第3話 今宵、月の綺麗な屋上で

 日記帳を読み終わった私はなかなか眠ることができずにいた。目を閉じても、まだ見たことないはずの屋上の風景が瞼の裏にこびりついて離れない。


 漆黒の闇に包まれた屋上。吹き付ける夜の冷たい風。淡い月明かりに照らされた一人の少女の不気味な影……


「眠れない……」 


 私は机に置かれている日記帳を開いて、中に隠されている小さい鍵を取り出す。……確信はないけれどきっとこの鍵は屋上のものだ。数十年間誰の目にも触れることなく、書庫の奥深く日記帳のページの狭間でひっそりと私に見つけられるのを待っていたに違いない。


 胸の奥のざわめきがだんだんと大きくなってくる。……私がこの日記帳を見つけたのは、何かの運命なのだろうか。もしそうだとしたら彼女たちは私に何を伝えたいのだろう?


「屋上に行けば分かるかな……」 


 銀色の小さな鍵がその存在を主張するかのように妖しくきらめいた。日記帳の彼女たちが見た風景が私を呼んでいる。


 私は寝間着のまま、小さな鍵を握りしめて部屋を飛び出した。



 ◇◇◇◇◇



 消灯時間もとっくに過ぎた真夜中。しんと静まり返った夜の学校の廊下を、足音を立てないように気を付けながらそっと歩く。


 途中、先輩おねえさまの部屋の前を通った時、先輩にも声をかけるべきかどうかしばらく逡巡してしまった。


『……逢えるのなら、もう一度逢いたいわね』


 数日前の先輩の言葉と、あの哀しそうな憂いを帯びた表情。……先輩は『屋上の幽霊』に逢いたがっているようにも見えたし、もしかしたらあの日記帳のことも何か知っているのかもしれない。


 それでも先輩の部屋の扉を前にして、私にはその扉をノックする勇気はなかった。先輩に会ったところで、私が見つけた日記帳の内容をどう説明すればいいか分からない。それに先輩と『屋上の幽霊』の間に何があったのか知ってしまったら、もう先輩とは今まで通りの関係ではいられないかもしれない。


 暗い階段の先に、屋上につながる扉が見える。ぼんやりとした淡い月明かりが、扉の摺りガラスを通して私に降り注いでいる。


 ……あぁ、私は怖いのだ。私以外に向けられている先輩の表情の理由を知るのが。


 私は一段ずつ階段を上っていく。彼女たちも期待や不安、様々な感情を抱えながら想い人の待つ屋上へと歩みを進めたのだろう。


 扉の前に着いた私は、握っていた鍵を鍵穴に挿し込んだ。……数十年間閉ざされていたとは思えないほど鍵は滑らかに鍵穴へと吸い込まれていく。


「本当に屋上の鍵だったんだ」


 高まる緊張感とともに、震える手で慎重に鍵を回す。かちゃりと小さな金属音。私は鍵を抜きドアノブを回した。


「……あれ」


 伝わってきたのはつっかえたような鈍い振動。……開かない。


 引っかかっているのだろうか。もう一度押してみようとしたその時、私は全く別の可能性に気が付いた。


 開かないんじゃない。……んだ。


 瞬間、私は自分の頭から血の気が一気に引くのが分かった。開かなかったのは私が鍵を挿してドアが閉まったからだ。


 この扉の向こう側に、誰かが居る。まさか本当に『屋上の幽霊』がいるのだろうか……


 いや、ここまで来て帰るわけにはいかない。私はもう一度鍵を挿し込んだ。大きく深呼吸をして、私は再びドアノブを回す。先ほどとはうってかわって、音もなく扉が開く。


 私の頬を冷たい夜の空気が撫でる。私の目に飛び込んできたのは、満天の星と大きく光り輝く満月。そして、淡い月明かりに照らされた一人の少女の不気味な影。……私はこの影を知っている。


「……センパイ?」


 私の声に反応して、黒い影がこちらを振り向く。


「あら……こんばんは」


 私の耳を震わせる、凛とした美しい声。真夜中に屋上に立っていたのは、紛れもない私の先輩だった。


「センパイ……どうしてこんなところに居るんですか?」


「あら、それはこちらの台詞よ。……どうして貴女あなたがこの場所に居るのかしら」


 いつもより冷たい先輩の声色が私を射抜く。


「あ……えっと……屋上の鍵を……たまたま見つけて……」


 予想外の展開に頭の回転が追い付かない。


「……そう」


 永遠ともいえる長い沈黙が私と先輩の間を支配した。先輩の表情は暗闇と月の逆光でよく見えない。


「……ほら、こっちへいらっしゃい。月がよく見えるわよ」


 先に静寂を破ったのは先輩だった。……その声に先ほどの氷のような冷たさの欠片は残っていない。いつもの柔らかく暖かい先輩の声だ。私は先輩の元へと駆け寄る。


「あらあら……寝間着のまま来たのね。ほら、これ。羽織ってなさい」


 先輩はそう言いながら、制服に羽織っていたカーディガンを私の肩へとかけてくれた。ふんわりと漂う柔軟剤の匂いに包まれて胸の奥が暖かくなると同時に、私はようやく冷静さを取り戻した。


「ここからの景色、すごく綺麗でしょう。……ちらほら見える人家の明かりが蛍みたいに見えるのよ」


 転落防止の手すりから身を乗り出すように、先輩は屋上からの夜景を眺めている。


 星の光に照らされている先輩は、まるで精巧な西洋人形のように美しい。そのまま闇夜に消えてなくなりそうなほどの透明感。長い睫毛に夜風になびく長い黒髪。ほんのり紅い唇。……どんな綺麗な夜景も星空も今の私の視界には入らない。私の目に映るのは先輩だけ。


「……センパイはどうしてここに?」


 私は再び先輩の横顔に問いかける。


「……ちょっとお月見をしに来たのよ」


「お月見……」


「そう。……ここはね、私の思い出の場所なの。私の『お姉様』との、特別な場所」


 特別な場所。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にちくりと微かな痛みが走った。


「センパイの……『お姉様』……」


 先輩は私のほうを見ることなく、どこか遠くを哀しそうに見つめながら言葉を紡いでいく。


「そう。……もう遠くに行っちゃったの。だからここは私と『お姉様』の繋がりを思い出す場所。」


 そうか……日記帳の彼女たちが見た風景はこれだったのだ。一番大切な人の『特別』になりたくて。それでもその人にはもうすでに別の『特別』があって。


 きっと私の想いは届かない。私では先輩の『特別』の代わりにはなれない。


「……貴女のことだから、この屋上について調べてきてくれたのでしょう?それで偶然、この屋上の鍵を見つけた……」


 先輩の手が私の手に重なる。月明かりに透き通る白い指はひんやりと冷たい。一体どれくらいの間、この屋上に立っていたのだろう。……いったいどれくらいの間、『お姉様』のことを想っていたのだろう。


「……」


 一瞬日記帳のことを打ち明けるか迷ったが、結局私はその言葉を飲み込んだ。


「ふふふ……ありがとう」


 そう言って先輩は私に優しく微笑みかける。先輩はそれ以上何も追及してこなかったし、私もこれ以上先輩の『お姉様』について何かを聞くことはできなかった。


 先輩の微笑みに胸の奥が締め付けられる感覚になる。……『後輩』に向けられたであろういつもの柔和な優しい微笑み。私はそれさえ見れればそれでいい。隣にさえ居られればいい。……たとえ先輩の『特別』になれなくても。


 重なり合った手のひらから私の想いが先輩に伝わってしまわないか不安になる。私はどうしようもなく泣きそうになりながら、でもそれを悟られないように明るい声色で先輩に問いかける。


「……私、またここに来ても良いですか?」


 私の言葉は吹き抜けた冷たい夜風に溶けて消えた。もうすっかり秋だ。……先輩と一緒に過ごせる時間も残り数か月。

 

「そうね。……今度は紅茶とお菓子でも持ってきましょうか」


 先輩はいたずらっぽく笑いながら答える。


「これは……二人だけの秘密ね」


 こんなにも哀しいことがあるだろうか。……先輩も私も大事なことは言わないで、特別なことは胸の中に隠しておいて、表面だけ取り繕いながら言葉を交わす。きっとこんなのは秘密の共有なんて言わない。


 ……私も日記帳に続きを書いてみようか。彼女たちと同じように日記帳になら私の想いの全てを書けるだろう。そして今度こそ、誰にも見つからないように鍵ごとどこかに隠してしまおうか。


「月、とても綺麗ね」


 先輩が夜空に向かって呟く。私の想いは夜空に浮かぶ月だけが知っている。


「……そうですね」


 ……貴女となら、死んでもよかったのに。

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今宵、月の綺麗な屋上で 蔵本 ゆめ @clamm

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