第4話
それから、奇妙な現象はぱったりとなくなった。異様な臭いや気配もない。夜、家に1人でいても誰かの視線を感じることもなくなった。
気のせい程度に考えていたそれらの現象は、無くなって初めて、その異様さに気が付いた。腕や背中にあったミミズ腫れ、紫の痣もあの日からみるみるうちに引いていった。
確かに私服の大半を失ってしまったのはショックが大きかったが、それを差し引いてもいつもの日常が戻って来た幸せは言うに及ばなかった。
「美空ちゃん、ちょっとレジ頼む」
品出しをしていた美空は奥から聞こえた店長の声に顔を上げた。
ほかにもバイトは居なかったかと見回して、今日は自分しかシフトに入っていなかったことを思い出した。
レジへ向かいながら、美空は時間を確認した。もうすぐ昼前。昼時になればコンビニのレジは混み合う。店長と自分だけで裁くことを考えると、少し憂鬱になった。
レジ前には最前調理したホットスナックの匂いが漂っていた。その油と香辛料の中に――
シンナーの匂いが混じっていた。
ハッと顔を上げ、絶句した。
そこには韮元 拓が立っていた。例の一件からは既に1ヶ月近くたっている。もう忘れ始めていた頃だったが、目の前にいるのは間違いなくあの男だった。
彼は顔の半分を包帯で巻き、夏だというのに長袖を着ていた。袖口から覗いた手のひらには、焼けただれようなケロイド状の痕が見えた。
美空は恐怖で立ち止まり、後退って店長を呼ぼうとした。
「ま、待ってください……!」
怯えた美空の様子を察したのか、拓は慌てて彼女を引き留めた。
「あ、アルバイト先に突然押しかけて、すみません……きょ、今日は謝りに来たんです……」
美空は眉をしかめて、拓の姿を見た。
「い、いろいろとご迷惑をおかけしてしまって…… 自分の気持ちが分からなくなって、好きとか嫌いとかって暴走しちゃって…… 傷つけてしまったこと本当に申し訳ありませんでした!」
拓は深々と頭を下げ、白髪交じりの旋毛を見せた。
「すみません、本当にすみません! なんて、何とお詫びしたらいいのか!」
拓ががくんがくんと頭を振る度に、接着剤の匂いが辺りに放散する。
「わ、分かりましたから……も、もう来ないでください!」
美空は叫ぶ。
目の前から早くいなくなって欲しかった。忘れかけていたあのゾクゾクとした感じが蘇ってくる。
「早く、早く帰ってください!」
「す、すみません! もう帰りますので、あ、あのこれ……もしよかったら……」
そう言って拓は右手で持っていた紙袋を差し出した。百貨店の紙袋の中には白い箱が入っていた。
「これ、約束してたキットです。こんな形になりましたけど、せめてこれだけは……」
ヤバい。美空はそう直感した。相手はストーカー。そして呪いまでかけてきた男だ。何を考えているのか分からない。そのことを抜きしても生理的な嫌悪がある。
しかし、拒否しようとした美空の頭に、メザ・ゴンドのシルエットが過った。
「あれ? お客さんは? ん? 美空ちゃん何持ってんのそれ?」
気が付くと、美空は紙袋を手に持ったまま、レジの前に佇んでいた。拓の姿はもうどこにもなかった。
バイトを終え、自宅に帰ってきた美空は他の事を放り出し、何よりもまず紙袋を開けて中身を見た。
持って帰って来てはいけない。それは分かっている。バイト先のロッカー、帰り道にあったゴミ捨て場。幾度となく捨てるタイミングはあった。だが、水陸両用ロボットの凶悪なシルエットには、抗う事が出来なかった。
でも、バイト先から付けられないよう何度も確認したし、途中でタクシーまで拾った。だから、大丈夫なはず――
必死で自分を納得させていると、次第に馬鹿らしくなってくる。
自分の情けなさ、危険を冒しているという自覚から、自分に対する怒りに溢れていた美空だったが、箱の中から出て来たメザ・ゴンドを見た瞬間に全てが吹き飛んでしまった。
「あっ……あぁっ……」
長らく夢見たそれが目の前にある。それだけで声が漏れた。そっと触れるとびくりと肩が震え、全身に鳥肌が走る。
肛門括約筋が緊張し、膝と太ももに力が入らなくなった。
見よう見まねでいじってみると、それは綺麗に巡航形態へと変形した。腕を格納し、両足をそろえたメザ・ゴンドは一本の棒になった。
心臓が激しく脈打っている。生唾を飲み込み、パンツに手をかけたその時、またシンナーの香りがした。
体中の皮膚が毛羽立つ。願うようにして、美空はプラモデルへ鼻を近づけてみた。
違う。微かに塗料の香りはするものの、部屋に漂う化学的な臭いの発生源はここではない。
高揚感は霧散し、美空は慌てて千尋に電話を掛けた。
呼び出しのコール音が緩慢にそして丁寧に繰り返される。次の瞬間に千尋が出ることを期待して美空はジッと待ち続けた。
「九条さん……早く、早く出て……」
もどかしさに声が漏れる。
不安から立ち上がった美空は、部屋をうろうろと歩き始める。何度嗅いでみても、確かにそこにシンナーの匂いが漂っている。
ふと、玄関の方へ目をやった美空は、薄暗がりの中に人影が佇んでいることに気が付き、その場に硬直した。
中肉中背のシルエット。それは紛れもなく、あの男だ。
答え合わせをするように、闇の中から韮元 拓が染み出してくる。
これは錯覚か、これも呪いが見せた生霊や使い魔の類なのだろうか。あまりの恐怖に美空は凝然として、スマホを取り落とした。
「部屋の鍵、閉めとかないと危ないよ?」
本物。それは幻覚や幻ではなく、確かにそこに立っている本物だ。そう思った瞬間、拓は襲い掛かってきた。
固まった美空に体当たりした拓は、そのまま馬乗りになって首を絞める。
「全部、全部お前のせいだからなっ!」
美空は体をよじり、首に手を添え必死で抵抗した。
「お前が思わせぶりな態度とるからいけないんだよっ!!」
筋骨隆々でなくとも、大人の男の力に美空は抵抗できなかった。防御の為に構えていた両腕は跳ねのけられ、拓の両腕がぐぃっと首筋に食い込んでくる。
ごつごつとした指が気道を圧迫した。。
「お前のせいだからっ! お前のせいなんだからっ!」
拓が顔を近づけて叫ぶ。唾液が顔に飛び、むんっとシンナーの匂いが強くなった。
意識が次第に混濁し、苦しさや不快感すらも知覚できなくなっていく。
「死ねッ! 死ねッ!!」
力がぐっと籠る。
視界が収縮するように暗くなり、ピントの中央に拓の姿だけが映った。鬼のように歪んだ彼の形相が網膜に焼き付けられた。
と。
突然、男の表情が糸が切れたように緩み、どさりと、横向きに倒れた。
「大丈夫か?」
男の後ろに、千尋が立っていた。
「く、九条さん!」
「嫌ぁな予感がしてな。あんたんとこ向っとったんやけど、オートロックこじ開けるのに手間取ってもうて」
「じゃ、じゃあ、電話に出てよ……」
「あ、それもそやな」
千尋はとぼけた後、床に転がった拓を叩き起こした。
「おい、おっちゃん。どうして美空の部屋の場所が分かったんや? 付けたんとはちゃうやろ?」
拓は苦しそうに腕を振るわせ、プラモデルを指さした。
「台座、台座に……」
美空は眉をしかめ、メザ・ゴンドと同梱されてあった黒い台座を取り出した。
何気なしに振ってみると、カタカタとかすかに音がする。千尋はそれを美空から奪い取ると、地面に叩きつけて壊した。
中から、ころりと転がった黒い塊を千尋は拾い上げる。
「これは……なんや? 呪物やなさそうやなぁ?」
拓の胸倉を掴み、無理矢理立たせた千尋は男の眼前に黒い塊を突きつける。
「じ、じ……じ……す……」
「なんやて? 聞こえんなぁ?」
「じ、GPSです……」
美空は言葉を失ってプラモデルが入っていた箱と拓の顔を交互に見た。
「これで、決まりやな、おっちゃん。警察行こな……と、言いたいところやけど、あんたみたいなクズはしっかりお灸をそえんとアカンからな」
千尋はそう言うとニヤッと笑った。
「な、なにをするんですか……!」
「そりゃ、今あんたが想像してるんより100倍は怖いことや……じゃ、とりあえず外行こか」
千尋は美空に大丈夫だから、と言い残し、拓を連れて部屋を出て行った。
部屋に1人残った美空は大きく嘆息し、床に項垂れた。
しばらく、脱力したあと、散らばった頭の中を少しずつ整理していった。
頭の中で散らばっていた様々なものを丁寧にもとあった場所へ戻していく。最後にはあのプラモデルだけが残った。
美空は机の上に転がったメザ・ゴンドを見た。生唾を飲み込む。
危機は去った。緊張や不安もない。そしてなにより、メザ・ゴンドへの不安要素が消えたことが喜ばしく思えた。
そして――
恍惚。溢れんばかりの快楽が尾てい骨の奥から突き抜けてくる。思った通り、メザ・ゴンドの特徴的なフォルム。頭部と胸部に付けられたパッシブソナー用の突起。それが絶妙な位置を刺激してくれる。
まだ、動かしてもいない。入れただけ。それだけで、腰が砕け、美空は壁にもたれかかった。
喘鳴が漏れ、鼻水が垂れてくる。
快楽を味わわんとしたその時、床に転がっていたスマホが激しく震え始めた。
画面には千広の名前が表示されている。
少しの間、逡巡しジッとスマホを見つめたが止まる気配はない。
観念したように、美空は床で震えるスマホを手に取る。
『美空ッ! 今すぐあのプラモデル捨て! あれはプラモデルやない! あれは呪いを込めた生き人形や!!』
返事が出来ない。
その時、美空の中で、何かが、もぞりと動いた。
おわり
【急募!】 プラモデル お尻 取り出し方 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339
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