第2話 輸血拒否

 研修医の君沼ははっとして目を覚ます。

 薄暗い当直室で枕もとのPHSを探すが見つからない。どこで鳴っている? いつもとは違うくぐもった音。まさか。ドアノブに引っ掛けた白衣のポケットの中で鳴っているのに気付く。画面には着信履歴が何件もある。まさか。君沼は青ざめた顔で当直室を飛び出して廊下を走る。医局のすぐ横にある会議室に入ると、すでに朝の医局会は始まっている。

 医局会にはすべての医師が思い思いの席にずらりと座り、部屋の一番奥、大きなモニターの前に昨夜の当直を担当した研修医達が並び、昨夜の入院患者のプレゼンを順に行っている。検査をした理由、鑑別診断、治療方針、先輩医師達から浴びせられる激しい口頭試問にしどろもどろになりながら必死に研修医達が答えている。君沼は人目を避けて会議室の一番後ろの席に潜り込む。やがて時間が過ぎ医局会は終わり、医師達はぞろぞろと会議室から出て医局に戻る。

 八時四十五分。医局に戻った医師達はコーヒーを片手にそれぞれの科の同僚達と一日の予定や入院患者について話している。君沼は今朝の生贄になった研修医の一同を見つけると駆け寄り謝罪する。当直を終えた研修医達は皆、疲労で青白い顔をしている。半年ちょっと前まで学生だった彼等が、今では毎日のようにあまりにも重い責任を背負って深夜近くまで働いている。

「今日の予定は?」君沼は同期の女性研修医に話しかける。彼女は今、血液内科で研修中だ。「初めてCV(中心静脈)を入れさせてもらえる。君沼君はもう何件刺した?」「ぼくは二件、内頚ばかり」「何だ、まだたった二件かよ」同じく同期の大柄な男が口を挟む。将来消化器内科を死亡している彼は、自分が経験した手技や治療を同期に自慢をせずにはいられない性格らしい。「俺はもう六件だ。まだ鎖骨下だけは刺してないからな。知ってるか。二年前にALSの患者にCVを入れる時に気胸を作って、患者が死にかけたらしい。それ以来研修医が鎖骨下からCVを入れるのは原則禁止なんだとよ」鎖骨下静脈への穿刺なんて頼まれても御免だ。救急の先生は、鎖骨下は骨がメルクマールになるからショック状態で動脈が触れなくても穿刺出来て一番楽だと言うがとても同意出来ない。まぁ、やったことはないのだが。「病棟で入れるなら前もってエコーの準備をしておかないと怒られるよ」君沼は鼻息荒い男は無視して、横を歩く大人しい女性研修医に言う。「ポータブルエコーってどこに借りに行くの?」「生理検査室に言っておかないと。他の病棟に貸し出しされているかもしれないから早めに確認した方がいいよ」彼女はポケットから院内のPHSの電話番号表のコピーを取り出し、生理検査室の番号を調べる。そうこうしながら歩いていると、突然背中から悪夢のような声が響く。

「君沼健司君」

 名前を呼ばれて反射的にはい、と振り返る。そこには一人の白衣の男が立っている。白衣の下は水色の手術着を身につけている目つきの悪いその男は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、首をかしげている。君沼の背中にどっと嫌な背が吹き出す。当直中に病棟の急変を知らせる電話に出なかった研修医を、いつ眠っているのかもわからない悪魔のような心臓外科医が食い殺そうとしている。医局前の廊下で叱責は延々と続き、仕事に向かう医者達が眉をひそめながらその横を通り過ぎていく。誰か止めろよ、医者達がささやき合うがそんなことを意にも介さず日崎は研修医を血祭りにあげている。退屈そうに医局の出入り口にもたれかかり歯を磨きながらその残酷ショーをぼんやりと見ていた背の高い女医のPHSが鳴る。加冬は口の中の泡をもごもご言わせながらPHSに出る。わかりました。PHSを切ると歯ブラシをくわえたまま日崎の元にやってくる。まだ怒り足りないらしい自分より背の低い上司に後ろから何やらささやくと、日崎は小さく舌打ちをしてそれから研修医に、二度とするな、そう低く言い捨て踵を返して歩いていく。君沼は救世主たる女医に助かりましたと頭を下げるが、彼女は呆れたような表情で研修医を見ると、「助けたつもりはないけど」そう言って歯ブラシをくわえたまま日崎のあとを追いかける。



 日崎と加冬は足早に廊下を進む。加冬がさっきのは言い過ぎですと口をもごもご言わせながら諫めるが、あいつは医者に向いていないと日崎は切り捨てる。二人が階段を駆け下りると、ERはすでに混乱と血の臭いが充満している。

「玉突き事故、複数の高エネルギー外傷、1番から5番までの診察室はすべて埋まっている。どこでもいいから手を貸してくれ」

 救急部長の山上が二人の姿に気付いて声を上げる。すでに他の外科系の医師達が集められ治療にあたっている。加冬は手洗い場で素早く口をゆすぐと看護師から手袋とガウンを受け取る。「これ、どうすればいいんです?」歯ブラシを手渡された看護師が困った顔で加冬にたずねる。「そんなもの捨てろ」日崎がゴーグルを着けながら言う。「おろしたてなんです」「歯ブラシくらい買ってやる」「捨てていいわ」加冬は日崎に続いてガウンを身に着けるとそれぞれ別々の診察室へと入る。



 混乱のERにまた一人の医者が来る。

 オーダーメイドの高級白衣を着こなした男は、ERの喧騒に眉をひそめる。彼の姿を見つけたER看護師が近付いてくる。「江崎先生、こちらです」「循環器内科に出来ることはなさそうだね」「こちらです」看護師はそう言うと、ERの奥へと案内する。野戦病院さながらの景色をくぐり抜け、カーテンで仕切られた8番診察室に江崎は入る。診察室には一人の高齢男性が酸素マスクを口にあてがわれ、荒い呼吸でベッドに横たわっている。診察室にいた研修医が江崎に状況を説明する。循環器内科を回っているその女性研修医は、ゆっくりとした口調だが、過不足なく必要な情報を江崎に告げる。

「八十四歳男性、昨夜から呼吸苦が出現、朝になり妻が異常に気付いて息子夫婦を呼び、それから救急要請となりました。僧帽弁閉鎖不全症と三尖弁閉鎖不全症、心房細動で近医にかかっていました。全身の浮腫は著明で、胸部レントゲンで肺うっ血は中等度から高度、葉間胸水も認めます。BNPは1200、慢性心不全の急性増悪です」

「エコー結果は?」

 江崎は手渡された心電図の結果を見ながらたずねる。

「LVDd/Dsは61/52、LVEFは28%で僧帽弁と三尖弁の逆流は高度です」

「家族とは話したのか?」

「はい。奥さんと息子夫婦が待合室で待っています」

「どこまでの治療を希望している?」

「そこまではまだ、」

 江崎は聴診器をはめる、循環器の江崎ですと患者に名乗ると聴診を始める。看護師が血液ガスの結果を持ってきて江崎に手渡す。目を通すなり江崎はすぐに家族を面談室に通すように言う。患者の酸素化はかなり悪い。

「利尿剤を使いますか?」研修医がたずねる。

「血圧もかなり低い。利尿剤を使うならカテコラミンを始めてからだが、経過が長いのなら延命についてすでに結論を出している可能性もある。話を聞いてからだな」

 江崎は荒い呼吸の患者を一瞥すると診察室を出て面談室に向かう。面談室に入ると、患者の妻と思しき高齢女性とその息子夫婦が座っている。

 江崎は患者が慢性心不全の急性増悪を起こし、すぐに気管挿管、人工呼吸器管理を行わないと酸素化が保てず命にかかわる可能性があること、ただし高齢で心機能もかなり落ちているため、一度人工呼吸器につなぐと外せなくなる可能性があること、末期の心不全状態で自宅退院が望めない可能性が高いこと、今回の入院で死亡する可能性があることを説明する。その上で、人工呼吸器につないだり、カテコラミンを使用することが延命にしかならない可能性があることも告げる。

 江崎は淡々と患者の状況を告げる。患者は二カ月前にも他院に入院歴があると家族から知らされる。患者の状態からして時間はあまりない。決断を促すには無駄に希望を与えるべきではない。病状からこの日が来ることはすでに家族は覚悟しているだろうと江崎はふんでいたが、いざ死を目の前にすると大抵の家族は必ず迷いが出る。案の定、夫はこれ以上の治療は望んでいませんと妻が人工呼吸器管理を拒む一方で、息子は少しでも可能性があるのならと治療を希望する。江崎はご家族でよく話し合って下さいと言い、家族を残して面談室を出る。

「ICUに入れて家族の結論が出たら呼んでくれ」

 江崎は研修医に告げるとERを見回す。怒号が飛び交う混乱と混沌のERに、ここは私の居場所じゃない、そうつぶやいて白衣をなびかせERから出ていく。



 日崎が第3診察室に入ると、患者はすでに気管挿管がされている。「血圧が下がりました。52/31です」看護師が言い、研修医が必死の形相で指示を出している。「輸液を全開にして下さい。放射線科はまだですか?」日崎がちらりとモニターを見る。心拍数も跳ね上がっている。出血、あるいは心タンポナーデか。「状況は?」日崎が鋭く言い、研修医が説明する。「四十代男性、道路を横断中に交通事故に巻き込まれ乗用車にはねられました。Primary surveyでA、Bに問題あり気管挿管、Cの評価をしようとしたところで血圧が低下しました。放射線科を呼んでいますがまだレントゲンは来ません」「陽圧換気を始めて血圧が落ちたのか?」そう言いながら日崎は患者の頚部を触り、それから聴診する。「緊張性気胸だ」「レントゲンはまだです」「臨床所見で診断しろ。緊張性気胸のレントゲン写真なんて存在する方が恥だ」そう言うと、日崎は外傷セットを開き、看護師が患者の左胸にどぼどぼと消毒液をかける。清潔手袋をつけると日崎はメスと、ペアンと看護師に手を出す。受け取ったメスで患者の第4肋間に1センチほどの切開を置くとペアンを胸腔に貫通させる。ぐっとペアンを開いた瞬間、血液が噴出し、ぶしゅうと空気が胸腔から一気に噴き出る音がする。「トロッカー24Fr、」日崎は胸腔ドレーンをその穴から胸腔内に挿入する。

「血圧78/42まで上がりました」

 看護師の言葉に日崎は血で汚れた手袋のままポータブルエコーで素早く心嚢、両側胸腔、腹部をチェックする。腹腔内に出血が溜まっているのが見える。

「かなり溜まっている。輸液はどれくらい入った?」「これが三本目です」「輸血は?」「準備中です」「外科を呼んでくれ。開腹手術が必要だ」

 そこに看護師が入ってきて日崎に耳打ちする。

「山上先生が4番で呼んでいます。来れますか?」

 日崎は研修医に輸液を続けて外科が来たら経緯を説明するように言い部屋から出る。「血圧が下がったら大声で呼べ、わかったな」

 3番診察室から出ると、加冬が患者と一緒に1番診察室から出て来るところと鉢合わせる。「頭部外傷、バイタルは安定。瞳孔散大、耳出血もあります。これからCTを撮影して脳外を呼びます」そう言うと加冬は、そっちは大丈夫ですか、とたずねる。「人のことはいいからそっちをしっかりやれ」日崎は加冬を見送る間もなく4番診察室に入る。



 4番診察室は床に血液が広がり、すでにCPR(心肺蘇生)が行われている。研修医が必死に患者の胸を押している。麻酔科のレジデントが気管挿管をしようと苦闘している。救急部長の山上がモニターに骨盤部のレントゲン写真を映し出す。「三分前に心肺停止になった。不安定骨盤骨折だ」「入りました」麻酔科が気管挿管を終える。「一瞬手を止めろ」研修医の心臓マッサージを止めると、日崎はエコーをあてる。心臓は虚脱しまったく動いていない。「心マ再開しろ」研修医が再びぐっぐっと患者の胸を押すが、こんな状態での心臓マッサージには意味がない。日崎が開胸セットをくれと叫ぶ。「ここで開くんですか?」看護師が聞き返す。「死ねば意味がない」看護師がカートに滅菌ドレープを広げ、清潔野を作ると開胸セットを展開する。日崎は清潔手袋にガウンを着る。「本当にここでやるんですか?」心臓マッサージをしていた研修医が日崎を見る。それを無視して日崎は研修医に下がれ、と吠える。研修医が手を止めたところで素早く胸を消毒し滅菌ドレープを患者の胸に広げる。メスを一気に走らせる。患者の左胸に肋骨に沿って一筋の赤い線がひかれる。皮膚を切開するとメイヨーで筋肉をザクザクと切り開胸する。心停止しているため創部からほとんど出血はない。「開胸器」看護師に手渡された開胸器を肋骨の間にはめ込み肋間を広げる。日崎は血の気の引いた肺を前胸部側に押し上げて下行大動脈を探る。「遮断鉗子」看護師が日崎の右手に金属の長い鉗子を渡す。「下行、遮断するぞ」日崎は下行大動脈を遮断すると、メッチェンと続いて手を出す。肺を今までと逆に背中側に抑え込むと、その奥に見える心膜をメッチェンで切開する。ぱっくりと空いた心嚢の中に、虚脱しぺっちゃんこになった心臓が見える。ぐいっと右手を心嚢内に突っ込むと日崎は直接心臓マッサージを始める。

「まったく心臓が張っていない。血が足りない。輸血は?」「六単位入った」山上の答えに日崎は舌打ちをする。「心停止から何分?」日崎は心臓をマッサージしながらずねる。「マッサージ開始から十二分が経過しました」看護師がタイムシートを見ながら淡々と答える。「とりあえず心臓が張るまでボリュームを入れよう」ぐっぐっと日崎は心臓を押しながら冷静に言う。山上の指示で新たな輸血が急速に投与される。「いいぞ、心臓が張ってきた」ぐっぐっぐっぐっ。「次のアドレナリンを」山上は時計をちらりと見ながら看護師に指示をする。新たな強心剤が投与されるがまだ日崎の手は止まらない。ぐっぐっぐっぐっ。日崎の手は休むことなく心臓マッサージを続ける。輸血が次々に入れられ、強心剤が三分おきに投与される。「時間は?」「開始から二十五分経過」「頑張れ。この心臓はまだ若い」日崎はちらりと患者の顔を見る。血液と泥で汚れた顔はすでに土気色になっている。命がこぼれ落ちていくのを日崎は右手に感じる。「三分経過、次のアドレナリンを打ちますか?」看護師の言葉に山上は時計をもう一度見る。「開始から何分?」「三十二分経過」山上が小さくため息をつき日崎を見る。日崎は目が合うと小さく頭を振りマッサージの手を止める。心臓は、「動かない」そうつぶやくと日崎は右手を患者の左胸から引き抜く。「終わりだ。宣告しよう」日崎は手袋を脱ぎ捨てると時計を見る。「死亡時刻、十時五十二分。家族を入れてくれ」

 それから日崎は研修医に、カルテに記録しておけ、そう言うと4番診察室から出る。無力感がどっと襲い、日崎は息を吐く。通りかかった看護師に、3番の腹部外傷はどうなったとたずねる。これから緊急手術だそうです、IVC(下大静脈)を損傷しているみたいです。その言葉を聞くと、日崎はまったく、と低くつぶやき手術室に向かって歩き出す。



 手術室のロッカールームに入る。汗と血で汚れた手術着を脱ぎ捨て新しい手術着に着替え、マスクにキャップをはめる。そこにがっちりとした体格の白衣の男が入ってくる。齢五十を超え、後ろに撫で付けた髪の毛は灰色に染まっている。しわの刻まれた顔に屈強な精神と威厳が滲み出ているその男は日崎に気付くと厳しい口調でその名を呼ぶ。

「日崎先生」

「中曽根先生。腹腔内出血の症例、IVCの損傷と聞きました。手伝いますよ」

 日崎の申し出を無視して男はお腹まで響いてくる低い声で言う。

「君の今朝の傍若無人な態度はどういうつもりだ?」

 この病院の一般外科を統括する重鎮にすごまれ、日崎は姿勢を正す。

「朝の態度、と言いますと?」

「君沼先生に対する態度だ」

 あのことか。日崎は腹の内で舌打ちをする。自らも当直明けで疲れていたとはいえ、衆人環視で研修医を詰めれば悪目立ちをするのは避けられないことだ。この男に見られていたのか。

「彼は昨夜、病棟当直の身でありながら、患者の急変の際に何度電話しても病棟に来ませんでした。そのせいで患者の治療が遅れたんです。許されることじゃありません」

「ここは教育病院だ。彼等を教え導くのが君の役目だ。怒鳴りちらし暴言を吐くのは許されない」

「私は事実を言っただけです。少なくとも怒鳴ってはいません。彼の勤務態度について意見しただけです」これは事実だ。先日の手術室の一件以来、少なくとも怒鳴り散らすような真似は控えている。「これは初めてじゃありません。彼の仕事はいい加減、技術や知識も他の研修医と比べてもお粗末です。彼は医者には、」

「医者に向いていない、そう言っていたな。勘違いするな、日崎先生。それを決めるのは君ではない。今度研修医に暴言を吐いたら君は首だ」

「本気ですか?」

 ネクタイを右手でぐっと緩めると、外科部長の仲曽根はぎろりと日崎を睨みつける。

「君は神宮寺君がいない間の部長代理に過ぎない。思い上がるな。君の代わりなどいくらでもいる」そしてそれもまた事実だろう。

 手術着に着替えた仲曽根はいつまでもそこに立っている日崎に言う。

「あの患者を診察したのは君かもしれないが、君に手術を手伝ってもらう気はない」

 仲曽根はキャップとマスクをつけるとロッカールームから出て行く。日崎は大きく息を吐くとマスクを顎まで下げ、それから忌々しそうにロッカーを叩く。

 マスクとキャップを捨て白衣に袖を通した日崎はロッカーを出る。廊下の向こうから背の高い女医が歩いてくるのが見える。

「頭部外傷はどうした?」

 日崎の問いに加冬は肩をすくめてみせる。

「外傷性SAH(クモ幕下出血)と脳挫傷で脳外科に送りました。そっちは?」「緊張性気胸の腹腔内出血はこれから手術、骨盤骨折は下でCPAになり下行を噛んだが駄目だった」「救外で胸を開けたんですか? ご立派」「救えなければ意味がない」そうですね。それから加冬は歩いていこうとするが日崎がそれを呼び止める。「何です?」「腹腔内出血の患者、これから手術だがIVCを傷つけている可能性がある。手伝ってやれ」「先生がやらないんですか?」「俺の手はいらないらしい」「また誰かを怒らせたんですか? そのうち私までとばっちり受けそう」「あいつらをよく見張っていろ。血管についてはずぶの素人だ」了解。加冬はロッカールームに入ろうとして日崎を見る。「先生はこれから何を?」「俺は当直明け。昨日は寝てないんだ。お前の手に負えなくても起こすなよ」仰せのままに。ロッカールームの扉が閉じる。



 同じ頃、一人の男が病院の廊下を颯爽と歩いていた。

 長い髪を後ろで束ね穏やかな表情の優男は二階にある集中治療室と大きく書かれた扉を開き奥へと進む。小児科医の春日教明の姿に気付いた救急部の山上が手を上げて5番ベッドに呼び寄せる。

「呼びましたか?」

 春日は病院五階にあるNICU(新生児集中治療室)に呼ばれることがもっぱらで、手術室と集中治療室がほとんどを占める二階に来ることは滅多にない。当然、嫌な予感がしているわけだが。

「春日先生、すいません。七歳の男児、今朝の多重玉突き事故で、乗用車の後部座席に乗っていて重症。脾臓破裂を起こしています」

 春日は患者に近付くと顔を覗き込む。少年が一人、脂汗をかき、口元に酸素マスクをあてがわれぐったりとした様子で眠っている。ちらりとモニターを見る。血圧102/56、脈拍110。看護師に手渡された採血結果をざっと見てから春日は山上に言う。

「手術は専門じゃありません」

「わかっています。手術に関しては外科の斉藤先生が診てくれています。外科としては手術をすぐにでも始めたい状況ですが、問題があります」

「と、言いますと?」

 こちらへと案内され、二人はICUの看護師詰め所に移動する。ICUの看護師長である四十代の小柄な女性が、人が来るのを待ちかまえている。

「あの少年の手術が必要なことは事実ですが、両親が拒否しているんです。宗教上の理由で、輸血を拒んでいます」

 山上の言葉に、春日は怪訝そうに眉をひそめる。

「輸血なしで手術は出来ないんですか?」春日の疑問はもっともだ。だが山上は困った顔で首を振る。「すでに大量出血で凝固機能も落ちています。このまま開腹すれば出血が止まらなくなるというのが外科の読みです」輸血なしで開腹手術は出来ない。となると、「血管内治療は?」春日の問いに、ええと山上はうなずく。「今、手配をしています。何とか血管内治療で脾臓からの出血を止めにいきますが、途中で破綻すれば開腹をせざるを得なくなります。しかしその際には輸血が出来なければ、」少年は助からない。春日は振り返り、部屋の奥にある5番ベッドを見る。いずれにせよ、万が一の事態に備えて輸血の同意書を取っておく必要があるということか。

「わかりました。家族と話してみます」

 看護師長に案内されて、春日は家族の待つ面談室に入る。



 入れ違うように循環器内科の江崎がICUに入ってくる。

 4番ベッドには高齢男性が洗い呼吸のまま横たわっている。ベッドサイドには妻が夫の手を握り、無言でその顔を見つめている。江崎の姿に、同じくベッドサイドに座っていた息子夫婦が立ち上がり頭を下げる。

 ベッドサイドにいた女性研修医をちらりと見ると、江崎と研修医は席を外す。今朝、ERでこの患者を担当した研修医は、現在循環器内科を回っている。「家族からの返事は?」江崎がたずねるが研修医はまだです、と答える。「聞いてみよう」そう言うと江崎は研修医と共に、再びベッドサイドに戻る。

 江崎が家族に気管挿管についてたずねるが、妻は夫の手を握ったまま何も答えない。息子夫婦はもう少し時間をいただけますかとたずねるが、看護師から手渡された血液ガスの結果に江崎は表情が曇る。いえ、もうそろそろ結論を出す必要があります。そう言うと、江崎は患者の横に立ち、荒い息の老人にかがみこんで話しかける。

「わかりますか? 呼吸が苦しいですね。心臓が上手く働いていないので呼吸が苦しくなっています。口から管を入れて機械につなげば呼吸が楽になります。機械につないでほしいですか?」

 老人は荒い呼吸のまま、目は宙をさまよっている。だが江崎の言葉は聞こえていたのか、小さく頭を振る。「機械は嫌よね」妻の言葉に老人がうなずいたように見える。「何度も話し合ってきたんです。これ以上は結構です。ただ、苦しいのだけは何とかなりませんか?」妻の問いに江崎は息子夫婦を見る。息子はいや、と眉間にしわを寄せると、先生、ちょっといいですかとたずねる。ええ、とうなずき江崎と息子夫婦はベッドサイドから離れる。

「父は認知症で、自分では判断することは出来ません。ただ、少しでも治る可能性があるのであれば、人工呼吸器を使って下さい」

「仮に本人が認知症で現状がわかっていないのだとすると、やはりご家族の意見を統一していただかないと。ご本人の同意がなく、奥様が反対されている以上、われわれには治療を断行することは出来ません」

「少しでも長く生きてもらいたいと思うのはわがままですか? 私は間違っていますか?」

 いいえ、と答えたあと、江崎はあちらでもう一度、お話をしましょうと面談室を見る。「奥様も一緒に」

息子は母を呼び、家族は面談室に入る。江崎は君も来いと研修医に言うと、看護師と共に面談室に入る。



 二つ並んだ面談室の一方で、春日が交通外傷の少年の両親の説得にあたっている。

「外科の先生から説明を受けたと思いますが、これからカテーテル治療を試みます。ただしこれで出血が止められなかった場合、開腹手術が必要となります。現時点でかなりの出血をしています。これ以上貧血が進行すれば、開腹手術に耐えることは出来ません。はっきり申し上げて、輸血をしないと救命困難となる可能性があります」

「先生。わかって下さい。これは私達の生き方の問題です。それを曲げることは出来ません」

「出来る限りご希望には沿いますが、命の危険があると判断した場合には輸血をしてもかまいませんか?」

「相対的無輸血ではなく、絶対的無輸血がわれわれの宗派の考え方です」

「息子さんの命がかかっています」

「わかっています。それでもどうか、輸血をせずに息子を助けて下さい」

 取り付く島もない両親の様子に、春日は眉間にしわを寄せる。

「ご希望はわかりました」



 隣の面談室では江崎が心不全で死にかけている老人の家族に、ゆっくりとした口調でもう一度病状と、これからとり得る選択肢を提示する。

「以前から心臓が悪かったことはご理解されていたと思いますが、今回の心不全の発作で肺に水が溜まって呼吸が苦しくなっています。心臓の機能自体もかなり悪く、厳しい状態と言わざるを得ません。口から管を入れて人工呼吸器につなげば、呼吸は楽になり酸素の取り込みは改善します。ただし、根本的に心臓の機能を回復するものではなく、一度装着した人工呼吸器が外れなくなる可能性は高い状態です。その場合は、一生人工呼吸器につながったままということになります。仮に一度、人工呼吸器を外すことが出来たとしても、この先また同じような心不全の発作を起こす可能性は極めて高いと言わざるを得ません」

 妻は息子にもういいと告げる。「お父さんはよく頑張ったわ。機械につなぐなんてかわいそうよ」妻は覚悟を決めたような表情で息子を見る。息子は納得出来ないまま思いつめたような表情を崩さない。「このまま苦しむ親父をほっておくのか?」もういいの、と妻は息子に、断固とした口調で告げる。

 医学的には患者は末期の心不全で、すでにこれ以上の治療の意義はない。本来であれば苦痛を緩和し、あとは穏やかに逝かせることを考える時期にある。ここで人工呼吸器につないで延命しても、結果的に本人も家族も苦しめることになる。だがそれは、数多くの末期患者を診てきた医者だからこそ冷静に判断出来ることで、自分の家族となれば江崎も判断を迷うに違いない。だからこそ、こういう場面で江崎は自分の知っている正しさに、家族をいかに誘導するかに心血を注ぐ。重要なのは、患者の家族自身が自分達で選択したと思わせることだ。自分達で納得した上で選択した。そう感じられるように、江崎は頭の中で息子にかけるべき言葉を必死に探す。

「これは難しい判断だと思います。人工呼吸器につなげば呼吸は楽になりますが、会話をすることは出来なくなります。ただし、現在、強心剤の投与で血圧は安定しています。上手くいけば、尿を出す薬の点滴を増やすことで、肺の水が減って呼吸が楽になる可能性はあります。そうすればこのまま乗り切れる可能性もあります」

 それまでまったく口にしなかった希望の言葉に、息子が色めき立つ。

「助かる可能性もあるんですか?」

「決して高くはありません。ただ、絶対にこのままだと助からないというわけではないことはお伝えしておきます。そしてこの先、薬にお体が反応しなくなった場合は、もう、人工呼吸器につなぐ時期は逸しているとお考え下さい。今のまま薬で粘って状態が悪化してから人工呼吸器に乗せても、長くは持たないでしょう。その上で、人工呼吸器に今つなぐかどうかを決めていただかなければなりません。どうしますか?」

 息子は何かを考えて黙り込む。それから母親を見る。母親は頭を振って、人工呼吸器の拒否の意思を改めて告げる。しばらくして、わかりました、と息子は答える。助かる可能性が少しでもあるのなら、このまま人工呼吸器につながずに治療を続けて下さい。あきらめるために人工呼吸器につながないのではない。人工呼吸器につながずとも助かる可能性に賭けて、息子は人工呼吸器につながない判断を下した。

 集中治療室から出ると家族はベッドサイドに向かう。その様子を見ながら、江崎は看護師に他の家族を呼んでもらうようにと告げる。

「何とかもちそうですか?」

 それまで黙って後ろに従っていた研修医が江崎におずおずとたずねる。医者になってまだ一年も経たない彼女は、直接生死にかかわるIC(インフォームドコンセント)に同席した経験はほとんどない。押しつぶされそうになる雰囲気で、あの面談室では呼吸するのも苦しかった。彼女の苦しそうな問いに、江崎は淡々とした口調で答える。

「もって半日だろう。カテコラミンはもう増量しない。これ以上、呼吸苦が増悪したら鎮静をかける」

「でも、さっきは助かる可能性も、」

「助かる可能性はない」

 そう言い切ると江崎はICUから出て行く。家族は患者の死を目の前にして様々な選択を迫られることがある。その選択に正解はない。ただどの選択をしても、どこかで家族は後悔し自分を責める瞬間がある。江崎はそのことをよくわかっている。だから、江崎は時に嘘をつく。選択した家族があとでその選択を後悔したり責めたりしないですむように。選択する理由を与えるためなら、江崎は時に嘘をつく。そしてそのことを恥じるつもりはない。だがそんな江崎の本心など知る由もない研修医は、家族に無責任なことを言った医者がICUから出て行く姿に困惑し、軽蔑すらした視線を投げかける。



 手術室の隣にある血管造影室では、交通外傷の少年のカテーテル治療が始まっている。放射線科と消化器外科の医師達が、血管内治療で脾臓からの出血を止めようと悪戦苦闘している。何とか出血を止めてICUに少年が戻ってくる。両親が少年に駆け寄り何か話しかけているが、少年はぐったりとしたままそれに答えない。

 治療を終えた消化器外科医の斎藤がICUに入ってくる。山上と春日はベッドから離れると斉藤に歩み寄る。

「出血は?」

「破綻していた血管は詰めた。メジャーな出血は止まっていると思うが、どこかでまだ出ている。止めたところもいつ再出血するかわからないしな」

「安心は出来ないか」

「安心? ヘマトクリットがさらに下がって尿も出なくなっているんだ。カテでやったのはただの時間稼ぎだ。開けるなら今しかないぞ。家族を説得してくれ」

 春日はベッドサイドの両親を呼び寄せ、再び面談室へと向かう。

「カテーテル治療を行いましたが、まだどこかで出血は続いています。貧血が進行し臓器障害が進んでいます。これ以上は危険です」

「先生。何度聞かれても私達の答えは変わりません。私達は他人の血液を受け入れることは出来ません」

「息子さんの命が危険なんです。子供の命を守るが親の務めのはずです」

「これは息子を守るためにやっているんです。息子の体に他人の血を入れることは出来ません。私達の血であっても、たとえ本人の血であっても一度体外に出たものは戻すことは許されないんです」

「許す? 誰が許すと決めるんですか?」

 春日は思わず感情的に聞き返す。ベッドの上で真っ白い顔で意識が朦朧としている少年の表情が脳裏から離れない。

「先生、わかって下さい。これは息子を守るためにやっているんです」

 しかし。春日は思わず大声を上げる。一度息を吐き、呼吸を整えてから春日は再度、両親の説得を試みる。

「時間がないんです。このままでは本当に命の保証が出来ません」

「輸血には同意出来ません。私達は、同意書にはサイン出来ません」

 両親の最後通告に春日はそうですか、とだけ答えると面談室をあとにする。

 ICUに戻った春日は山上と目が合うと首を振る。それからおもむろにPHSを取り出すと顧問弁護士の西園に電話する。

「小児科医長の春日です。大至急、倫理委員会を招集して下さい」



 OR4(第四手術室)では、今朝の交通外傷の手術が続いている。

 外科部長の中曽根が執刀し、加冬が第二助手として手伝っている。中曽根が後腹膜の血種を慎重に剥離する。血種をどけた途端、大量の真っ黒い血液が噴出する。

「ここだ、ここが破けている」

 下大静脈が裂けている部分を指で押さえながら中曽根が加冬を見る。

「修復出来るか?」

 中曽根の問いに、加冬はやります、と答える。

 中曽根はいいだろうと言うと、第一助手に加冬と場所を変わるように言う。加冬は中曽根の前に立つと下大静脈の修復を始める。



「何故、駄目なんです?」

 請求した倫理委員会の開催は認められず、春日は思わず机に手をついて詰め寄る。対峙する診療部長の御堂坂は深々と革張りのイスに背もたれたまま表情を変えずに春日を見ている。部長室の片隅では、長身にくせっ毛のスーツ姿の男が、腕組みをしたままむっつりと黙り込んでいる。

「このまま手を打たなければ本当に間に合わなくなります。助けることが出来るのに、みすみす死なせるんですか? それがこの病院の方針ですか?」

 普段は冷静沈着な小児科医でも子供の命がかかわると感情的になってしまう。プロ失格だなとも思うが、先程から荒い息で横たわる少年の顔が脳裏にちらつき振り払おうとしても簡単に出来るものではない。

「君の憤りはわかるが、未成年の治療を家族もしくは同等の親権者の同意なしに行うことは認められない。倫理委員会にかけるまでもない。これはルールだ」御堂坂は首を縦に振る気配は微塵も見せずに淡々と答える。「彼等の支援組織、いや、宗教団体と言うべきかな。彼等はいくつかの有力な弁護士事務所と顧問契約を結んでいる。同意書なしの輸血を断行した場合、彼等の支援団体は間違いなく病院と君を訴えることになる」

「訴訟が何だと、」春日は反射的に答えるがすぐにその言葉を飲み込む。部長の言葉は誇張でもこけおどしでもない。彼等は手術を受ける際には、無輸血が原因で死亡した場合でも病院側を訴えないという免責同意書にサインをして臨む。輸血するより死亡する方を選ぶという価値観を持ち、それが覆されればただでは済まない。そう、ただでは済まないことくらい、春日にだってわかっている。だからこそ倫理委員会のお墨付き、後ろ盾がほしかったのだが。

 がちゃり。その時、部屋の扉がノックもなく開く。思わず振り返ると、手術着の白衣をひっかけただけの目の下に分厚い隈の男が立っている。

「呼びましたか?」

 眠そうな目つきの日崎が御堂坂にたずねる。それから部屋にいる春日に気付くと眉間にしわを寄せる。

「めずらしい顔だな。俺の吊るし上げの証人に呼ばれたのか?」

 よせよと春日が小さく頭を振る。ふうんと日崎は部屋を見回す。弁護士と目が合う。不穏な空気を感じ取ったのか御堂坂に、出直しましょうか、とたずねる。

「いや、丁度いい。君の意見も聞いておこう」

 御堂坂に招き入れられ、日崎は扉近くの壁に手を後ろに組んだままもたれかかる。

「今朝の交通外傷で手術が必要な少年がいるが、信仰上の理由から家族が輸血を拒んでいる。春日先生はそれを曲げて輸血する権利を与えろと要求してきている。君はどう思う?」

 日崎はほおと顔を上げると春日を見て、それから御堂坂に視線を移す。

「何故、俺に聞くんです?」日崎の言葉に御堂坂が答える。「友人だろう。説得しろ」「友人? 彼は先週、地下駐車場の俺の駐車スペースに勝手に車を停めていました。友人ならそんなことはしませんよ」日崎の突然の告発に春日は思わず言い返す。「空いてたんだ」「空いてたら無断で使っていいのか? 緊急呼び出しで病院に来た時に駐車場が埋まっていたらどうする? それで手術の開始が遅れたら患者の命を左右するかもしれない」「君は今、電車通勤だろう?」「車をぶつけたんだ。空いているのは一時的だ」「一年も前から空いてる」「それは見方による」「よらない」「言っておくが、エレベーターに近い場所を手に入れるのに二年も待ったんだぞ。お前には譲らないからな」いい加減にしろ。ばんと机を叩く音が響き渡る。「お前達は一体何の話をしているんだ」言い合いをする二人に、御堂坂が一喝する。

「話を戻しましょう」それまで黙って部屋の隅にいた弁護士が言う。「日崎先生。あなたは今回の輸血に関してどう思いますか?」

 無表情な弁護士の問いに、日崎はふむと鼻を鳴らすと、壁にもたれかかったままそれからじっと春日と部長を見る。

「まぁ、俺から言えるのは一つだけです。今朝の多重外傷はひどかった。手術中の患者もいますが、手術室に辿り着けなかった患者もいます。俺は患者の胸を救急外来で開き、この手で直接心臓マッサージを行いましたがね、救えませんでした」

「何が言いたい?」

「今日はこれ以上、患者が死んだなんて話は聞きたくありません」

 日崎はそう言うと、小さく唇を鳴らす。それはつまり、少年を救えという意味だろう。賛同を得た春日は大きくうなずくと御堂坂を見る。御堂坂は身勝手にも見える二人の若い医者達を不満気に見返す。「つまり、君も同じ状況なら輸血をする、ということか?」だが御堂坂の問いに、日崎はいいえと首を振る。「俺ならやりません。確実に訴えられますからね」日崎の答えに春日は日崎の方を向く。日崎は目が合うとふんと鼻を鳴らし、それから首を振る。「ただ、こいつはやりますよ」そう言うと日崎は小さくうなずく。腐れ縁。医者になったばかりのころからの古い友人。頑固で、子供想いの小児科医。「こいつならやりますよ」

 それから日崎は、あとはご自由にと言わんばかりに両手を挙げてみせると黙り込む。春日は改めて御堂坂に向き直ると、強い口調で言う。

「何か手はないんですか? まだあの子は生きているんです。今ならあの子を助けられる。この病院で助けられる子供を見殺しにするなんて、あってはならないことです」

「いいか、春日先生。われわれに彼等の信仰を否定する権利はない」

 それはたしかだ。だが、

「私が部長の立場なら同じことを言います。ですがまだ子供なんです。あなたの子供が同じ目にあっていたら、何とかして手を差し伸べようとするはずです」「私は自分の子供の輸血を拒んだりはしない」「そう。輸血を拒んでいるのは親です。患者自身が拒んでいるわけじゃありません」「そうはっきり言ったのか?」それは。本人への確認はまだしていない。だが今のあの少年に輸血のことを理解出来るかどうか。「春日先生、」御堂坂はそれから断固とした口調で言う。「君の気持はよくわかった。その上で結論を言う。未成年の治療の決定権は家族にある。家族の同意なしにいかなる侵襲的治療を行うことも許されない」それがルールだ。最後通告。だが、と春日は、それでも必死に食い下がる。「例外はあるはずです」そう、例外はある。「救急外来で本人の意識がなく、家族にも連絡が取れない場合は、同意なしで手術を行うことがあります」「意思が確認出来ない場合に公益性が高いと考えられる決断を下すことと、明確な拒絶をしている治療を行うことはまったく別次元の話だ。彼等は明確に輸血を拒否している。拒絶した侵襲的治療を行うことは医の倫理に反する行為だ」「医の倫理、なんて持ち出さないで下さい。本音は違うはずです。訴訟になれば多額の損害賠償請求が病院になされることになる。結局は金なんだ、そうでしょう? ですが金と少年の命を天秤にかけるなんて、それこそ医の倫理に反することです」「子供を思う君の気持はわかるがな、」御堂坂がいささか憤慨した表情で答える。「だが、君の大事なNICU(新生児集中治療室)の運営にも小児がんの先進的治療にもすべて金がかかるんだ。一人の患者を特別扱いして、多くの患者が不利益を被ってもいいのかね? 結論は変わらない。病院が破綻するリスクを負うことを私が認めるはずがないだろう」「子供の命がかかっているんです。大人が輸血を拒否するのは勝手にすればいい。あの両親が事故にあって輸血を拒んで死んだってそんなこと知るものか。ですが、子供なんです。彼が輸血を拒んでいるんじゃない」

「それを確認出来ますか?」

 突然の声。春日が顔を上げる。腕組みをしたまま二人のやりとりとじっと見守っていた弁護士が春日を見ている。「と、言うと?」「本人の意思です。輸血に対して、少年の意思を確認出来ますか?」「本人の意思は関係ない」御堂坂が強い口調で言う。「未成年の治療における法的な決定権は両親にあるんだ」「その通りです」弁護士が答える。「ですが、一つだけ方法があります」

 方法が、ある?

 春日が思わず弁護士に詰め寄る。

「どういう意味です?」

「その前に一つだけ質問があります。輸血をすれば少年は助かりますか?」

 弁護士の問いに、春日はええ、と答える。

「そうであれば、少年から輸血の同意書をとることが出来れば、のぞみはあります」

 弁護士の言葉に御堂坂は困惑した声で言い返す。

「どういうことだ。法的な決定権は両親にあるはずだ」「おっしゃる通りです」弁護士はそう答えると、ですが、と付け加える。「未成年の治療における保護者の決定権には例外があります。明らかに患者本人に不利益な選択を保護者がとる場合、病院側が暫定的後見人となり治療の同意権限を得るという判例があります。今回の場合、輸血を行わない場合、少年の不利益になることは確定的です。患者本人から同意をとることが出来れば、保護者の同意なしに輸血を行うこと自体の正当性はあります」

「もし本人の同意がとれなければ、」春日が問う。

「その場合はあきらめて下さい。仮に、少年が出血により正常な判断が出来ない状態だったと訴えたとしても、それを証明するには時間がかかります。どのみち、それまでは輸血なしに生きられないでしょう。ですから少年の同意をとるのが大前提になります」

「たとえそんな判例があったとしても、彼等は確実にこの病院を訴えるぞ。勝訴するかどうかは判事が決めることだ。こちらに確実な正当性があるわけではない」

「その時はこちらも、これは虐待だと申し立てるしかないでしょう」

「信仰を理由にした輸血拒否は虐待とは違う」

「本人も輸血拒否をしていれば、そうなります。結局、本人の同意をとることが出来るかどうかが鍵です」

 だが、と言いかけて御堂坂は口をつぐむ。だが家族がそれを許すだろうか。少年から輸血に関する同意をとることは容易ではない。それを彼等はわかっているのだろうか。

「おっしゃりたいことはわかります。法的に微妙なこともたしかです。輸血をすれば間違いなく訴えられるでしょう。しかし輸血が行われず少年が亡くなれば、それもまたマスコミの格好の餌食です。子供を見殺しにした病院だと責め立てられるのは間違いないでしょう。どちらにせよ、矢面に立たされるのは顧問弁護士の私です。だとすれば私は、子供の命が助かる道を選びますよ」

 そう言うと、弁護士は小児科医に、同意をとって下さい、と告げる。小児科医はうなずくと、失礼します、と低く言い捨て部屋から出ていく。

「勝算はあるんだろうな」

 御堂坂が眉間にしわを寄せ、険しい口調で弁護士にたずねる。

「そんなに私を責めるような目で見ないで下さい。こうさせたのは部長じゃないですか」

「何を言っている」

「日崎先生の言う通りですよ」日崎が自分の名前が呼ばれ、怪訝そうに弁護士を見る。「春日先生はやりますよ。たとえ病院が禁止したとしても。訴えられるとしても、病院を首になるとしても。しかし彼を解雇すれば世間はどちらの味方をするか。少年の命を救うためにキャリアを投げうって輸血を行った医師と、それを解雇した病院。世間が彼の行為を非難するとは思えません。だからあなたは倫理委員会を開かなかった。倫理委員会が輸血を禁止したという議事録が残れば、輸血を断行した場合に彼を解雇せざるを得なくなりますからね。彼は輸血を行う。病院はそれを解雇せざるを得なくなる。そうすれば病院側も困った立場に追い込まれる。それを避けるために、あなたは密室で彼の意思をたしかめ、案の定彼はあなたの言うことに聞く耳を持たなかった。最良の方法は、私に法の抜け穴を見つけさせること。私はそれを果たしたつもりですが」

 もういい。御堂坂が言い、それでは私も失礼しますと弁護士は部屋を出ていく。御堂坂は扉が閉まると首を小さく振り、大きくため息をつく。

「部長も大変ですね」

 そう言うと、日崎は腕組みをして閉じられた扉を一瞥する。「それで、」日崎は御堂坂を見るとたずねる。「何かありましたか?」

 日崎の問いに、御堂坂はもう一度ため息をつくと、それから日崎に向き直る。

「研修委員会から苦情が入った」「何の話です?」「君が朝から衆人環視の中、研修医を怒鳴りつけたのが問題になっている」「怒鳴ってはいません」「人目のつくところで研修医を𠮟りつけるなんて、それで彼が研修をドロップアウトでもしたらどうするつもりだ?」「彼が何をしたかわかってそう言っているんですか?」「当直中に疲れて寝ていて病棟からのコールに出なかった、だが同期の他の研修医がカバーした。何か問題があるのか?」「当直中に電話に出ないことは許されません」「ここは軍隊じゃない。君だって寝飛ばしたことが一度くらいあるだろう?」「俺には一度もありません」「とにかく、研修医への教育は、研修委員会の定めた方針にのっとってやるんだ。彼等は君の兵隊ではない」ですがね、日崎が言い返そうとするが、御堂坂は有無を言わせぬ口調で、日崎、と念を押す。「この国で、毎年何人の医者が自殺をしていると思う? 昨年の研修医の自殺が社会的にどれほどの問題になったか忘れたわけではないだろう」時代は変わったんだ。そう言うと御堂坂は、話は以上だ、と告げる。わかりました。日崎は不服そうに部屋から出ていこうとするが、その背中に御堂坂が厳しい口調で言う。「間違っても、このことで彼を責めたりするなよ」日崎はふんと鼻を鳴らすと、覚えておきます、そう言い捨てる。扉を開けた日崎の背中に駄目を押すように御堂坂が言う。「使っていないなら駐車場を病院に返せ」日崎は答えずに部屋から出ていき、扉が閉じると御堂坂は三度目のため息をつく。



 ICUに戻った春日は少年のベッドサイドに向かう。ベッドサイドには両親がつきっきりで少年の手を握り、話しかけている。彼等の少年への愛情を疑う余地はない。だがそれでも、彼等の判断が少年の命を危険にさらしていることもまた事実だ。春日は山上から検査結果を受け取ると、両親に話しかける。

「先程からさらに貧血が進行しています。これ以上は待てません」先生、父親は頭を振ると春日に断固として言う。「輸血には同意しません。このまま、出血が止まらないのなら、早く手術を始めて下さい」「現状では、とても手術に耐えられません」「この子は強い子です。きっと手術を乗り越えます。ですから、早く手術を始めて下さい」春日は大きく息を吐くと、それから声を落として父親に告げる。「仮に息子さんに輸血をしたとしても、それは個人情報で秘匿されます。他の信者の方に知られることはありません。仮に知られたとしても、息子の命を助けるために、信仰を曲げたとしても誰にそれが責められると言うんですか? 輸血しなければ、もうもたないんです」「他の信者の目を気にしてやっているんじゃないんです。理解してくれとは言いません。あなた方に私達の教義を強要することもしません。ただ、私達は私達の信仰を守りたいんです。それを止めることは、誰にも出来ないはずです。息子も、そのことはよく理解しています」理解しているだと?「本当に理解していますか?」「どういう意味です?」「まだ子供ですよ。本当に信仰を理解していますか?」「子供だから判断能力がないとでも言うのですか? この子はもう十分に成熟しています。このことは小さい頃から何度も話し合ってきたんです。この子も十分に理解しています」父親はまったく迷いない口調で言う。春日が再度反論しようとした時、ICUに一人の長身の男が入ってくる。

「病院の顧問弁護士の西園と言います」

 長身の男が両親の元へとやってくる。

「顧問弁護士?」

 西園の登場に、両親の表情が曇る。きっと今までも、自分達の身の回りで、無輸血をめぐり何度も面倒な議論があったのだろう。だが西園は敵対するつもりはありませんと言わんばかりに書類を両親に手渡す。

「無輸血で手術を行います。無輸血によるあらゆる合併症および手術の結果において、病院は一切の責任を負うものではないという免責同意書になります。こちらにサインをいただけましたら、無輸血で手術を開始します」

 両親は、むろんすぐにサインしますと答える。

「特別な書類になりますので、ご両親両方のサインが必要となります」

「わかりました」

「それじゃあ山上先生、説明をお願いします」

 西園の言葉に、山上は怪訝そうにうなずくと、書類を受け取る。

「お願いします」

 西園の言葉に、はい、とICU看護師長がうなずき、家族をベッドサイドから離れるように促す。「では、こちらに。詳しくご説明します」看護師長が山上と共に家族を面談室へと案内する。両親が席を外したのを見計らい、西園が春日に鋭い声で告げる。

「話せ」

 春日はベッドサイドに立ち、少年に顔をよせ話しかける。西園が二人の会話の録画を始める。二人の様子を、看護師が驚いた表情で見ている。

「先生の声が聞こえるかい?」

 少年は苦しそうにうなずく。

「君は事故にあってお腹を怪我しているんだ。血がいっぱい出てね、でも手術をすればすぐに元気になれるよ。わかるかい?」

 少年はうなずく。

「でも君を治すには、輸血をしなければならないんだ。輸血ってわかるかい? 怪我をした人を助けるために、他の人が血液をくれることだよ。優しい人から血液をもらって君の体に入れるんだ。そうして手術をすれば、君は元気になれるし、学校にもまたすぐに行ける。友達ともまた一緒に遊べるよ。輸血をしてもかまわないかい?」

 しばらくして山上と一緒に両親が戻ってくる。

「同意書にサインをもらったぞ」

 山上が言うと、春日は両親に向き直る。

「こっちももらった」

 春日の手には一枚の書類がある。

「息子さんが輸血に同意しました。本人の同意を得たため、輸血を行います」

「どういうことだ」

 混乱した父親が大声を上げる。

「先程、息子さん本人に、今、どういう状況で、輸血をしないと命が助からないことを説明しました。息子さんは、死にたくないって言っていますよ」

 春日の言葉に父親は思わず白衣の襟を摑む。

「私達をここから追い出して、息子をたぶらかしたのか?」

「息子さんへの説明は正当に行われました。息子さんを脅すようなことも、誘導的な説明も一切行っていません。これは弁護士としてその現場に立ち会った私が証言します。なお、春日医師が息子さんにICする様子は録画もしており、こちらも必要であればいつでも提出いたします。息子さんへの説明は正当に行われました。そして息子さん自身が、輸血と手術を希望しています」

「息子は未成年だぞ」

「息子さんはもう十分に成熟している、きちんと信仰についても理解している、そうおっしゃいましたね。十分に信仰について理解した上で、判断したんです。まだ死にたくないと」

「もし輸血をすれば病院を告訴する」

「かまいませんが、これからわれわれが行う治療を妨害することがあれば、あなたを児童虐待で告発します」

「何だと」

 西園は両親がサインしていた免責同意書を手にするとぐしゃりと握り潰す。

「これは不要です。輸血を行います」



 西園に掴みかかった父親が警備員によってICUから退室させられると、少年が手術室に向かう準備が速やかに進められる。クロスマッチを終えていた輸血がすぐに届き、投与が始まる。「手術室は準備が出来ています」手術室師長の美咲がやって来て、少年はベッドのままICUから手術室につながる通路に運ばれていく。入れ違いに、手術を終えた腹部外傷の患者がICUに運び込まれる。

 ICUに入った患者に看護師達が集まり、速やかにモニターを付け替え、点滴が整理されていく。手術を終えた腹部外科の医者達が、術後の指示を看護師に出す。慌ただしく処置が続く様子を、顎までマスクを下げた長身の女医が一歩離れた場所で眺めている。そこに手術を執刀した外科部長の中曽根がやってきて話しかける。

「加冬先生、君のIVCの修復は見事だった。流石、神宮寺君の愛弟子だな」

「恐縮です。本日はお手伝いのチャンスをいただきありがとうございました」

「君の技術は大したものだ。うちにも君の半分でも有能な若手がいればいいのだがな」

「また是非お手伝いさせて下さい。勉強になりました。ありがとうございました」

 一礼して立ち去ろうとした加冬を中曽根は再び呼び止める。

「今朝もそうだが、最近は外傷の重症患者が少なくない。科を超えて、協力して治療に当たる体制作りが必須になっている。今度、我々一般外科から何人か選抜して整形外科、脳外科、形成外科と合同で外傷チームを作ろうと思っている。君にも是非参加してほしい」

「私が、ですか?」

「考えておいてくれ。君はこの病院に必要な外科医だ」

 仲曽根はそう言うと、ベッドサイドに歩いていき部下に何やら指示を出す。加冬はその様子を見ながらずり下げたマスクの紐を引きちぎる。



 OR5(第5手術室)で少年の手術が始まっている。

 加冬は手術室の廊下からその様子を窓越しに見ている一人の男に気付く。着慣れない手術着にキャップとマスクを着けた春日に加冬は話しかける。

「大変だったらしいですね」

 春日は加冬をちらりと見ると、手術室に再び視線を戻す。

「めずらしいな。今日は一人か?」

「いつもセットじゃありませんよ。あの人とは先生の方が一緒にいる時間が長いと思っていました」

「変な噂を流さないでくれよ」

 加冬はふっと笑うと手術室を見る。

「同意なしの輸血をよく弁護士が認めましたね」

「ナマズの英断だよ。だがこれからどうなるか」

「訴えられます?」

 春日は唇を鳴らすと、それでもあの子が助かるならこうする価値はある、とつぶやく。

 加冬はそうですねとうなずくと、それじゃあとその場を離れる。

 春日の視線の先では、少年の手術が続いている。



 ICUでは江崎が難しい顔をしてベッドの前に立っている。

 ベッドの上の老人は苦しそうに顔を歪め、荒い呼吸を続けている。モニター上は心拍数が跳ね上がり、血圧はゆっくりと下がってきている。

 看護師に案内されて、妻と息子夫婦がベッドサイドにやってくる。江崎は彼等に静かに状況を説明する。

「強心剤を限界まで増やしましたが、循環が維持出来なくなってきています。肺に水がたまり呼吸困難になっています。最後に確認しますが、本当に機械につなげなくてよろしいですか? もちろん、今となっては人工呼吸器につないでも、半日か一日延びるだけだと思います。どうしますか?」

 いえ、機械は結構です。息子ははっきりと答える。

「ただ、今、あまりにもつらそうなのは、何とかなりませんか?」

「これから鎮静剤を投与して苦痛を緩和します。そうすると苦しさはとれますが、呼吸が止まる可能性があります。よろしいですか?」

 息子は母親にこれでいいね、と声をかける。

 妻は夫の手を握ったまま、しっかりとうなずく。

「わかりました」

 江崎は看護師に鎮静剤の投与を指示する。

 ICUから出ると、追いかけてきた研修医が江崎を呼び止める。

「あの、先生、」息を切らした彼女は江崎にもう出来ることはないのかとたずねる。「あとは待つだけだ。多分あと数時間で心臓が止まる。死亡宣告の時には、ICUから君にも連絡させるようにする」そう言うと歩いていこうとする江崎に研修医があの、ともう一度声をかける。「何だ?」江崎が立ち止まる。だが、声をかけたものの彼女は自分の心のうちに渦巻く感情のさざ波を上手く言葉に出来ないでいる。死んでいく患者を前にして、自分が何をすれば、どうふるまえかいいかとまどっている。「そうか、」江崎が言う。「君はまだ人が死ぬということがわかっていないんだな」どういう意味だろうか。彼女は江崎を見る。「いいか。どんなに金を持っていても、どんなに権力があっても、どんな偉人であろうが人は死ぬ。みんな、等しく、必ず死ぬ。それだけがこの仕事の絶対的な不文律だ。だから命は平等なんだ。優劣はない。人は必ず死ぬ。君はまだ若いからな、家族が死んだ経験もないのかもしれないが、君の祖父母も両親もいずれ死ぬ。いいか、死ぬんだ。誰でも死ぬ。だからな、どう死なせるかを必死に考えてやることも、医者の重要な仕事の一つだ」そう言うと江崎は医者になったばかりの少女に告げる。「今日はもう他の仕事はしないでいい。ICUに行って、あの患者が亡くなるまでずっとついていろ。何もしなくていい。ただ、そこにいろ」

 そう言うと、江崎は彼女を残して歩いていく。



 加冬は手術着に白衣を引っかけた状態で医局に戻る。

 コーヒーを淹れ、ソファに座ると息をつく。慌ただしい一日だ。ちらりと時計を見ると、もう夕方になっている。飲み終えた紙コップをゴミ箱に投げ入れると、ふと、医局の隅に無言で座っている一人の男が目に入る。電子カルテの前に座ってはいるが、まったく手は動いておらず誰かに声をかけてもらうのを待っているかのようなその姿に、加冬は呆れ半分でため息を一つつき、うなだれた研修医の横に立つ。

 加冬の存在に気付き、研修医の君沼はちらりと見上げるが、その相手が自分を叱責した心臓外科医の部下であることに気付き、慌てて画面に視線を戻す。加冬は表情を変えずにじっと研修医を見下ろしている。

「そうやって誰かになぐさめてもらうのを待つ暇があったら、さっさと帰ってちゃんと寝て、明日からまた頑張りなさい。信頼を取り戻すにはそれしか方法はない。ここに座っていても誰もあなたをなぐさめたりしない。みんな同じ道を通って一人前になるの。さっさと帰りなさい」

 加冬なりの励ましのつもりだったが、伝わらなかっただろう研修医は、同じじゃないですとつぶやく。「先生と違って僕は才能もないし、」

 才能か。加冬はふと、自分が心臓外科医になったばかりの頃を思い出す。

 あの頃、日崎はまるで心臓外科から追い出すのが目的かのように自分に厳しい態度を見せた。口をきいてもらえず、手術中に手伝おうと手を伸ばしたら、お前は何もするなと器具を自分の手の届かないところに置かれた。存在を無視され、直接は言われなくともお前には才能がないと毎日蔑まれた。

 そんなある日、救急外来に腹部大動脈瘤が破裂した患者が運ばれてきた。心臓は止まりかけ、その場のほとんどのスタッフがもう手遅れというムードだった。心臓外科医になったばかりの自分は救急外来で右往左往するだけで、どうすればいいかわからなかった。そこに手術室から駆け付けた日崎が救急外来に飛び込んできた。そして自分の姿を見つけると大声で怒鳴る。

「どうするかはお前が決めろ。お前は心臓外科医だろうが。正しいことをしろ、いいな。正しいことをしろ」

 加冬は手術室に運んで下さいと答えた。

手術は日崎と二人で行った。初めて日崎は加冬にまともに助手の仕事をさせた。それまでひたすら手術を見ていた加冬は、自分が何をすればいいか体が勝手に動くのを感じた。それまで我慢して我慢してただ見ていただけの時間が無駄でないことを知った。日崎は信じられない速さで血の海を泳ぎ、大動脈と人工血管を縫い上げ、そして私に言った。「助かるぞ」その言葉には私は自分の視界がぼやけるのがわかった。患者の治療で涙を流したのはそれが初めてだった。

 あの日があったから、それから続く苦しい修業にも耐えることが出来た。そして自分の腕が上がるにつれて、日崎の加冬への対応は一人前の医者に対するそれになっていった。あの日、自分は初めて医者になった。誰もが諦めていた中、それでも歯を食いしばって、患者を助けるために闘う覚悟を決めたあの日、自分は医者になったのだと思う。その経験がある加冬は目の前の研修医に対して同情心は沸いてこない。

「みんな先生みたいに強くないんですよ」

 君沼は絞り出すように言うが、加冬はそれを冷たく切り捨てる。

「自分で決めなさい。彼等のことを尊敬し目指すことが出来ないのなら、やめるのね」

 甘えるな。



 ICUに手術を終えた少年が戻ってくる。

 手術を担当した外科医が両親に無事手術が終わったことを説明する。外科医に案内され少年の元に両親は駆けよる。少年はぐったりとしているが意識はあり、両親の姿を見つけると小さく笑う。少年の手を取り、両親は涙を流して喜ぶ。その姿を春日は少し離れた場所から見ている。それから両親は外科医に何やら言い、外科医が春日の元にやって来る。「君はもう、患者に近付くなと両親が言っている」ああ、それがいいだろうな。そう答えると春日は、手術ありがとう、と外科医に告げる。仕事だよ、そう言うと外科医はICUから出て行く。春日はふとICUの別の方向を見る。亡くなった患者が家族と共にICUから運び出されていく。循環器内科医の江崎と、研修医が共に患者と一緒にICUから出ていく姿が見える。



「とんでもないことをやったな。明日にも弁護士を連れて病院を訴えに来るぞ」

 医局のソファにごろりと仰向けになったまま日崎は言う。反対側のソファに座る春日は帰るところなのか、すでにスーツに着替えている。二人のいるスペース以外の電灯が落とされた夜の医局には、他には誰の姿もない。

「ナマズの言うことを真に受けて、裁判になればお前個人が損害賠償請求される可能性もあるんだぞ。言っておくが俺をあてにするな。お前に貸す金はない」

「車を直す余裕もない君に、期待なんてしていないよ」

春日の言葉に日崎はふんと鼻を鳴らす。春日は鞄を抱きかかえたままソファに背もたれると、そんな親友の姿を眺める。

「君の方こそ、今朝の一件、中曽根先生がご立腹だったぞ」

「病院は研修医の顔色をうかがいご機嫌をとるのに必死だ」

「今時の若者に、昔のやり方は通用しないよ」

 冗談じゃない。日崎はぐるりと顔を春日の方に向ける。

「かつて、この仕事は神聖だった。命を救うために人生を捧げる。だから感謝もされるし尊敬もされていた。一人前の医者になるために多くの犠牲を払うのは恥ずかしいことではなかった」

「僕達も年をとったな」

 日崎は再び天井を見ると、小さく唇を鳴らしてつぶやく。

「変わるべきじゃないこともある」

「それを強制も強要も出来ない。誰もが日崎功郎になれるわけじゃない」

「春日教明にもだ」

 日崎の言葉に、春日は怪訝そうな顔をする。

「お前はあの少年を救った。病院を動かし、輸血を行い、あの少年の命を救った。それなのにどうしてそんな浮かない顔をしているんだ?」

 春日は自分の心の内を見透かされているような気がして一度天井を仰ぐ。それから自分の中の迷いを一つ一つ確かめるように言葉を紡ぐ。

「あの両親が息子のことを愛していなかったとはとても思えない。本気で心配していたし、助かることを祈っていた。僕は最初、輸血を拒むのは他の信者の目を気にしてだと思っていた。いざとなれば、子供の命が本当に危なくなれば輸血に同意する、そう思っていた。だが実際には、最後の最後まで彼等は同意しなかった。輸血をしないことこそが息子のためになると本気で信じていた。だから、迷っている。あの家族にはあの家族の答えがある。そこに踏み込んだことは本当に正しかったのか、」

よせよ、日崎は不機嫌そうに鼻を鳴らす。「俺達が理解する必要はない」

「今日の僕は、あの両親に怒っていた。親が子供の運命を不当に決めることが許せなかった。だから僕は輸血をしたのかもしれない。彼等に怒っていたから、少年を救うためじゃない、両親を罰するために輸血をしたに過ぎないのかもしれない」

 おい、日崎が春日の方に顔を向けて声を荒げる。

「何を言っているんだ。くだらないことを言うのはよせ。お前は少年を救うために輸血をした。医者として、命を救うために。ただそれだけだ」

「本当にそう思うか?」

「まったく、付き合いきれん」

 そう言うと、日崎は目を閉じる。

 黙り込んでしまった日崎に、春日はソファから立ち上がる。踵を返そうとしたところで日崎がぼそりと言う。

「お前は正しいことをした」

 春日が日崎を見る。

「俺は誇りに思う」

 春日はその言葉に小さくうなずくと、お休み功郎、そう言い医局から出て行く。

日崎はちらりとその姿を見送ると、それからふっと息を吐き再び目を閉じる。

 やがて静かな寝息が聞こえてくるが医局には誰もいない。


20240520


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