咲はその横顔をしばらく見ていたが、やがて「つまんないから帰っていい?」とたずねる。

「お好きにどうぞ」

「今度誘う時は、ちゃんとデートにふさわしい店にしてね」

「聞こえない」

「私、フレンチが食べたい」

「聞こえない」

 手をひらひらと振りながら美咲は店から出て行く。日崎は頬杖をつくと、再び手術記録のファイルをめくる。



 ICUに呼ばれた春日は看護師に促されベッドサイドに向かう。人工呼吸器につながれた少女は両目を開き、じっとこちらを見ている。

「わかるかい? ここは病院だよ」

 少女は苦しそうに何度かうなずく。

「今は口にチューブが入っているからしゃべれないけど、もう大丈夫、大丈夫だよ」

 春日は安堵の声を上げると、抜管しようと看護師に告げる。すぐさま少女の喉からチューブが抜かれ、少女は何度かせき込んだあと消え入りそうな小さな声で言う。

「ママは?」

 春日は目を閉じうつむいたあと、何度かうなずき優しい声で少女に言う。

「大丈夫、お父さんもお母さんもすぐ近くにいるからね」

 それから看護師に両親を呼んでくるようにと伝える。

 しばらくして看護師に連れられて両親がICUにやってきて、意識を取り戻した少女のベッドサイドで涙を流す姿を、春日はICUの片隅でじっと見つめる。夜のICUにモニターと人工呼吸器の音だけが静かに響いている。


20240525

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