散り際のテル子さん

えりんぎ|不思議な体験を少しもじって小説

第1話 あいさつ

「母さん、僕には、弟がいるの?」

不意の問いに、急いで食器を洗っていたえつこの手が止まる。

唐突すぎて、言葉が出ない・・・


「なんで?」

えつこは、再び食器を洗い始めた。


(この子はいったい、どこまで気づいているの?)


「ん、えーっとー、・・・なんとなく。」

あいまいそうだとわかり、えつこは胸をなでおろした。


「良く周りを見てごらんなさい!あなたの弟、どこに居るのよ?」

いつものような母の口調に、僕は少しほっとした。

「そうだよね!良かった。そろそろ仕事の時間だから、行くね」

食器を洗う母を背に、僕は家を出た。


・・・


「そう、弟がいるの。かわいいねえ」

夜勤入りの僕に、テル子さんは、そうあいさつした。

それは、彼女を寝せるために、車椅子からベットへ移乗しようとしたときだった。時はもう、20:00をすぎていた。


食堂に残っていたのは、テル子さんが最後の1人。

テル子さんを寝せれば、後は、巡回まで少しゆっくりできる。

「テル子さん、今日は僕の夜勤だからね。よろしくね」

そう言いながら僕は、食堂で静かに待っていてくれたテル子さんを、彼女の部屋へ連れて行った。相変わらず、返事はない。


あいさつしても、返ってこない。

施設ではそれが、日常茶飯事だった。


テル子さんは、洗面台の前まで連れて来ると、自分でコップと歯ブラシを手に取り、歯磨きを始める。その力は、衰えてはいるものの、まだ、ブクブクうがいもおてのもので、水を吐き出す力もある。いつもの習慣は、認知症であっても、残る人には残る。


テル子さんは、そろそろ90歳。

僕の名前は覚えられない。


テル子さんの車椅子は、その体系に合わせて小型で、職員が押して動かすタイプ。僕は車椅子をベットの横まで押して、テル子さんの前にかがみこんだ。そして、少しむくんで戻らなくなった彼女の足を、片方ずつ、フットレストからおろしてあげた。

「じゃあ、ベットに移るからね」

そう言って見上げたときだった。


「そう、弟がいるの。かわいいねえ」

僕に、そうあいさつした。テル子さんはいつの間にか、しわくちゃな笑顔になっていた。僕と、目と目が合っているようで、微妙に合っていない。


(彼女はいったい、どこを見ているんだ?)


僕は、即座にこたえた。

「弟なんて、いないよ!」

「そう、お名前は?」

僕の返事を聞いているのかいないのか、テル子さんは、まるで小さな子供に話しかけるように聞いてきた。にこにこ笑っているところを見ると、気分は相当良さそうだ。

「僕の名前は・・・」そう言いかけて、やめた。


(僕に対する問いじゃない)


案の定、彼女はすかさず口を開いた。

「そう、かんちゃんって言うの。かあわいいねえ」


(話しているのは僕じゃない)


テル子さんの視線は、あきらかに僕の方を向いている。

けれど、話しかけているのはきっと、僕じゃない。僕以外の誰かと、話をしている。


「テル子さん、大丈夫?」

僕はとっさに、目の前にあるテル子さんの両膝をゆすってみた。

テル子さんは、くしゃくしゃの笑顔のまま、僕の方を見ながら、頭をかしげてみせた。本来なら、かわいらしいそのしぐさ。でも、今の僕には不可解すぎて、受け付けられない。


(ダメだ、通じない)


僕は気持ちを入れ替えて、テル子さんをさっさとベットへ移し、照明を就寝用に切り替えると、おやすみの挨拶をして、部屋を出た。


(かんちゃんって、誰だろう)

(もしかして、テル子さんの弟?)

(いや、テル子さんは末っ子だったはず)

(それとも、ココで亡くなった人?)

(いや、かんちゃんなんて名前の人はいなかったはず)

(いったい誰?)

(僕の弟?)


僕の頭には、嫌でもそんな問いがぐるぐる回り始める。


(今日の夜勤は、とても集中できそうにない・・・)


これが僕の、忘れたくても忘れられない夜勤の記憶

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散り際のテル子さん えりんぎ|不思議な体験を少しもじって小説 @yoshin3

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