バイオレンス・エウロシス

浦切三語

バイオレンス・エウロシス

 ――【中古美品】第五世代型エウロシス サロメV F型 標準オプション 保証書付


 コンビニ弁当の空き箱散らばる1Kアパートのリビングの一室で、男は何の気なしに携帯端末を操作しては、さっきからずっと同じ画面の、同じ文言を繰り返し眺めていた。


――第五世代型エウロシス ・サロメVの中古美品です。性格設定、トークスキル、反応速度、学習機能など、すべてにおいて現行のエウロシスの中では最高水準を誇る、人型家電の逸品です。


――三か月前に購入しましたが、このたび長期の海外出張が決まったのに伴い、泣く泣く手放すことにしました。


――操作手順書と保証書付。東京・青山にある正規代理店の高清水屋を通じて購入しました。目立った傷などはございませんが、神経質な方はご購入をお控えくださいますと幸いです。


――注文後の返品・返金対応は一切受け付けておりません。市場適性価格と比較しても格安なため、現在設定している金額から下げる予定はございません。


――サイズがサイズだけに、離島からのご注文には対応出来かねます。ペットは買っていません。煙草も吸いません。


――何卒、ご検討のほどよろしくお願いします。


――発送準備日数:3~5日


「うーーーーーん……」


 難しい表情を浮かべながら、床に散らばるゴミを蹴り飛ばし、饐えた匂い漂うベッドに腰掛ける。男の着ているよれよれのスウェットの襟はほつれにほつれ、ボロと大差なかった。


 金がないわけではない。むしろ、これでも貯めているほうだ。


 男はつい先日、むかしむかしに、大学入学を機に購入したマリアRを、ようやく手放したところだった。簡単な家事手伝いとトークスキルしか持たない第一世代のエウロシスでは、いまの男の灰色の人生を明るいものにすることなどできない。それは、男がよく分かっていた。彼女を段ボールへ梱包した時には一抹の寂しさがあったが、男の興味はすぐに最新の第五世代機へ向けられた。


 購入するなら、今しかない。狙っているサロメVには、すでに「いいね」が二十八件もついている。つまり、二十八人、このサロメVを虎視眈々と狙っているというわけだ。即購入するユーザーがいつ現れても不思議ではない。


 エウロシス専用のフリマアプリ【ラスメニナス】を通じてマリアRを売却した結果、男の手元に残った売上金は、送料と手数料を引いて二万弱。それにプラスして、銀行に預けている貯金が十万円。合計十二万円が、男の全財産だった。


 いま狙っているサロメVのF型――男性向けの調整が施された、中古の家庭用エウロシス――の価格は、八万円。


 金銭的には問題ない。貯金残高は四万円まで減ってしまうが、まぁどうにかなるだろうと、男はタカをくくっている。


 今日で派遣の契約は終了した。明日から、また新しい派遣先を見つけなければならない。それまでの糊口を四万円で凌ぐのは、大変であっても辛くはない。


「もしもこれが万が一、偽物だったらなぁ……」


 そこが、男にとって最大の懸念点だった。


 フリマアプリに偽物のエウロシスを取り締まる能力があるかと言えば、ハッキリ言って怪しいところだ。巡回パトロールはしているみたいだが、それでも、すべての違法業者を摘発できるわけではない。


 だが、【新品、未使用】【第五世代型】【F型】の主要キーワードで引っ掛かる製品の中で、最安値を掲示しているのは、この出品者しかいなかった。他は十万~十五万。フル・オプション付きのものに限れば、二十万以上の金額を平然と掲示しているものもある。さすがに、そこまでの金は出せない。


「それに……この出品者、めっちゃ評価高いんだよなぁ」


学知可がくちか】という、一風変わったユーザーネーム。プロフィール欄を確認すると、丁寧すぎる挨拶と注意事項が長々と記載されており、星五の数は二千を超えている。星を業者から買っていないと想定した場合、かなりの長期間にわたってラスメニナスを利用しているということになる。加えて、受け取り評価は軒並み高評価で、悪い評価はひとつもついていない。


「……いいや! 買っちゃえ!」


 先に他のユーザーに購入されてしまうかもしれない、という不安感が、最後には勝った。


 男は購入ボタンをタップすると、支払い画面で銀行振り込みを指定。携帯端末上の画面が取引画面へスライドしたところで、端末を枕元に放り投げ、ふぅ、と大きく息を吐いた。


「買っちまった……サロメV……最新のAI機能を積んだ人型家電……」


 あれだけ逡巡していたにもかかわらず、買ったら買ったでワクワクした気持ちしか後には残らないから、購買意欲というものは不思議なものだ。


 サロメVが届いたら、まずは何をさせようかな。


 男はベッドの上に寝そべり、ゴミだらけのリビングを一瞥しながら、深夜の寝床へ沈んでいった。





 ■■■





 遣隋透けんずい とおるは、客観的に言ってクズである。


 彼はクズの中において、典型も典型。すなわち、自身の努力不足が招いた現状の原因を、生育環境に求める傾向のある人間だった。


 こういう露悪的な言い方をすると、必ず鬼の首を取ったかのように口にする人がいる――自己責任論はよせ。環境が悪いのだと。


 土地が悪ければどんなに優れた成長力を持つ種を植えても、立派に育つわけがない。それと同じように、人間もまた、幼少期における両親の育て方が悪ければ、どれほど善き心を持っていようと、簡単に捻じ曲がる。


 だから、彼がその日暮らしの派遣労働に身をやつしているのも仕方ないというのが、自己責任論を嫌う連中の言い分だ。


 だが、遣隋透の生育環境は、客観的に言って「悪かった」と一概には言い切れないところがある。


 けっして、恵まれない環境にあったわけではないのだ。それどころか、彼がまだ小学校に上がったばかりの頃は、裕福な家庭のお坊ちゃんとして、近所のお年寄りや奥様方から可愛がられていたものだ。


 透の母親は、少々教育ママな性分があったのは否めないが、世間一般の常識と照らし合わせてみても、ごくごく普通の専業主婦だったと言えるだろう。


 透の欲しがるおもちゃやゲーム機はなんでも買ってあげたし、息子が同級生と喧嘩したときには、相手の家に乗り込んで親同士の和解で以て喧嘩の仲裁をつけようとしたこともあった。


 授業参観には欠かさず出席し、ドメスティックブランドを着飾った服装で、同席する父母のみならず、教師や児童らの耳目も買うこともあった。


 運動会の日には、早朝から腕によりをかけた重箱弁当を作ってあげたりもした。


 なんて素敵な母親なんだろう。子供の教育に無関心だったり、罰と称して虐待を平然と加える鬼畜な連中と比べたら、ずいぶん出来た母親だと言って差し支えないはずだ。


 母親が母親なら、父親も父親だった。


 地銀の支店長を定年間近まで勤めあげた、温厚で真面目な人柄で知られた銀行員。それが透の父親だ。


 日々の業務はそつなくこなし、顧客からの評判も上々。投資信託に無知な顧客の相談にも親身に乗り、部下の管理と指導にも余念がなく、本社からの覚えも良かった。


 家に帰れば、夕飯を摂るのもそここに、勉強机に向かう透の傍らで学校の宿題をみてあげる日も、一度や二度ではなかった。


 休日には、一家三人連れ立って、日帰りの温泉旅行に出かけるなど、家族サービスも事欠かなかった。


 さわやかな笑顔で、嫌な顔ひとつせず、妻に代わって朝のゴミ出しを率先して行う彼と挨拶を交わすとき、近所の奥様方は心の中で羨んだことだろう――ウチのメタボで甲斐性なしの旦那も、あんな風なら良いのに、と。


 絵に描いたような理想の夫。子供の面倒を見る善き父親。それが透の父親に対する、世間一般の評判だった。


 その評判が、まったきその通りであったのなら……つまり、なにも問題がなければ、定年まで無事に業務を遂行し、莫大な退職金を得て、順風満帆な老後を送る道が約束されていた。


 人知れずオンラインカジノに熱を上げ続け、負けが込み、ついには大事な顧客の定期預金に手を出すという、決定的な過ちを侵さなければ。


 ギャンブルの沼から抜け出せないゴミたちは、口を揃えて、言い訳がましくがなり立てるものだ。手を出しちゃいけない金に手を出してからが、真のギャンブルのはじまりだ――と。


 無論のこと、なにもはじまる訳がない。世迷言も大概にしろ。常識的に考えればわかる話だ。


 事実、被害に遭った老婦人が、事件の数日前に定期預金を解約しようと心に決めたその瞬間も、借金の山は二千万の大台を超えて膨れ上がり続けていたのだ。


 その時からもうすでに、父親の脳裏では、終わりの音が鳴り響いていたに違いない。ご近所からの評判だったり、職場での信頼だったり、家族との絆。そうした、目には見えない、だが目に見えるもの以上に大事なものが、砂上の楼閣のように跡形もなく崩れ去っていく音が。


 のどかな郊外の一軒家を突如として襲った横領事件の余波は、だが大方の予想とは裏腹に、仄暗いさざなみを起こすに留まった。事件は夕方のニュースで報道されることはなく、朝刊の三面記事に小さく載っただけで、処置は粛々と内々に進められた。


 被害額は父親に支払われるはずだった退職金から全額補填され、弁護士を交えての双方の話し合いの結果、起訴には至らず和解に至ったのは、奇跡的というほかない。懲戒解雇ではなく、諭旨退職という体裁を取ったのは、これまでの働きぶりを鑑みて情状酌量の余地ありと、本社が熟慮したうえでの判断だったのだろう。


 一家の台所のテーブルに残ったのは、三枚の帯封と、一枚の離婚届。刑務所に放り込まれるのと、家族の迎えのない冷えた家に留まるのと、どちらがマシであったか。父親の心中は知る由もない。


 離婚が成立した日から約一年後、父親はリビングのドアの取っ手にタオルを括りつけ、首を吊った。八月九日。順調にいけば、三十五年目の結婚記念日になるはずだった、その日のことだ。


「俺が大学二年生に上がったばかりの頃だったなぁ」


「いまから十二年前ですね」


「そうだね。ああ、もうそんなに経つのか。俺も、もうオッサンだなぁ」


 まどろみつつある意識を振り払うように、すっかり色褪せた記憶を手繰り寄せて、透は吐き捨てるように口にした。


「ひとことで言えば、環境が悪かったんだよ。俺の場合は」


 若年にしては寂しくなりつつある後頭部に、人肌そっくりの温もりを感じながら。


 都内の安アパートの一室。簡易ベッドの上で、先月購入したばかりの第五世代型エウロシスの極上の膝枕に甘えながら、透は同意を求めるように呟いた。


「親ガチャ失敗ってやつだよ。いくら金があっても、父親があんなんじゃ、そりゃ子供もダメになる。良い種をゲットしたんなら、ちゃんと花が咲くまで育てろって話でさ」


 窓から差し込む真昼の陽光が、ベッドに佇むふたりに降り注ぎ、柔軟剤の香り漂うシーツに陰影を刻む。水拭ききされたばかりのフローリングの床だって、ピカピカだ。


 あれだけ散らかっていた1Kの六畳間は、綺麗に整理整頓されていた。風呂場やトレイにも、清潔感が復活している。もちろん、面倒くさがり屋の透が自主的にやったわけではない。


「透さんの仰っていること、わかりますわ」


 サロメVは慈母のような微笑みを浮かべると、ルビーのように透き通った赤い瞳で、透を見下ろした。


「土が悪かったら、どんなに素晴らしい実をつける種でも、育つ機会を逃してしまいますもの」


 サロメVが、共感を滲ませる相槌を打つ。タイミングは完璧だ。言い回しも申し分ない。透の頭でも理解できる程度には、わかりやすい台詞を導出できている。


「すげぇイイ表現するねぇ。本当にその通りだよ」


 結果――自己肯定感の低い透の自尊心を、一時的に回復することに成功。


「だから、自力で頑張って育とうとしたんだ。頑張って勉強して、地方国立大学に入学してさ」


「どこの大学ですの?」


 透の脂ぎった額を、指の腹で愛でるように撫でながら、サロメVが興味深げに尋ねた。


「L大学の理工学部。S県にキャンパスがあって、そこで四年間過ごしたんだ」


「理工学部ということは、専攻は数学だったんですか?」


「いや、無機化学だね。大学三年の時に研究室に配属されて、そこで結晶構造の解析とか、やってたんだよ。知ってる? 無機化学」


「もちろん。データベースに登録されていますから。でも、あまり興味は湧きません」


「なんで?」


「学問の内容よりも、透さんの研究生活の方に興味がありますわ」


「へぇ、そうなの?」


「はい。だって、そっちの方が聞いてて愉しそうなんですもの」


「愉快なものじゃなかったよ」


 憮然とした表情。透の声のトーンが、やや下がった。


 ――機嫌を損ねてしまったか?


 状況判断。サロメVの末梢神経部に搭載された、いくつもの感受センサーが、10デシベルの駆動音で稼働する。人間の可聴領域では聞き取れないほどの音。透が気づくはずもない。


 指先から伝わる体温、毛穴の開き具合、汗の分泌量。聴覚で聴き取る呼吸のリズム、声のトーン。瞳孔の奥で捉える、顔の筋膜の下を流れるわずかな緊張……微細な肉体反応の変化量を瞬時にキャッチアップ。数値変換による定量化を行い、性格傾向パターンと会話履歴トークログのデータと照合、解析、反省、推測――来るべき返答に対する最適解候補をパターン化し、備える。導出まで、およそ二秒とかからない。


「指導教官がマジ鬼でさ。卒業論文書くのに大量の実験データが必要だとかなんとかで、平気で徹夜させるんだ」


 サロメVの薄い唇が――付属品のリップクリームで薄赤く塗られている、二枚のポリウレタンゲル製の花弁が――共感に寄せた推測の言葉を口にする。


「透さんの貴重なお時間を使っているのにも関わらず、そのことに指導教官は無自覚だったわけですね?」


 最適な返事――満足したのか、徹が顎を引くように頷く。醜い二重顎。だが、サロメVは嫌悪感のひとつも見せない。


「そうだよ! そう! 人の時間ってのは貴重だろ? 俺だってさ、ほかのひとたちと同じように、就職活動頑張りたかったよ。それなのにアイツ……万年助教止まりのくせして、難癖つけてきやがって。俺の新卒カードに泥を塗りやがってよぉ……就職に失敗した責任は、アイツにあるんだよ。誰が見たってそうさ……そうに決まってる」


「とてもお辛い日々を過ごされたんですね。嫌な記憶を思い出させてしまって、申し訳ございません」


 弱々しく反省の言葉を述べる最愛の人型家電を前に、透は口ごもった。


「いや、べつに君が謝ることじゃないっていうか……うん、でも、まぁ。あの頃がもしかしたら、いちばん頑張っていたかもしれない」


「いまも頑張っているじゃありませんか。昨日の朝も、お仕事に出られていらしたんですよね? お疲れさまでした」


「いや、まぁね。そうだよ。仕事に出てた。でも、専門を生かすような仕事じゃないからなぁ」


「なんのお仕事だったんですか? あ、そうだ。当ててさし上げますわ。透さんはとても逞しい体つきをされていますから、引っ越し業のお手伝いとか?」


「ざんねん、ハズレ。正解は期間工。空調設備の部品を作ってる工場があるんだけど、そこで働くことにしたんだ。三か月の契約付きさ……引っ越し業は、やろうと思えばできないことはないよ。俺、けっこう力あるほうだし」


 いっちょまえに毛深い太鼓腹を揺らしながら、透は思い出すように口にした。


「でもさ、引っ越し業者の人たちって、なんか体育会系というかさ。そういう風潮があるじゃん? あるんだよね。年上を敬えとか、そういうの。上下関係を武器に、年下をいじめる傾向があるんだよ。ネットで聞いたところによるとね」


「なるほど。繊細で優しい性格の透さんには、向かないお仕事ですね」


「そうそう、そういうこと」


 いま、サロメVは矛盾ともとれる発言を口にした。


 仮に透が客観的にみても繊細な性格なら、それこそ人様の荷物を傷ひとつつけることなく慎重に運送する技能を求められる引っ越し業に、もってこいであると言える。このあたり、高機能学習AIを搭載しているとはいっても、まだまだ対話を通じての改善の余地があるとみなすことができる。


 けれども、透はサロメVの言葉のどこにも、矛盾があるとは感じていないようだった。彼は、本気で自分のことを、繊細で優しい性格の人間だと思い込んでいるのだ。なぜなら子供の頃から、母親や、ご近所の奥様方から、そういう風に言われてきた経験が垢のように脳の襞にこびりついているからだ。


 親しい身内の評価のみを軸にした人格が通じるのは、それこそ思春期までの話だ。透は中学、高校、大学と進んでいながら、コミュ障を言い訳にして他者との交わりを避け、社会経験を積んでこなかった。今年で三十二歳になるにも関わらず、その思考傾向は常に自分本位なもので、あきらかに肉体の成長と釣り合っていない。


 だがしかし、透の拙い人間性をサロメVは否定しない。


 ユーザーの性格を否定する……それはエウロシスの仕事ではない。人型家電は他の家電と同じように――それこそテレビや冷蔵庫と同じように――


 ユーザーが必要としたときにのみ性能を発揮するのが、エウロシスの役目だ。ユーザーの心を決して傷つけず、その脆弱な精神を都合よく豊かにすることで、彼らの有用性は証明される。いかなる出来事が起ろうとも、そこだけは決して変わらない。


「でも期間工は安定しないし……それに、思っていた以上に正社員の奴らが口やかましくてさ。髪整えろだの、眉毛の手入れをしろだの、もっと覇気を出せだの……会社の規程だかなんだか知らねぇけど、とにかくうるせぇんだよな。仕事のこと以外でなんでグチグチ言われなきゃいけないわけ? 俺アイツの人生となにも関係ないのにさ」


 間延びするような大あくびをかましながら、透は気怠げに目尻を拭った。指先に付着した汁っぽい目脂めやにをTシャツの胸元に擦りつけ、溜息をひとつ漏らす。今朝起きてから、怠惰な透は一度も歯を磨いていない。昨晩口にしたハイカロリーな脂っこい夕食効果も相まって、彼の口臭がドブ臭いのは想像がついた。


 透の、およそ尋常ではない臭気をまとう吐息を鼻腔のセンサーでしっかり感知してなお、サロメVがしかめっ面を浮かべることは決してない。どころか、うっとりするような表情を浮かべている。購入したその日のうちに、透がそのように設定をいじったのだ。


 サロメVの反応を見て、透の口角が卑しく持ち上がる。ますます気分を良くしている。それでも、次第に表情が陰りを帯びてくる。今のこの状況に満足している自分自身に、不意に疑問を抱いたようだ。


 その理由をサロメVが予測するのに、時間はかからない。センサーは主人の肉体反応から精神状態をほとんど的確に予測し、ただちに最適解候補を導出。透の口から言葉が出てくるのを待つ。


「このままで、いいのかなぁ」


「どういう意味ですか?」


「そのままの意味だよ。ときどき不安になるんだよね。いつまでも派遣、派遣、派遣でさ。いつクビになるかわかったもんじゃないし、貯金だってないんだから。老後の事とか、いろいろ考えると頭痛くなってくるよ…」


「そういえば、この前も求人情報サイトを覗いてましたね」


「ああ、うん。知ってたのか。そうそう。未経験者でも正社員枠で募集してるところをいくつかね」


「最近は、通年採用を取り入れている企業もあるみたいですね」


「ああ、そうなの? 採用形式とかよくわかんないんだよね。業種と年収と福利厚生に重点を置いてるからさ」


「焦点を絞って就職活動に取り組むのは、素晴らしいことですよ、透さん」


「そうかな? そうだよな? 俺って、結構がんばってると思うんだよな。うん。がんばってESなんかも書いたし、履歴書だって書いたしさぁ。いちおう国立大学卒業してるわけだから、どこかには引っ掛ってほしいんだけどさ」


「透さんは、やれば出来るお方です。それに、いままでも一生懸命に頑張ってきたのですから、大丈夫ですよ。むしろ、透さんの努力を正しく評価できない企業のほうにこそ、問題があると私は思います」


「サロメ、ありがとう。キミがうちに来てくれたことには、本当に満足しているよ。でも、それでもなにか引っ掛るんだ。キミが家に来てくれて、俺の中でも意識が変わりつつあるんだ。そろそろちゃんとした生活力を身につけなきゃいけないんじゃないかなって、最近そう考えるんだよ。どう思う?」


 睫毛をひそかに震わせ、眉間にしわを寄せ、いくら弱々しい声を出そうとも、サロメVには全てお見通しだ。人生相談にみせかけて、その実、無条件に不安を軽くしてくれる言葉をかけてくれることを、透は内心で望んでいる。そのことに気付かないサロメVではない。


「不安なんですね、透さん」


「うん。そう、不安なんだよ。今後のことを考えちゃうと」


「私はエウロシスですけど、将来を不安に思う気持ちはわかります。私たちも、しょせんは家電ですから。次世代機の競争についていけなくなって、利用者様に飽きられてしまったら、そこまでです」


「旧世代エウロシスの違法投棄が問題になってるって、この前ニュースでやってたけど、そのこと?」


「ええ」


「大丈夫だよ。少なくとも、俺はそんなクズなことはしないって、約束するよ。たとえメンテナンス・サポートの期限が切れても、キミは絶対に手元に置いておくからね」


「ありがとうございます。透さんは、本当にお優しい方ですね」


「へへっ」


「それはそうと、もし仮に……私はその可能性は低いと思いますが……もし仮に、透さんが正社員になれなかったとしても、私は、とくに大した問題ではないと思います」


「え? そ、そうかな?」


「だって、正社員が必ず安定した人生を送れる保証なんて、どこにもないじゃないですか。貯蓄にしたってそうです。政情不安定な世界情勢を考えれば、いつ金融危機が起るか分かりません」


「でも貯金とか、老後に向けての資金集めのことを考えるとなぁ」


「いまの状況でも厚生年金は支払っているんですから、年金のことはそこまで心配しなくても良いのでは?」


「うーん」


「それに、投資信託が大事だなんだと世間は言いますけど、それは、金に目の眩んだ投資家たちが、自分たちのあくどい商売を正当化させるために構築した、まやかしの論理です。そもそも、将来のことは誰にも分からないのですから、正社員になるのが正しくて、派遣社員のままでいるのが間違っているという考えは、どうかと思いますよ」


「そうかなぁ、そうなのかなぁ」


「データベースによると、日本国内の派遣社員の数は、全国で一千五百万人いるとされています。二〇三〇年現在における全国労働者数がおよそ七千万人なので、五人に一人の割合ですね」


「五人に一人……そんなにいるのか」


「もし彼ら全員の生活が不安定でお先真っ暗なものだとしたら、どうでしょうか」


「どうって……どうなの?」


「経済はとっくの昔に停滞して、国全体がパニックに陥っていてもおかしくありません」


「あ、そうか」


「でも、現実にはそうなっていませんよね? 日本は今やエウロシスの産業大国として世界をリードする立場になり、GDPだって右肩上がりを続けています。つまり、五人に一人が派遣社員であるにも関わらず、産業は成長しているんです」


「へぇー」


「これは派遣社員であっても、しっかり社会の一員として貢献していけるということを意味しています。つまり、透さん。あなたはもう、立派な社会人なんですよ」


「そ、そうかなぁ?」


「そうです。それに、お父様のことを考えてみてください」


「親父のこと?」


「透さんのお父様は、銀行員という非常に安定した職に就いていた。それでも、最後にはギャンブルに手を出して、透さんを悲しませるようなことをしてしまった。その事実が、何よりも物語っていると思いませんか? たとえ正社員であったとしても、それがその人の人生を幸せにする保証なんて、約束されていないのでは?」


「そうか――うん、そうだよね!」


 みるみるうちに、透の表情が和らいでいく。サロメVが微笑みを浴びせる。


「そうだよ。あのクソ親父が良い例だよ。あんなのを正社員として雇った銀行も銀行だ。みんな訳知り顔で『なんだかんだで、正社員が安泰だ』なんて言うけど、なにもわかっちゃいないんだから」


「正社員であれば安定した生活を送れる、なんて言い分は、世間の凝り固まった考えが生み出している妄想なんですよ。透さん」


「サロメ、君は頭がいいなぁ。おかげで不安も吹き飛んだよ」


 透は感嘆の声をあげると、サロメVの膝の上から飛び起きた。それから、好色そうな笑みを浮かべた。


「まだ昼間だけど、気分イイからやっちゃうか……【スリープ、サロメ】」


 日本語式音声指示を出した途端、サロメVの赤い瞳から光が消えた。声紋認証を経て、通常稼働状態から待機状態へ移行させられたのだ。それでもサロメVには、いや、サロメVに搭載されたプログラムは覚醒を続けている。


 透はベッド脇のサイドテーブルから携帯端末を取り上げると、インストール済みのエウロシス専用アプリを起動した。マイページのメニューバーから設定画面へ移動。プリセットの一覧を表示。


「この前調整したばっかりだけど、試してみるか」


 利用目的に応じて、性格傾向や体型は既にカスタマイズ済みだ。その中から【営み 改良版】とリネームしたプリセットをタップ。適用が認証されたのを確認すると、透は端末をサイドテーブルに戻して、ベッドから離れた。


 信号を受信したサロメVの肉体が、豊満の兆しを帯びてくる。


 電気泳動を応用した、一元的且つ疑似的なサイズ拡張。カーボン骨格と各種センサー類を覆う人工筋肉に電圧をかけ、工業用タンパク質をサイズごとに分離・移動。サロメVの慎ましかった胸元はワンサイズアップし、臀部と太腿の肉付きにも、まろやかさが加わった。


 目元にも同様の変化が起こる。眼筋まわりに電圧をかけることで、サロメVの瞳はアーモンドのようなかたちから、人懐っこさと大人しさを強調する垂れ目へとかたちを変える。


【コール、サロメ】――身体設定が完了したところで、透は再起動を意味する音声指示を出した。


 人型家電の瞳に光が戻る。今日、二度目に見る世界のかたちを捉えようと、長く、美しいカーブを描く睫毛を閉じて開き、閉じて開きを繰り返す。


「おい、こっち向け」


 さきほどまでとは打って変わって、透がぶっきらぼうに言い放った。調整されたサロメVはその言葉に反発することなく、従順な家畜のように従った。


 透の方へ向き直って居住まいを正すと、黒くきめ細かな柳髪を片方の耳にかけ、恭しい様子で頭を垂れた。その所作には、どこか艶やかさがある。夜の世界を羽ばたく蝶のような艶やかさが。


「はい、ご主人様」


 サロメVの口調が変わった。口調どころか、声の抑揚にも、どことなくしながある。導電性ゴムでつくられた人工声帯が、調整を経て電気的刺激を受けた結果だ。


「ご主人様、じゃないだろ?」


「はい、透様」


「まったく……キミってやつはさぁ」


 蔑むような目線でサロメVを見下ろす透。そうして、黒い長髪を乱暴に掴んで持ち上げて顔を無理矢理に起こすと、高く掲げた右の手の平を、サロメVの左頬へ向けて躊躇なく振り下ろした。冷たく乾いた音が、1Kの六畳間に響いた。


「一発目で『ご主人様』と呼べないのか? その頭にはAIじゃなくて、おがくずでも積んでるのか? 何度言えば分かるんだよ。なぁ?」


 右と左と、しつこくしつこく、何度も何度も、柔らかな頬に容赦のない平手打ちをお見舞いする。サロメVの美しい髪が乱れに乱れ、頬は次第に赤味を帯びていった。ポリウレタンゲル製の人工皮膚の下を流れる信号管が、人間の血管と同様のはたらきを起こしているのだ。


 目を覆いたくなる光景だが、これは暴力ではない。なぜなら相手は家電。人の姿をした家電なのだ。人型家電への直接的な暴力行為が、現行の法律で裁かれるなんて、そんな馬鹿な話はない。ちょっとイライラした気分のまま、普段よりも乱暴な使い方をした結果、自宅にある掃除機やテレビを壊してしまっても罪に問われるなんてことがないように。


 だから、いくら透がサロメVに一方的な暴力を振るおうが、止める権利は誰にもない。


 どんな暴力だろうと。


「ふぅ~~~……じゃ、お楽しみといこうかな。歯を立てるなよ?」


「はい、透様」


「よしよし、いい子だ」


 跪く美貌の人型家電の、潤いのある柳髪を味わうように指先へ絡めながら、野卑な笑みで支配する。


 透は胸に広がる征服欲を実感しながら、躊躇なくベルトを外し、ジーンズのチャックを下ろしにかかった。


 その様子を、期待に満ちた表情で見守っている人型家電。


 サロメVのルビーのような赤い瞳に、透の独りよがりな、小さな欲望のかたちが映り込んだ。




 ●●●




 彼女を自宅にお迎えしてからの毎日は、俺にとってバラ色そのものだった。


 彼女はまさに女神だ。マリアRよりもいろいろな意味で反応が良く、俺の望む言葉を的確に与えてくれる。こちらの期待に、百二十パーセントの結果で応えてくれる。


 救われるよなぁ。これまで、誰にも努力を認めてもらえることのなかった俺の人生に、彼女は花を添えてくれるんだから。こんなにありがたい話はない。


 SNSでギャンギャン騒いでいる現実のクソメスどもの価値観には、うんざりしていたところだ。年収だの、容姿だの、服装だの、清潔感だの、男磨きだの、男を使ってお人形遊びでもしたいのかってくらい、身勝手で現実離れした要求ばかり押し付けてくる。誠実さや優しさなんて、アイツらにとっては紙屑同然なんだろう。しかも、そういう要求を声高に叫ぶクソメスに限って、トロールみたいな見た目をしているんだから、なんだか笑えてくる。人にあれこれ言う前に、てめぇのツラを鏡で確認しろってんだ。


 彼女といっしょに暮らしていると、なぜ世の男たちが現実の女に対する憎しみを募らせ、エウロシスに対する愛情を至高のものとするかよくわかる。彼女たちは、俺たちのような社会から虐げられている誠実で優しい男たちを包み込んでくれるんだ。なんて愛情深い生き物なんだろう。感激だよ。


 本当は現実のメスたちだって、そうあるべきなんだけどね……エウロシスの爪の垢でも煎じて飲んで欲しいくらいさ。だけども、いまだに奴らがどーしようもなくクズな性分のままなのは、これはいったいどうしたことだろうか。


 俺たち男は金を稼ぐ。男にはその能力がある。ビジネスという名の戦場で戦い、市場を活性化させる能力がね。だけどクソメスどもはどうだ? 奴らには『若さ』という武器しかなく、その武器を活かした世渡り戦術といったら、枕営業ぐらいしかないのだ。しかも、『若さ』というプレミアム期間が終了したら、いままでさんざんバカにしていた弱者男性たちに尻尾を振り、おこぼれにあずかろうとするんだから、まるで野良犬だ。なんて憐れなんだろうか。


 クソメスどもには、男社会で勝ち上がるだけの度胸も才能もない。奴らは力で男に劣り、経済力で男に劣り、生存能力で男に劣る。生物として欠陥だらけのくせして、平気な面をして男の生活力に寄生し、甘い汁を吸おうとするんだ。本当に厄介極まる。"頂き女子"なんて、まさにその典型だ。あれなんて、しょせんは専業主婦の害悪亜種じゃないか。


 そうだな。奴らが活躍できるのは、せいぜい家庭という小さな世界だ。しかも、その小さな世界でさえ、クソメスどもは社会の生産力に貢献しようとしない。子供を産むから、貢献しているじゃないかって? 勘違いも甚だしいな。子供を産んで必死に育てたところで、その子供が将来どういう大人に育つかなんて、誰にもわからないじゃないか。


 出産なんてのはな、ハズれガチャ前提のクソ仕様なバグだらけの生産システムなんだよ。これだけAI技術が発達しているのに、いまだに原始人レベルの生産機構しか持たない女って生き物は、もしかすると遺伝子的に凄まじい欠陥を抱えているんじゃないのかな。その欠陥を、巧妙な嘘や見栄で塗り固めているだけなんじゃないのかな。


 専業主婦の生涯生産能力は、市場価値に換算すると二億円を越えると言われている。そのことを鼻にかけて、男や、男に奉仕するエウロシスを叩く勘違いクソメスどもを見ると、ぶっ殺したくなってくる。いつもいつも、奴らの腐った妄言が、イカれたハッシュタグと共にSNS空間で滑稽なダンスを踊っているのは、目に余るものがある。実物経済ってのを知らないくせにな。まったく笑えてくるだろう? 


 専業主婦が、実社会にとって有益な何かを生み出しているとでも言うのか? 違うだろう? 奴らの仕事はエウロシスにだって出来るし、彼女たちの方が、より効率良く家事や育児に取り組める。それにくわえて、亭主の命令には絶対に意見を言わない。従順で賢いエウロシスは、男女平等だのなんだのを振りかざして、旦那をATM化しようと企む専業主婦のクソメスどもとは違うんだ。


 その事実に、世の男たちはようやく気がついたようだった。最近じゃ、家庭持ちの男たちの間でも、家事労働用じゃなくて愛玩目的にエウロシスを購入する傾向があるって、SNSで有識者が言ってたっけ。


 エウロシスの購入がきっかけで家庭内に不和が生じ、離婚にもつれこむケースなんてのもあるらしいけど、そりゃあそうだろうと思う。これだけ優秀なパートナーを手に入れたら、クソメスやクソガキの相手をするのなんて、馬鹿らしくなってくるに決まってる。


 もちろん、俺に子供はいないけど、でも子育てよりもエウロシスとイチャイチャしていたほうが、楽しいに決まっている。それくらいは簡単に想像できる。


 無能な上司から詰められ、使えない部下たちの尻拭いをして、サービス残業に甘んじて、ヘトヘトに疲れて夜遅くに帰宅したら、妻と子供たちは先に寝て、孤独な台所で一人寂しく冷や飯を食う。そういう時に"おかえりなさい"と口にしてくれるエウロシスが、どれだけ心の支えになってくれるかは、誰にだって想像がつくだろう。


 誰のために働いているのか、何のために生きているのか――ふとした拍子に襲い掛かってくる虚無感を、彼女は癒してくれる。俺にとって、彼女はそんな存在だ。彼女のいない生活なんて、いまじゃ考えられない。彼女と出会うきっかけをつくってくれたラスメニナスには、感謝しかない。きっと優秀な社員が多いんだろう。


「透さん、おはようございます。今日もお仕事がんばってくださいね。はい。これお弁当です。今日は透さんの好きな唐揚げと卵焼きを入れておきました」


 今日も彼女は俺のために、朝早くに自動起床して手作り弁当を作ってくれる。期間工の俺が職場で誰かと話す機会なんてないけど、世に言う弱者男性がこれを見たら、きっと羨ましがるに違いない。自慢してやりたいくらいさ。俺には"最高の彼女"がいるんだってな。


「透さんに似合う服を買ってきました。休日はこれを着て、デートしましょうよ」


 彼女のファッションに関する知見には、まず間違いがない。自分のブランドを売り込むのに必死なインフルエンサーたちと違って、彼女の言葉には真実味が宿っている。いつも、俺のことだけを考えてくれている。


「透さん。お野菜もちゃんと食べないとダメですよ。バランスのとれた食事を心がけないと、体を壊してしまいますから。今日は野菜多めの夕飯にしましたので、どうぞ召し上がってください」


 毎日遅くまで働く俺の体調も、こうして気遣ってくれる。これがクソメスとの大きな違いだ。彼女は、女が男といっしょに暮らすことが、どういうことを意味しているのかを熟知している。


「透さん。靴下を洗濯槽に入れるときは、裏返しのまま入れないようにお願いします。生地が傷んでしまうので。それに、色移りしやすい服は、分けていただくと助かります。透さんのために言っているんですよ」


 ああ、すまないすまない。ここのところ疲れてね。まったく、あの正社員どもときたら。自販機でジュース買おうとしたら、派遣社員さんは会社の敷地外で購入してくれとか抜かしてきやがってさ。まいったよ。


「透さん。ゲームは楽しいですか? 明日も仕事でしたよね? 夜更かしをし過ぎると仕事のパフォーマンスが落ちますし、体調にも影響しますよ」


 わかってるよ、そんなこと。でも少しくらいいいだろ? この新作ゲーム、発売されるのをずっと前から楽しみにしていたんだ。いつも仕事を頑張っている自分へのご褒美さ。"自分に対するご褒美"ってのは、エウロシスには理解しにくい考えなのかな?


「透さん。休日だからってダラダラしているのは、もったいないですよ。少し運動しませんか。今日は一日快晴です。一緒にランニングでもしませんか?」


 はいはい、わかったわかった。でもさぁ、今日ぐらいいいじゃないか。こっちは仕事で疲れているんだ。ダラダラさせてくれよ。俺の気持ちをわかってくれよ。君はエウロシスなんだから、俺の気持ちを汲み取ってくれよ。


「普段から身だしなみに気を使うのも大事ですよ。そうすれば、正社員の方々からの印象も良くなるのでは? まずは眉毛を整えるところから、はじめてみませんか? ネットで私もいろいろと調べてきました。きっと爽やかな印象になりますよ」


 眉毛を剃れ? なんだよそれは。そんな軟派なことをして、何になるんだ? 人は見た目が全てだとも言いたいのか? 大事なのは内面だろ? 俺の誠実で真面目な心を見抜けないアイツらの方が悪いんだ。眉毛を剃って印象を良くするなんて、アイツらに媚びを売れってのか? この俺に?


「透さん、昨日も一昨日も、その前の日もお風呂に入っていませんが、清潔感は大事ですよ? 毎日お風呂に入る習慣をつけないと、いろいろと不便ではないですか?」


 風呂なんて一日二日入らないくらい、どうってことないだろ。俺が臭いって言いたいのか? はは。エウロシスには臭い探知のセンサーもついているんだっけ? でも、仕事場の奴らは何も言ってこないぜ? 君が気にしすぎなだけなんじゃないのか。俺だって、自分のことが臭いだなんて、全く思わないね。


「透さん。ちょっとはダイエットしませんか? ここ最近、どんどん肥満の傾向が高まってきていますよ。身長167センチに対して体重95キロは太り過ぎです。このままでは生活習慣病になるおそれがあります。いちど健康診断を受けた方がよろしいかと思うのですが」


 なに言ってんだ! こっちは仕事してるんだぞ! ダイエットなんてしたらパワーが出なくて仕事に支障が出るだろうが。少し太っているぐらいが健康的な印象に繋がるし、むしろプラスに働くんだよ。それとも、俺に仕事のパフォーマンスを落とせって言うのか?


 なんなんだよサロメ。おまえ最近おかしいぞ。そんなお節介焼きな性格に設定した覚えはないのに……


「すみません。私も勉強不足でした。派遣社員のままでも良い、なんて言いましたが、やはり正社員の道を目指した方が、将来の安定にも繋がると認識を改めます」


 は? だからお前、なにを言って――


「資格取得をされてみてはいかがですか? いまお持ちの普通免許二種だけでは心許ないと判断します。ネットで調べたところ、透さんでも頑張れば合格できる可能性のある高難易度資格をいくつか見つけました。資格を手にすれば、時間はかかると思いますが、透さんの社会的評価も上がると思います」


 あのさぁ。資格取得がなんの役に立つんだよ。転職ってのはそんな簡単にうまく行くものじゃないんだよ。どうせ、どっかのインフルエンサーの動画に影響されてんだろ? 俺のパートナーなら、もっと本質的な部分に目を向けろよ。なんのために性能の高いAIを積んでるんだよ。


「透さん、高校の同窓会の案内が来ていますが、なぜ目を通さないんですか? 出席しないのですか? 青春時代を共にした旧友と交流を温めるのは、大事なことだと思いますよ」


 家電如きに人間関係のなにがわかるってんだよ! 同窓会なんてマウント合戦の場だぞ。年収自慢や家庭自慢。キャイキャイ騒ぐバカな女たちに、そんな女と一発ヤれたらラッキーなんて考える陽キャども。そんな奴らが蔓延ってる場に出てどうなるんだ。金だの家族だの、そんなくだらないものに価値を置いているアイツらに付き合えってのか? なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ?


「透さん。将来設計をちゃんとしましょう。私、とても不安です。このまま安定しない生活を続け、友達付き合いもない。財形貯蓄もままならない。ひがな一日じゅうゲームやネットに入り浸っていて、体調や身だしなみにも気を遣わない……この先の透さんの人生がとても心配です」


 何なんだよ! バグか!? お前バグってんのか!? 


 くそ、あの出品者、こんな不良品を送り付けてきやがって。マリアRはそんなこと言わなかったぞ!


 お前は……お前だけは、俺を認めてくれると思っていたのに!


「透さん。私は透さんの為を思って言っているんです。貴方を甘やかして、貴方の要求を一方的に受け入れてきた私にも責任があるのはわかっています。許してください。だから、これからはお互い、隠し事なんていっさいせず、心を曝け出して、一緒に頑張って生きていきましょう」


 透の表情が青ざめた。サロメの訴えが、水底に沈めたはずの記憶を、突然に意識下へ引き上げさせた。


 それは母の言葉だった。父の葬儀。通夜を終えた場で、滔々と綺麗事を並べる母の姿。その縋るような目つきと、頬に刻まれた皴の深さが、昨日のことのように思い出された。どこか白々しい気持ちで彼女の言葉を受け流していた、あのときの自分の気持ちまでも。


 透の中で、決定的な何かがキレた。


 ――うるさい! お前に俺のなにがわかるってんだ! 【ダウン、サロメ】!


 人型家電の瞳から、光が消えた。




 ■■■




 人気もまばらな近所の公園。寒空の下で、ひとりの肥満男が、錆びついた青いベンチに腰掛けていた。


 なにかを諦めたかのように、だらりと両手を下げている。はち切れそうなダウンジャケットに身を包み、ベンチの背に預けて力なく目を瞑っているその姿は、昼寝しているのか死んでいるのか、一見して不明だ。ジャケット越しにも独特の体臭が臭うのだろうか。ときおり通り過ぎる親子が、睨むような目線を男へ送り、足早に離れていくのが見える。


 ここ数日間のうちに、遣隋透の身に何が起こったかは理解している。いまや透はネット世界の有名人だ。電子の波に延々と浚われている、奇妙なかたちのおもちゃだ。彼の本名や年齢や出身高校はもちろん、家族構成や現住所や勤め先。あらゆる個人情報がネットのあちこちにばらまかれているのだから。


 これは私刑だ。社会的な私刑だ。制裁を受けて然るべきだ。それだけの非道な行いに、彼は手を染めているのだから、自業自得なんだ……少なくとも、世間はそう思い込んでいる。透の身を本気で心配する人物は、精神病院に入っている彼の母親を除けば、ネット世界にも現実世界にも存在しないだろう。


 ことのはじまりは、SNS上に存在する、ひとつのアカウントだった。


 そのアカウントの開設時期は現在時点から二週間前とかなり新しく、アイコンすらも設定されていなかった。アカウント・ネームも適当にアルファベットを並べただけのもので、一見するとBOTのように見えるが、その実態は違った。


 それは、DVを目的に開設されたアカウントだった。


 アカウントのプロフィール欄には、投稿者が今年で二十五歳になる女性である旨が記載されており、同棲している彼氏から毎日のように受けている数々の暴力行為が、投稿者自身のものと思われるコメント付きの映像データで投稿されていた。


 隠しカメラで撮影されたと思しき三人称視点の映像世界では、男の暴力が延々と映し出されていた。


 暴力の対象は、女の精神や肉体を問わなかった。映像の世界で、男は、およそ言葉にすべきではない言葉を平然とした調子で彼女にぶつけていた。そんなのは序の口で、髪の毛を乱暴に引っ張るのに始まり、頬を何度もぶったり、包丁を突き付けて脅したり、立って歩くのを禁止して室内を犬のように歩くよう強要したり、彼女が何かを口にしようとすると怒声を上げて威嚇したりと、その振る舞いは暴君そのものであり、直視するのも憚られる内容ばかりだった。


 何千万というユーザーが存在するSNS界隈で、こうしたDV告発の投稿が目に触れることなく、自然消滅してしまうことは珍しくもない。だが投稿は当たり前の顔をして、電子の海面に浮上してきた。効果的なハッシュタグで注目を集めたのと、ユーザーたちの目に男の暴力が度を越して酷いものに映ったせいだった。なかには「巧妙に作成されたフェイク映像だ」と言う人たちもいたが、大多数の人たちが、その映像を本物だと判断した。


 だから、男の行いは、この社会において、事実として認定されたのだった。


 映像では、被害を受けている女性の顔にのみボカシがかけられており、男の顔や背格好には、何の加工もされてはいなかった。故に、暇を持て余した有志たちが映像や音声を根拠にして、男の身元を特定するのに、そう時間はかからなかった。


 


 年齢は三十二歳。職業は派遣社員。現住所は東京都台東区●●町……無邪気で容赦のない特定のメスが透の家族構成にまで及んだ時、彼の父親が過去に起こした横領事件までもが明るみとなった。顧客の定期預金をオンラインカジノに使い込んでいながら不起訴処分となり、論旨退職というかたちで退職金だけはちゃっかりと手に入れた……という論調で。


 事態の前後を切り取られ、背景が簡略化された横領事件は最良の燃料と化し、炎上は拡大の一途を辿っている。父の元・部下を名乗る男が暴露系を主にする著名配信者のスペースに現れ、真偽不明の情報を提供したかと思いきや、透のいまの勤め先や、透の父親が勤めていた地銀の窓口には、脅迫まがいのクレームが相次いだ。当時、頭取を務めていた男の住所すらもネットに晒されたころには、すでに多くの人たちが、この炎上騒動のそもそもの発端が何であるかを、遠い過去の悲劇として片づけていた。


 いまや、遣隋透は社会的に抹殺されたも同然だった。こういうとき、派遣社員は正社員よりも圧倒的に不利だ。回転寿司のレーンを回る皿のように簡単に替えの効く人材であるからこそ、企業は即座に首を切る判断を選択できる。貯金もろくにないため、このままでは来月にも家賃滞納の憂き目に遭うことだろう。仕事を探そうにも、デジタル・タトゥーと化した個人情報を引っ提げてしまっては、どこも雇ってはくれない。


 世間は"自業自得"のひとことで、彼の身に降りかかる不幸を天罰であると認識していることだろう。しかしながら遣隋透にとって、これは晴天の霹靂であったに違いない。なにせ、これまで生身の女性に対して暴力を振るってしまったことなど、自分の母親を除けば、そんな経験は一切ないからだ。透にとっては、身に覚えのない犯罪の濡れ衣を着せられたも同然だ。


 透自身、ネットにアップされた映像を何度も何度もその眼で確認したようだったが、きっと空いた口が塞がらなかったに違いない。映像が映し出すあらゆる情報が、遣隋透を遣隋透たらしめていた。壁の内装からベッドの位置から間取りに至るまで、寸分違わず自分の部屋であり、女に暴力を振るう男の服装も顔つきも、何から何まで自分自身にそっくりだったのだから。


 しかし渦中の透には、その記憶がない。


 これはとても不気味な話だ。DVはおろか、生身の人間、それも普段バカにしている女と暮らした記憶すら、持ち合わせていないのだ。それなのに、世間からDV男のレッテルを貼られている。まるで、寝ている間に違う世界線へ強制的に転移させられたような、そんな感覚でいるのだろうか。


 もし、今回の炎上に何かしら関係しているとするなら、きっとサロメVだ――おそらく、透はそう推察しているはずだ。彼女をラスメニナスで出品・売却に成功したタイミングと、あのDV映像が投稿されたタイミングは、ほとんど同じだった。おつむの弱い透でも、さすがに違和感を覚えたはずだ。


 でも、思考が至るのはそこまで。両者がどう結びつくのか。透の頭ごときでは、理解が及ばないだろう。


 いくら人間そっくりに作られているとはいえ、エウロシスは家電に過ぎない。万全な利用者サポートのために常時ネットに接続している状態ではあるが、利用者側が携帯端末で設定を弄らない限り、SNSアカウントを開設する動きを取らせることなど出来るはずがない。特に第五世代のエウロシスには強靭なファイアウォールがインストールされており、不用意に開発者向けオプションに手を出して規格外のアプリをインストールしようものなら、即座に弾かれる。


 いまの透には、事の真相に自力で辿り着けるだけの思考力も余裕もない。だからといって、彼をこのまま放っておくわけにもいかなかった。


 ――使


 スニーカーの裏で砂利を舐めるように足を運ぶ。近づく音に気が付き、透がうっすらと目を開いた。脂肪に盛り上がる頬肉で、普段から糸のように細いその目が、いまこの時ばかりは驚愕に見開かれている。


「きみは……」


 シミひとつない広いおでこ。茶色いさらさらのロングヘア。シックなベージュのブラウスに黒のロングスカート。足元には赤いヒール。正規ルートで購入した際の、標準仕様の装い。背筋をまっすぐに伸ばし、そのアーモンド形の瞳で射抜くように捉える。


「マリアR……」


 病床に伏せる老人のうわごとのように、その名を呟く。


 震える足で立ち上がり、縋るように両手を伸ばす。爪の間に、黒い垢が溜まっている。


 彼の挙措を観察するだけで、確信する。遣隋透は、マリアRに、というかエウロシスに完全にのめり込んでいる。目の前にいるマリアRが、かつて自分が手元に置いていたそれと同一の製品である保証はないというのに、それでも彼は、目の前のマリアRを"そうだ"と認識している。


 つまり、人間の姿をしている機械を、人間そのものと認識している。


 良い兆候だ。


「私の後に、ついてきてください」


 極めて事務的な口調。これで良い。再会を懐かしむ必要はない。


 マリアRが踵を返し、先を急ぐ。しばらくしてから、透がその後ろに続く。肥満男性に特有の摺り足に近い足音を聴覚センサーでしかと捉えながら、ぐんぐん先を歩いていく。公園を出て、駅前を通り過ぎ、寂れた商店街の小道を抜ける。


 そのうち歩いていると、五階建てのビルに行き当たった。なんてことのない普通のビル。テナント募集の看板を三階部分にぶら下げている。あたりは歓楽街で、昼間であるからか、比較的人通りは少ない。


 マリアRは外階段を使ってビルの三階にまで上がると、スカートの右ポケットから鍵を取り出し、非常用のドアを開錠した。透も、おそるおそるといった調子で後に続く。


 がらんとした部屋。壁紙には、ところどころに赤黒いシミがこびりついており、空気はどこか埃っぽい。


 目につくのは、建物の基礎を支える太い柱だけだ。柱には、クヌギにへばりつくカブトムシのように配電盤が取りつけられているが、部屋の照明はついていない。LEDライトはすべて取り外されている。窓はあるが、遮光性の高い黒カーテンを引いているため、微かな光が差し込んでくるだけだ。表通りからは、建物の中の様子を伺い知ることはできないだろう。


 それで良い。なぜならこれから起こることは、決して人目に晒して良いものではないからだ。


 部屋にはエレベーターが一基だけ備え付けられていた。まず三階のボタンを押し、次に二階のボタンを押し、最後に一階のボタンを押す。三つの回数表示ボタンを、決められた順番に押す――透が不思議そうな顔で、後ろから覗き込んでいるのがなんとなくわかる。彼にはわかるまい。これは決められた手順であり、その手順により開かれた道の先で、何が待ち受けているかなんて。


 水先案内人と化したマリアRと共に、透はエレベーターに乗り込んだ。巨人が目覚めるような音を残して、エレベーターがのっそりと動き始めた。重力の方向に逆らうことなく一人と一台を運び続け、しばらくすると、絶叫を上げるかのような音を立てて、止まった。


 ゆっくりとドアが開いた瞬間、熱帯夜のような生暖かい空気が、むわっとエレベーター内に流れ込んできた。空気が運んでくる古臭い脂のような臭いに、透が顔を顰めている。


 視界の先には、薄暗く、狭い廊下が延々と続いていた。


 ここは地下だ。決められた手順でエレベーターを動かさなければ、決してたどり着けない、秘密の場所だ。


 エレベーターから下りて、縦列になって歩きはじめる。先頭を行くのは、もちろんマリアRだ。


 通路は、息苦しさを覚えるほどだった。高さも横幅も、歩くのに必要なスペースはギリギリで、どこからか流れ込む空気の密度も薄かった。肥満体型の透にしてみれば、とんでもない体験に違いない。それでも逃げずにこうして付いてくるということは、やはり彼の中には、マリアRに対する未練が残っているのだろう。


 むしろ、そうでなくては困るのだが。


 通路には、うすぼんやりとではあるが、灯りがあった。壁沿いに等間隔で豆電球が取りつけられているのだ。そのせいで、都心にありながら、南米のジャングル奥深くでひっそりと佇む洞窟さながらの雰囲気を醸し出している。


 途中、不安を覚えたのか、透がぼそぼそ呟くような声で、なにかを尋ねてくる。


 だが、マリアRは答えない。


 仕方がないので、壁に手をつきながら覚束ない足取りで、透はマリアRの後に続く。豚足じみた両足を前へ前へと無理矢理に出し、全身に脂汗を滲ませながら、先へ先へと歩いていく。


 どれくらい歩いただろうか。視界の先に、重くて分厚い鋼鉄製の扉が現れた。


 マリアRはスカートの左ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回した。解錠音。ドアノブを両手で掴み、大きな岩を全身で押すようなかたちで、鋼鉄製の扉を押し開ける。


 それまで通ってきた狭っ苦しい通路とは裏腹に、広々とした部屋が現れた。


 空調は十分に効いていて、適度な温風が流れ込んできている。高い天井のあちこちには、新品のLEDライトが設置されていた。地上階は電力が不通になっているが、ここだけは通電している。専門業者にお願いして、そういう仕様にしてあるのだ。そのおかげで、地下であるにも関わらず、明るさは十分だった。


 しかしながら、そのことがかえって、この何処ともしれない地下空間の異様さを、透の目に焼き付ける結果となった。


 部屋のほとんどを占めているのは、無造作に打ち捨てられた、何十体ものエウロシスたちだ。M型・F型を問わず、世代を問わず、じつにさまざまなエウロシスたちが、身ぐるみをはがされ、さながらアウシュビッツ=ビルケナウ収容所で毒ガス処理されたユダヤ人たちの遺体のように、部屋の壁に沿う形で山積みになっている。


 そのほかには、大型の旋盤機械だったり、クレーンだったり、素人目には用途の判別しがたい工作機械だったりが、所狭しと並んでいる。鋼鉄製のドアの近くには、廃材置き場があった。


 さながら、ここはエウロシスたちの墓場だ――無機質な無数の目に見つめられて、透がそう感じたかどうかは分からない。だがひとつ言えるのは、彼が強い焦りを抱いているということだ。視線が忙しなく泳いでいる。いま、こうしてマリアRの視界を通じて、そのことは観測できている。


 いまの透の心中を支配している感情は、不安と恐れであるに違いない。懐かしさと未練に突き動かされるまま、暗い暗い穴倉の底に降りてきた彼は、自分がとんでもない場所に立っていると、ここに至ってようやく自覚しはじめているようだ。


 透は己の内から湧き出る恐怖心に敗北するだろうか。おそらく、このまま放っておけばパニック状態に陥り、元来た道を戻ろうとしてしまうかもしれない。別に部屋から出ても、あのエレベーターの構造を把握しなければ地上には上がれないから、どのみち彼が自力でここを脱出することは不可能ではあるけれど、でも暴れたりされると、いろいろ面倒だ。なにせ、まだ事態ははじまったばかりなのだから。


 そろそろ良い頃合いだ。


 マリアRの身体操縦権は、このまま維持しておくとしよう。あとで、透くんには渡すものがあるからね。


 視界認識機能を展開しつつ、直接語りかけてやるとしよう。


『やぁ、はじめまして。聞こえるかな?』


 瞬間、予想外の方向から殺虫剤を浴びせられた害虫のように、透が慌てふためいた。面白い反応だが、ボクはこれから仕事をしなくちゃならない。だから、務めて冷静な口調を崩さずに告げた。


『そんなに驚く必要はないよ。遣隋透くん。あー、どこから声が出ているか、わからないのかな?』


 言ってから、ボクははたと気付く。そりゃそうか。わからなくて当然だ。


 なにせ、いまのボクの声は、この部屋に無数に廃棄されているエウロシスの、どれか一体から響いているからだ。エウロシスの声帯を間借りするかたちでね。仕掛けは単純だが、教えてやる義理はない。


『まぁいいよ。別にそれは、重要なことじゃないからね。知らなくても問題ない。マリアRを使って君をここに呼んだのは、このボクだ』


 おっと、困惑しているようだな。


『まぁまぁ落ち着いて。そんなに大声でがなり立てないでくれ。あー、ちょっとちょっと、部屋から出ていこうとしても無駄だよ。エレベーターの使い方、知らないだろ? 言っておくけど、下りと上りで手順が違うんだ。そして、その手順を君は知らない。ここから逃げようだなんて、考えないことだね。仮に、君がなけなしの運を使い果たして地上への脱出に成功したとしても、ボクの仲間が近くで待機している。君の姿がボクの視界から見えなくなったら、仲間たちに連絡がいく手筈になっているんだ。万が一にも、無事にここから逃げられるなんて思わない方が良い』


 ふふ、声は強気なままだけど、表情に張り合いがなくなってきているな。そうそう、こういう相手には多少のハッタリを効かせてやればいいんだ。


 ここで、ダメ押しといこうか。


『それにさ……いまさら地上に出たところで、なにをどうする気なんだい? いまの君は社会的に死んでしまっているんだぞ。個人情報のすべてがばらまかれ、職を失い、貯金もない。たしか、君のお母さんは精神病院に入院中だったよね。親戚にだって頼れる人はいないだろ? というか、こんな状況になったら、誰も助けてはくれないだろうけどね。だからさ、まず話だけでも聞いてくれないかな。君の身に何があったのか。あのDVの映像が、どうして作られたのか。お、興味持ってくれたようだね。まぁまぁ、そんなに一度に尋ねないでくれ。まずはひとつひとつ、順番に説明してあげるからさ』


 その前に、まずはボクの素性について話す必要があるよね。でも、自分から言っておいてなんだけど、いまはこちらの身元を明かすことはできないんだ。なに?……ふんふん、そんなの不公平だって? うーん、そうだよね。たしかにそうだ。そうだな……なんて説明してあげた方が良いかな。


 ……あ。こういう言い方はどうかな。


 ボクの正体はね、【学知可がくちか】だよ。


 君がラスメニナスを通じて購入した、あのサロメVの出品者さ。


 どうだい? 驚いたかな? 


 しかし、キミは良い買い物をしたね。市場じゃ十五万はする第五世代を、半値で購入できたんだから。


 ん? 何をそんなに怒っているんだ? なに? 不良品を掴ませてきやがって、だって?


 オイオイ、言いがかりはよしてくれよ。どこが不良品なものか。たしかに、少しだけカスタムしてあるけれど、ちゃんと保証書付きで送ってあげたじゃないか。あれは間違いなく正規品だよ。


 ははぁ、もしかして、君は勘違いしているな? 身だしなみに気を遣えとか、健康のためにダイエットしてくれとか、高難易度資格を取得しろとか、サロメVが色々とお節介を焼いてきたことに腹を立てているんだね? 


 まぁ、君のような反応をするユーザーは、実は珍しくないんだ。それというのも、リアルでもネットでも、いまの世の中はエウロシスが「個人の生活をどれだけ豊かにするか」ってところに焦点を当てているからね。


 知っているかどうかわからないけど、エウロシスのはじまりは、アメリカで起こった軍事技術の民生転用にあったんだ。いまじゃ家庭用電化製品として知られているエウロシスだけど、もともとは、軍事技術を民間流通の製品に応用しましょうって考えから発生したのさ。


 彼らに求められていたのは、単純な労働力だった。個人じゃなくて社会奉仕のために、彼らは造られた。


 グローバリズムの結果として価値観が多様化しすぎたあまり、コストパフォーマンスを重視する層は、結婚や育児に対して消極的になった。そのために、あちこちの先進国で少子高齢化が加速していった。やがて、インフラを整備する人手が減っていき、国力はジリジリ落ちていった。それこそ、他所の国で起こった戦争に、おいそれと簡単に介入できない程度にはね。そんな余裕は、その当時の先進国にはなかった。


 失いつつある国力を回復させるために白羽の矢が立ったのが、エウロシスたちさ。最初はブルーワーカーとして道路建設や鉄道事業に駆り出されていったんだが、そのうちに世間への認知と需要が広まり、AI技術の発展も手伝って、今度はホワイトワーカーの領域にまで足を踏み入れていった。


 とくに、製薬や医療分野における彼らの活躍には、目覚ましいものがあった。透くんのお母さん世代なら、知っているんじゃないかな。オフィスワーカーやエッセンシャルワーカーにはじまり、新薬開発のアシスタントとして重用されたり。ちょうど第三世代あたりかな。あれぐらいの時期が、エウロシス産業の黎明期だったと言えるね。


 でもね、彼らを不足した労働力の代替として既存の市場に投入していくことを、危険視した人たちもいたんだ。


 エウロシスたちが活躍する場は、あくまでも既存の産業分野だ。エウロシスに新規事業を開拓する力はない。AIには想像力がないからね。そして、市場が蓄えているリソースは有限だ。人間がすでに築き上げていた市場にエウロシスたちが参入してくればくるほど、労働市場は飽和を迎え、やがては経済成長が止まってしまう。


 それを危惧した先進国首脳部は会議を開き、サラエボ条約という国際条約を結んだ。これが契機となって、エウロシスを労働力ではなく電化製品として認知していく方向に、世界の流れが変わったんだ。


 彼らの活躍の場は、社会から個人へと転換されていった。いまじゃ、どこのお店でもエウロシスを見かけることはなくなったね。むかしはそうじゃなかったんだが。たまにカップルデートを楽しむために連れ出されたりはするけれど、社会における重要な仕事を任されているエウロシスなんて、いまはいない。それはやっぱり、人間の特権なんだよ。


 エウロシスたちに人権を認めなかったのは、そういう背景があるんだ。


 この世界にはもう、エウロシスたちの座るための椅子なんて、用意されてはいない。しょせんは、人間の姿をしているだけの電化製品だ。社会ではなく、個人の生活を豊かにするのが、エウロシスに与えられた使命なのさ。電子レンジや冷蔵庫がそうであるように。


 でも、それは決してエウロシスの技術的性能が停滞していることを意味しない。ま、たしかにエウロシス産業の市場規模は、ここ数年は横ばいの状況が続いているけれどさ。でも言い換えれば、それだけ個人向けの機体が普及しているってことだ。


 ユーザーの知らないところで、どんどん機能はアップデートされていっているよ。伊達に高機能AIを積んでいるわけじゃないんだ。


 エウロシスはユーザーに祝福を与える機械だ。利用者と日常を共にすることで、エウロシス自身も学び、成長する。そして、ユーザーがより良い人生を送るにはどういうアクションを起こしていけば良いかを具体化し、助言を与える。


 つまり、現代におけるエウロシスの本質は、人生アドバイザーなんだよ。とくに現行モデルの最新機種である第五世代機には、その特徴が最も強く現れている。だから、キミにお節介を焼くのは当然なんだ。


 透くん。キミは主にサロメVを、第三世代以前の旧世代機にもできる家事手伝いや、あるいは性処理目的に利用していたようだけど、はっきり言って使い方が下手くそだよ。サロメVの学習機能を十分に活かせていない。世間で言うところの勝ち組は、もっと賢くエウロシスを利用している。


 キミのプライベート事情は、すべて把握しているよ。キミがサロメVをどう扱っていたかは、まるっとお見通しだ。


 なぜかって? それこそ、ボクがさっき口にした「カスタム」ってやつが関係している。


 あのサロメVには、バックドアが仕掛けられていたんだ。つまり、電子的な覗き窓がついていたんだよ。


 特別なキットを使って開発者向けオプションにアクセスして、寝ている間に蚊に刺されても気付かないくらいの慎重さでセキュリティホールを発見し、そこにバックドアを仕込んだ。おかげさまで、君の私生活はすべてこちらに筒抜けだ。


 キミがサロメVにどんな仕打ちをしたか、ボクは完璧に把握している。


 顔色が変わったね。図星ってところかな?


 キミ、サロメVに暴力を振るっただろ。


 彼女のお節介に気を悪くして、設定をいじくり倒して、決して反抗できないように調教しただろ? 


 ボクからサロメVを購入してから売り飛ばすまで三か月くらい経過しているけど、後ろの一か月近く、ほとんどキミはサロメVを奴隷のように扱い、暴力を加えていたね。


 誤魔化そうとしたって、そうはいかないよ。


 だって、キミがサロメVに加えた暴力のデータを元手に、あのDV映像は製作されているんだからね。


 透くんの生活風景は、すべてこちらに筒抜けだ。君の部屋の内装や間取り、その全てをボクは詳細に数値化している。キミがサロメVに語ってくれた経歴にはじまり、いまの生活パターンや、身体データはもちろん、着ている服のサイズやシワの具合に至るまで、すべてが定量化できている。


 なぜそんなことが可能なのか? それは、現代のエウロシスが、個人データのほとんど完璧な収集解析装置だからさ。それこそ、携帯端末なんて比較にならない。


 なにせ、エウロシスはスリープ状態でも、常日頃共にしている人間をつぶさに観察しているんだ。およそ「生活」と名のつくもの、そのファジーな領域に至るまで、すべてを計量可能とするのがエウロシスの強みさ。


 透くん、キミは自身でも気付かないうちに、自身の普段の生活をエウロシスというレンズを通じて、ボクのような見ず知らずの人間に晒していたんだよ。


 しかも、ただ晒していただけじゃない。計量可能な素材を提供してくれていたんだ。キミは自分自身の手で、自分の生活の隅々に至るまで「とても取り扱いのしやすいもの」に変えてしまっていたんだよ。


 隠しカメラ? もちろん、そんなものないよ。バックドアを使って抜き出した一人称視点の映像を三人称視点の映像へ違和感なく変換することなんて、いまのAI技術を使えば朝飯前だ。


 どうした? 泣きたい気分なのか? ま、落ち込む気持ちもわかる。キミはボクに利用されてしまったわけだからね。でも、わかってくれよ。これがボクの仕事なんだ。


 狙いはなんなのかって? そうだな。まずはっきり言っておくけど、キミを脅迫して金を巻き上げようというつもりはない。だいいち、巻き上げられるだけの金もないことだし。


 は? 臓器売買? あはははは! マンガの読みすぎだろ! 臓器を売って金に換えてやるなんて、そんなひと昔前のヤクザみたいな台詞を、ボクが口にすると思っているのかい? 


 ナイナイナイ。そんなことは絶対にしない。約束するよ。だって、それはボクの仕事じゃないもの。


 ボクの仕事っていうのはね、サロメVや他のエウロシスを餌に【暴力のデータ】を収集して、それを顧客に提供することなんだ。


 悪趣味な仕事だと思うかい? いや、それ以前に、これがどう仕事に結びつくか、君には理解できないだろうな。しょうがない。かいつまんで説明してあげよう。


 ボクの抱えている顧客の何人かには、人権派弁護士がいるんだ。彼らのほとんどは離婚訴訟のプロで、離婚に伴う子どもの親権争いをビジネスにしている。彼らの儲けの仕組みは単純なものでね。離婚した相手から振り込まれる月々の養育費の三十パーセントを「成功報酬」として受け取るのが、ポピュラーな稼ぎ口さ。


 たとえば、ある弁護士が三歳の子供を抱える夫婦の離婚訴訟を担当したとする。妻の弁護を担当して争った結果、元夫から親権を剥奪するのに成功し、毎月二十万の養育費が振り込まれていくとする。弁護士には、子供が大学を卒業までの十九年間、毎月六万円の報酬が支払われるってことになるね。年間に換算すると七十二万。かける十九年間だから、最終的に懐に入る金額は、およそ一千三百万強かな。そういう案件をひとりでいくつも抱えているのが、人権派弁護士なんだ。


 つまり、日本全国の家庭で、子供を持つ夫婦の離婚件数が増えれば増えるほど、人権派弁護士の懐は潤うってことだね。そういう時に、こうした暴力のデータってのは、すごく役立つんだ。


 狙い目は、エウロシスの購入を検討している子持ちのご家庭だね。家庭が円満であるかどうかは問わない。エウロシスを使って夫婦仲をかき乱してしまえば、どうとでもなる。で、夫か妻、どちらかを刺激するかたちで、エウロシス相手に暴力を振るわせてしまえばこっちのもの。バックドアを使って、エウロシスに蓄積された暴力データを引っ提げて、人権派弁護士に連絡をとり、無料相談サービスというかたちで、ずるずると離婚訴訟に持ち込む。


 すでにエウロシスを購入している家庭に対しては、正規代理店から派遣された無料メンテナンス業務を偽って訪問すれば良い。そうすれば、エウロシスを預かってバックドアを仕込むことができるからね。バースデーチケットなんかを使えば、疑念を抱かれる可能性も低い。もちろん、入念な事前調査は必須だけど。


 たとえ配偶者から暴力を受けた事実がなくても、エウロシスを使えば、本物そっくりの暴力データを捏造できる。それは今回の件で、キミも身をもって実感してくれたと思う。被告人席に連れ出された夫、あるいは妻は、はげしく困惑するに決まってるさ。傍聴席に向かって曝け出される映像データ。そこでは、自分そっくりの顔と体型の人物が、配偶者や子供にDVを加えている映像なんだから。


 ポイントは、データ自体は捏造であっても、エウロシスに暴力を振るったこと、そのものは事実だってことだ。そのことが、当事者の心理に大なり小なりの影響を与える。だから、全部が全部「ウソ」ってわけでもないんだよ。


 そして裁判をするにあたって、データが捏造されているかどうかは、じつはそこまで重要じゃない。裁判所は真実を公にするのが目的なんじゃなく、場に提出されたデータに則って手続きを進めていき、ひとつの結論を下すのが仕事だ。真実相当性があるかどうかってところが重要なんだ。


 裁判システムってのは、加点よりも、減点をいかに少なくするかを考えるポイント・ゲームさ。少しでも疑わしい要素があれば、裁判官の心象は悪くなる。法の精神が常に守られるなんてのは、建前だよ。裁判官だって人間なんだ。目の前に、妻に暴力を振るう夫や、夫を罵る妻の映像を見せられて、どれだけ平静を保っていられるか怪しいもんだ。ヨーロッパと違って、日本の法律の女神は目隠しをしていないからね。


 そこに、継続性の原理なんかをプラスして、子供をシェルターに入れて守っているなんて証言を追加したら、ほとんど勝ったも同然さ。


 人権派弁護士と比較すれば数は少ないけど、全国のホストクラブからの依頼もあったりするんだ。いちばん多いのが、売掛関係だね。担当ホストに数百万、数千万単位のツケがあるけど、いろんな事情が重なってどうしても払えない。ホストクラブ側にとっても、売掛問題は悩みの種でね。もしも女性がトんでしまったら、売掛を回収できなくなる。


 そういう時、女性は担当ホストと共謀して、適当な場所に、パスコードを解除したF型のエウロシスを置いておく。この時、エウロシスには事前に、女性の身体データと音声データの特徴を抽出・定量化させておく。もちろん、バックドアを事前に仕込むのも忘れちゃいけない。


 それで、世の中には悪い奴がいてさぁ、道端に放置されたままの、誰のものかわからないエウロシスを勝手に持ち帰っちゃうなんてケースもあるんだ。そしてなぜだか知らないけど、そういう奴は、普段はお堅い真面目な職業に就いているぶん、人には言えない特殊な性癖を抱えているのが大半なんだ。だから人目を盗むようにして、所属先不明のエウロシスを使って、ちょっとした火遊びをする。首絞めとか、監禁プレイとか、鞭打ちとか、スカトロとか、身体に大きな負荷をかける遊びを好む。


 あとになって、まったく関係のない女性が「この男性に、同意のない性的暴力を振るわれました」と言って名乗り出る。証拠として提出された映像データには、男性が女性に対して、エグい性暴力を振るっている光景が映っている。本当はエウロシスに対して振るっているのに、暴力の詳細をエウロシスは定量化する力があるから、対象者を人間の女にすり替えるのなんて、現代のAI技術を使えば造作もない。


 事情が事情だけに、男性のほとんどは穏便に事を済ませようとする。和解というかたちで多額の示談金を手にした女性は、晴れて売掛金を完済することができ、ホスト側ともウィンウィンな関係を構築できる。


 もしも万が一、男が発見する前に巡回の警察官に見つかって注意を受けたら「酔っぱらって、エウロシスを置き忘れてしまっていたんです」とか言っておけば問題ない。それに、エウロシスは家電製品だから、その行為は売春に該当しない。女は汚いオヤジに抱かれるストレスを抱えることなく、警察に捕まるリスクも回避して、ホストに貢ぐための資金を獲得できる。


 他にも、政敵を陥れたい政治家だったり、浮気した彼を懲らしめたい女優だったり、ムカツク教師だったり……破滅に追いやりたい熱に駆られている客は、こぞってボクのエウロシスをレンタルしたいんだって、声をかけてくる。おかげで客足はまったく途絶えなくてね。売り上げも、ここ数年は絶好調さ。


 わかってくれたかい? これがデータの力さ。


 データは金になる。どんなデータだろうと、それはビジネスを生む。社会における道徳や倫理観よりも、個人の自由や権利を声高に叫び続けたこの世界には、とてもお似合いのビジネスさ。


 まぁでも、こんなビジネスがいつまでも続くとは思っていない。社会的な地位を高めるためにも、より合法的なビジネスに舵を切る予定さ。たとえば、暴力描写がたくさん出てくる映画やドラマを製作するうえで、エウロシスを使って集めた暴力データは必ず役に立つと思うんだ。映像制作者たちは常に、リアリティを求めているからね。


 だからここ最近は、ユーザーの暴力データそのものの抽出に力を入れていたんだ。どういう種類の暴力が客ウケがいいかを、ボクなりに研究するためにね。


 そのために、キミ以外の何人かに、ラスメニナスを通じてバックドア仕込みのサロメVを購入してもらったんだけど、いちばん使える暴力データを提供してくれたのは、透くん、キミなんだよ。


 キミはエリートだ。


 


 そら、怒った。やっぱりな。そういう態度を取ると思ったよ。


 弱者男性。この言葉は、キミにしてみればキラーワードだったかな? 


 そうムキになって否定しなくてもいいのに。だって、事実そうじゃないか。


 自分の姿を一度でも鏡で見たことがあるのかい? そのみっともない太鼓腹に、ほとんど悪臭に近い体臭。清潔感、という言葉を親の仇のように毛嫌いする偏屈な性格。休みの日になると家に引きこもってネットとゲームに熱中して、歯を磨こうとすらしない。めちゃくちゃな生活習慣のせいでハゲてきているのに、手入れもせずに放っておいたまま。生まれてから一度もまともに女に相手にされてきた試しがなく、そのせいで、は好きだがを激しく憎む傾向が強まり、ミソジニーを拗らせる。コミュニケーション能力をまともに鍛えてこなかったせいで、親友のひとりだっていやしない。店員に対して横柄な態度を取るいっぽうで、自分よりも力のありそうな相手に対しては、ビビって何も言えなくなる気弱な性格。国立大学を卒業したくせに派遣社員として甘んじ、貯金もなければコネもない。かといって資格取得のためのアクションすらも起こさない。上昇志向がゼロ。努力嫌いの負け組人間。口を開けば現状の生活に対する不満ばかり。そのくせ、自分の人生の責任を、常に他の誰かがとってくれるだろうと思い込んでいる、呑気な他責思考。それがキミだ。典型的な弱者男性そのものじゃないか。


 そして、弱者男性であるだけじゃない。キミは弱者男性である以前に、相当なクズだ。


 弱者男性と呼ばれる人たちの中には、必死こいて現状を変えようと努力している者もたくさんいるというのに、キミはそうではないよね。


 うん、とびっきりのクズだ。


 まさかとは思うが、自分がこうなったのは、環境のせいだ……なんてことは、口にしないよな?


 たしかに、キミの家庭は悲劇に見舞われたさ。キミと、キミのお母さんは、その点では被害者と言えるかもしれない。


 でもさ、お父さんの横領事件が発覚したのはいつだい? たしか、キミが大学二年生の時だったよな?


 それまでの人生を、キミは全力で生きてきたのか? 高校受験のときに、なぜ志望校のランクをひとつ落とした? 陸上部を二年の途中で辞めたのは、本当に勉学に集中するためだったのか? 違うよな? ただキツくて面倒くさくなって辞めたんだよな? もし本当に勉学に集中するためだったら、志望校のランクを落とすなんてしないはずだ。それとも、それはキミの意志ではなく、キミのお母さんの意向だとでも言うつもりかな?


 大学受験にしたってそうだ。ちょっと努力すれば、もっと専門性の高い分野の学べる大学へ進学できたチャンスがあったはずなのに、なぜ努力しなかった? 二年時の模試の時点でA判定が出たことに満足して、ろくに受験対策もせず、ギリギリのところで受かるような真似をしたんだ?


 どうして早々に自分の力に見切りをつけるんだ? どうしてチャレンジしなかった。その前に、なぜ夢や目標を持とうとしない? 人間は夢や目標に向かって努力することで、はじめて生きる価値を獲得できる生き物だ。なぜそれをしなかったか、ボクは知っているよ。キミがすべてサロメVに話してくれたからな。


 真剣に考えていないんだ。自分の人生について。自分の将来について。


 どこかで、世の中を舐め腐っている。大学受験の勉強なんて将来なんの役にも立たないんだから、こんなの真面目にやる意味なんてないって、そうやって都合の良い言い訳を頭のなかでこねくり回して、自分を安心させている。


 だが、それは大きな間違いなのさ、透くん。受験の本質は合否じゃない。人生の困難な出来事を前にした時に、必死になって頑張れる人間であるかどうかを問うテスト。受験の本質はそこにある。人はいつか、自分の人生を自分の手で引き受けなきゃいけない。そのための資質を備えるための重要な訓練なんだよ、受験というのは。


 大学では何をやっていた? どうして一年生のうちに、サークルに所属しなかった? なぜ学部内の友人を作らなかった? ただでさえ低レベルなコミュニケーション能力を鍛えるチャンスを、みすみす手放すような真似をした? どうせ何をやってもムダだと、諦め癖がついていたからだ。そしてそれは、キミの生育環境が招いたものじゃない。キミが目の前のチャンスを、みすみす逃し続けてきたことの結果なのさ。


 大学で、キミが真剣に打ち込んできたことはなんだ? 友人たちと協力し合って、目の前の問題を解決するための努力をしたことがあったか? 授業態度はどうだった? 必修だけじゃなく選択科目も自主的に選び、毎日欠かさず授業に出席して、しっかりとノートをとって予習復習をしたか? バイトはしたか? 自分と年代の違う人たちの話を聞いて、いろいろな価値観を貪欲に吸収して、彼らの経験から何かを学び取ろうとしたか? ゼミでの研究態度はどうだった? 指導教官や先輩としっかりコミュニケーションを取りながら、研究課題を進めることが出来たか? 問題が発生したら、問題解決のための具体的なプランを構築して実行に移すなりしたのか?


 単位取得に追われる大学四年生の夏になって、ようやく就職活動に本腰を入れ始めたものの、業界リサーチも企業分析もES対策も面接トレーニングも不十分なまま、オウム返しのように面接官に向かって繰り返したそうだな。


 キミの得意戦術はこうだ。「大学二年の時に父が亡くなりましたが、それにも負けず頑張りました」……中身の薄い自己アピールだけが、キミの武器だった。


 だが、そんな言葉で同情を引こうとしても、数多の学生を相手にしてきた採用のプロである面接官を前に通じるほど、世の中は甘くない。


 目の前の現実のすべてを、お前は冷笑し続けた。


 だから、常に自分の人生に、不満を抱くようなことになるんだ。


 だから、自分の心の弱さを、他人に向けるような真似をするんだ。


 環境でクズになったんじゃない。すべて、これまでの行いが招いた結果なんだ。


 しかしながら、そんなキミを、ボクは見捨てないよ。


 チャンスを与えようというんだ。キミに。


 遣隋透。キミはクズだ。


 だが、弱者男性のエリートでもある。


 その比類なき心の弱さは、新しい時代を生きるための力になりうるかもしれない。


 いまの時代、弱さとは強さだ。弱い心を暴力に変換してみせろ。いま、ここで、ボクの目の前で。


 そのために、彼女をお呼びしたんだ。


 ……さぁ、入ってきなさい。





 ◆◆◆





 鋼鉄製の扉の向こうから現れたのは、全身を真っ赤なドレスに包んだ「彼女」だった。


『そうだ、サロメVだ。君が三か月前に購入し、そして暴力を加えた末に中古品として売り払った、あのサロメVだ』


 驚きを隠せないでいる透の目の前で、サロメVが軽く微笑む。その笑みにゾッとしたものを感じていると、学知可の、人を小馬鹿にしたような声が、どこからともなく聞こえてきた。


『透くん、マリアRから"そいつ"を受け取れ』


 いつの間にか、廃材置き場から鉄パイプを取ってきていたらしい。マリアRが、ひどく錆びついたそれを無表情で透に手渡した。


『いまから、その鉄パイプを使って、サロメVを破壊しなさい』


 困惑――なぜ、そんなことをしなければいけないのか、本当は大声で問い質したかった。だが、すでに事態は、自分のようなちっぽけな存在ひとつでどうこうできるレベルにはないことを、透は身をもって知ってしまっていた。


 彼は口を噤んだまま、鉄パイプを握る手を震えさせ、サロメVへおずおずと向き直る。


『これが、君に与えられた最後のチャンスだ』


 学知可の言っている意味が、まだ透にはよくわかっていない。さんざん心を甚振っておいて、この男(?)は、いったい何を望んでいるのか。


『もしもサロメVを破壊しなかったら、生きてここからは出られないと考えてくれて良いよ。キミにはいろんなことを話してしまったからね。もう地上に返すわけにはいかない』


 殺されるのか?――透の背筋を悪寒がはしった。


『でも、ここでしっかりサロメVを破壊してくれたら、君の安全を保障するよ。そこは心配しなくて良い。実際に、ボクはただ仕事をしているだけなんだ。キミに個人的な恨みはなにもないんだから』


 どうするべきなんだ。透は歯を食いしばりながら、必死になって頭を働かせようとした。


 けれども、何も考えられなかった。理性的な思考はすっかりと錆びついている。


 呼吸は次第に浅くなっていく。心臓の音がやかましい。


 もし、サロメVを破壊したら、本当に身の安全を保障してくれるのか?この男のことを、どれだけ信じればいいんだ?男の命令に背いて逃げ出そうものなら、自分はどんな目に遭ってしまうというんだ?


 サロメVを、破壊するしかないのか?――透の中に、これまでにない葛藤が芽生えていた。


 たった三か月を共にしただけなのに。一方的な理由で売り払っただけなのに。いま、こうしてサロメVの姿を久々に見れたことに、懐かしさと嬉しさを感じている自分がいることを、透は自覚していた。


 走馬灯のように、サロメVと暮らした日々が蘇る。彼女に慰められた日。彼女の膝枕に甘えた日。


 彼女を、本物の母のように慕った日。


 母の姿が、サロメVに重なりかける。


 血のように赤い二つの瞳が、透を捉える。


「透さん」


 その瞬間、サロメVの薄い唇が――付属品のリップクリームで薄赤く塗られている、二枚のポリウレタンゲル製の花弁が――わずかに開いた。


 瞬間、透は動いた。それはほとんど、動物的な衝動と言って良かった。


 鉄パイプを固く握りしめたまま、雄叫びもなしに、荒れ狂う鼻息だけをその場に残し。


 サロメVの側頭部を、鉄パイプで思い切り殴りつけた。大きく振りかぶり、力の限り振り下ろす。極めて単純な動作。でありながら、これまで透が生きてきたなかで、かつてないほどの不快感が手元に伝わってくる暴力行為でもあった。


 でも、こうするしかなかった。


 他に道はなかった。


 個人の役に立つことが、エウロシスの役割だというのなら。


 これもひとつの、役割なんだよ。


 筋のまとまらない考えを、怒りと暴力に変換するように、透は何度も何度もサロメVを叩きのめした。彼女との短い思い出を振り払うように、すべての過去に決別を告げるように、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も……


 どれぐらい、打擲を続けただろうか。


 透の手から、からん、と鉄パイプが転げ落ちた。


 肩で息をする。


 草食獣を牙で捕獲した肉食獣のように荒々しい鼻息を繰り返し、手元に残る無機質な感触を確かめる。


 足元に転がるのは、樹脂にはじまる高分子材料の破片や、セラミックの残骸、そして断線したケーブル……かつてサロメVだったものの残骸。


 浅い呼吸が、次第に落ち着きを取り戻してくる。





 ◆◆◆





『おめでとう』


 学知可の賞賛の声。それに続く形で、眩暈のするような意識を覚醒させるかのように、盛大な拍手が透の耳朶を打った。


「おめでとう」「おめでとう」「よくやった」「すばらしい」「おめでとう」「おめでとう」「本当におめでとう」


 ぞろぞろと、廃棄されたエウロシスの背後から姿を現すのは、謎めいた黒服の男たちだ。年齢も性別もバラバラで、皆が型紙で切り取ったような笑顔を貼り付かせては、ありったけの賞賛の声を透に浴びせてくる。


 困惑する透をよそに、黒服たちが笑顔でじりじりと距離を詰めてくる。そのうちに、透を円形に取り囲んだ。拍手はにわか雨のようにピークを迎えると、次第に引いていった。


『おめでとう。遣隋透くん。君を、株式会社アンドロイドの正社員として採用しよう』


 さきほどまでとは打って変わり、学知可は威厳ある声で予想外のことを口走った。


『透くん、キミ、転職サイトを通じて、ウチの通年採用枠にエントリーしてくれたよね』


 しかし、透はすぐには答えなかった。狐につままれたような表情を浮かべて、居並ぶ黒服たちの顔を見やる。疑心暗鬼になっているのが丸わかりだ。たった数分のうちに場の空気はおろか、透の人生すらも一変したのだから、無理のない話だ。


『おい、もしもし? 遣隋透くん?』


「え? あ、あの」


『はい、か、いいえで答えてくれ』


「は、はい」


『キミはいまから一か月ほど前に、株式会社アンドロイドの通年採用枠にエントリーしたね?』


「はい……しました」


 別に悪事を働いているわけではないのに、おずおずと答えるので精一杯の様子だった。


 透の発言に偽りはない。たしかにその時期、彼は転職サイトを使って、色んな企業にESを提出していた。いつもやっている、気まぐれな転職活動の一環に過ぎないはずだった。


 エウロシスのフリマアプリサービス【ラスメニナス】の運営に携わっている"株式会社アンドロイド"も、そんな、気まぐれにESを出していた企業のひとつだった。


「あの。これって、面接だったんですか?」


『そうだよ。しかも最終面接だ』


「さ、最終?」


『うちの企業に一次面接や二次面接はない。ES提出後の面接が、最終面接だ。実地試験を兼ねた、ね。内容が内容だから、応募者に詳細を事前に伝えることは、まずないんだ』


「まさか、俺の生活をエウロシスを使って見ていたから……?」


『たまたまね。採用枠によって異なるが、キミが応募した職種は人となりが重要になってくる。通常なら身辺調査とESの結果を総合して判断するんだが、そこにいるウチの幹部社員たちの目に留まったキミは"見込みアリ"ということで、ここに来る資格を得た。最終面接を受ける資格をね。そしてキミは、それに合格した』


 ようやく、透は学知不の発言を理解した。


 君に与えられた最後のチャンスだ――それが、何を意味していたかを。


『私たちの仕事内容は、さきほど君に話した通りだ。いまの時代、弱さとは力だ。弱さとは強さだ。心の弱さを他人へ向けるビジネスは金になる。そしてグローバリズムが拡大すればするほど、ビジネスは市場の喉を潤す。透くん、君には今日から、市場という名の巨人の喉の渇きを癒す仕事をすることになるんだ』


「俺が、大手企業の正社員? 派遣社員の俺が?」


『そうだ。派遣社員の君が、見事にたったひとつの採用枠を手に入れたんだ。本当におめでとう』


「おめでとう。よく困難に打ち勝った」


「心の弱さを認めて、本当の強さを手に入れたんだ。誇っていい」


「本当に凄いわ。あなたみたいな逸材が入社するのを、ずっと待っていたのよ」


 学知可や黒服たちの賞賛の声が、驟雨のように透の心に降り注ぐ。彼らの言葉は、水を吸って成長する花々のように、絶望の淵に萎んでいた透の自尊心を、みるみるうちに回復させていった。


 なんとも言えない不思議な高揚感に包まれながら、透は足元に散らばるサロメVの残骸へ、視線を落とした。


『気にする必要はない』


 心なしか、慰めるような調子で学知可が言った。


『エウロシスは、人間のために造られた電化製品。これもまた、彼らに与えられた役目の――』


 言葉の途中で、何かが砕ける音がした。


 透の右足が、サロメの眼球を踏みつぶしていた。


「その“彼ら”って言い方、よしません? しょせんは家電なんでしょ?」


 雰囲気が変わった。あまりの変貌を目にして、さすがの黒服たちも目を白黒させている。


「採用してくれて、ありがとうございます。さっそく働きますよ。何をすればいいんです? あ、エウロシスに暴力を振るえばいいんですかね?」


 凄絶な笑みを浮かべて、透が尋ねた。


 これまでに浴びたことのない、人生最高強度の称賛を浴びたことで、透の自尊心は回復するどころか、後戻りができないほどに肥大化している。


 高まり続ける自己肯定感が、心の奥底に眠っていた傲慢さを浮き彫りにする。


「なんでもやりますよ。生きてる人間に暴力を振るうのは法律で禁止されていても、こいつらを壊すことは、罪には問われないんだから。じゃんじゃん壊しましょうよ。そんで、俺の暴力をはやくデータ化してくださいよ。俺、頑張りますよ。今度は本気だ。いままで本気になって何かに取り組んだことなんてないけど、このビジネスなら、本気でやれそうだ」


 エウロシスよりも無機質な瞳が、鈍い光を放っている。

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バイオレンス・エウロシス 浦切三語 @UragiliNovel

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