第17話 オタクって、妙に観念的な時があるよね

 その日。俺にとって忘れられない出来事が起こった。

 それは、自分の日記に記しておく。


 9月15日だったと思う。


 俺は貯めたお金で、東京まで行ったんだ。

相変わらず、ゴチャゴチャした所だよな。

 東京駅の地下街タリーズコーヒーヤエチカ店でサキさんと待ち合わせたんだ。

 久しぶりに日本に帰ってきたからな。


 薄暗い店内で、サキさんは、少しだけ思い詰めた顔をしていたんだ。

 

「サキ? 何かあったのか?」


 俺は思わず聞いたんだ。


「うん、ちょっとね」

 

 そう言って、ブラックを一口飲むのを俺はじっと見ていた。

 俺は……ゆっくりと待っていた。

 

「私ね。この前、オルガンのベルギー国際コンクールで2位になったんだ」


 そりゃ、おめでとう。本当に凄い話だよ。世界で2位だからな!

 

「それで、北ドイツの教会からオルガニストとして来てくれないかってオファーがあったんだ」


 専属のオルガニスト……。そっかあ、ついに夢を叶えたのか。


「サキ! おめでとう!!! 場所はどこなんだ?」


「うん、Lübeckリューベックのヤコビ教会。とても大きいのよ」


 ん? 何だか、嬉しそうじゃないな。

 あんだけ、なりたかったパイプオルガン奏者だろう?


「嬉しくないのか?」


「ううん。すごく嬉しかったよ。夢が叶ったんだから……。でもね、そのとき私の夢ってそれだけなのかなって思ったの」


「?」


「ほら、最近、長く外国にいるでしょ。すっごく寂しくなるときがあるの。そんなとき、ケンジくんとスカイプで話すのが、私の唯一の楽しみになってたんだよ」


 それは意外だけど嬉しいな。それに照れる。

 俺は思わずデカフェコーヒーを多めに飲み込み、むせてしまうのを必死で我慢する。


「それにね。ドイツで一人、空を見上げても、何だかワクワクしないの。ドイツって寒いのよ」


 本当よ、と首をかしげる仕草がやっぱり可愛い。

 サキさんのコーヒーカップが、彼女の薄紅色の唇につけられる。


「そんな寒い中で一人オルガンを弾いていて、何だか寂しいって思ったの。これだけが私の夢なのかな……って」


 ソーサーにカチャリと置かれたコーヒーカップが、サキさんの動揺を表してた。

 いつもは音なんてさせないからな。


 サキさんは、カップにテーブルの上のミルクを注ぎ、スプーンでくるくるとかき混ぜる。白と黒の渦巻きが、しばらくカップの上で回っている。

 俺は黙ったまま、ずっとそれを眺めていた。


「誰かに、ずっと側にいてほしいなって」


 おい、今、この娘、何て言いました? 顔を赤らめて下を向いてるんだけど。

 え? 告白なの? 俺、死ぬの?


「だから、別にドイツにこだわらなくてもいいのかなって。日本だってオルガンはあるし、そのオルガニストを目指すのもいいかなって。日本ならケンジくん、一緒に夜空を見上げてくれるでしょ。……私、ケンジくんと一緒に星、見たいなあ」


 この時の俺の感情を言葉で表すのは難しいぜ。

 嬉しいのと悲しいのが両方に振れてやがる! しかも、MAXだ! 最大だ!!


「……馬鹿言ってんじゃねえ」


「え?」


「馬鹿にするのもいい加減にしろよ。お前、外国でオルガニストになりたいんだろ。なりたいのは俺のお嫁さんかよ?」


「ケンジくんは、私がお嫁さんだと嫌?」


 俺、今日、車に跳ね飛ばされるんだろうか?


「嫌じゃねえよ。すくにでも既成事実作って結婚したいよ。でも、お前の求める音って奴は、この日本にあるのかよ!」


 以前、ドイツと日本は音の響きが違うと、散々俺に力説してたからな。

 当然、ドイツの方が好みらしい。


「海外旅行の旅先で、俺の横で悲しそうにパイプオルガンの演奏を聴いているお前が眼に浮かぶんだ。そんな奴と一緒にいるのはゴメンだ。ああ、絶対に嫌だ!」


 周りにいるお客さんが、ちょっとこっちを見てるけど気にしてられない。

 悲しそうな黒い瞳が俺を凝視している。悲しそうだけど美人。

 

「お前、夢を諦めるなんて馬鹿かよ。チャンスがあるなら、今すぐドイツに行け! 俺といるいないなんて、あとから考えろ。もう二度と会えなくなってもな、お前が本当の夢を叶えたんなら、俺は幸せだ! 嘘じゃねえ、幸せだよ!!!」


 思わずその場に立ち上がり、胸の奥底で眠っていた夢を強引に引きずりだした。


「お前、星のオタクを舐めてんじゃねえぞ! 俺がドイツなんて行けないとでも思ったのか? ”It’s a piece of cake.楽勝なんだよ!” すぐに子どもの頃の夢を叶えてやる。見てろよ、サキくん。俺、ロケットつくっから」


「え?」


「え? じゃねえよ。お前が夢をかなえるなら、俺だって、やってやるんだよ。日本が無理だって頭を押さえつけてるけど、それなら外国でやってやる。フォン・ブラウンのいたドイツがいいな」


 サキさんは、顔を上げ、少しだけ笑顔が戻ってくる。


「一緒だね」


「ま、偶然だ、偶然。でも、オタクパワー、舐めんじゃねえぞ。もし、ドイツで再会したら、エロの限りを尽くしてやるからな」


 両手でワキワキと怪しい動きを繰り出す。


「ヘンタイ!」


 サキくんは、思わず胸を隠す。


「さっきまで、そのヘンタイと一緒になるなんて言ってた奴に言われたくねえよ。見てろよ、来年の9月に留学だ。だから、これからも、お前に英語のレッスンをお願いするぞ。いいのか」


「うん、勿論。楽しみにしてる」


「だったら、今すぐドイツに行けよ! チャンスは一瞬。幸運を手放すんじゃねえ!」


 その日、俺は今までの俺と決別すると決意した。やるしかねえよな。

 ドイツで女神が待ってるんだからな。


 §


「ケンジくん。最近、日本では9月にエイプリルフールが始まる決まりでもできたのかな?」


 俺の隣の研究室にいるトミサワ博士を尋ねたのは、東京から帰ってきたその日の夕方だ。


「トミサワ教授。俺、ブレーメン大学に留学したいんです。そして、ゆくゆくは向こうの大学に編入学するんです」


 オタクはいきなり本題に入るよな。やべえ。

 教授、訳が分からなくてポッカーン状態じゃん! 教授は両手を広げる。


「何で? 確かに君は私の講義を寝ずに聞く一人ではあるけども」


「俺は興味のある講義は寝ませんよ」


 もう、今しか勇気を出せないと自分がよく分かっている。

 ほとんど面識もない教授に直談判しているのだ。

 本当は足だって震えっぱなしだよ。


「教授。恥ずかしい話なんですが……」


 言え、ここまで来たら言うんだ、ケンジ!


「俺は自分の夢を叶えたいんです。ロ、ロケットをつくるっていう夢を。そのために、ブレーメン大学で教鞭をとっていた貴方に推薦状を書いてもらいたいんです」


 教授は興味深そうに、俺を見つめ、口調を改める。


「恥ずかしくないよ。ケンジくん。夢をもつって、とても素敵じゃないか。そうか、ロケットをね」


 あれ? 呆れられなかった。本当に?


「ケンジくん。ドイツ語は難しいし、海外暮らしは考えている以上に辛いよ。あんまりオススメはしないけどね」


「でも、日本じゃ、俺の夢は叶わないんです。ロケット関連はJAXA一択、後はベンチャー任せな日本じゃあ、遅すぎるんですよ。EUのESA(欧州宇宙機関)の方がまだ、宇宙開発に携われる可能性があります」


 教授は俺の話をしっかりと聞いてくれた。


「ならば、とりあえず英語とドイツ語で私に成果を見せないとね。期限は来年の6月。それまでに、大学で学ぶレベルに達したなら、君を推薦してあげよう」


「本当ですか!」


「ああ、約束する。」


 俺は勇んで教授の研究室を去った。でも、それからが本当にたいへんだった。

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