祖母にして母の願い

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祖母にして母の願い

 夜はすでに深まっていた。

 道の両側には古びた家屋や木々が立ち並び、その影が不気味に揺れていた。風が木の葉を揺らし、ざわめきが届く。遠くで犬が吠える声が聞こえるが、それ以外は静寂が支配していた。

 そんな街灯の光が途切れ途切れに続く細い道を、一人の女が歩いていた。

 身長は平均的で、スリムな体型をし、長い黒髪を後ろで束ねている。年齢は30代前か。顔立ちは整ってはいるが、年齢に反して肌の艶と張りが無いのは疲れによるものだ。

 服装も特に目立ったところはなく、ネイビーのレディススーツに身を包んでいる。

 手には閉店間際で購入した半額シールの貼られた惣菜と弁当が入った買い物袋を提げていた。

 名前を、三沢みさわ涼子りょうこという。

(……今日も疲れたわ)

 涼子の足音がアスファルトに響き、冷たい空気が彼女の頬を刺す。

 暗い夜道を進む彼女の心には、どこか漠然とした不安が付きまとっていた。月明かりが時折雲間から顔を覗かせ、淡い光が道を照す。

 やがて古びた家屋にたどり着く。

 古い日本家屋は昭和に建てられたもので、痛みが激しいため補修を繰り返しながら使い続けているの感じられた。

 家の前にはブロック塀があり、開きっぱなしの門扉がある。

 門のすぐ脇には小さな庭があるが、手入れはあまりされておらず雑草が生え放題になっていたのは、涼子に清掃する気力が無かったからだ。

 涼子は鍵を取り出し、立て付けが悪い木とガラスの玄関ドアを開けた。

 家の中に入ると、静寂が一層際立った。

 壁にあるハイ角スイッチを探って電灯をつけると、狭い廊下が浮かび上がった。

 三和土を上がり涼子が歩くと、木製の床が軋む音が静かな家の中に響く。

 茶の間に入り、照明をつける。

 畳敷きの茶の間にある、古い家具や壁に掛けられた写真が薄暗い光の中に浮かび上がった。

 祖父母の時代から使われていた家具は、時の経過を感じさせる埃っぽい香りを漂わせていた。

 ちゃぶ台に涼子は頬を預けた。

 深いため息をついた。

「ただいま……」

 涼子は呟いたが、家の中には彼女以外に誰もいない。

 時計の秒針が規則的に刻む音だけが、静けさを打ち破っていた。

 涼子は両親を子供の時に失い、祖父母が育ての親だった。

 高校生の時に、祖父が亡くなり、それから祖母と二人暮らしをしていたが、その祖母も先日、餅を喉に詰まらせて亡くなった。

 祖母のことは気をつけていたにも関わらず、まさかあんなことで亡くなるとはおもってもみなかった。

 唯一の肉親を失ったことで、涼子は天涯孤独の身となった。

 涼子は、30歳を前にしていたが恋人は居た。

 社会人になってできた年下の彼氏だ。

 2つ年下で、会社の後輩に当たる。

 彼のマンションで半同棲をしていた時もあったが、最近はあまり上手くいっていない。

 仕事に追われて忙しい日々を過ごすうちに、すれ違いが生じ始めたのである。最近では些細な事で喧嘩になりがちであった。

(……もう別れようかしら)

 心の中でそう呟くと同時に、寂しさが込み上げてくるのを感じた。

 それは、まだ好きという気持ちがあるからだ。

 喉の渇きを感じた涼子は、重い体を引きずるようにして台所へ向かった。

 ガラスコップを手に取り、蛇口ハンドルをひねって水を注ぐ。無数の泡と共に透明な液体が流れ出た。

 水を口にしようとして、涼子はその時、背後から何かを感じた。

 突然背後から、を感じた。

 その感覚はまるで氷の刃が背中を撫でるように冷たく寒い。

 全身の毛が逆立ち、心臓が一瞬止まったかのように感じられる。

 呼吸が浅くなり、息苦しくなる。

 黒く濃い影が、そこにある。

 涼子が感じたもの。

 それは、視線だ。


【視線】

 ある調査では女性の80%以上、男性の75%が振り向くと誰かが自分を見つめていた経験があると回答している。

 イギリスの作家で生物学者であり超心理学の分野にも深いルパート・シェルドレイク氏は、英紙「Daily Mail」に寄稿した記事でこの現象についてサイエンスの視点から考察している。

 人間にどうしてこのような能力があるのか?

 シェルドレイク氏によれば、見られているという感覚には「方向性がある」という点。自分に向けられた視線の発生源が分かるということだ。誰かが自分を見ていると感じたとき、その人物がどこにいるか、後ろ、横、上などの位置まで分かる正確な直観力を持っているという。

 シェルドレイク氏によれば、これは凝視する視線がむしろ音に似ていることを意味している。

 つまり、音の発生源が分かるのと同じように、視線の発生源が分かる。

 視線は何となく感じるといったものではない。確信を持って言えることなのだ。


 涼子は振り返りたい衝動に駆られながらも、その場に立ちすくんでしまった。

 暗闇の中、何かが自分をじっと見つめているような気配が、重苦しく彼女の背中にのしかかっていた。彼女は息を飲み、冷たい汗が額から流れ落ちるのを感じた。

 だが、永遠にこのままでいることはできない。

 涼子は体に溜まったおりを吐き出すように深く息を吸い込むと、思い切って振り返った。


 ――背後には誰もいなかった。


「気のせいね……」

 安堵のため息をつく涼子だったが、視線を落とした瞬間、凍りついた。

 床に落ちていた黒い物体が目に入ったからだ。

 そのような物は、先ほどまで存在していなかった。

 恐る恐る手を伸ばし、拾い上げる。

 やや大きめの手帳だった。

 新品ではないようで、かなり使い込まれているようだ。

 涼子はページをめくると、すぐにそれが日記帳であることが分かった。表紙の裏に記された名前を見て、彼女は驚愕する。

 三沢麻花あさか――亡くなった祖母の名前だった。

 祖母が毎日、日記を書いていたのは知っている。家族にだってプライバシーはあるので、祖母の書いた日記を盗み読むことはしなかったが、どうして日記帳がここにあるのかが分からなかった。

 書かれた日付から、ごく最近のものであることが分かる。

 日々の出来事を知ると共に、祖母が何を思って生きていたのかを知る。

 孫の涼子に恋人ができたことに合わせて、孫を引き取った時のことが書かれていた。

 祖父母は、両親を失った涼子を必ず幸せにすると誓った。

 趣味や娯楽に使うお金を絶ち、生活を切り詰めたことでできたお金は涼子名義の貯金にし、生活の全てを孫が幸せに生きていくことに注ぎ込んだのだ。

 自分達の老後のことは考えなかったが、二人はそれを気にすることはは無かった。涼子の成長を、自分達の命よりも大切なもののようにさえ感じられたそうだ。

 それほどまでに孫娘を愛していたのだ。

 何よりも愛情を注いだに違いないと文面からは伝わってくる。

 涼子は読み進めるうちに、涙が溢れてきた。

 もうこの世にいない祖父母の顔が浮かんでくるように思えたのだ。

「お爺ちゃん、お婆ちゃん……」

 悲しみと同時に感謝の気持ちが込み上げてくるのを感じた。

(ありがとう……)

 感謝が天国に届くように心の中で呟きつつ、次のページを開いて読み進めた時だった。

 涼子の目が驚きで、大きく見開かれたのだった。

 それは、涼子の恋人である田中和哉かずやの両親が、ここを訪ねてきたことが記されていたのだ。

 涼子でさえ和哉の両親は会ったことすらない。

 おそらく、涼子が和哉のマンションに出入りしていることを見たか、聞いたことで独自に調査をしたのであろうと思われた。

 涼子は祖母に恋人ができたことは話していたので、祖母は体が悪い中、和哉の両親をもてなしたが、古い家の佇まいに加え祖母一人が親代わりになっていることに懸念を示したという。

 和哉の家は名士らしく、ヨボヨボの祖母と親類になることに難色を示したのだ。

 さらに、金銭的な面でも不安を覚えたようであった。

 確かに祖父が亡くなった後、生活費の問題も生じたのだが祖母は全て一人でこなしていたのだ。

 涼子は絶句した。

 確かに祖母は体が弱っていたが、まだ介護が必要であったり、周囲に心配されるような状態ではなかったはずだと思ったからだ。

 自分の知らないところで、そんなやりとりがあったとは想像もしていなかった。

 だが、祖母のことは涼子にとって、重荷なっていたことは確かだった。祖母の件が無ければ和哉と半同棲ではなく完全同棲をしていたからだ。

 しかも、自分はそのことに不満を抱いていなかったではないか。

 今になって考えると、自分がワガママな人間であったような気がしてならなかった。育ててもらった恩を忘れ、恋人との甘い生活に酔いしれたいと思っても、祖母を一人で生活させることができずにいたのだ。

 日記には、祖母の想いが綴られていた。


 ――涼子のことを必ず幸せにする。


 涼子は学校を卒業し、社会人となり、恋人ができた。

 孫が幸せになろうとしているのに、自分の存在が涼子の幸せの妨げになっている。

 なら、もう自分の役割は終わりだ。

 涼子が自分の力で生きていけるまで、見守ることができたのだから――。

「……そんな。お婆ちゃん、餅を喉に詰まらせたのは事故じゃなくて自殺」

 涼子の瞳から涙がこぼれ落ちる。

 今思えば、突然亡くなったにしては身辺整理がきちんとできていたと思う。年末でも無いのに一人で大掃除を始め、涼子が帰宅し祖母が茶の間で亡くなったのを発見した時は、洗濯物を取り込んで畳んでおり、洗い物を済ませて水切りカゴに食器が残っていない状態だった。

 まるで旅行に出かける前のような光景だった。

 遺書もなく、状況から考えて事故としか思えなかった為、警察による捜査もなく、その後の手続は滞りなく行われたのである。

 日記は、祖母が亡くなった日まで書かれていた。

 そして、最後は日記ではなく、涼子に宛てた手紙になっていた。

 手紙を読んでいるうちに、涼子は嗚咽を止めることができなくなっていた。

 涙で視界が歪み、何度も袖口で涙を拭う。

 最後の方は文字が滲んでしまい読めなかった。

 だが、それでも何とか最後まで読んだ。

 涼子への手紙にはこう書いてあった。

 

 涼子へ

 あなたが、この日記を読んでいるということは、私はこの世にはいないでしょう。

 あなたを引き取ってからというもの、本当に幸せな日々でした。あなたが結婚し、子供をもうけるまで見届けられないことだけが心残りです。

 ですが、悔いはありません。あなたのおかげで、とても素晴らしい人生を送れました。心から感謝しています。ありがとう。

 あなたは私の孫であり、娘です。

 私がいなくても強く生きて、幸せになって下さい。

 

 涼子は再び涙を流しながら叫んだ。

 今までの人生で一番大きな声で泣いたかもしれない。

 翌日も仕事だったが、涼子は時間も忘れて祖母の日記を何度も何度も読み返したのだった。

 気がつけば、朝になっていた。

 木漏れ日のような優しい光りがカーテンの隙間から差し込んでいるのが分かると、一気に現実に引き戻されたような気がした。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 涼子は、こんなにも朝早く誰だろうと思いつつも、玄関を開ける。

「はい。どちら様ですか?」

 玄関扉を開けた涼子は、スーツ姿の男性を見て驚く。

「和哉……」

 そこに立っていたのは、涼子が最も愛している男性・田中和哉だったからだ。

「涼子。君との関係が、最近疎遠になってきていたことに両親の様子が怪しかったから問い詰めたんだ。そうしたら、僕の両親が君のお婆ちゃんに酷いことを言ったことを聞いた……。あげくの果てに、君に対しての心無い言葉まで……」

 和哉は悔やんだ表情を見せ、頭を下げて謝罪を述べた。彼は、そのまま顔を上げなかった。彼は許して欲しいとは言わなかった。どんな責め苦を受けても構わないと思っているのだ。

「頭を上げて」

 涼子の許しがでると、数十秒をかけて和哉はゆっくりと顔を上げる。その表情はとても悲しげで今にも泣き出しそうだった。 

 その表情を見て、涼子は胸が締め付けられるような気持ちになる。

 涼子は首を横に振ると、和哉に抱きつきながら言った。

 それは和哉を責めるのではなく、むしろ自分自身に対する怒りの言葉であったのだ。

 和哉の胸の中で泣きじゃくる涼子の頭を優しく撫でてくれる和哉の手は、とても温かく感じた。

 この人と一緒に居れば間違いないと確信できるほどに安心感を与えてくれた。

(私、必ず幸せになるよ。お婆ちゃん……)

 涼子は、祖母に誓うのだった。

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