Hello world, Reversed blue

架魔多 翼

Hello world, Reversed blue

「ねぇ…………お願いがあるの」

 彼女は、雲ひとつない空の上でそう言った。

「…………、どうしたの、急に」

 この街で一番の商業施設の最上階…………だったもの。吹き抜けになっていて、少し覗けば下が見える。落下を防ぐ柵はもう意味をなしていない。だって、数ヶ月前では誰も考えはしないだろう。天井に人が立っているなんて。

 どうしたの、と訊ねたが、彼女が何を言おうとしているのかはわかっていた。それは他の誰かに言えば、忌避され、忌憚され、皆が口を揃えて非難するものだった。

 少女は、その長い髪を風に靡かせ、こちらを見る。透き通るような黒の瞳。憂いを帯びた表情。無窮の空のような彼女に、あの吸い込まれる…………というより、落ちていくような錯覚を覚える。

 彼女の口が開く。悲しみを湛えた唇が震えていた。彼女は息を吸って、決意したように言葉を吐く。

「私を、殺して」

 それが、僕と彼女の、懊悩の終わり、そして旅とも呼べないしょうもない時間の始まりだった。



  世界はひっくり返っていた。

 その言葉に偽りはない。文字通り、全くの反対。重力が上に…………上だった方に働いて、地面が空に、空が地面になった感じ。手から離れたものは空に落ちて、逆にジャンプすれば地面に届く。何も知らなければ鼻で笑うような出来事が、現実で起こっていた。事実は小説よりも奇なり…………小説の中で言及するようなことわざでは無いが、そんな言葉が今の現状にフィットしていた。

 僕は嘆息しながらひっくり返った商業施設の廊下の天井だった部分を歩く。この商業施設の中央部分は吹き抜けになっていて、ここ数週間で培った「決して下を見ない」という技術がこうやって食料を調達しに行くのにも役立った。上に落ちる…………そんな奇っ怪な表現は僕達の想像を通して現実になりそうなものだから、下を見ずに足元に気をつけるという器用な真似をしなくてはならなかった。

 どこからか熱気を孕んだ風が吹いてくる。染み込むよな熱気。

「そういえば、もうそろそろ夏休みの時期か」

 半ば斜面となっている階段の裏側を登りながらつぶやく。もちろんこんな状況で学校なんてあるはずもないが、小学生の頃からインプットされ続けてきた約一ヶ月の快楽は忘れられようはずもない。僕は部屋にこもってゲームばっかしてたけど。

 五階分上がったところで通路に出て、食品売り場だった場所へと向かう。天井に取り付けられた壁をよじ登って店内に入る。

 床にはパンや弁当等の惣菜、野菜と果物といった生物までもが散乱している。食べても食べても一日経ったら蘇るこの食料たちは生産手段もないこの世界での生命線だった。そこら辺に落ちていたカートとカゴを拾ってすぐに食べられそうなものを放り投げる。

 あらかた集まったところで食品売り場を出て、人々が集まる下の階へと向かう。僕達帰る場所をなくした人々は、六階部分にあたる場所にコミュニティを築いてそこで暮らしていた。

「………………?」 

 カートをガタガタ鳴らしながら階段を滑り降りていたら、人の声が聞こえてきた。ここ四階に当たる部分は娯楽施設が多く、あまり目ぼしいものはなかったはず。気になってカートを置き去り、声の方にそろそろと近づく。

 覗くようにして声の方を見ると、そこには見知った女子達がいた。前はクラスメイトで、同じショッピングモールに閉じ込められ、同じコミュニティで話もした女子達。彼女達は、コミュニティで見せている顔とは打って変わって目を見開き、口々に大声を上げていた。

「…………てんじゃねえよ!」

「逃げ…………んなボケ!」

 聞こえてくる怒号。バキ、ともボキ、とも取れるような、聞いているこちらが痛くなってくるような音が数度響く。普通の生活を送ってきたならば聞かなかったような音は、しかし誰かの叫ぶような悲鳴によって現実のものだと証明される。

 そこでは、一人の少女が複数の少女に殴られ、蹴られている。誰が見ても疑いようのないいじめの現場だった。そんな状況に僕は…………動けず、尻込みしていた。僕は別に正義感が強いほうじゃないし、すぐにでも死んでしまいそうなこの世界で他人を助けられるほど余裕なんてない。

「僕には、関係ないっ…………」

 ただの聞き苦しい言い訳。そんな自分の弱さが、自分の首を絞めている。


 僕は、何者かになりたかった。母親に言われるがままに勉強し、父親に言われるがまま色々な習い事をして。でも、どんなに僕が努力しても、僕は何にもなれなかった。そして、小さい頃から内向的だった自分は、自分の殻にこもる代わりに、何者かになれない自分を埋めるように周りを見ていた。掛け替えのない友人とともに笑い合ったり、仲の悪い奴らで喧嘩したり。親子で楽しそうに買い物をしたり、恋人同士で手を繋いで歩いていたり。そんな周りの人々とは違って、僕は人として幸せだと誇れるものが何もなかった。

 無論、世の中にはそんな幸せな人達ばかりではないことはわかっている。飢餓で苦しんでいたり、戦争に駆り出されて戦死した同年代の人も多いだろう。分かっている。解っているけど…………それすらも、僕はその必死になって生きる姿は死人のような僕とは違って美しいと思ってしまった。

 自分の穴を埋めるように他人を見つめ、見えない誰かを想像し、本を読んだ。その行為は逆に自分の穴を広げていったけれど、それが止むことはなかった。何かを求めて生きている彼らの美しさを見るたびに、自分の醜さが浮き彫りになる気がして…………。結局、何にもなれなかった僕は、惰性で散文的な人生を過ごしてきた。世界がひっくり返ったことによって、自分もナニカになれる気がしていたのに。

 

 所詮、僕は逃げるばかりで、そんな僕は絶対に誰かの特別にはならないんだ。

 

 気づいたら、僕じゃない誰かが、僕と同じようにいじめの現場を見ていた。いじめている彼女達からはちょうど死角になっている位置。そいつと僕は互いに見える位置にいるけど、僕には気づいていないようだった。

 僕と同じ、卑怯者、ってことか。芽生えるのは同情の念。と同時に安堵を感じ、しかしそれを恥じた。心の中で、そこにいる誰かを自分の弱さの言い訳に使ってしまったから。あいつが動かないのだから、自分の行動は正しいんだ、って。

 自責と焦燥の中で悩んでいると、不意に、もうひとりの傍観者がこちらを見た。目が合うと同時に、そいつはいじめている女子達も気にせず僕の方へ走って近づいてきた。

 今まで暗くて見えなかったが、そいつはクラスメイトだった女子だった。確か、僕と同じように教室の隅でひとりぼっちだったやつ。彼女は今にも泣き出しそうな顔で言った。

「ねえ…………、杠葉を助けて!」

 掠れるような、小さな叫び。最初から影から見ていたのだろう、その顔と声はさも自分がいじめられていたかのように悲痛に染まっていた。

 考え、そしてためらった。なんで僕が…………、と。彼女の言葉をトリガーに、僕の心のなかに黒い感情が溢れ出す。少女のことは僕には関係ない。このまま無視して食料を運べばまたいつも通り。目の前の少女には恨まれるかもしれないが、そんなことは些事だ。食いつないで、寝て、起きて…………。そうすれば、 また何もかも元通り。そんな事を考えた僕は、後ろを向いて走り出そうとした。


 …………でも、実際に進んでいったのはいじめの現場の方だった。戻ろうとしても、引力みたいな力が働いて逃げられない。

 自分でもわけが分からなかった。僕は、逃げようとして、いつも通りの生活に…………。そこで、ひっかかった。いつも通りで、本当にいいのか?

 ナニカが、壊れた音。それは呪縛か、信仰か。

「なんだ、簡単なことだったんだ」

 ナニカになりたかったんじゃなかった。憧れるその「ナニカ」を自分の中で持ち上げて、崇拝して、自分には高嶺の花だと思いこんでいただけ。

 でもそれは、そんなに崇高なものではなかった。なぜって…………だって、僕がこうやって一歩を踏み出すだけで、僕はその、追い求めていた「ナニカ」になれるのだから。

 女子達が、一斉に僕を見る。

「…………っ、なんでここに人が!?」

「し、知らない!わたし、知らないからっ!」

 いじめを見られた女子達は慌てたように散り散りに逃げていく。

 

 いじめの女子達が見えなくなったところで、いじめられていた少女の方を見る。彼女はその顔をところどころ腫らし、涙を流していた。しかし、今は打って変わって放心したように口を開いている。なにか言葉をかけようとしたが、何を言っていいのかわからない。意図的にコミュニケーションを避けていたツケが回ってきていた。

 僕がそうやってあたふたしていると、さっき僕に助けを求めてきた少女がこちらに近づいてきた。彼女はいじめられていた少女の方に駆け寄り、そしてそのままその少女に飛び込んだ。

「ごめんっ、杠葉、ごめん…………」

「う、ううん、いいよ。大丈夫。大丈夫だから…………」

 完全に蚊帳の外となった僕をおいて、少女二人が慰め合っていた。いたたまれない気持ちになったが、事情を聞くためにはそこを離れられず、そのまま十数秒突っ立っていた。

 この先どうするかと考えていたら、ようやく泣き止んだ二人がこちらを見る。

「あっ、あの…………助けてくれて、ありがとう…………」

「ごめん…………、迷惑、かけたよね」

「う、ううん、いいよ。それより、怪我は?」

「大、丈夫」

 そう言いながらも、彼女は痛そうに顔をおさえる。でも、彼女はしっかりとその痛みに向き合っていて、そんな彼女を強いな、と思った。

「そういえば、あなたの名前は?」

 もう一人の少女が聞いてくる。

「僕は、榎本涼楓。君達は?」

「私は日下部心律。この子は、杠葉」

「篠原、杠葉です。助けてくれて、ありがとう」

 いじめられていた方が篠原さんで、助けを求めてきた方が日下部さん。その二人とコミュニティに戻りながら、事情を話してもらうことになった。

 篠原さんへのいじめは世界がひっくり返る前から始まっていたらしい。去年の冬ぐらいから、と言っていたから結構な間いじめられていることになる。とはいえ、今回みたいな暴力は世界がひっくり返るまでなかったらしく、いつもは無視とかパシリとか、そういった間接的なものだったらしいが…………。世界がひっくり返って社会の秩序もなくなってしまったし、何よりいじめていた女子達にもストレスが溜まっていったのだろう。仕方ない…………と納得しようとするが、正義感が、義憤が、それは許せないと心に訴えかけてくる。

 …………こんな気持ちが自分の中にもあったんだな。ふと気がつく。今まで人との関わりがなかったから、こうやって自分が人に向かって怒ることなんてないと思っていた。こんなことも、僕が、「ナニカ」になれたことの証明なのだろうか。

「本当は、私が助けに行くべきなのに…………自分も殴られるのが嫌で…………。ごめん、杠葉」

「いいよ、その気持ちだけで、十分ありがたいから」

 日下部さんは、世界がひっくり返るちょっと前から篠原さんへのいじめを知っていたらしい。このことを知って先生に相談したりしたらしかったけれど、どれもだめだったらしい。そして自分がもっと勇気を持てていればいじめを止められたのに、と罪悪感を持っているみたいだ。僕と考えることが似ているな、とシンパシーを感じた。

「耐えてる篠原さんも、篠原さんのことをなんとかしようってしてる日下部さんも、えらいよ」

「…………そうかな」

 

 コミュニティに戻ってきた。いじめていた女子達はまだ戻ってきていないようだ。僕にも難癖がつけられそうだなと考えていたので、少し安心した。食料を待っていた人々に持って帰ってきたパンやおにぎりを渡して、一息つく。何人かの人は篠原さんの顔を見て驚いていたようだけれど、自ら話しかけに来ようとする人はいなかった。前も自分はあの人々の仲間だから気持ちはわかる。

 その後僕たちも持って帰ってきた食べ物を食べながら、これまでの生活を話し合った。出てくるのは苦労話ばっかりだったが、それでも人と一緒に食べる食事は美味しかった。

 

 いじめを仲裁した日から数日が立っていた。あれから僕らは一緒に行動するようになっていた。今はまた食料の調達をしに行っているから彼女達は来ていなかったが、寝るとき以外は一緒に話していた。いじめていた女子達とは気まずくなったが、その代わり篠原さんに対するいじめはなくなっているらしいので、少し嬉しかった。

 これからもこんなふうに過ごしていけたらな…………なんて考えながらコミュニティに戻ってきて食料を配給していたら、いきなり日下部さんがこちらに走ってくる。数日前と同じような、泣きそうな顔。

「榎本…………、杠葉、杠葉が!」

 あの日と同じ、焦燥にかられた目。僕は周りにいた人に代わりを頼んで、すぐに走る日下部さんの後ろをついて行った。

「何が、あったの?」

 走りながら訊ねる。

「ゆ、杠葉が、トイレに行ってるときに、あいつらに捕まったの!どこかに連れて行かれたみたいで…………」

 彼女は余裕のない表情で説明してくれた。篠原さんがいじめの女子達に連れて行かれて、どこかでまたいじめられているのだろう、ということ。彼女もそれにこっそりついていこうとしたらしかったが、女子達も学んだようで、日下部さんを撒くようにしてその場を離れ、しかもご丁寧に見張りまでつけていたから助けに行けなかったらしい。

 しょうがないから僕達は商業施設のなかを虱潰しに探すことにした。といっても、ここは元は七階建てで敷地面積も広かったから、探すのに時間がかかりそうだった。日下部さんから伝染してきた焦燥が僕を焦がす。

「杠葉、無事でいて…………」

 篠原さんはここ数日、体にできたアザにも耐えながら生きてきた。ようやくアザの青さが引いてきていたときだったから、これじゃ彼女が報われない。一番下の階を探して、続いて二番三番四番と探しても誰もいない。声も聞こえてこないから、あと六階目だけだ。

 そうして元は一階だった部分の階層にたどり着き、そこを二人で入念に探した。しかし、どれだけ探しても、篠原さんは見つからなかった。

「どこにいるの、杠葉…………」

 虱潰しに探していたから、抜けがあったとは思えない。いるとしたらトイレの中とかか…………、と考えて、その時電流が走ったように閃いた。

「もしかして、七階…………」

 

 僕達は体力のリミッターを忘れて走った。最速で階段を駆け下りて、屋上だった階層へと向かう。コミュニティの人に変な目で見られた。ただならぬ雰囲気は感じているだろうが、それでも話しかけてくる人はいなかった。

 元の六階から階段を降り、七階に出る。七階は周りが吹き抜けになっていて、世界がひっくり返ってからは空への転落の危険があるとして立入禁止と決められていた。

 その時聞こえる、おぞましいような叫び。聞いたことがないような悲鳴だったが、僕達はすぐにそちらへ向かって走った。その先では崖となった屋上の縁に、篠原さんといじめの女子達は立っていた。

 日下部さんが我を忘れたよう駆ける。

「杠葉、ゆずりはっ!」

 彼女は篠原さんに向かっていったが、しかしその先の光景を見て虚を突かれたように立ち止まり、そして膝から崩れ落ちた。

 いじめていた女子達の数人はタバコとライターを持っていた。根性焼きをしていたような痕跡。でも、それだけじゃない。篠原さんは、屋根の縁に立たされ、今にも空に落ちそうだった。

 いじめのリーダー格のような女子が、日下部さんを脅すようにして、顔に凄惨な笑みを浮かべながら篠原さんに近づく。

「やっ、やめ…………」

「よお、日下部。今まで私達のこと見てたらしいじゃないか、ああ?!」

 凄むような声。いつものイメージとは違った声に僕も怯んでしまった。

「おい、後ろに突っ立ってるお前もだ!この前はよくも…………」

「そうよ、あなたには関係なかったでしょ!?」

 彼女達は数日前とは打って変わって、水を得た魚のように僕を口々に怒鳴り散らした。

「や、やめて!心律も榎本くんも、関係ないっ!」

「お前は黙ってろ!今こいつらと話してんだよ!」

 取り巻きの数人が篠原さんを取り囲んで、火のついたタバコを彼女に押し当てた。つんざくような悲鳴が僕たちを刺す。

「ゆず、りはぁ…………」

「おい、こっちに来んな!こいつを落とされてえのか!?」

 篠原さんに近づこうとした日下部さんにリーダー格がそう怒鳴った。そう言われてしまうと、僕も日下部さんも動けなかった。

「心律、榎本くん、私のことはいいからっ!」

「うるさい、喋んな!」

 再度、悲鳴。女子達と篠原さんの声は僕達を進むことも退くことも許さずその場に縫い止めた。そして、続く暴力。一瞬だったか、数分だったか、篠原さんが痛めつけるだけで時間が過ぎていく。日下部さんは、もう涙を流さず、ただ絶望していた。止めないといけない。でも止めようとしたら篠原さんが危ない。無情な二律背反は、ちょうど篠原さんがされているように殴るように、嬲るようにで僕達を責め立て続けていた。

 その時だった。女子達の疲れによって雨のような暴力が終わりを告げた、その時。日下部さんは駆け出していた。誰も想像しなかったタイミング。

「うぇあぁぁぁ…………ッッ!」

 声にならない叫びを上げながら、日下部さんは走る、走る、走る。女子達は誰も反応できず、声も上がらなかった。でも。

「ぇあっ」

 誰の声か、その場にそぐわない、間抜けな声。それが誰かの声かを確認しようとして、気づく。一人、足りない。

「篠原さんッッ!」

 今更になって、駆け出した。しかし、もう既に遅い。視界が青に染まる。屋上から覗いた篠原さんは、どんどん遠くなり、小さくなっていく。

「…………ゆずり、はぁっ!!?」

 誰もが悟った。僕達は、彼女を、落とした。そして、殺した。簡単な事実。簡単で、迷いようのない、残酷な事実。いじめていた女子達が、逃げていく。それを咎める者はだれも居らず、そこにはただ空を見下ろす二人しかいなかった。

「杠葉っ、ゆずりはっ、ゆずりはぁぁ…………」

 泣けども叫べども、彼女は帰ってこない。篠原さんが落ちた空も、あられもない表情で叫ぶ日下部さんも、もう見ていられなかった。

 

 二人で、屋根に座っていた。ただ、静寂だけが時間を奪い去っていく。数時間たったような感覚。その後で、唐突に日下部さんは口を開いた。

「杠葉はね、私に話しかけてくれた最初の人なの」

 彼女は訥々と語り始める。

「私も、小学生の頃からいじめられてたの」


 私は、父と母の間に生まれてきた、望まれていない子供だった。父親は典型的なダメ親父といった感じで、事あるごとに私を殴った。素面のときもそうだし、アルコールが入ったときは本当にひどかった。それとは違って母親は望まれていない子供でも愛してくれて、父親がいない間に一緒に過ごして、父親の嵐に耐えたらお菓子もくれた。私が失敗して父親に叱られそうになったときは母親がかばってくれた。

 小学校にはいって、私はいじめられた。四年生くらいのころ。周りの子は普通の格好をしているのに自分だけみすぼらしい服だったからだと思う。父親は薄給なのに、酒や煙草にたくさんお金を使っていた。母親もパートをしていたけど、私の世話のこともあったので長い間働けなかったので、周りより特段貧乏だった。

 そんなこともあって、四年生から卒業まできっかり無視に陰口、物を隠すといった嫌がらせをされた。せめて中学校は遠い場所に通いたかったが、学力もお金もなかったから結局地元の中学に通うことになった。

 私はそこでもお約束とばかりにいじめられ、またそれも三年間続いた。小学校の頃から続いていたのでもう慣れていたが、それでも心にくるものはあった。

 でも、一番苦しかったのは、そんな低レベルないじめじゃなかった。日に日に落ちぶれていく父親はどんどん荒くれ、母にも私にも躊躇なく拳を振るってきた。そんな中、母は私を見捨て、ただただ父親に媚びを売る機械となった。見捨てられた私は…………いや、思い出したくないな。中学校の話はもうやめよう。

 高校に入ってからは、もういじめは止んた。しかし、みんな、露骨に私を避ける。どうやら、うちのクラスにもカースト制というものがあるらしい。誰にも話しかけられなかったのは寂しくて、小中学校とはまた違った痛みを味わった。

 そんなアンタッチャブルだった私に話しかけてくれたのが、杠葉だった。ちょっと引っ込み思案だったけれど、私にも勇気を持って話しかけてくれた。一緒にご飯を食べて、話して、杠葉の家にも呼んでもらって…………。彼女の優しさは心に染みるようです、助けられた。なのに、私は…………結局、杠葉を助けられなかった。


「ねえ、私達って、なんで生きているの?」

 回想のあと、人の根源を問う言葉。いつもなら脈絡もないし、考えることに意味はないって一蹴していただろうけど、しかし彼女の言葉は僕に刺さった。

「…………わかんない。僕が聞きたいよ、そんなの」

「わかんないって…………」

「わかんないよ。でも、一般論を言うなら、誰かを幸せにするために苦労して、働いて…………」

「そんなことを聞いてるわけじゃないのっ!」

 日下部さんが叫ぶ。彼女の言いたいことはわかっていた。幸せになりたくて、努力して、それでも幸せになれなくて。走る気力も体力もないマラソンがどうして完走できようか、ということ。

「っ、ごめん。いきなり叫んじゃって」

「いいよ、…………僕も、何回も考えたよ。どうして僕はこうやって生きているんだろう、って」

 そして、僕も語った。僕の悩み。長い間苦しめられてきたこと。彼女ほどじゃないけれど、それでも僕は全部、辛かったことを話した。

「そうだよね、榎本も、…………苦しいんだよね」

 多分、理解はしてもらえなかった。僕も日下部さんの痛みは全部は共感できなかったし、表面的な部分では人は理解し合えないんだろう。

 急に、日下部さんは立ち上がり、屋上の縁に向かって歩き出した。僕も立ち上がり、ついていく。

「ねえ、お願いがあるの」

 白と青の境界線。彼女は、篠原さんと同じ屋上の縁に立って、そう言った。

「…………、どうしたの、急に」

 そして、彼女は僕の瞳を見つめる。

「私を、殺して。そしたら、君も、その…………「ナニカ」になれるんでしょう?」

 切実な表情。彼女の体は今にも空に消えてしまいそうだった。

「…………できないよ。君は、篠原さんの分まで…………」

「私には、荷が重かったのかな、この人生。でも、そうだよね、榎本が言ってることが正しい…………けど」

 彼女が息を吸って、吐く。

「私は、もうとっくに、壊れてたみたい」

 言葉と同じ、壊れた笑み。彼女は、空に吸い込まれていく。

 彼女はその、あまりにも重すぎる悩みを抱えて、そして落ちた。


 この数日間を思い出す。僕がいまもこうやってここに立っているのは、日下部さんが僕を頼ってくれたおかげ。彼女が助けを求めてきてくれたおかげで、助けられた。じゃあ、今度は、僕が助ける番じゃないのか。


 そうして、僕は「ナニカ」になる。


 気づけば、僕は空の中にいた。下を見ると、日下部さんの驚いたような表情。僕は手足を目一杯動かして、彼女の下へ行く。

 その目は問う。「どうして」、と。僕は、答えた。

 「生きる意味、見つけたかも」

 僕達は、そうして、二人であの青い、青い、碧落に落ちた。


 

 

 気づいたら、僕達は屋上に戻っていた。隣を見ると、彼女は呆けたように座っていた。何もわからない、といった表情。それは篠原さんが最初に見せたのと似ていて、僕も同じ表情だった。わからないことだらけだったけど、その代わり気づいたこともあった。

 僕達人間は、どうやってもその信条を理解し合えないんだろう。それは僕達が生まれる前からわかっていたことだし、そしてこれからもだろう。でも、一つだけ、共感できるものがある気がする。

 それは、「生きている」ということ。必死になって生きて、苦しんでいるときだけ、僕達はそれを理解し合える。世界がひっくり返って、友人が死んで、それでやっと、生きることの大変さについて理解できる。

 僕達はこれからも生きる。日下部さんをもう死なせたりしないし、僕も篠原さんの分まで必死に生きる。日下部さんはどう思っているかはわからないけど…………生きてもらう。

 日下部さんはまた問うた。

「どうして」

「僕が君の荷物を背負うよ。でも、その代わり、僕の生きる意味になってほしいんだ」

 ちょっと恥ずかしいな、と感じた。けれど、もうその言葉を撤回するつもりはなかった。

 

 熱気を孕んだ風が吹く。それは、夏と生を告げる合図となって、僕達を通り過ぎていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Hello world, Reversed blue 架魔多 翼 @tsbskm2277

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る