魔術師ユリは、今日も空腹 4

 上に向けていた杖を軽く振り回し、彼に定めた。

 刹那せつな、彼が「ぐ」とらして喉元に手をる。そうそう、人間というのは、『いきなり水中に落ちる』と、そういう反応をするものだ。

 ばたばたと残っているほうの手でなにかをもがく様に動かしているが、教師から「ほかの生徒の参考に、わかるように」と注意が飛んできてしまって、さらに上から魔術をかけた。彼は呼吸ができるようになって安心したが、慌てて身を捩り、自身の床に落ちている杖を掴んだ。やっとまともにやりあう気になったようだ。

「容赦しないよ!」

「どうぞ」

 私が彼とはまったくサイズの違う指揮棒サイズの杖を振った。彼の構築した火炎系の魔術が一瞬で蒸発し、彼を囲むように一定の間隔で水滴が空中に停止した状態でいる。そのいくつかが先ほど蒸発してしまったが、新たに出現させて宙に固定している。彼は戸惑うような瞳をして、出方を窺っている。もしや、警告が効いていないのかもしれない。どうしよう。本気でやったら彼は保健室行きどころではない。病院行きになってしまう。

 まったく杖を動かしていないのに、水滴が一瞬で氷に変質する。これも魔術によるものだ。温度が一気に下がるが、それは彼の周囲に限定しているし、彼をその温度変化から守る必要は指示されていないため、突如襲った急激な変化に彼は膝をついた。あちゃあ。そんな勢いよく座り込むから服も皮膚も鋭利な氷で切れてしまった。弁償しろとか言われたらどうしよう。

 あ。やばい。

 おなか鳴りそう。もやし弁当の効力がきれた。こんな運動量のでかいことをさせるからだ。

「すみません」

 私の謝罪の声に彼は涙目だ。痛いのも仕方ない。攻撃魔術だから、痛いのは当たり前だ。

たのしそうに魔術を使うんだい!」

 どこか非難めいた彼の悲鳴を封殺するように、私は杖をいきなり下に向けた。可視化できるような、細い細い糸でできた蜘蛛の巣のような構築陣が室内に広がる。ぎ、と誰かが変な声をあげた気がするけど、気のせいだろう。陣そのものに触れても、見えても、人体に影響はないというのは周知の事実だし、べつに誇示するために可視化したのではない。

 めんどうになった、というか。

 持ってきたもう一つの弁当を、隠していた弁当に手をつけることになるなんて!

 糸が一瞬で消えると同時に彼は絶望的な視線を周囲に、向けた。『目』はいいみたいだ。この構築陣がほんの少しでも見えるなんて。なにをされるかなんて、もうわかったのか彼は固定されている停止した氷の雨の中、自身の箒までとはいかないけれど大きめの木の杖を握る手に力が込める。防御陣のようだけど、穴だらけだ。

 その穴が、すべて私の攻撃魔術を通してしまう。派手な演出は一切ない。

 ただただ、室内が一瞬で静かになった。物理的に。

 本当の真空ではない。本当の真空状態になったら血液は沸騰してしまうし、あっという間に人間はしぬ。けれど、音が遮断された、真空に錯覚するような魔術。限られた空間であることや、様々な条件が必要になるが、これが一番手っ取り早くて、誰の目にも、いや、誰の耳にもわかりやすい攻撃となる。

 うなずく教師と違い、生徒たちは口をぱくぱくして困惑している。まあそうだろう。喋っている音が相手に届かないし、自身にも聴こえないのだし。

 彼は白目をいて転倒してしまう。氷の雨はこの状況下では存在できないので固定を解除し、床に落とした。新しい魔術によって存在は掻き消えているし、室内の誰ももう興味はないだろう。

 倒れた彼を見て、悲鳴をあげるような仕草をする令嬢もいたが、気絶……はしないんだな。お馴染みの「キャー」という悲鳴だろうか。

 教師の合図を横目で確認し、魔術をさらに上書きした。室内に音が戻る。…………びっくりした。阿鼻叫喚の嵐だった。


***


 目が覚めたのは、保健室のベッドの上だった。いつもいつもお淑やかに黙々と授業を受けていた、あの可憐な彼女が、「貧乏魔術師」というあだ名をつけられている理由がわかった。

 ただ必死に、身分の差を埋めるために勉学にいそしんでいる、勤勉な少女だと思っていたのに。

 本当に、『魔術師』だったなんて。

 いつも遠慮がちで、普段からよく見る令嬢たちとは違って、寡黙で……『可憐でかわいそう』な子だと思った。でも……違っていた。


***


「ユリちゃん。どうしたね?」

「おじさん」

 ユリは肉屋に珍しく寄っていた。彼女が八百屋ではなくこちらに来るのは珍しい。よほどいいことがあったか、よほど切羽詰まっているかのどちらかしか、昔から来ない。

 彼女は小さな頃から貧民層の子供かと勘違いするほどか弱く見える。十代になっても相変わらずガリガリすぎて、商店街の者たちは心配をしていたのだ。彼女の母親がパン屋で働いているが、ここまで痩せるのはなにか理由があるのかと妙な噂まで立っていたが、理由が明らかになったのはここ一年のことだ。

 魔術アカデミーへの入学資金。魔術師試験への費用の工面。それを大昔からしていたというのは、彼女の母親から聞いていたが……だれも信じていなかった。

 かあかあ、と烏が夕暮れの彼方で泣いている。彼女のおなかが、ぐう、と鳴った。

 妙な沈黙が流れたあと、いつも無表情で小柄な彼女は、耳だけ赤く染めて「コロッケ一つください」と……それはもう、嫌そうに言った。

 肉屋の主人は妻に目配せをしたあとに「オマケで一個入ってるよ」と紙袋を渡すと、ユリは顔の筋肉を震わせた。こうやってオマケをつけると嫌がるのも昔から変わらない。ものには正当な対価を支払うというのが、彼女の流儀だからだろう。

「なにか仕事、手伝ってもらうから」

 そう付け加えると、さらに嫌そうな顔をして肩を落とす。……本当にただ働きが心底嫌いなのだから、商店街のメンバーは苦笑するしかなかった。

 魔術師ユリは、悔しそうに力ない足取りで帰路につく。

 彼女は今日も、空腹である。

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魔術師ユリは、今日も空腹 ともやいずみ @whitemozi

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