猫洗坂四十五番地
さとうきいろ
猫洗坂四十五番地
まあまあよくおいでくださいました、いや五年ぶりですねえ、とふくふくした顔の女将が愛想の良さそうな笑顔で出迎える。そうですね例の感染症もあってなかなか身動きが取れなくて、女将さんも大変だったでしょう、と言えば、女将さんはそれは大変でしたけどふふふ、まま、お部屋へお部屋へ、と案内される。
ここへ来ないうちになにか変わりはあったの、と聞けば女将は、ええ、ええ、珠毛吐神社ってご存知でしょう、ここからまっすぐ行ったところの、あの神社がインターネットで話題になって、一昨年あたりから若い方がすごく増えたんです、へぇえよかったじゃないですか、じゃあこの宿も大繁盛ですね、うふふ、まあ多少はね、多少は、そのあたりに新しいお店なんかも増えて、かわいらしいお土産やら菓子やらが売ってますよ、行かれたらきっと楽しいですよ、じゃあそうしようかな。
珠吐きの雨降り烟る真新しタイルに映る見知らぬ街並
部屋で荷物を置きながらスマホで調べてみれば、確かに珠毛吐神社はSNSで若者の間に広まり、神社で授かる珠毛守りがもふもふ可愛くて大人気だと出てきた。はて、以前神社と訪れた際そんなお守りがあっただろうか。特に予定のない旅、街がどう変わったのか確かめてみたくもある、温泉に入る前にひとつ散策に出るとしよう。
あいにくの雨模様、ビニール傘を手に鳥居前町へとコツコツ歩いていく。宿の周囲は記憶の中とさほど変わらず、ただやはり居酒屋や焼肉屋がいくつか閉店している。すれ違う人もなく、本当に若者がいるのだろうか、いや雨だからかなどと考えながらひとつふたつと角を曲がれば、十分ほどで珠毛吐神社参道にたどり着く。
五年前に来たときは土産物屋や団子屋が申し訳程度に並んでいただけの参道沿いは、たしかに女将の言う通り小洒落た店が並び天候をものともせず赤青黄紫桃金銀とやけにカラフルな髪をした若者がうじゃうじゃと歩いていた。今から神社へ向かう若者は手に手に蜜柑飴の串や団子を持ち、神社へ参詣した帰りであろう若者は手に手に珠毛守りを下げている。噂通りのもふもふだ。圧倒されるような若さの洪水に怖気づきながらも、ここはひとつ、と人の波をかき分け瓶詰めのプリン屋へと向かう。
すみませんこの瓶詰めプリンのカフェオーレをひとつ、はいカフェオーレひとつですねすぐお召し上がりですか、はいすぐ食べます、ではスプーンお付けしますね七五〇円です、はいちょうどありがとうございます。手に入れた瓶詰めプリンを手に人混みをかき分けなんとか店の裏に逃げる。ああ、ここは本当にあの申し訳程度の土産物屋と団子屋しかなかった珠毛吐神社の参道通りだろうか。瓶詰めカフェオーレプリンはほろ苦く生クリームの甘さと相まってなかなかの味だった。
人混みで迷子になれば鍵っ子の夕暮れよりも孤独を感じ
食べ終わった瓶を捨てに店に戻りたいがまた若者をかき分けなければならないのかと辟易していると、隣に小学生くらいの少女がやってきた。傘も差さずにびしょびしょに濡れている。平然とした顔をしているがしばらく観察してみても親兄弟も近くにいる様子がない。困ったなあ迷子かあ困ったなあと顔に出さずに考えていると、少女がこちらを向き目があってしまった。仕方ないお嬢さんお母さんは、少女は首をふる、お父さん、首をふる、家族は、首をふる、困ったなあ、じゃあまあ仕方ない、ここにいてと傘を渡し、濡れながらぎゅうぎゅうの参道を通りプリン屋に戻る。プリンの瓶を捨て、すみません迷子の子がいて、ああ交番がそこに、じゃあ交番でおまわりさんを呼んできますいえいえこれも乗りかかった船。ということだからお嬢さん、もうちょっとここで待っていて、と店の裏に戻れば少女はビニール傘だけを残し忽然と姿を消していた。
ああ、困ったなあ迷子が何処かへ行ってしまった。知らない子だが困ったなあ、神社へ向かい向かい探してみよう。と三度参道へ戻れば参道には誰もいない。
まったくの無人ではないが、人通りはパラパラとしかなく、ぎゅうぎゅうのカラフルな若者はいない。
なんだか恐ろしくなってしまって、お参りをせずに宿に戻ることにした。
通い慣れた街が知らない表情で出迎える所詮われは旅人
宿に戻るころには雨あしはさらに強まり、傘を差していてもびしょびしょに濡れてしまった。パタパタと出てくる女将。まあまあ大丈夫ですか、どうでした神社は。神社は行かれなかったんだけど変なことがあってね。まあまあ、お客さんどうしたんですか猫なんか拾ってきて。猫、猫っていったい、と下を向けば、たしかに自分の腕の中で黒い小さな子猫が寝息を立てている。いやだもう、どうしましょう、という女将をよそに、ああ濡れた猫を洗って家に連れて帰らなければなあと考えていた。
明日こそ猫を洗うと決意して猫洗坂四十五番地
猫洗坂四十五番地 さとうきいろ @kiiro_iro_m
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