第2話 日記帳と私
「このリストにある本を書庫から取ってきてもらえるかしら」
司書の先生から頼まれたのは、一般生徒には開放していない書庫の中から数冊の本を取り出してくること。時々こういうおつかいを頼まれることがあるのだが、まだ新入りの図書委員である私にとって、広く仄暗い書庫はまさに迷宮そのものだった。
書庫の中には私以外誰も居ない。ひっそりと静まり返った空間は、少しカビ臭さの混じった本の匂いで満ち満ちている。
「……やっと見つけた」
最後の一冊を見つけるのにかれこれ十分くらい歩き回っていた気がする。……早く戻らないと、先生が困っているかもしれない。書架から取り出して帰ろうとしたその時、視界の端にふと一冊の本が目に留まった。
いや、不思議と視線が吸い寄せられたのだ……まるでその本が私に見つけられるのを待っていたかのように。
「これは……」
私はその本を手に取った。
長編小説の類だろうか、持ってみると意外と分厚くてずっしり重い。書架の脇に平積みされていたせいか、藍色のハードカバーにはうっすらと埃が積もっている。……きっと長い間誰にも貸し出されることなく書庫に眠っていたのだろう。
私は指でそっと表紙を撫でた。埃の下から現れたのは、美しい装丁と金色の文字で書かれたDiaryの文字。
「……日記帳?」
よく見ると背表紙には何も書いていないし、図書の管理のための整理番号のシールも張られていない。誰かの個人的なものなのだろうか。それにしてもなぜ学園の図書室にこんなものが……
私はパラパラとページをめくってみる。ページはもはや変色しており、青インクで何ページにもわたって文章がびっしりと書き綴られていた。三分の二ほどめくった次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは本のページとは明らかに異なった銀色の輝きだった。
「え?」
鍵が入っている。
よく見るとページの中心部が何枚かにわたってくり抜かれていて、その中の空間に小さい銀色の鍵が隠されている。年季の入った日記帳の外見とは裏腹に、鍵は書庫に差し込む西日に反射して妖しいきらめきを放っていた。……この日記帳を開いた人にしか分からない、秘密の収納。
『……なんでも、その屋上から飛び降り自殺をした女子生徒がいたらしいの。それ以来、屋上は鍵が掛けられて立ち入り禁止になっているわ』
数日前に聞いた先輩の声が脳裏に蘇る。この鍵は、もしかして……
「――さん、大丈夫?」
書庫の入口のほうから私を呼ぶ先生の声に、ふと我に返る。頼まれていた数冊の本とあの不思議な日記帳を抱えて、私は駆け足で書庫を後にした。
◇◇◇◇◇
カップから立ち上る湯気。紅茶の心地よい香りが鼻をくすぐる。入浴時間が終わってから消灯までの間、先輩に会えない日は紅茶を淹れて自室でゆっくりするのが私のルーティン。
まだ先輩ほど紅茶の種類に詳しくないし、先輩みたいに茶葉から淹れるのじゃなくて簡単なティーバッグで淹れてるけど、それでも先輩と共通の話題を持てるというだけで胸の奥が暖かくなる。……あと、紅茶についてちょっと早口になって私に熱く語ってくれる先輩が可愛い。
「……今日は先輩居ないみたいだし、ちょっと寂しいなぁ」
一息ついた後、机の上に置いてある藍色の日記帳に再び目をやる。結局気になった私は、書庫から持ち帰った後途中まで読んでしまった。……貸出カードも入ってなかったし、たぶん問題ないだろう。
放課後の書庫で見つけた日記帳は、60年ほど前にこの学園に通っていた女生徒のものだった。寮での日常生活や学園生活。友人との会話やクラスメイトとの交遊。初めはありきたりな内容だったが、徐々にその女生徒の『お姉様』についての話題が多くを占めるようになっていた。
きっとその彼女も『お姉様』に恋をしていたに違いない。新入生と三年生の『お姉様』。……まるで私と先輩の関係性そのものだ。
結局、彼女は想いを『お姉様』に告げることができず、『お姉様』は学園を卒業してしまったらしい。日記は『お姉様』への溢れる想いと悲痛な後悔の念で終わっていた。……ところどころ滲んだインクと隙間なく並べられた彼女の言葉がまるで鏡の中の自分を見ているかのようで、どうしようもなく胸が締め付けられた。
不思議なことに、彼女の日記の次のページには全く別の人物の日記が書き綴られていた。……きっと誰かがこの日記帳を見つけて、続きのページに書き加えていったのだろう。
その後も日記の長さはさまざまで、突然途絶えたかと思うと、次のページには何年か後の生徒の文章が続いていることもあった。……一つ共通していたのは、『お姉様』に特別な感情を持った生徒がこの日記を書いていること。
「……もうちょっとだけ読んでみようかな」
顔も名前も知らない、ましてや生きている時間軸も違う過去の人物が私と同じ気持ちを抱えている。時間を超えて誰かと繋がっているという奇妙な感覚。……インクに載せられた想いの一つ一つが直接私に語りかけてくるのだ。現代文や古文の読解問題とは違って、私がこの日記を書いた訳でもないのにこの人物の心情が手に取るように分かる。
日記帳から溢れ出る感情の波に溺れながら、私はまるで何かに憑かれたかのようにページを繰り続けた。
◇◇◇◇◇
『今日はおねえさまと屋上でお月見をしました。
学園の中で一番星空に近い場所。
おねえさまの仰る通りに、月がとても綺麗でした。
でももうだめなのです。
私たちを照らす月影の前に、きっと私の想いは銀砂の星空へと溶け込んで、おねえさまに伝わってしまったに違いありません。
もうだめなのです。
そのまま藍色の夜空に漂って、遠い遠い銀河の川底に沈んでくれればよかったのに。
私は私の気持ちを隠し通すことはできませんでした。
もうこの日記を書くのはやめにします。
学園の書庫の奥深くへと、もう二度と誰の目にも触れることの無いように仕舞っておきましょう。
過去の共犯者の皆様へ、
未来の貴女へ、私はおねえさまを愛していました。
さようなら。
月の綺麗な屋上でまた逢えたのなら、その微笑みを私に見せて』
日記帳はここで完全に終わっていた。これより後のページには何も書かれておらず、あとは鍵を隠すためのスペースとして細工されているだけだった。
先輩の言っていた『屋上の幽霊』が彼女と同一人物なのかは分からない。でも、その噂話が仮に本当なのだとしたら、これは日記というよりも……
「……遺書だ」
彼女だけではない。この日記帳に書き遺された全ての想い。叶わなかった憧憬と恋慕の欠片の集合体が『屋上の幽霊』となって今の学園に伝わっているのだろう。
私はすっかり冷たくなった紅茶を口に運ぶ。……先輩からおすすめされた先輩の好きなカモミールティー。鼻腔をくすぐる甘い香り。
きっと私も『屋上の幽霊』だ。
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