人間と森

蟹三郎乃介

人間と森


人間と森


 地面を踏み締めるたび、じゃりっじゃりっと音が鳴っています。

硬い雪と黒々とした木々が延々と続く森の中を、両手で小さな麻袋を持ちながら歩き続けているのでした。

 空は澄み切った青色です。傾いた太陽が背後で柔らかな光を放ち、道の先を埋める白い雪を、徐々に薄い黄色と黒色の模様に染めてゆきました。

 もうしばらくこうして森の中を、溶けかかった雪を踏み締めて歩いていましたが、景色は始めからほとんど変わっていないように思えます。

 ただ時々、鹿のものと思われる足跡や、大小様々の虫の群れが、横切るように続いているのでした。


 歩きながら、両手に持った軽い箱を見下ろしました。

麻袋にはいつのまにか、溶けこんだ雪の粒が黒い斑点をつくっています。

 その荒い網目の奥で、真っ黒な瞳の、にぶい光を感じました。



 その森は前からよく知っていました。

唖の子供の相手をしたがる人は、多くありません。お父さんもお母さんも朝から晩まで働いて帰りましたから、家の中も森の中も、あまり変わらないように思えました。


 夏の頃、唐松の木にもたれかかってうとうとしていたところ、小さなリスのようにも、小ネズミのようにも見える、短い毛を生やした動物が腿の上に乗っているのに気がついたことがありました。

 短い足の先には、小さくて鋭い爪があるのが着物の布越しにわかりました。

小さく先の尖った耳のついた頭と真っ黒な瞳は何かを見つめるようにじっと動かず、黒いすじの入った背中は僅かにゆっくりと上下しています。


 なにとはなしに、その真っ黒い真珠のような瞳を眺めていると、何か吸い込まれるような、引っ張られるような、言いようのない不思議な気持ちになるので、その後はずっとその動物の小さく湿った重みを感じながら、あたりの草むらや遠くの池のほとりを眺めているのでした。


 時々やってくる弱々しい風が、青くて硬い、背の低い茂みを微かに揺らしました。どこからか鹿の鳴き声が聞こえたような気がしました。


 翌る日、また同じ唐松のしたにいると、昨日と同じようにそれは現れました。また翌る日も、また翌る日も、翌月も、夏が終わる頃にも、それはやはり現れました。



 秋の初め頃でした。


村に二人の男がやってきました。

男たちは、東京からやってきた旅行者を名乗ってはいましたが、二人が何か、争いの末に逃れてきたであろうことを皆知っているのでした。

男たちは、数日で村にすっかり馴染んだようでした。


 というのも、この村のほとんどの人間が明治大正の頃やってきた開拓者の孫やひ孫だったからで、それ以外は、この二人の男と同様に他所からやってきた人間であったからでした。


 二人の男は共に気さくな人柄で、またよく働いたためか、大半の村人は彼らをすぐに気に入って、野菜の育て方、薪の割り方、水飲み場の場所すらも教えてゆきました。


 宙に雪がちらつき始めた頃、二人の男が森に足を踏み入れてきました。

片方の男の手に、斧が握られているのが見えました。


 夏以来、森の木々や、草や、鹿や小さな虫たちと過ごさなかった日はありませんでした。

また、あの唐松の下で過ごさない日も、あの小さな動物と触れ合わない日もやはり、ありませんでした。


 その日、あの唐松が二人の男に切り倒されるのを、少し離れた池のほとりから見ていました。


池の淵は凍り始め、雪が地面にまだら模様をつくっています。

 また、いつからか毎日見かけるようになった子鹿や、獣道を覆っていた背の高い草を、その日以来見なくなりました。

しばらくすると、森の入り口のあたりに小さな丸太小屋が建ちました。二人の男の猟師小屋でした。

 鹿猟をする村長が二人に猟を教え込んで、やがては猟師として仕事をさせたがっていると、お父さんがお母さんに話しているのを、その夜畳の上で聞きました。



 やがて雪が、村とその周りのありとあらゆる地面を真っ白に染め上げました。

森の杉は一つ残らず雪を被って、凍った池は大きな鈍い鏡のよう。

そして、男たちの猟師小屋の軒先には、立派に伸びて、見事に枝分かれした、大きな角を備え鹿の亡骸が、時々吊るされるのでした。


 どうやら必ず血抜きを済ませてから吊るよう村長が教えていたらしく、時にはまるで生きた鹿が、重力に逆らってじっとしているようにも見えるのでしたが、稀に、抜ききれなかった血が滴って、真下の雪に赤黒い斑点を作るところを、見ることもありました。



 学校から帰り、囲炉裏のそばですわりこんでいると、いつの間にか眠っているのでした。

目が覚めると、辺りはすっかり真っ暗になって、目の前で灰に埋もれた炭が燻るのが見えます。

家の中を見回すと、お父さんもお母さんも、姿が見えないのがわかりました。

いつのまにか、家を飛び出していました。


 外では乾いた雪が吹雪いていました。横から打ちつける風は強くはありませんでしたが、子供一人の命を脅かすには十分な冷たさでした。

いつのまにか、夜の暗闇よりも真っ暗な、あの森の影を頼りにして、森の入り口へ向かっていました。


 やがて、猟師小屋が見えました。真っ黒な森の影を背にして、小屋からはほのかな光が漏れているのがわかりました。軒先には、ロウで固められたように凍りついた鹿の亡骸が吊るされてあります。


 中では、あの男たちが暖をとっていました。


唐突に現れた子供が、滅多に人と関わらず、また森に入り浸っていて、さら唖であるということをどこからか聞いていた男たちは、しばらくは困ったというように二人で目を見合わせていましたが、そのうち仕方がないというように、吹雪が止むまでこの子供と過ごすということを、互いに了解したというように頷き合いました。何よりも、この二人の男には、そうすることを厭わないだけの良心が確かにあったのでした。

 しばらくは囲炉裏の火や、焼いた餅や、毛布などで暖をとっていましたが、一人の男がだしぬけに、鹿の肉を煮よう、と言い出しました。

するとすぐにもう一人の男が、吊るしてあった鹿の亡骸を引きずってきました。

 亡骸を引きずってきた方の男が、どうやら都会から持ってきたらしい変わった形の刃物をどこからか取り出しました。


 そして、二人の男が目の前で凍った亡骸を、器用に切り拓き始めたとき、吐き出された吐瀉物が囲炉裏の火を消してしまいました。

 熱されたそれはすぐさまひどい臭いを放ち、小屋の中は一気に真っ暗になってしましました。


すぐ二人の男は臭いで顔をしかめながらも、心配そうに近寄ってきました。

 咄嗟に、そばに置かれていた鉈をひっつかんで、どちらかの男の頭に、力任せに振り下ろしていました。


 片方の男が悲鳴をあげて蹲ったのを感じて、すかさず鉈をその隣に振りかぶると、どうやらもう一人の男の腹を切り裂いたようでした。男たちは二人とも蹲って、うめき声のようなものをあげています。


 そのまま、鉈をどちらかの首筋に振り下ろし、もう一人にも同じことをしました。

小屋は焼けた吐瀉物と血の匂いでいっぱいになりました。



 明るくなった頃、吹雪は止みました。


いつもと違って、辺りの静けさが重々しく、辺りの空気を押さえつけているように感じられました。


 ふと、小屋の軒先に、かちこちに凍った茶色な毛の塊のようなものが吊るされているのに気づきました。


 あの小さな動物でした。




 そのとき、森のどこか奥深くで、鹿が鳴きました。




 括り付けられていた縄を解いて、その亡骸を両手に乗せてみました。

凍りついた冬毛が、ちくりと手のひらを刺しました。

 ふと見下ろすと、足元に山菜が入った麻袋が落ちているのに気がつきます。



 森の奥には熱い氷に覆われた大きな湖が広がり、そのさらに向こうには、松の深い、深い森が続いています。


 湖を覆う氷は太陽の光で金色に染まっていました。目の前には、雫を逆さにしたような形の、大きな穴が空いているのでした。

風が吹くたび、その穴の中の水面が微かに揺れて、模様を作りました。

 しばらく両手で麻袋を抱えたまま立ち尽くしていると、じゃっじゃっと音を立てながら、長く伸びた黒い影を揺らして誰かが近づいてくるのがわかりました。


村長でした。


 あの時の鉈と、一丁の猟銃を携えて、足跡をたどりながら追ってきたようでした。

村長は何も言わずに、猟銃の銃口をこちらに向けながら、一歩一歩、やはりじゃりじゃりと音を立てながらにじり寄ってきます。


 雪を踏み締める音が、何度かその場に響き渡りました。そうしてあと三歩も歩けば銃口に体につくというところまでやってきたときです。


どこかで鹿が鳴きました。


 悲鳴のような、悲惨な怒号のような声がこだまします。

村長は、その場で立ち止まって、そんなものは耳に入らないというように、視線を他に移さずにじっとしています。


後ろを振り向くと、大きな角を生やした一頭の鹿が、こちらに歩み寄ってきているのでした。




 鹿は、口に何かを咥えているようでした。


 見ると、それはお母さんの首でした。




長い髪の毛を咥えて、眠ったように安らかなお母さんの顔を吊り下げています。

 首の断面から滴った、あまりにも真っ赤な血が、湖に開いた穴の中にぽちゃりと落ちたのがはっきりと見えました。目がくらみました。

 けれども同時に、体全体ががぐんと物凄い力で押されたように感じ、そしてまた同時に、男たちが鹿猟の時に響かせている、あの大きな銃声を感じ、気がつくと目の前にはただ、金色の水面が揺れているのでした。


 そのとき、私は私がなんであったかを思い出しました。



村長は先から煙を上げる猟銃を下ろすと、しばらくそのまま放心したようにぼおっとしていましたが、時期に夜が来るのがわかっていたたからでしょうか、そのうち後ろを振り向いて、そのまま来た道を戻り始めるのでした。


 金色の日光が、冷えた体を少し、温めました。

村長は、森を出たら、東京から来た役人が言っていた、村の開発計画の話をきっぱり断ってしまおう。

 そして、鹿を狩るのは、しばらく控えよう。

と思いました。


 長い冬が明け、春が来ると、森の入り口には小さな供養等が立てられていたのでした。





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人間と森 蟹三郎乃介 @kanikaniparapara115

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