医師・失格 (第一部)
眼鏡Q一郎
第1話 誤診
1993/11/18
11:32 p.m. OR3
真夜中の手術室。
無影灯の下で心臓外科医、日崎功郎が踊っている。
んんん、んーんー、んんんー。キャップにマスク、青いガウンに身を包み両手に魔法のかかった手袋をはめた日崎功郎が歌い踊る。音楽に合わせて頭を振っているが、2.5倍のルーペの下ではまばたき一つしない。ヘッドライトが頭の動きに合わせて小さく揺れる。右の踵がリズムを刻む。たんたんたんたんたん、たたたん、たたたん。
「すっぽかされたのか?」
日崎は直介の看護師から4-0ナイロンを噛んだ持針器を受け取ると右心房に針を滑らしながらたずねる。日崎の前に立つ、同じく青い手術着に身を包んだ女医は、日崎とは対照的に手以外は微動だにせず、その話はしたくありませんと答える。
「何度目だ? 向こうは本気で結婚する気があるのか?」
日崎がカットと言うと、女医はその話はしたくありませんともう一度言い、持針器が噛んだ針につながる青いナイロンの糸を切る。
「両親は何て?」
日崎の指先が踊り、糸が複雑に絡み合い結ばれていく。
「仕事なら仕方がないって」
「俺もしょっちゅうやる。こういう時、医者の仕事は役に立つ。緊急手術と言えば大抵のドタキャンは許される」
女医は呆れた顔で日崎をちらりと見たあと、結び終えた糸を切る。
「そんな目で見るな。俺にまともな社会性を期待する方が間違っている」
「期待してません」
「だが、患者と寝ない程度の倫理観は持ち合わせている」
「何よりです」
女医が小さく頭を振った時、OR3の扉が開く。キャップをかぶってはいるが、マスクを口元に押さえただけの見慣れない看護師が立っている。
「日崎先生、今よろしいですか?」
「日崎はいない」
間髪入れずに答えるが、女医は日崎を無視して入口に向かって答える。「どうかしたの?」
「救外にA型解離、誰か来れますか?」
日崎はちらりと目の前に立つ女医を見る。女医は一瞬うんざりした顔で視線を天井に向ける。今夜二件目の緊急手術か。
「手術中だぞ」日崎は迷惑そうに言うが、看護師は意に介さず言い返す。
「だからわざわざここまで来たんです。ショックバイタル、意識レベルは三桁、心タンポナーデです。来れますか?」
日崎は小さく舌打ちをすると、音楽を止めろと鋭く言う。外回りの手術室看護師が音楽を止める。日崎は振り返るとER(救急外来)看護師を見る。彼女は淀みなく患者の情報を伝える。「三十一歳男性、発症は二時間前。胸痛で救急要請、搬送中に意識消失。造影CTでA型解離と診断、ERで山上先生が待っています」
三十一歳だって? 若過ぎる。
「手術が終わるまであと三十分はかかるわよ」
女医の答えに救急外来看護師は、こちらも待てませんと答える。
日崎は術野を見る。吻合はすでに終わっている、止血も問題ない、ここからは一人でも十分だ。患者の頭元に立つ麻酔科医と目が合う。「麻酔は?」日崎の問いに麻酔科医も疲れ切った顔でうなずいてみせる。「誰か呼び出すさ」
まったく。
日崎は喉の奥で小さくつぶやくと、ER看護師にたずねる。「当直の研修医は?」
「まともなのは斎藤先生だけ。あとは三馬鹿がより取り見取り、誰を呼びますか?」
「斎藤に手を洗って手術に入るように言ってくれ」
日崎は自分の前に立つ女医を見る。
「加冬、こっちは閉じておく。ERに行ってこい」
仰せのままに。女医は手術台から離れると手袋を脱ぎ捨てる。外回りの手術室看護師が素早く彼女のガウンを脱がせ、頭に着けていたルーペとヘッドライトを取り外す。看護師から院内PHSを受け取ると彼女は日崎に言う。
「私がいなくても、一人でちゃんと閉じれます?」
「くだらないことを言ってないでさっさと行け」
女医は救急外来看護師と一緒にOR3を出ると、手術室の廊下を足早に歩きながらキャップを脱ぎ捨てる。どうやってそのキャップの中に押し込んでいたのか、長い髪がばらりと広がる。ゴムで髪を束ねながら彼女は看護師に、家族は、とたずねる。こちらに向かっています。看護師の言葉に彼女は急ぎましょう、と走り出す。何て夜だ、今夜は眠れそうにない。
モニターの音だけが響く静かな手術室に一人とり残された日崎は、ふうと小さく息を吐くと外回りの手術室看護師に言う。
「音楽だ」
11:45 p.m. ER
ばん。扉が開き、長い髪を後ろできゅっと結んだ背の高い女医が、手術着に白衣を引っかけた姿でERに現れる。
「加冬先生こっちだ」
加冬の姿を見つけた救急医の山上が手を上げる。
「今夜は大盛況ね」
加冬は救急隊や医事課職員を押しのけながら山上の待つ5番診察室に入る。カーテンを開けると若い男性がストレッチャーの上に横たわっている。口に酸素マスクを着けられた男の顔面は蒼白で、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。加冬はグローブを着けると、男性に呼び掛けるが反応はない。瞳孔を見る。
「血圧60/42、意識レベルはJCS三桁。生食を二本突っ込んで何とか維持している。CTだ」
山上が電子カルテにCTの結果を映し出す。加冬は素早く画面をスクロールしながら全身の状態を確認する。
「派手に割れていますね。心嚢液も多い。AR(大動脈弁閉鎖不全症)は?」
加冬の問いに山上は小さく頭を振る。
「中等度以上、壁運動は良好。ここで心嚢穿刺をしていくか?」
いいえ、と加冬は目を細める。一筋垂れた前髪を気にもしない彼女の表情は引き締められている。彼女の頭の中でめまぐるしく選択肢が浮かんでは消えていく。緊急手術が必要な症例を前にした時、加冬はいつもこんな顔をする。高揚感と使命感、そして恐怖。様々な感情がない交ぜになった状態で、それでも加冬の頭脳は最適解をはじき出す。
「血圧は60あれば十分です。下手にドレナージして血圧が跳ね上がったら、それこそ再破裂で終わるかもしれません。このまま手術室に行きましょう」
言うなりPHSで手術室看護師に連絡を取る。「shock vital、何分に入れる?」折り返します。電話が切れると加藤は山上に輸血のオーダーを依頼する。「RBC10単位、FFP10単位、血小板20単位のオーダーお願い出来ますか?」山上が電子カルテに向かうのを確認したあと加冬はERの看護師に告げる。「準備出来次第、このままオペ室に向かいます」
加冬の言葉を合図に、5番診察室のスタッフが慌ただしく動き出す。看護師は搬送の準備を始め、山上は研修医に細かく点滴の指示を出す。加冬はCT以外の検査に素早く目を通す。意識障害は心タンポナーデによる一時的ショック状態によるものか、それとも頸動脈に解離が及んだことによる脳虚血が原因か。もう一度、瞳孔を確認する。瞳孔は散大、それでも単なるショックバイタルによるものなら術後に意識が戻ることは少なくないが、広範囲脳梗塞を起こしているなら絶望的だ。解離を修復し脳血流が改善したことで、脳出血をきたす可能性もある。そうなれば意識どころか命の保証がない。三十一歳だ、死ぬのは早過ぎる。
加冬は手術同意書を用意すると、看護師に家族の到着を確認する。まだ時間がかかるという答えに連絡先は、とたずね、看護師から電話番号のメモをもらう。机の上の電話に手を伸ばし、外線で家族の携帯電話に連絡する。「もしもし、こちら学都総合医療センターの心臓血管外科の加冬と申します」加冬は受話器に向かってしゃべりながら同意書を看護師に手渡す。加冬は患者家族に、本日救急搬送されたこと、緊急手術が必要なこと、家族の到着を待てないこと、手術の必要性と危険性、輸血について、麻酔について、身体抑制について、今まで何百回も繰り返し口に出してきた文言を務めて冷静に説明する。半分無意識で決まり文句をしゃべりながら同時に電子カルテを操り、患者の病歴を洗い出そうとする。既往歴に内服歴。患者IDから見て、過去にもこの病院の受診歴があるはず。次、次、次、ページをめくる。え、これって、まさか。思わず加冬の指が止まる。
「いえ、すいません、何でもありません。はい、ではこれから手術をさせていただきます。手術の同意を口頭で得たということで、病院に到着されてから同意書にサインをいただくことになります。はい、では病院に到着されましたら受付に声をかけて二階にある集中治療室に来て下さい。そちらで看護師が手術同意書をお持ちします。はい、では、手術のあとに。気を付けてこちらに向かって来て下さい」
加冬は受話器を置くと、左手で口元を覆う。はらりとまた何筋かの前髪がこぼれ落ちる。気にもせずもう一度電子カルテの画面を確認する。
「加冬先生、」
背後から呼ばれ振り返ると、患者の搬送準備はすでに出来ている。モニターをちらりと見る。血圧58/31、時間はあまりない。
「手術室の受け入れはOKです」
「行きましょう」
加冬と看護師は患者の横たわるストレッチャーを押しながらERを出て行く。
1993/11/9
0:38 a.m. エレベーター
加冬と看護師は患者をエレベーターに乗せ手術室のある二階に上がる。
夜の手術室の廊下は暗く、灯りのついているOR3から手術を終えた患者が日崎と共に出てくるのが見える。日崎の後ろで一緒にストレッチャーを押す研修医は青い顔をしている。研修医から恐れられ忌み嫌われている心臓外科医と、密室の中で二人きりの手術を突然まかされた悪夢の中にまだいるらしいが、そんなことを気にかけている暇はない。二人の患者の距離が近付く。「OR1で木山がスタンバイしている」すれ違いざまに日崎が言う。「そっちは問題ありませんか?」「人のことはいい。自分のことに集中していろ。こっちの患者をICU(集中治療室)に突っ込み次第、俺もすぐに行く」「急いで下さい、さっきから血圧が下がっています」
二つのストレッチャーはそれぞれ廊下の反対方向に進んでいく。術後の患者をICUに運びながら日崎は舌打ちをし、加冬は表情を崩すことなくOR1に向かう。
がこん。
加冬がフットスイッチを蹴り上げるOR1の扉を開く。
手術室の中では麻酔科医の木山やME(臨床工学技士)が患者を待ち構えている。
「1、2、3、」
加冬の合図で患者がストレッチャーから手術台に移される。
ERですでに両手の動脈ラインはとってある。麻酔科は素早く筋弛緩薬を投与後、気管挿管し、頚部を消毒するとCV(中心静脈)ラインの挿入を始める。加冬が電子カルテを開いてモニターにCT画像を映し出したところで、日崎がOR1に慌ただしく入ってくる。
「まだ生きているか?」
「CTを見て下さい」
CTを見た日崎は、かなり拡張しているなとつぶやく。大動脈径は基部から上行大動脈にかけて50㎜を超えている。「マルファンか?」つぶやいた直後、患者をちらりと見るが、体型的には違いそうだなとつぶやく。CTを操る日崎に加冬が低い声で言う。「問題があります」「何だ?」「一カ月前のCTです」加冬が別のCT画像をモニターに映し出そうとしたところで、突然麻酔科医が大声を上げる。
「血圧が落ちた」
二人が振り返る。モニター上の血圧は48/28。
「ボリュームに反応しない。心嚢液が増えている」
経食道心エコーを操りながら麻酔科医の唸り声に、はじかれるように二人はルーペとヘッドライトを着けOR1から出て行く。
OR1をいったん出ると、廊下にある手洗い場で二人は手を洗う。加冬は先程言いかけたことを日崎に伝えようとする。「先生、言っておくことが、」あとにしろ。日崎は一蹴すると泡を洗い流すのもそこそこに踵を返す。
がこん。
日崎はOR1のフットスイッチを蹴り上げる。掌を自分の顔に向けて両手を上げた二人の医者がOR1に入る。
手を拭いてガウンを着る。魔法のかかった奴をくれ。日崎はそう低く言いながら手袋をはめる。そこに、先程の手術の閉創を手伝った研修医が顔を出す。救急外来に戻ってもいいですかとたずねた瞬間、日崎はふざけるな手伝えと叫ぶ。「さっさと手を洗ってこい」怒鳴られた研修医は慌ててOR1から飛び出して手を洗いに行く。日崎は舌打ちをしてモニターを見る。血圧は42/24。最高だな。日崎は唸るように外回りの看護師に叫ぶ。「音楽だ」
外回りの看護師が古いラジカセのスイッチを入れる。日崎は加冬に行くぞと声をかけ、二人の心臓外科医は患者の前に立つ。消毒された患者の体に素早くドレーピングし、日崎はタイムアウトもそこそこに直介看護師に右手を出す。
「メス」
日崎はためらうことなく患者の前胸部に一気にメスを走らせる。ぴっと赤い線が一筋走り、続いて電気メスで脂肪と筋膜が切開される。日崎が胸を開けると同時に加冬は患者の鼠径部を切開し、大腿動脈を露出する。心タンポナーデを解除した瞬間に再破裂する可能性もある。送血ラインを確保してから胸を開きたい。
「大腿出ました」
加冬の言葉に日崎は麻酔科医にヘパリン投与を指示する。加冬が手早く送血管を大体動脈に挿入したのを確認し、日崎はストライカー(胸骨刃)を手にする。
「ラングダウン」
麻酔科医が患者の呼吸を止めると同時に、日崎は胸骨を一気に切り上げ開胸する。そして心膜を切開した瞬間、心嚢内から血液が噴出し、ぱっと日崎のマスクに赤い斑点が散る。
「血圧上昇、」
麻酔科医が安心した声を上げるが日崎は逆に心嚢の切開部を指で押さえ声を荒げる。
「血圧が上がり過ぎだ。下げてくれ、再破裂するぞ」
「わかっているが心停止するよりいい」
「ゆっくりだ。ゆっくりタンポを解除する。吸引、加冬、ぼやぼやするな」
心膜を切り開く。心嚢内には大量の血種が溜まり、大動脈は黒々と拡張している。日崎の手が止まる。おい、と日崎が声を上げる。「どうしてこんなに癒着しているんだ?」
解離した大動脈は拡張し、肺動脈やSVC(上大静脈)、心膜の一部と癒着している。
「すごい癒着だな。元々動脈瘤があったのか? そこが解離したのなら、」
「先生、聞いて下さい。一カ月前のCTがあるんです」
「あとにしろ。まずは(人工)心肺だ」
日崎は4-0ナイロン糸がつながった針を走らせ右房に巾着縫合を置くと、速やかに脱血管を挿入し人工心肺に接続する。
「ポンプオン」がちゃりと日崎が脱血管の遮断鉗子を外す。「ポンプオンです」MEが復唱し人工心肺が開始される。これで循環は安定する。それで、と加冬を見る。加冬の指示で外回りの看護師が一カ月前に撮影されたCT画像をモニターに写す。
「患者は一カ月前に当院を受診しているんです。循環器内科で胸部のCTが撮影されています。見て下さい」
日崎は手術台から離れるとモニターを見つめたままつぶやく。
「大動脈径は正常だ」
「元々あった動脈瘤に解離が合併したんじゃないんです」
「じゃあどうしてこんなにも上行大動脈が拡張し、周囲に癒着しているんだ?」
日崎はそう言うと、もう一度CTの画像を睨みつける。拡大しろ、日崎の言葉に看護師が画像を拡大する。それから日崎はぽつりとつぶやく。
「解離している」
一カ月前に撮影されたのは造影剤を使用しない単純CT検査で、通常は急性大動脈解離の診断は困難とされている。だがこれまで何百例も解離の症例を見てきた日崎には、単純CTのわずかな変化でも解離を読み取ることが出来る。一カ月前に撮影されたCT検査、その時点で患者は急性大動脈解離を発症している。それはつまり、「見逃したんだ」
その時、OR1の扉が開くと手を洗い終えた研修医が入ってくる。日崎はガウンを着ようとする研修医に乱暴な口調で言う。「そこで何をしている?」「はい? いえ、ガウンを」「出ていけ」困惑した研修医を無視して日崎は外回りの看護師に追い出せ、と声を上げる。日崎の言わんとすることを理解した看護師は黙って研修医を部屋から追い出す。手術室から追い出された研修医は、何が何だか分からないという顔つきで薄暗い廊下に立ち尽くす。「ここでの会話を聞かせるな」おしゃべりな研修医にはという意味だ。日崎はそれから改めて加冬にたずねる。
「一カ月前に受診した理由は?」
「胸痛と呼吸苦で循環器内科を受診したようです」
「急性じゃない、一カ月前発症の慢性解離なら話が変わってくる。どうしてそのことを手術前に言わなかった?」
「先生が言わせてくれなかったんです」
「一カ月前に解離を発症、この一カ月で大動脈は拡張し周囲に癒着した」
「そして今日、破裂した」
日崎はもう一度、術野を見るとくそうと小さくつぶやく。大動脈は基部から大きく拡張し、治療範囲はかなり広く、拡大手術が必要になる。
「誤診だった」
加冬が低くつぶやく。
日崎はちらりと加冬を見る。
それからもう一度、目の前にむき出しになった心臓を見る。必死に生きている心臓を前に日崎は唇を鳴らすと、加冬、と名前を呼ぶ。加冬ははっとして日崎を見る。「始めるぞ」日崎の言葉に加冬は、はいと答える。
2:21 a.m. OR3
「大丈夫だ。弓部の内膜はきれいだ。頚部分枝の真腔狭窄もCentral repairをすれば改善するはずだ」
脳の血流は改善する。だが発症からここまでの時間、脳の血流不足が続いていたことは変えられない。しかも、慢性解離で周囲の癒着が強く、ここまでの手術時間はいつもよりもかかっている。それだけ脳虚血時間が長いということになる、が。
「目が覚めますかね?」
加冬は答えの分かっている問いを口にする。
「すでに広範囲脳梗塞が完成していれば、血流が改善したらかえって脳浮腫を起こす」
「あるいは脳出血」
そうだなと日崎は低く言う。脳ヘルニアを起こせば命の保証はない。
「一カ月前に発症した時は、脳虚血は起きていませんでした。再解離を起こして、解離の形が変ったんです。あの時に手術をしていれば、」
「今はよせ」
日崎は加冬の言葉を一蹴すると黙々と手を動かす。
日崎は過去に急性大動脈解離の手術を何百例も経験している。いい日もあれば悪い日もある。一定以上の技術レベルを超えている外科医にとって、手術が上手くいくかどうかは患者自身の条件による因子の方が大きい。助かる患者は助かり、助けられない患者は誰がやっても助けられない。それでもあきらめずに挑み続けなればならない。今日の日崎も、嫌な予感を必死に振り払いながら手を動かし続けている。
「基部はどうします?」
加冬の質問に日崎はすぐには返事をしない。
切開された大動脈の基部の内膜が、ちょうど基部から上行大動脈との移行部で大きく裂けている。大動脈基部自体も拡大し、大動脈弁の逆流も高度。通常なら基部置換をするべきだが、基部は強固に癒着しており、今からすべて剥離すれば人工心肺時間はさらに延びる。術前のショック状態の内臓へのダメージ、そして何よりも脳の虚血時間を考えると、拡大手術にどこまで耐えられるのか。
「三十秒くれ」
日崎はそう言うと目を細める。
理想的には自己の大動脈弁を温存した基部置換術だが十分な癒着剥離が必要になる。若い肉体なら拡大手術にも十分耐えられるはずだと思う一方で、人工心肺時間が延びれば脳浮腫を助長する。命を助けることを最優先するべきだという逡巡が頭を駆け巡る。そして二十八秒経過した時点で、いいや、と頭を振る。「弁置換と上行置換で行く。基部ギリギリでentry(内膜の亀裂部)を切除する。理論上はこれで基部の拡大は止まるはずだ」日崎はそう言うと、外回りの看護師に大動脈弁のサイザーを用意するように指示をする。人工弁の名前に加冬がはっとして声を上げる。「生体弁を使うんですか?」「機械弁を使えば術後に抗凝固薬が切れなくなる。脳出血を起こした時に致命的になる」「でも、」でも、と加冬は眉をひそめる。「いいんですか? まだ三十代です。生体弁はもって十五年、基部だって将来拡大すれば再手術になります」関係ない、と日崎は言い捨てる。「先のことは考えるな。これは救命の手術だ。生きて帰らなければ意味がない」将来必要になれば、また俺が責任をもって手術をする。「上行置換と生体弁で弁置換だ」日崎が低い声で言い、了解、と加冬は唸る。
手術はまだ終わらない。
8:52 a.m. ICU
はっとして日崎は目を覚ます。
不快な電子音が鳴り響く真っ暗な部屋に、一瞬自分がどこにいるのかを失念するが、胸ポケットで鳴り続けているPHSに日崎は現実に引き戻される。PHSの画面を見ると八時五十二分、ICUの当直室のベッドに倒れ込んでから一時間半が経っている。舌打ちをして日崎はPHSを耳にあてる。
「はい、日崎、」
「痙攣が起きました」
日崎は最後まで聞かずにPHSを切るとむくりと起き上がる。当直室のソファから抜け出すとICUの患者の元に足早に向かう。
日崎は眠っていてもICUの一日はすでに始まっている。
夜勤帯からの申し送りを受けた日勤帯の看護師達がせわしなく働いている。昨夜救急外来から入院となった患者をどこの科が引き受けるのか、医者達が押し付け合っている。救急当直を終えた山上が日崎に話しかけるが聞こえないふりをして日崎は1番ベッドに向かう。
二時間ほど前に手術を終えたばかりの患者の頭もとでは人工呼吸器の無感情な機械音が響いている。胸から生えている四本のドレーンからはまだじわじわとした出血が続いている。長い髪の毛の束が顔にかかった状態の加冬は、手術着に白衣を引っかけただけの姿で壁にもたれかかっている。三十分ほど仮眠を取っただけの加冬は不機嫌そうに口を開く。
「全身性の痙攣が二度起きました。ホリゾンで止まりましたが、今はdeep sedation(深鎮静)をかけています」
日崎はうんと首と肩を回すとベッドの柵に両手をかけ大きく息を吐く。
「瞳孔は?」
「対光(反射)は緩慢、CTに行きますか?」
「とりあえず寝かせて水引きをするしかない。単なる脳浮腫ならいいけどな、」
そう言いながら日崎はベッドサイドにしゃがみ込み、ドレーンの排液量を見る。
「出血は?」
「下火にはなっています」
ふう、と日崎は小さく息を吐く。術前からの一過性脳虚血と長時間の人工心肺による脳浮腫だけでも術後に痙攣が起きることは十分あり得る。その場合、後遺症を残さず改善する希はまだあるが。
「家族には?」
加冬の言葉に日崎は両手で顔をこすると、ああ、とうなずく。手術直後にも脳に致命的な後遺症が残る可能性は家族に話しているが、その可能性が高くなったことを改めて話さなければならない。家族はと日崎が問うと看護師が、一度家に帰っています、また午後に来るそうです、と答える。
「痙攣がまた起きたらすぐに呼んでくれ」
看護師に細かい指示を出し、日崎と加冬はICUを出る。
疲れた足取りで二人の心臓外科医は職員用にエレベーターに乗り込む。対峙するようにそれぞれの壁にもたれかかる二人の顔には、濃厚な疲労が浮かんでいる。不満そうな視線を投げかける加冬に、日崎はやれやれと唇を鳴らす。
「何が言いたい?」
わかっているでしょう、と加冬が低くつぶやく。
「一カ月前に、循内が解離を見逃したんです。あの時に手術をしていれば弁置換も必要なければ、将来の基部拡大のリスクも、何より脳に後遺症を残さずにすみました」「まだ後遺症が残るとは決まっていない」加冬は小さく舌打ちをする。「彼はスポーツインストラクターをしていたそうです。意識が戻っても麻痺が残れば致命的です」「そうだな」「誤診したんです」
誤診。
日崎が加冬をぎろりと見る。
「家族に言いますよ」
加冬の言葉に、駄目だと日崎は言う。
「何故かばうんです?」
がたんとエレベーターが揺れて八階で止まる。扉が開くのを待って日崎は加冬に言う。
「患者には知らなくていいこともある。お前は何も言うな」
日崎のPHSが鳴る。日崎は表示された名前を一瞥すると加冬を置いて歩き出す。歩きながら電話に出る日崎を加冬が追いかける。
「先生、」
振り返らず歩いていく背中を追いかけようとするが、思い直したように加冬は立ち止まると白衣のポケットに両手を突っ込む。遠ざかる男の背中に、何よ、くそ、と舌打ちをすると、シャワーを浴びるために当直室へと歩いていく。
9:22 a.m. 診療部長室
「入れ、」
部屋の中からの声に、日崎はノックした手で扉を開く。部屋の奥には大きな机が一つあり、その上は書類で埋まっている。書類の向こうに見えるのはネクタイに白衣の男。頭は禿げ上がり、銀縁の眼鏡をかけたその男は日崎の姿を見るとソファに座るように勧める。学都会総合医療センターの中枢に座る男、診療部長の御堂坂の言葉に、日崎は黙って部屋に入るとソファに座り深く背もたれる。なかなか姿勢が定まらず、居心地悪そうに肘掛にもたれかかった日崎は、部屋の隅に立つ一人の男に気付く。背が高く高級なスーツに身を包んだ男、学都総合医療センター顧問弁護士の西園はしかめっ面を浮かべむっつりと黙り込んだまま、日崎の方を見ようともしない。ナマズめ、日崎は小さく鼻を鳴らす。
「手術は無事終わったようだな」
日崎は御堂坂を探るように見たあと、ええ、と答える。
「問題があったと聞いたが」
どこで聞きつけたのか。日崎は唇を鳴らすと昨日の手術室スタッフの顔を思い浮かべたあと、それから努めて感情のない声で答える。
「みんな噂話が好きですね」
「誤診があったと、お前と加冬が話すのを聞いたと報告がった。ミスをしたのか?」
「聞き間違いでしょう」
「研修医を手術室から追い出したとも聞いている」
「俺がミスをしたとでも言うんですか?」日崎は身を乗り出すと大げさに肩をすくめてみせる。「それで朝から弁護士を呼び出して吊るし上げですか? 言っておきますが俺は関係ありませんよ。診断にも治療にも問題はありません」
では、と書類の向こうで御堂坂は双眸を引き締める。「一体誰がミスをした?」
日崎は再び深くソファに沈み込むと口を閉ざす。ちらりと弁護士を一瞥したあと唇を鳴らす。さて、どう答えるべきか。日崎は逡巡するが、すぐにどう答えても面倒に巻き込まれることに違いはないとあきらめ、淡々と昨夜の一件を話し始める。
「昨夜、急性大動脈解離破裂で救急搬送された患者の緊急手術を行いましたが、開胸すると明らかに慢性解離の破裂でした。記録では、患者は一カ月前にも胸痛で循環器内科を受診しており、その時点で解離を発症していた可能性が高いと思います。一カ月間放置され、昨夜、破裂した」
「彼等が見逃した、そう言うのか?」
日崎はその質問には答えない。
いいですか、とそれまで黙っていた顧問弁護士が口を開く。
「患者は一カ月前の時点で解離を発症していた。それを証明することが出来ますか?」
まるで日崎の言いがかりだと言わんばかりの挑戦的な口調に、日崎は少々苛つきながら返答する。
「気胸でも疑ったのか、一カ月前の受診の時点で単純CTが撮影されています。慣れていない人間には診断は難しいでしょうが、俺の目から見れば間違いなくあの時点で解離を発症しています」
「単純CTだけでは解離は診断出来ない」御堂坂が低い声で答える。
「出来る症例もあります」日崎は答える。
「CTを見よう」
部屋にある電子カルテを操りながら、日崎は一カ月前のCTを提示する。
「石灰化のシフトもない。これだけでは解離を起こしていたと断言出来ない」
「この部分は明らかに解離です」日崎は画像の濃淡を変えながらモニターを指差す。
「お前にしか見えないものを診断出来なかったことを責める気か?」
「いいですか?」再び口を挟んだ弁護士の顔を、日崎はあからさまに眉をひそめながら見る。「造影CTは撮影されていないんです。検査をして見逃したのなら問題ですが、検査をしていなかったことで誤診を証明することは出来ません」
弁護士の言葉に御堂坂もうなずくが、日崎は小さく頭を振る。
「検査をしなかったことも問題です。胸痛で来たんですよ。Coronary(冠動脈)に解離に肺塞栓をルールアウトすることは研修医でも知っています。確定診断には造影CTが必須ですよ」
「検査が必要だったかを判断する立場に私はありません」弁護士は事もなげに言い、日崎は呆れたように言い返す。「だったら口を挟まずに、黙って部屋の隅に立っていたらどうだ?」「軽々しく誤診、などと口にされては困るんですよ先生。それが外に洩れたらどうなると思います? 悪い噂が立てばそれがどんな問題を引き起こすかわかりません。その時に対処するのはあなたではない、私です」
そこまでだ。御堂坂が二人のいがみ合いに割って入る。血気盛んな心臓外科医と影でナマズとあだ名される冷酷な弁護士との言い争いは日常茶飯事だが、朝っぱらからそれに付き合わされるのは御免こうむりたい。御堂坂は二人を黙らせるとため息を大きく一つつき、イスにぎっと背もたれる。
「それで、患者の容態は?」
今もICUで循環動態は不安定なままだ。
「一応、生きていますが、」
「だが?」
「頭には後遺症が残る可能性が高いですね。破裂によるショック状態もありますが、術前、解離で頚部分枝が高度狭窄をきたしていました。それによる脳虚血の方が深刻です」
「だがお前は一カ月前に解離を起こしていたと言っただろう? 一カ月前に解離を起こしていたのなら、その時点から脳虚血を起こしていたと言うのか?」
「CTを見る限り、一カ月前の時点では解離は上行大動脈に限局していますが今回は上行から下行大動脈まで広がっています。再解離を起こしたんです。頸部分枝が解離し、破裂によるショック状態の両方の影響で深刻な脳虚血を起こしたんです。一カ月前に手術をしていれば、両方とも回避出来た」
なるほど。御堂坂はつぶやく。
「患者は三十代だったな」その問いに日崎は、ええとうなずく。「三十一歳です。自分より年下の手術は好きじゃない」「つまらん泣き言を言うな」御堂坂が諫めるように言う。その横でナマズが不機嫌そうに再び口を開く。「仮にです。仮に日崎先生の言うことが正しかったとして、患者が一カ月前から解離を発症していたとします」「仮にじゃない、事実だ」口を挟むな。御堂坂はそう一蹴すると西園に話を続けるように促す。「仮にそうだとして、問題はその時点で診断されていれば本当に結果が変わっていたかどうかです。日崎先生はその時点では解離は起こしていたが脳の虚血は起こしていないとお考えのようです。間違いありませんか?」ああ、と日崎はうなずく。「つまりですね、つまり、その時点で正しい診断がつき手術が行われていれば、三十一歳の男性が後遺症なく元気になった可能性が高いということになります。この意味が分かりますか? 日崎先生。あなたは今、この病院の誤診で一人の若者の人生を奪ったと主張しているんです。まさか裁判になってもそのように証言されるつもりですか?」
それは脅しか? 日崎がナマズを睨みつける。御堂坂は二人を一瞥したあと、いいだろうと低い声で言う。
「本日、関係者だけを集めて症例検討会を開く。一カ月前の時点で解離が本当に起きていたのか、起きていた場合それは防ぎ得る誤診だったのか。検討会での結論が出るまでは、この件については一切他言無用だ」
日崎は鼻を鳴らすと黙って立ち上がる。
「一カ月前、外来を担当したのは?」
「江崎先生です」日崎が答える。
「江崎にはお前からは何も話すな」
「家族にもですか?」
「家族にもだ。不用意なことは言うな。いいな日崎」
御堂坂の言葉に沈黙で答えると、日崎はそれでは失礼と部屋を出ていく。
9:41 a.m. 病院廊下
部長室から廊下に出ると、手術着に白衣を引っかけた一人の女性が日崎を待ち構えていた。縮れた長い髪の毛を後ろで束ねた猫のような目つきの彼女に、日崎はお前が言いつけたのかと不機嫌そうに言う。
「私には報告義務があるのよ」
「余計なことを。俺と江崎の二人で話して手打ちをすればそれで済んだ話だ」
日崎の言葉に、手術室看護師長の美咲は眉をひそめる。
「本気で言っているの? 隠しきれることじゃないわ」
日崎は取り合わず、そうだな、とだけ言い捨てると歩き出す。美咲は早歩きで日崎を追いかけると日崎と並んで歩く。
「患者の状態は?」日崎は答えない。「日崎先生、」答えない。「先生、」答えない。「功郎君」日崎は足を止める。
背はほとんど変わらない二人が顔を突き合わせて立つ。
「病院では名前で呼ぶな」日崎の言葉に美咲は小さく笑うが、すぐに表情が険しくなる。
「医者同士でかばい合う時代じゃないでしょ」
「かばう気はない。だがあいつの人生を潰す気もない」
「誰だってそうよ」
「お前にはわからない」
その言葉に美咲は大きな目をさらに大きく見開いたあと日崎を睨みつける。
「今月付でうちの手術室の看護師が辞める」
「そうか。俺の知っている奴か?」
「あなたが先月、手術中に看護師を辞めろと罵声を浴びせて手術室から追い出した子よ。もうここでは仕事を続けられないと言っている」
心当たりがあるのか日崎は舌打ちをすると天井を見る。しばらくして美咲を見ると日崎は冷酷な口調で言う。
「手術室では完璧が求められる。学生じゃないんだ。プロの振る舞いが出来なければ部屋から追い出されても文句は言えないはずだ」
「ここは教育病院でもあるのよ。彼女達を一人前にするのも仕事の一つよ」
「患者で練習させるつもりか?」日崎は両手を腰に当てると唇を鳴らす。「思い出作りをしているんじゃないんだ。命がかかっている仕事だぞ。自分の母親の手術の時に素人に手術についてもらいたいか?」
「あなたの部下じゃない。彼女達を指導するのは私の仕事よ」
「ああそうだ。君が手を抜くから俺が言わざるを得なくなる。君のせいだ」
「私の部下に口を出さないで」
「じゃあ君も、医者の問題に口を挟むな」
日崎はそう言うと再び歩き出す。その背中に美咲は強い口調で言う。
「彼女はあなたを懲戒委員会に訴えると言っている」
立ち止まった日崎は振り返ると美咲に歩み寄る。
「何だと?」
美咲はため息交じりに頭を振り、まじまじと日崎を見る。
「彼女は本気よ」
「自分が未熟なのを棚に上げて俺を吊るし上げるのか?」
「彼女にも非はあった。でも怒鳴ればあなたの負けなの」
「俺にどうしろと言うんだ?」
日崎の顔は怒りに歪んでいる。日崎の性格をよく知る美咲は落ち着かせるように声を落として言う。
「あなたが今後、二度と手術室のスタッフを怒鳴らないと約束するなら、今回は私が何とか彼女を説得する。委員会への訴えも取り下げてもらう。でも次はないわ」
「脅すつもりか?」
「これまでにも看護師からの苦情がどれだけあると思うの? 表沙汰になれば、あなたはここにはいられなくなる」
呆気に取られたように立ち尽く日崎に、美咲は強い口調で言う。
「こっちを見て。あなたは優秀な外科医だけど敵を作り過ぎる」
「俺を操ろうと思うな。君は自分が思っているほど賢くはないぞ」
そうね、と美咲は小さくつぶやく。
「だからこれは、賢人ならぬ友人からの忠告よ」
日崎は大きく息を吸い、それから不満気に唇を噛みながら何度かうなずく。
「わかった」
「怒鳴らないと約束して」
「約束する。これでいいか?」
「いい加減、大人になりなさい」
そう言うと、美咲は日崎を置いて歩き出す。日崎は大きく息を吐くと、その背中とは反対方向に歩いていく。
9:55 a.m. 外来棟
学都総合医療センター循環器内科医師、江崎英治は糊のきいた白衣を着こなし、颯爽と病院の渡り廊下を歩いていた。外来棟に入るとすれ違う看護師達が次々に江崎に挨拶をする。真っ直ぐに背筋を伸ばし、愛想よく挨拶を返しながら歩く江崎は、紛れもなく看護師人気の高い医師の一人だ。両親ともに医者の家系に生まれ一流大学の医学部を卒業した彼は恵まれたルックスも相まって、病院の中で確固たる立ち位置を築いている。
江崎が循環器内科の自分専用の外来ブースに着くと、彼専属のメディカルクラークがお早うございますと挨拶し、本日の外来患者の予約状況を説明する。江崎はざっと目を通すと始めようと明るい声で言い、最初の患者が案内されてくる。
「お早うございます。最初にお名前と生年月日の確認をお願いします」
江崎英治にとってはいつもの朝、いつもの光景。彼は患者と談笑しながらも的確に検査の指示を出し、内服薬を処方し、他の医者よりも幾分早いペースで患者をさばいていく。通常なら数時間はかかるだろう外来を、昼前にはすべての患者の診察をし終える。それもいつも通り。彼は自分の仕事ぶりに満足そうにうなずくと、それじゃあまた明日、と立ち上がる。クラークや看護師がお疲れ様でしたと頭を下げ、江崎は何でもないという顔で片手を上げてみせる。ここまではいつも通り、いつもと変わらない江崎英治の日常。
だが、この日、江崎の日常は突然打ち破られる。
江崎が立ち去ろうとした時、もう鍵を閉めようとしていた外来ブースの扉が突然開き、スーツ姿の男が姿を現す。禿げ上がった頭に眼光が鋭い鷲鼻の男がぐるりと診療ブースを見回し、看護師とメディカルクラークは直立不動になる。この病院の診療部門の頂点に立つ男、御堂坂は怪訝そうな表情を浮かべた江崎に向かってにっこりと笑ってみせ、江崎は悪い予感に包まれる。
12:28 a.m. ICU
「どうしたの?」
束ねた髪の毛を振り乱しながら加冬がICUに駆け込んでくる。
1番ベッドに足早に近寄ると、担当の看護師が血液ガス分析の結果を加冬に手渡す。患者にかけられていた電気毛布をめくると、患者の右足が明らかに青白く冷たくなっている。加冬はすぐに患者の右鼠径部に触れるが、大腿動脈の拍動を触知しない。
「いつから?」
十分前に気付きましたと看護師は答える。血液ガス上も代謝性アシドーシスが進んでいる。右下肢に十分な血液が流れていない。加冬は舌打ちをすると、すぐに造影CTを撮りに行きましょうと看護師に告げる。看護師はその指示を見越していたのか、放射線はいつでも受け入れオーケーですと答えるとベッドの柵を上げる。
「家族を呼んで」
加冬はベッドの車輪のロックを蹴って外すと、看護師と共に患者をICUから運び出す。
12:48 a.m. 診療部長室
御堂坂が自らの足を運んで江崎を呼び出したのは、あくまで病院側は循環器内科と対立する気はないということを示す最大限の配慮だったが、診療部長室に並んで立つ循環器内科部長の堂本と江崎の二人の表情は硬く、明らかに御堂坂に対して身構えている。御堂坂は気にする素振りも見せずCTの画像を供覧しながら二人に状況を説明する。
「このCTでは、一カ月前の時点で解離を起こしていたとは断定出来ません」
循環器内科部長は強い口調で言う。
「放射線科の読影でも解離については触れていません。この画像で解離が起きていたなんて言いがかりもいいところです」
江崎が言い堂本も深くうなずく。御堂坂は自分の机につくとペンを片手にモニターの方を指し示す。
「日崎先生はそこの若干のhigh densityの部分が偽腔内の血種だと言っている。解離の専門家である彼の指摘は無視出来ない」
「あんな若造の意見を真に受けるんですか?」堂本は明らかに苛立っている。「神宮寺先生の手前、我慢しているんです。大体、彼のキャリアで部長に昇進させるなんて、あなたは外科医に甘過ぎます」
「彼はあくまで部長代理だ。神宮寺先生不在時のな。だが今がその時で、今の心臓外科の責任者は彼だ。彼の意見は君と同じくらい重い」
「自分が元外科医だからといって、外科医の肩ばかり持つのは納得出来ませんな」
「私は今でも外科医だ」
「今のは失言でした」堂本は素直に謝罪する。「しかし、私の目から見ても、そして放射線科医の目で見ても、これが解離であるとは断言出来ないんですよ。騒いでいるのは彼だけ、いたずらに大きな問題にすべきではありません」
日崎を若造と呼んだ中年の循環器内科部長はあくまでうるさい小蝿を振り払うかのような物言いをする。予想はしていたが。御堂坂は冷静な口調で二人に告げる。
「いずれにせよ午後から臨時の症例検討会を開催する。二人共必ず出席するように。術中に切除した大動脈壁の病理結果が出れば、慢性解離か急性発症かある程度わかるはずだ。一カ月前のCTと比べて昨夜のCTで上行大動脈が著明に拡大していること、術中の肉眼的所見から慢性解離であること自体を覆すことは難しい。だがそれが一カ月前の受診した時点で発症した物なのか、あるいは一カ月前の外来から昨日までの間のどこかで発症した物なのか、現時点ではその両者の可能性があるということだ。仮に前者であるならそれが診断し得たかどうかが焦点だ。もちろん後者であるならこちらには一切の過失はないことになる。不意打ちをする気はないから君達二人をここに呼んだ。症例検討会までに十分準備しておくんだ。話は以上だ」
「どんな循環器の教科書にも、」江崎が思わず一歩前に出る。「解離の確定診断には造影CTが必要な旨が示されています。単純CTを持ち出して解離の存在を議論すること自体がナンセンスです」
「だとすれば、胸痛で来た患者に造影CTを撮影しなかった理由が重要になるな。君の診療の質が問われることになる。弁明はここではなく委員会でしたまえ。いいな、江崎先生」
それから御堂坂は二人を見回し、部屋から出ていくように促す。
1:12 p.m. ICU
ICUの電子カルテの前で日崎と加冬が顔を寄せ合って画面を睨みつけている。
「ここだ。右総腸骨動脈が解離で押されて真腔狭窄を起こしている。残存解離の形が変わったんだ。このままでは右下肢虚血で命を取られるな」「カテで広げますか?」「解離したばかりの血管にステントは置きたくない。バイパスを置こう。そっちの方が早くて確実だ」
日崎の言葉にわかりましたと加冬は手術室に連絡する。すぐに事態は動き出し、ICUの看護師は検査から帰ったばかりの患者を手術室に運び出す準備を始める。手術室と麻酔科の準備が出来ると、患者はICUから手術室へと運ばれていく。
両鼠径部を切開し、血流のある左の大腿動脈と、血流の途絶えた右の大腿動脈を人工血管でバイパスし、右下肢の血流を確保する。手術としては特に難しい手術ではないが。
「一カ月前に手術をしていれば、上行限局の解離はすべて切除出来ていたし、こんな合併症は起こしませんでした」手を洗いながら加冬が言う。並んで手を洗っている加冬の横顔を一瞥する。「今はよせ」加冬は不満げに鼻を鳴らすが、日崎は取り合うつもりはない。泡を洗い流した二人はOR3に入る。手術用のガウンを着ようとしたところで日崎のPHSが鳴り、外回りの看護師が代わりに対応する。
「もしもし、日崎先生のPHSです。手術室の前田が出ています。はい、はい、ええ、少々お待ち下さい」
看護師が緊張した面持ちでガウンに片腕を通した日崎に言う。
「御堂坂先生からです」
日崎は小さく息を吐くと、ガウンを脱ぎ捨てせっかく洗った手でPHSを受け取る。
「もしもし、ええ。はい、今からですか? ええ、そうですか、わかりました」
洗った手を不潔にしたということは、日崎はこの手術に入るつもりはないらしい。加冬はこっちはやっておきますと言い、日崎はPHSを持ったまま無言でOR3から出て行く。OR3の扉が閉まると、ガウンを着た加冬は看護師に言う。
「いい知らせといい知らせよ。私は日崎先生よりも歌が上手い。そして私は、歌わない」
看護師達が歓声を上げ、ドレープを受け取った加冬は、消毒を終えた患者に青い布を広げる。
2:15 p.m. 第5会議室
部屋に入るとすでに会議は始められていた。
巨大な会議室、中央には大きな机があり取り囲むように白衣の面々が座っている。診療部長の御堂坂、病院顧問弁護士の西園、循環器内科部長の堂本、看護部長、手術室看護師長の美咲、病院事務長、そして医療安全委員会の面々が並び、机の一方の端に、江崎英治が座っている。ノックもせずに部屋に入った日崎に視線が一斉に集まる。一瞬江崎と目が合うが無視して席に着く。すぐに日崎の存在は無視され、会議が再開される。
ぎっとイスに背もたれる。うつむくと目をつぶり頭の上の方でかわされる会話に耳を傾ける。「最初に言っておくがこの臨時症例検討会は誰か一人に責任を押しつけるためのものではない。何が起きたのかを医学的に検討し防ぐ余地があったのかどうかを検証する場だ。吊るし上げの場ではないことを最初に確認してもらいたい」どこか他人事のように聞こえる声が響いては消え、響いては消えていく。こうしていると月に二度行われる金曜日の夜を迎えた気分になる。死亡症例検討会。大きな講義室、すり鉢状の部屋の底に立たされた医者を大勢の医者が取り囲む。決まり文句は、これは吊るし上げではない医療の発展のためこの病院の成長のための建設的な話し合いだ。だがその実情は。
「ではまず江崎先生。当該患者をあなたは一カ月前に外来で診察しています。外来での経過を説明して下さい」
日崎は目を開けるとちらりと江崎の顔を見る。御堂坂の威圧感のある抑揚ない声に、江崎の表情には緊張感がにじむ。すり鉢の底に立つ医者と同じ顔。死亡症例検討会と同じ。少なくともまだ誰も死んではいないが。
「患者は三十一歳男性、胸痛と呼吸苦を主訴に循環器内科外来を受診しました。既往歴、家族歴に特記事項なし。喫煙などのリスクファクターもなく、動脈硬化疾患の可能性は低い状態でした。心電図検査、ACS(急性冠症候群)を積極的に疑わせる所見はなく、採血検査、心エコー検査を行いました。心臓壁運動は良好で、採血上もACSは否定的だったため、年齢からみて肋間神経痛と判断し、鎮痛剤の対症療法で帰宅としました」
なるほど。御堂坂はそうつぶやいたあとさらに厳しい視線をなげかける。
「患者は胸痛で受診し、ACSを第一に考えたことはわかりましたが、胸痛の際の重要な鑑別診断には肺塞栓、急性大動脈解離があります。検討はされましたか?」
「当然検討しました。肺塞栓につきましては、呼吸苦は軽度で酸素飽和度の問題もなく、心エコー検査で右心系の拡大も認めず除外しました。急性大動脈解離につきましてはエコー検査でも上行大動脈の著明な拡大や明らかな内膜のflap、心嚢液貯留、大動脈弁の逆流もなく除外しました」
ここまではいい。ストーリーとしては理解出来る。だが、
「ここまでのところで江崎先生質問はあるかね?」
よろしいですか、と医療安全委員会委員長の総合内科医の内田が口を開く。御堂坂がどうぞと促すと、内田は分厚い老眼鏡を押し上げると江崎に尋ねる。
「若年で動脈硬化のリスクファクターもなく解離を除外したことはわかりました」江崎はありがとうございますと頭を下げる。「だがそうなると、何故CT検査を行ったのかね?」
そう、問題はそこだ。胸痛で来て、主要な緊急疾患を除外したのなら、何故、追加でCT検査を施行したのか。江崎は単純CTのみを施行している。肺塞栓、急性大動脈解離を除外するなら造影CTを撮影する必要があるし、他の検査で除外したのならそもそも追加の検査は不要になる。院内の不要な検査に常日頃から目を光らせ、口うるさく若手医師を指導している内田なら当然その部分を突いてくるはずだ。何故、造影CTを施行しなかったのではない。何故、単純CTを施行したのか。江崎はそれをきちんと説明出来るか。だが江崎は顔色一つ変えずに返答する。
「先程も申しましたが、患者は胸痛と呼吸苦を訴えていました。当然気胸や肺炎、心不全などの評価が必要です。肺野の評価目的に単純CTを撮影しました」
「気胸と肺炎? だが君は、酸素飽和度は問題なく呼吸苦も軽度であったため肺塞栓を否定したはずだ。積極的に気胸や肺炎を疑ったというのは矛盾しているのではないかね」
「肺塞栓のような緊急性のある疾患はともかく、まだ症状がはっきりとしていない初期の肺炎は否定出来ません。この時期に、ウイルス性の肺炎が救急外来でも増加しているのは当直をしている人間なら皆知っています。初診時にCT画像は、のちに症状が増悪した場合の比較対象として重要な情報になります。そのためにCTを撮影しました」
風邪の悪化を恐れてCTを撮影した、そんな言い訳が通ると思っているのか。日崎はちらりと内田を見る。内田は眉間にしわを寄せ、それから御堂坂を見る。御堂坂が小さくうなずく。違和感。日崎はそれから、御堂坂の視線の先にいる男に気付く。循環器内科部長の堂本は部下の江崎ではなく御堂坂をじっと見ている。まさか。すでに話はついているのか?
「一応、説明に筋は通っていますね」内田は深くうなずくと眼鏡を外す。「出来れば肺炎の疑いについての思考プロセスをカルテ記載しておくべきでしたが、診療上の大きな問題とまでは言えないでしょう」
本気で言っているのか? 日崎は唇を噛む。日崎にはわかっている。何故、江崎英二が単純CTを撮ったのか。ウイルス性肺炎を疑った? そんなはずがない。時間を見ればわかる。患者の受付時間、そしてCT検査がオーダーされた時間を見れば。
症例検討会の最も大きな壁である医療安全委員長の内田をかわすことが出来て、江崎には安堵の表情が浮かんでいる。くそったれめ。こんな出来レースを見せるために俺に出席させたのか。
「他に意見はないかね?」そう言った御堂坂と目が合う。こちらの心情を察したのか御堂赤は日崎に君からは何かあるかね、とたずねる。日崎は上目遣いで一度天井を見ると、それから小さく頭を振る。
「江崎先生は解離と肺塞栓を除外したとおっしゃいましたがカルテにその記載はありません。本当に解離を疑っていたのでしょうか?」
「どういう意味ですか?」江崎が表情をこわばらす。
「質問の通りです。解離を見逃したのは、そもそも解離のことを鑑別に上げていなかったからではありませんか?」
日崎の物言いに、循環器内科部長の堂本が声を上げる。
「心臓外科といえば、多忙を理由にカルテ記載が不十分で有名ではないか。君の外来カルテをここで供覧するかね」
「論点がずれています。カルテ記載の不備が問題なのではなく、そもそも診療プロセスに疑問があると言っているんです」
「たしか君の論文だったと思うが日崎先生、当院における解離の手術七百例の検討で、マルファン症候群などの結合組織疾患を除く三十代の発症率は0.2%以下だったな。患者は三十代で動脈硬化のリスクファクターも既往歴も家族歴もない。診療プロセスというのであれば君はすべて胸痛患者に造影CTを撮影し急性大動脈解離を除外するべきである、そう主張するのか?」
「それは医療経済的にも賛同出来かねますな」
堂本の発言に医療安全委員長の内田も仏頂面で追従する。
もう、話はついている。わかっている。
「行き過ぎた発言でした。撤回します」
日崎は引き下がる。パワーゲーム。循環器内科は病院内でも売り上げが一、二位を争い発言権も大きい。循環器内科と病院側が正面から対立するのは得策ではない。それが病院側の出した結論なのだろう。そうなれば、俺に出来ることは、もうない。
御堂坂は一同を見回したあと、机の上で手を組む。
「これまでのところ、江崎先生の一カ月前の外来診療に問題がないと考えられる。では、次の議論に移る。はたして患者は一カ月前の時点で解離を起こしていたのか。起こしていたのであれば、一カ月前の時点でそれを診断し得たかどうかだ。日崎先生はこの一カ月前のCT検査で解離が診断出来ると考えているようだが、説明してもらえるかな?」
日崎はわかりましたと席を立つ。出来レース。結論はすでに出ているのに発言させようというのか。俺自身が吊るし上げにあっている気分だ。
「一般的に解離の確定診断には造影CTが必須ですが、単純CTでも多くのことがわかります。この2/3周ほどの外周のhigh densityの部分は血栓化した偽腔の血種です。かなり薄い状態ですし、微妙な所見であることは認めますが、私の経験上、これは解離だと思います」
「なるほど。では放射線科の所見を聞いてみよう」御堂坂が医療安全委員の一人である放射線科医を見る。
「日崎先生が指摘するようにdensityの異なる部分があることは認めますが、何らかの炎症で大動脈壁や周囲の心膜が肥厚している可能性も十分あります。このCTだけで解離だと言い切ることは出来ません」
放射線科医の言葉を受けて、皆が日崎を見る。CT検査の読影の専門家の言葉は重い。一人の心臓外科医の所見と、病院全体のCT検査の読影を統括する放射線科の所見、裁判となれば重要視されるのは後者だ。だが日崎の目から見れば、これは明らかに解離だ。あのCTで解離だと確信出来るのは専門家である自分だけ。そして心臓外科医以外の人間にあのCTが診断出来なかったとしてもそれを責めるべきではない、それはわかっている。放射線科も診断出来ないのであれば、江崎が外来で解離を見逃したと責めるのは筋違いだ。会議に参加している全員の視線が日崎を責めている。
「採血検査上は軽度の炎症反応を認めています。胸痛の原因は大動脈壁の炎症だった可能性もある。その場合でも対症療法で経過観察するのが妥当です」
堂本はこれで議論は終わりだと言わんばかりに皆に告げる。
「解離ですよ」
悪あがきだと皆思っているだろう。それでもICUで人工呼吸器につながれている患者の顔がちらつき日崎はそう言わずにはいれない。
「たとえ解離だとしても、」江崎がいい加減にしてくれと言わんばかりに声を荒げる。「偽腔は薄く血栓化し、上行大動脈の拡大も破裂も虚血合併症もなし。ガイドライン上は保存的治療の適応です。これが解離だとしても手術にはならない」
「保存的治療の適応じゃない、保存的治療も考慮する、だ」
「同じことだろう」
「A型解離の保存的加療については反対する専門家も大勢いる。全例手術だという意見も少なくない。保存的加療を考慮するとは、入院し厳密な血圧管理を行い、CT検査を繰り替えし行い大動脈の拡大や偽腔の開大があれば速やかに手術を行う前提で、経過観察をしてもかまわない、という意味だ。歩いて家に帰らせていいという意味じゃない」
「日崎先生、個人攻撃は控えたまえ」内田がたしなめるように言う。
「実際に彼の大動脈は破裂した。一カ月前のCTと比べて上行大動脈は著明に瘤化し周囲に癒着していた。明らかな慢性解離です。昨夜発症したんじゃない」
「それは一カ月前に発症したことの証明にはならないだろう。二週間前かもしれない、先週かもしれないだろう」内田はあくまでも冷静に言うが、日崎の言葉は止まらない。
「家族に確認しましたが、この一カ月間で彼が症状を訴えことはなかったそうです。胸痛は一カ月前とそして昨夜、それだけですよ。昨夜じゃないなら、一カ月前しか考えられないでしょう?」
「家族に話したのか?」御堂坂が顔色を変える。
「過去に似たような症状があったのかと聞いただけですよ。通常の問診です」
「そんなことを言えば、家族は一カ月前の外来との関連性を疑うようになりますね」今度は顧問弁護士が渋い顔で指摘する。
「日崎先生。執刀医として患者を思う君の気持は理解出来るが今の君は、ただたんに江崎先生を個人攻撃しているようにしか見えない。冷静になるんだ」
御堂坂の言葉に日崎は思わず言い返す。
「私は冷静です」
「そもそも一カ月前に君の言う通り解離を発症しているのであれば、昨夜まで無症状であったというのは考えにくい、違うかね? 大動脈が解離しているんだぞ。そんな状態で果たして何事もなく生活が出来るのか?」
「解離の症状は多彩です。のたうち回るような激痛を起こす患者もいれば発症に気付かずに慢性解離で偶然発見されることだってありま、」
今、俺は何て言った?
御堂坂が日崎をじっと見ながら言う。
「そうだろう、日崎先生。解離の症状は多彩だ。二週間前に本人が気付かない間に発症していないなんて、誰にも言い切れない」
終わりだ。御堂坂の目が日崎にそう告げている。
証拠はどこにもない。
大勢の冷ややかな視線の中で日崎は理解する。
ここまでか。
「わかりました」
日崎が引き下がると、御堂坂は一同をもう一度見回す。
「日崎先生、放射線科からの所見は聞いた。他のみんなはどうだ? 日崎先生以外にこのCT画像を見て、解離だと断定出来るものがいるか?」
御堂坂の質問に誰も手を上げない。
「いいだろう。解離のCTの読影という専門性の高い分野に関して、日崎先生の意見は重要視されるべきだが、それでもこのように意見が別れる以上、解離だと断定出来ない、それが結論だ。江崎先生ご苦労様でした。退室していただいてけっこうです。
御堂坂が言い、江崎は直属の上司を見る。堂本がうなずき、江崎は失礼しますと一礼すると会議室から出る。裁判は終わりだ。判決は出た。病院の立場としても江崎の誤診を公式に認めるはずがないことはわかっていたが、それでもその場面を目の前に突きつけられるのは簡単に受け入れられるものではない。
御堂坂は日崎のそんな気持ちを見透かしたように、もう一度全員を見回すと念を押すように言う。
「この検討会は誰か一人の責任を問うべき場ではない。病院に過失があったのかどうかを検討する場だ。患者が慢性解離であったことは病理結果が出れば確定するだろう。だが発症時期は不明であり、一カ月前の診療について病院に過失はなかった、それが当委員会の結論だ。内田先生。医療安全の立場からつけくわえることがありますか?」
「江崎先生のカルテによると、患者に症状が続く場合、胸痛が増悪する場合は速やかに再受診し精密検査を行う必要がある旨を伝えたと記載されています。行うべき責任は果たしています」
予定調和。初めから用意されていた結論。
冗談じゃない。俺達の仕事は、少なくとも俺の仕事は、どんなに精一杯努力しても、後ろめたいことなど何一つなかったとしても、それでも患者が死ねば家族から人殺しと罵られることがある、そういう仕事だ。彼はわかっているはずだ。自分でわかっている。ミスをしたんだ。別にそれは構わない。誰でもミスはする。反省し次に進めばいい。だがそれを認めないのは誠実じゃない。
「日崎先生、」
名前を呼ばれてはっとして顔を上げる。御堂坂と視線が合う。
「会議は以上だが、最後に言いたいことがあるかね?」
いいえ。日崎は沈黙をもってそう答える。
「ではみんなご苦労だった。最後に言っておくが、ここで話し合われたことをこの部屋の外で話すことは一切禁じられている。家族、スタッフにも何も告げてはならない。本日の会議の資料の表紙にサインし机に置いたまま退室するように。日崎先生にはこのあと、顧問弁護士から患者家族からの説明についての法的助言をしてもらうので部屋に残るように。では解散とする」
出席者達は各々立ち上がり、会議室を出ていく。堂本は日崎を睨みつけながら部屋を出る。日崎は一人席に着いたまま無言でうつむいている。医者達が退室した会議室で、大きな机に日崎、御堂坂、顧問弁護士の西園の三人がついている。西園は机の上の資料を集め終えると鞄にしまい、日崎に言う。
「患者家族に慢性解離という言葉を使用しても構いませんが、発症日は不明だと説明して下さい」
「不明じゃない」日崎はつぶやくように言うが、弁護士は無視して話をすすめる。
「あなたが過去の症状を聞いたことで、家族は一カ月前の受診と今回のことをすでに結び付けているはずです。関連性をたずねてきた時には、一カ月前に受診した時点で解離を疑わせる所見は一切なかった、そう答えて下さい」
「それは出来ない」
「何故です?」
「嘘になる」
「そう考えているのは先生一人です。証拠は何もないんです。あなたが患者家族に余計なことを言えば、病院との信頼関係は崩れ、治療に悪影響となります。あなたは罪悪感が減って楽になるかもしれませんが、患者にも家族にも何のメリットもありません。ちなみに、この書類にサインした以上、あなたが今、私が説明した以上のことを家族に言えば、それは病院に故意を持って損害をもたらしたと見なされます。病院への忠実義務違反に問われ、懲戒委員会にかけられる可能性もありますので、ご自制下さい」
そう言うと、西園は鞄を抱えて、次の会議がありますのでと御堂坂に一礼して歩き出す。扉の前で立ち止まると、西園はふと立ち止まる。
「彼はラッキーでした。造影CTを撮影した上で見逃していれば弁明のしようがありませんでしたが、検査を怠ったことに救われましたね」
皮肉めいた笑みを浮かべ、それでは失礼、と弁護士は部屋から出ていく。日崎はその背中に舌打ちをして、ナマズめと吐き捨てるように言う。それから日崎はイスに深々と背もたれると小さく息を吐く。その様子を見ていた御堂坂は何かを言おうとするが、やがて頭を振ると黙って立ち上がり、部屋から出ていこうとする。その背中に日崎が言う。
「誤診ですよ」
ああ、わかっている。御堂坂は立ち止まると日崎を見て答える。
「お前があのCTが解離だと言うのならそうだろうな」だが、「だが、江崎はいい医者だ」
御堂坂の言葉に日崎は、知っていますと答える。
「この先、彼の手で何千人もの命が救われるはずだ。彼の未来を奪うことが正しいことかどうか、もう一度考えてみろ」
「彼の誤診を家族に言うつもりは最初からありません。ただ、」日崎は唇を鳴らす。ただ。そのまま黙り込む日崎に御堂坂は言う。
大人になれ。
それだけ言うと、御堂坂は部屋を出て行く。一人残された日崎は天井を仰ぐと息を吐く。そう言えば誰かもそんなこと言っていたな。
4:18 p.m. 病院八階廊下
会議室から出た日崎は大股で廊下を歩いている。苛立っている。何度も頭によぎる。あの三十一歳の男性は二度と目が覚めないかもしれない。一カ月前に手術をしていればこんなことにはならなかった。一カ月前にあの患者を診察したのが自分であればという後悔が押しよせるが、一方ですべての患者を自分で診ることなど不可能であるとも理解している。わかっている。だから日崎は、江崎英治を殺すつもりはない。江崎に求めるのはミスを認める高潔さだ。患者に対する誠実さだ。だが患者を失うたびに、自らを責め、人殺しと呼ばれることを受け入れてきた自分の心臓外科医としての生き方を他人に押し付けることは出来ない。わかっている。わかっているんだ。誰もが人殺しになれるわけじゃない。だから日崎は、一瞬でも江崎にそれを期待した自分に苛立っている。
エレベーターをおり二階に出ると、途中で美咲とすれ違う。美咲が何か言うが、日崎は無視して歩いていく。不機嫌を隠すことなくICUの前に立つと、がこん、乱暴にフットスイッチを蹴り上げる。
4:22 p.m. ICU
1番ベッドにまっすく歩いていくと、ベッドサイドの加冬にたずねる。
「問題なく終わったか?」
日崎の問いに、彼女はええ、と答える。顔には疲れが浮かんでいる。昨日の朝からほとんど休みなく働いている。
「血流は改善。再灌流障害も大したことなさそうです」
加冬の答えに日崎はそうかとうなずくと患者家族の待つ控室へと歩いていく。患者家族は日崎の姿に、命を助けてくれてありがとうございますと何度も頭を下げる。その目には涙が浮かんでいる。日崎は、治療はまだ始まったばかりです一番頑張っているのはご本人ですから声をかけてあげて下さい引き続き出来る限りの治療をさせていただきます、今まで何百回と繰り返してきた同じセリフを患者家族に唱え、それではと頭を下げてその場を離れる。とんだ偽善だな。日崎はそんな自分にうんざりしながら、加冬が何やら言うのも無視してICUの奥にある当直室に入る。鍵をかけ電灯を消す。どっと疲れが押し寄せて来て、日崎はソファに倒れ込む。そう言えば、昨日はどれくらい寝たっけ。その答えが出るのも待たずに、日崎の意識は暗転する。
6:18 p.m. ICU
はっと目を覚ます。
時計を見ると二時間ほど時間が消えている。
重い体を引きずるように当直室に出ると患者の元に戻る。すでに夜勤帯に交代したのか看護師の顔触れは昼間と代わっている。日崎は心臓外科の患者のベッドを順番に回りながら日中の状態を確認していく。夜間の治療の指示を出そうとするが、すでに加冬先生がカンファレンスを終えていますと告げられ、よく働くなと日崎は呆れた表情を浮かべる。1番ベッドに向かうと、担当看護師が経過表を手渡す。「尿もしっかり出ていますし、アシドーシスの進行もありません。安定していますよ」
日崎はそうか、と答えると病棟を回っているから何かあったらPHSを鳴らしてくれと言いICUから出て行く。
7:12 p.m. 病院廊下
病棟の溜っていた仕事を終え、日崎は夜の廊下を歩いている。
医局に戻って食事でもするか。ふと顔を上げると、病院の巨大な吹き抜けの向こう側の廊下を、一人のスーツ姿の男が歩いているのが見える。日崎はその姿に一瞬立ち止まり、それから突然踵を返して走り出す。大きく迂回して先程男がいた場所まで走るがすでに姿は見えなくなっている。エレベーターには目もくれず階段を駆け下りる。相手はエレベーターを使っているはずだが、この時間、スタッフ用のエレベーターは一台しか稼働していない。階段を使わないと追い付くことは不可能だ。
一気に六階分の階段を駆け下りると、地下駐車場に飛び込む。荒い息で辺りを見回す。右手前方のかなり先、車に向かって歩くスーツ姿の男の背中が見え、日崎は声を上げながら走り出す。
「おい、ちょっと待て」
7:19 p.m. 地下駐車場
「おい、ちょっと待て」
日崎の声が聞こえていないのか男の足は止まらない。日崎は必死に走ると、男が車にちょうど乗り込もうとしたところで閉まりかけた扉を掴み、男にすごんでみせる。
「待てと言っているだろうが」
高級車に指紋がつくのを嫌がったのか、車の天井に手をつく日崎に、江崎は心底嫌悪した表情で声を荒げる。
「いい加減、私に絡むのはよせ。委員会が私に非がないことを認めたんだ。お前の患者には私は関係ない」
「何故、CTを撮影した?」
荒い息で日崎が問う。江崎は困惑した表情で答える。
「言ったはずだ。肺炎の、」
「患者が受付をしたのは十一時二十八分だった」
日崎の言葉に、江崎の表情が一瞬固まる。
「予約の患者じゃない。飛び込みの患者。午前中の外来の受付の締め切り間際の十一時半直前に患者は来た。お前はそれを嫌ったんだ。患者を診たくなかった。だからCTを撮影したんだ」
「何を言っているんだ」
「CTは、心電図よりもエコー検査よりも先にオーダーされていた」
日崎が決定的な事実を突き付ける。時間を見ればわかる。江崎はあの日、ぎりぎりの時間で飛び込んできた予定外の患者に、まず最初にCTを撮影した。何のために。
「十一時半以降に受付した患者は救急外来に回される。そうなれば最初に診るのは研修医だ。最初から専門医に診てもらいたければ午前中の受付時間に間に合わなければならないが、みんな締め切りぎりぎりの飛び込みを嫌う。外来が長引けば午後の診療に差し支えるからな。だからお前はまずCTを撮影したんだ。明らかな動脈瘤や気胸、肺炎があれば他科に患者を押しつけることが出来る。お前は患者を診たくなかったから、自分の専門領域以外の疾患をまず探そうとしてCTを撮影した。期待に反して明らかな所見を認めず、お前は渋々心臓の検査を行った。お前は、最初から患者を真剣に診ようとはしていなかった。いい加減な診療をしたんだ」
「言いがかりだ」
「お前はあの日、午後に四件もPCIが予定されていた。外来を早く終わらせようと急いでいた。だがそれは患者には関係ない。お前の都合なんて関係ないんだ」
「委員会は私に過失がなかったと認めた」
「お前は誤診した」
「じゃあ聞くが、お前は誤診したことがないのか? ないというのなら、」
「何だ?」
「お前は偽善者だ。思い上がりも甚だしい」
江崎はふんと鼻を鳴らすと、もういいか、そう言って運転席に乗り込もうとする。日崎はぐいとその肩を掴んで阻止しようとする。離せ。江崎は思わず日崎を突き飛ばし、日崎は二、三歩あとずさる。
「高級スーツだぞ。しわになったらどうするつもりだ」
江崎は日崎を睨みつけると、もう勘弁してくれと舌打ちをする。
こいつにはわからない。
「何なんだ。どうしてそんなに俺に絡んでくる」
こいつにはわからない。
「これ以上、私に関わるな」
だが、わかれ。
日崎は大きく息を吐き、それから感情のない言葉で静かに告げる。
「彼は意識が戻っても後遺症が残る可能性が高い。退院までは俺が責任をもって診る。何としてでも退院させてみせる。だがそのあとは、退院後はお前の外来で診てもらう。毎月、毎月、後遺症の残った彼を外来で診続けるんだ。そしてその度に思い出せ。自分が誤診した結果で一人の人生を壊したことを思い出せ。一生忘れるな。一生、自分のしでかしたことを忘れるな。彼の人生を背負い続けろ」日崎はそう言うと、さらに数歩あとずさる。「逃げるなよ。逃げたら患者家族に全部話す」
「お前、イカレてるよ」
江崎はそう言うと車に乗り込み激しく扉を閉める。エンジンがかかり、低い唸り声を上げながら車は日崎すれすれに通り過ぎていく。
日崎は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、黙って立ちつくす。
9:21 p.m. 医局
日崎が夜の医局に入る。
すでに多くの医師は帰宅しており広い部屋は閑散としている。何日も家に帰れていないだろう研修医が、あちこちのソファで教科書を手にしたまま気絶するように眠っている。ソファからはみ出し机の上に投げ出された足を蹴り落とすと、研修医は一瞬起きるがそのまままた眠りに落ちる。その様子に、日崎はふんと鼻を鳴らし医局の奥へと歩いていく。
医局の隅の机に着いて、電子カルテに黙々と向かっている一人の女医がいる。
日崎は彼女の横のイスに座ると、机の上に紙袋を乱暴に置く。
「前の店のですか?」
加冬の問いに答えず日崎は紙袋の中から、ファーストフードの包みを次々と机の上に並べていく。こんな時間にこんなもの食べたら早死にしますよと彼女は言うが、日崎はふんと鼻を鳴らして取り合わない。
「仕事なんてよせ。これを食ったらもう帰れ。俺もそうする」
加冬は電子カルテを閉じると、おもむろにハンバーガーの包みを開けて大きな口でかぶりつく。もぐもぐと黙って口を動かしたあとコーラで喉に流し込みながら加冬はたずねてくる。
「何故、家族に本当のことを言わないんです?」
「上が決めたことだ」
「家族には知る権利があります」
「お前はいつも正しいことばかり言うな」
「感情的になるのは問題ですか?」
日崎はふと顔を上げると加冬を見る。加冬はストローをくわえたまま、ずずとコーラをすする。「いいや」この仕事は感情を奪う仕事だ。心は日々摩耗し感情は失われていく。人の死に慣れていく。加冬が感情的でありたいと願うのは、人間でありたいと願うことと同義だ。日崎はその意味がわかるからこそ加冬の言葉を否定しない。自分はもうとっくに多くの感情を失っている。だからこそ加冬がまだ人間性の巣に踏みとどまっていることはうらやましくもある。日崎は目の前の少女に、まだもう少し、もう少しだけ大人にならないでいてくれと願う。本人には決して言わないが。
「くそう、ピクルスが入っている」日崎はそう吐き捨てると忌々しそうに食べかけのバーガーを見る。「どうして何度言ってもピクルスが入っているんだ。この間、店長を問い詰めたら、うっかりしてましたと言いやがった。うっかりしてましただと? ふざけるな。あいつが心臓発作で倒れたら盲腸を切ってやる。うっかりしてましたって言ってな」
加冬がふふと笑い、日崎は食べかけのバーガーを包み紙でくるむとゴミ箱に放り込み立ち上がる。
「お疲れ様でした」
加冬の言葉に、早く帰れよと言い、日崎は歩いていく。
10:21 p.m. 病院裏口
着替え終えた日崎は病院の裏口を出る。
救急車のサイレンの音が近付いてきて、ERに入っていくのが見える。
「交通外傷です。四十代男性、血圧60/41、脈拍120回、酸素10Lで飽和度91%です」
いつもと変わらない風景。
ストレッチャーが運ばれていくのを見ながら日崎は一人白い息を吐く。
お休みなさい。
寒そうにポケットに両手を突っ込むと、日崎は一人歩き出す。
20240519
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