第2話 交差する運命は
「あなたは、誰?」
――咄嗟に、そう聞いてしまった。一般的に、初対面の女性にする質問としてはあまりにも非常識なものだ。けれど私は、そんな言葉しか口にすることができなかった。何十年という無限の歯車がようやく軋み始めたのかもしれない――ほのかで淡い期待に、心を囚われてしまったから。
「……わたしもあなたのことを知らないわ。あなたは誰?」
「市河永和」
「名前を聞いているわけではないの」
「……それなら、何を聞いているの」
女性は脚を完全に止め、私の方へと振り返った。頭ひとつ分は高い身長を華奢な脚で支え、黒の細身のワンピースを揺らす姿がやけに映えていた。
「どうしてわたしに声をかけたの」
「……あなたのことを、知らなかったから」
女性はゆっくりと瞬き、そのうち静かに首を傾けた。こちらを見つめる眼差しは、訝しげなようで、同時に何かを見定めるようでもあった。
「……普通、逆じゃない?」
「逆?」
「知り合いに出会ったら声をかける。見知らぬ人には声をかけない。それが普通でしょ」
「そうかもしれないけれど……生憎、私は普通じゃないの」
「そう。どんな風に普通じゃないの?」
「私は、時間に閉じ込められているから」
するりと唇から零れ落ちた言葉に、自分でも驚いた。初対面の人にいきなりこのような話をしたところで、信じてもらえるはずがない。私はなぜさらりと暴露してしまったのだろう。
しかし自問自答している隙は与えられなかった。女性が実に優雅な仕草で口元に指先を当て、その唇に弧を描いたからだ。
「奇遇ね。わたしもよ」
――学校はいいの?
――いい。学校より大事なことがあるから。
――そう。
私たちは近くのカフェに来ていた。お弁当袋は鞄の中にしまい込み、代わりに頼んだフレンチトーストを食べる。厚切りでバターをふんだんに使用したそれはナイフを入れる前から瑞々しさを放ち食欲を唆られるが、今の私の意識は、目の前の女性に吸い寄せられている。
彼女が見たという悪夢も、私の内容とほぼ同じだった。やはりあの夢がきっかけだったのか――と、腑に落ちる反面で、自分と似て非なる経験をした彼女のことが、私は気になって仕方がなくなった。
「最初は困惑したわ。どうしたらいいのって泣きついたし、家族も心配してくれていた。でもそのうち、家族はわたしを不気味がるようになった。一年に一度しか帰ってこない、何十年経っても、少しも衰える気配のないわたしを」
切り分けたフレンチトーストから、バターがじゅわりと滲みだす。そっと拭うようにして口に運んでから私は、珈琲を静かに飲む黒咲さんを見つめる。
「この歳になれば、たった一日の経過じゃほとんど変化なんかしない……だから当然よね。わたしが家を追い出されるのは、時間の問題だったわ」
黒咲さんは薄笑いを浮かべ、珈琲をゆるやかに掻き混ぜる。皿に広がるバターが、切なげに私を見上げた。
「……今年は、何年?」
「二〇二四年ね」
「明日は?」
「二〇二五年」
「あなたは、何歳?」
「……さぁ。もう、分からないわ」
ぽつりぽつりと会話を重ねるうち、私は気がついてしまった。
二〇二四年から出られない私と、四月七日から出られない黒咲さん。ならば私達がこうして会って、話せるのは――。
「ねぇ。私……今日が終わってほしくない」
「奇遇ね。わたしもよ」
「それ、さっきも言ってなかった?」
「あら、そうだったかしら」
きっとこれは、いくら言葉にしても足りないだろう。何度願っても、焦がれても、痛みを孕んで私と彼女を包み込むだけなのだろう。
今はただ、この一分一秒を無駄にしたくない。きっと彼女も同じ想いなのだろうとどこかで悟りながら、私達は小さなカフェで、いつまでもいつまでも話していた。
それは永遠の時を生きる私にとって、オアシスのような時間だった。
そして切り離された時を生きる彼女にとっては、束の間の平穏だったことだろう。
――時計の針は、刻一刻と進む。私と黒咲さんは二人で野原に沈み込み、共に眩い月を見ていた。
今日という日が、消えてしまわないように。明日が平和に訪れますように。
そう願いながら握った彼女の指先に、静かに込められる力。
「市河さん」
「……なに、黒咲さん」
「わたしは諦めないわ。だから……あなたも諦めないで。いつか必ず、本当の時間軸に戻った時に……また会いましょう?」
「……うん」
――いつか、必ず。
◇◇◇◇◇
その日、私はいつも自分が書いている日記を開いた。
特別な理由はない。時折意味もなく読み返したくなるというだけのことだ。
『――四月七日。
運命的な出会いをした。
過ぎることの無い時間の中で、
彼女と出会えたことに、私は感謝したい。
きっとこのことを私は覚えていられない。
来年の今日、思い出せる保証もない。
それでもきっと思い出すことが出来ると信じて、
この日記に託す。
明日からの一年をまた生き抜いて、
いつか必ず――再会出来ますように。』
「……?」
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所があった。この日は普通に始業式があって、学校に行っただけのはずなのに。
何度か日記を読み返してから、私は結局、考えることを放棄した。
私は受験生だ。今年はしっかりと勉強して、志望校合格を目指さなきゃいけない。年季の入った日記をそっと閉じ、予習復習のために教科書を取り出していく。しかし私は、新年度の始まりで疲れもあったのだろう――机に向かったまま、うたた寝をしてしまった。
――夢と現の境目で、私は不思議な回廊らしき場所に立っていた。右も左も、前も後ろも分からず、どこにも脱出することは出来ぬまま――ふっと目が覚め我に返った私は、大慌てで残りの勉強を片付けた。
そんな些細な夢のことは、次第に薄れ、忘れ去り。
静かな一室に残されたのは、女子高生の小さな寝息。
――窓の向こうで、優しい黒髪が静かに靡いては、消えた。
四月七日 黒詩ろくろ @kuro46ro
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