バニーガールに恋をした

第1話

『今、何杯目だっけ…』

　ウイスキーの入ったグラスを見つめながら、夢乃は思った。

　グラスには、四角い氷と黄金色のIWハーパー。薄暗いバーでロックグラスを見ると、氷が暖色の明かりに輝いて格別美味しそうに見えるから不思議だ。

　バーボンウイスキーは香りが華やかで飲みやすい。

　夢乃は甘ったるいハーパーの香りを嗅ぎながら、己を嘲笑した。

『別れた女の好きだった酒を飲みたくなるなんて、未練が残っているにも程がある…』

　一週間前、夢乃はパートナーと別れた。

「好きな女が出来たから」

　その一点張りだった。

　引き止める間も無く荷物をまとめられ、彼女はあっという間に夢乃の前から姿を消した。

　二年。同性愛者向けのイベントで知り合って、気があって長く連れ添っていけると思っていたのに、別れはどうしてこうもあっけないのだろう。

『性格も見た目も、大好きだったのにな』

　アルコールにやられたぼんやりした頭で、彼女はまた別れた女を思い出していた。

　自分とは正反対の、可愛い女だった。

　美しいロングヘアに、色白の肌。そして夢乃が一番好きだったのは、彼女の笑顔だった。くりくりした目を細めてくしゃっと笑う表情を、自分にだけ見せられたとき、とてつもない幸せを感じたのだ。

　グラスに口をつけながら、夢乃はスマホを開いた。

　連絡が取れないか、好きだった女のSNSアカウントをタップする。メッセージを送ろうとしたが無駄であった。

　すでに夢乃はブロックされていた。

　ため息をついて、テーブルにスマホを置いた。

　暗くなったスマホに、夢乃の姿が写る。

　ショートカットに、切長の目。鼻はバランスよく高く、俗に言う美人の部類に入るだろう。

　だが身長が高いということもあり、何となく声のかけづらい雰囲気があった。

『何が悪かったんだろ…』

　答えの出ない問いを反芻しながら、夢乃はグラスを傾ける。氷が口元に落ちてきて、ひんやり冷たい。

　もうウイスキーは空になっていた。

「すみません」

　カウンター越しに店員に声をかける。ラフなTシャツ姿の男が、すぐに夢乃の前にやってきた。

「同じもの、ハーパーをロックで」

　オーダーを頼んだタイミングで、入り口のベルが鳴り響いた。

「山田ちゃあ〜ん」

　気の抜けた声につられて、夢乃は思わず入り口に視線を投げた。

　そこには、バニーガール姿の若い女がいた。ポニーテールにした艶やかな黒髪に、肉付きの良い体が肩出しのレオタードからあらわになっている。

　また、網タイツ越しにかぶりつきたくなる太ももが見えた。だがその太ももには、まるで魅力的な体を守るように、様々な図形の刺青で埋め尽くされていた。

　名前を呼ばれた店員は、迷惑そうにグラスに水を入れて若い女の元へ持って行った。

「またアンタ、どんだけ飲んだの？」

「だってえ〜お客さんがドリンクくれるから」

　若い女はそう言いながら、山田からもらった水を一気飲みした。飲みきれなかった水が溢れて、だらだら口元からこぼれ落ちていく。

「そう言ったって、飲み過ぎよ。休み休みお水飲まなきゃほんとに死んじゃうわよ」

「良いよお〜別に死んでも。だってありすはあ〜」

　言いかけたところで、「ウッ」と気味の悪い嗚咽を漏らしたかと思うと、若い女はその場にくずくまった。そのまま床に倒れ込み、うめき声をあげながらのたうち回る。

　まるで陽の光にあてられた、死にかけの吸血鬼のようであった。

　山田は目の前で起こった事象を見ていたが、表情ひとつ変えずにバーカウンターへ戻って行った。

　そして夢乃と目が合うと、にっこり笑って口を開いた。

「ごめんなさいね、すぐハーパーお出ししますから」

「あ、はい。それは良いんですけど、あの…」

「はい？」

「良いんですか？　苦しそうですけど…」

　若い女を見つめる夢乃に、山田は苦笑いをして答えた。

「ああ、ありすのこと？　いいのよあの娘は。いつもだから」

「いつも、なんですか？」

「そうなのよ〜限界が来たらウチにやってきて、水をせがむの」

　いまだにのたうち回るありすを見ながら、山田は続けた。

「避難所とでもと思ってんのかしらね？　一応こっちも商売でやってるから困るんだけど…ま、そこは同じ飲み屋同士お互い様って感じかしら」

「なるほど…」

　話をしながら、山田は新しいグラスに氷を入れると、手際良くハーパーのボトルを開けてメジャーカップにウイスキーを注いでいく。

　シングル分を計りきると、それをグラスに注ぎ込んで夢乃の前に差し出した。

「お待たせしました」

　出されたグラスに、夢乃はすぐに口をつける。

　その姿を、山田はまじまじと見つめていた。

「お姉さん…あ、話かけても大丈夫？」

「はい」

「お酒強いのねえ」

「そうでもないですよ」

「そんなこと言っちゃって、今何杯目かわかってる？」

　山田に尋ねられ、夢乃は歯切れ悪く答えた。

「…いえ、数えてないので…」

「７杯目よ。しかもずっとウイスキーロックで…」

「山田ちゃん〜」

　呻き声に混じって、ありすが山田を呼ぶ。山田は「はいはい」と空返事をして、再び彼女の元へ水を持って行った。

　小汚いバーの床にうつ伏せになりながら、ありすはグラスを受け取った。そして少し体を起こして、自分の口へ貰った水を注ぎ込む。

「あ〜生き返る〜」

　酒焼けした掠れ声が、小さな店内に響いた。

　ありすは水を飲み干すと、這いつくばりながら動き出した。そのままカウンターまでやってくると、ゆっくりと席に座った。

「妖怪から人間に戻ったわね」

「山田ちゃんから命の水をもらったから〜」

　ありすはへらへら笑いながらそう言うと、カウンターに座っている夢乃の方に目を向けた。

「あれえ？　お姉さんがいる〜」

「アンタが来るより前からずっといるわよ！」

　赤色のカラーコンタクトレンズを入れたまがい物の瞳が、夢乃を捉えてキラキラ輝いている。

「ここらであんまり見ない顔だ〜」

「こら！　ウチのお客様なんだから絡まないで！　すみません」

「いえいえ、別に良いですよ」

　夢乃は内心嬉しくなりながら、ありすの姿を上から下まで眺めた。

　好みの女であった。ポニーテールはのたうち回っていたお陰で乱れていたが、小動物のような大きい瞳が可愛らしい。

　またよく見ると、胸元にもダイヤ型の刺青が入っていた。

「お姉さん、なんて名前？」

「夢乃って言います」

「夢乃ちゃん！　可愛い名前だね。ウチはありすって言うんだ〜」

　ふわふわしながら自己紹介をするありすの前に、山田が三杯目の水を置いた。

「これ飲んだら、店に帰んなさい！」

「え〜嫌だよ〜お客さんめんどくさいし〜」

「それがアンタの仕事でしょ！」

　もっともなことを言われて、ありすのつけているうさぎ耳のカチューシャが、心なしかしょんぼりと項垂れる。

「はーい…でもお店戻るの、やだなあ」

「ありすちゃんのお店って、近くにあるんですか？」

「そだよ！　同じビルの中！」

「どんなお店なんですか？」

「どんなお店…？」

　夢乃に聞かれて、ありすは答えに悩んでいた。

　だが少しすると、吹っ切れたように両手を自分の顎に添え、大袈裟な甘い声を作って答えた。

「こんなお店！」

「なるほど…？」

　見かねた山田が、間に入って言った。

「要はガールズバーよ」

「ガルバじゃないもん！　コンカフェだもん！」

「どっちも同じじゃないの！」

　ぎゃあぎゃあ言い合う二人の隣で、夢乃がぼそりと呟いた。

「コンカフェか…名前は聞くけど、行ったことないな」

　その言葉で、ありすの目がキラリと光った。

「行ってみる？」

「え？」

「行こうよ！　綺麗なお姉さん連れて行ったら面白そうだし！」

「ちょっとありす！　あたしの店の客連れてく気？」

　山田が不満そうな顔で尋ねると、ありすは両手を合わせて山田にお願いを始めた。

「ね、今回だけ！　夢乃ちゃんちょうだい！」

「そうは言っても、お客さんの気持ちもあるでしょう」

　困惑する山田に、夢乃は慌てて言った。

「自分は行っても良いですよ」

「ほら！　ね、お願い？」

「…今回だけだからね。あと、次回来る時は何かしらの高い酒頼んで。約束よ」

　山田の言葉に、ありすの顔がパァっと輝いた。

「もちろん！　ありがと」

　お礼を言うと、ありすはすぐに夢乃の手を取った。突然柔らかい肌に触れられて、夢乃の胸が少しだけ高鳴る。

「夢乃ちゃん、行こ！」

　微笑むありすの顔を見て、夢乃は息を飲んだ。

　目を細めてくしゃっと笑う表情は、振られた女によく似ていた。

　ありすにつられて、夢乃はバーを出た。

　バーの外に出ると、古い建物独特の湿った匂いが鼻についた。山田のバーはビルの一角にあるのだ。

　繁華街が凝縮したようなビルには、昭和の雰囲気が残っている。道幅は広くないが、奥行きが異常にある。ここがビルの中であることを忘れてしまいそうになるくらいだ。

　そんな巨大なビルには小さな飲み屋がいくつも立ち並んでいて、壁には告知なのか趣味なのかわからないポスターが不規則に貼り付けられていた。

　夢乃は背中におびただしい数のピアスを開けた男のポスターをぼんやり眺めながら、ありすの進む方向について行った。

「ついたよ！」

　ありすの店は、山田のバーの数件先にあった。

　真っ赤な扉に、『コンカフェ・シュガーラビット』と看板がさげられている。

　ありすが扉を開けると、彼女と同じくバニーガール姿の女が二人と、ボーイが一人。そしてカウンターに客が数名座っていた。

　間取りは山田のバーと同じくカウンターしかない小さな店だったが、店内にはシャンデリアのようなライトが取り付けられている。

　さらに、テーブルや椅子がピンク色で統一されているので、ハリボテの異世界に来たような気分にさせてくれた。

「ありすちゃん、復活〜？」

　扉に一番近い席に座る客が、笑いながら尋ねた。

「うん！　このお姉さんがね、ありすにザオラルかけてくれたの〜！」

「ザオラルって何ですか？」

「復活の呪文だよ〜」

　異文化に取り残されそうになる夢乃を、ありすは無理矢理カウンター席に座らせた。

「よし！　ありすちゃんも戻ってきたことだし対戦再開だね！」

　上機嫌になっている一人の客が、嬉しそうに言い放った。

　ありすは一瞬表情が固まったが、すぐにあの可愛らしい笑顔に戻って「うん！　再開〜持ってくるね〜」と何かの準備を始めた。

　夢乃は対戦の意味が分からず、とりあえず様子を見守ることにした。

　だが、彼女がカウンターに置き始めたものを見て意味を察した。ありすが持ってきたのは、無数のショットグラスであった。

　そこに、アルコール度数の高いテキーラをなみなみと注いでいく。

　むせかえるアルコール臭に、夢乃は眉を顰めた。

「じゃあ、ありすから〜」

　そう言ってテキーラを飲もうとするありすの手を、夢乃は咄嗟に止めた。

「え、何なん？」

　突然割り込んできた夢乃を、客たちが怪訝そうに見つめる。

「…自分が飲んでも良いですか？」

「は？」

　対戦をしようとしていた客が、夢乃に顔を向ける。最初は不機嫌そうな表情をしていたが、夢乃の顔を見た途端に頬が緩んだ。

「お姉さん、すげー美人だね。別の店のキャスト？」

「キャスト？」

「何でも良いや！　ありすちゃんの代わりに対戦してくれるってことでしょ？　じゃ、一杯目どうぞ！」

　不安げなありすの手からショットグラスを抜き取ると、夢乃は間髪入れずにテキーラを飲み干した。

　豪快な飲みっぷりに、客はますます上機嫌になった。

「よし、じゃあ次は俺！」

　負けじと客もテキーラを飲み干す。度数の強い酒が喉にあたったのだろう、客は少しむせながらショットグラスを置いた。

　置いた途端、夢乃は水を飲むかのごとく二杯目のテキーラを飲む。

　あまりの速さに、客もバニーガールも目を丸くした。

「次、どうぞ？」

　夢乃が無意識に客を煽る。煽られた客はばつの悪い顔をしながら、ショットグラスを握る。

　客は辛そうにショットグラスを口に運び、一息で飲み干した。

「きっついねえ……」

　そう客が言う間に、もう夢乃は次のショットグラスに手をかけようとする。と、その手に小さな手が重なった。見ると、ありすが夢乃をじっと見つめている。

「次はありすの番！」

　そう言うと、ありすは夢乃が飲もうとしていたテキーラを一気飲みした。

　暖色の照明に、酒を飲み干す彼女の横顔がぼんやり照らされている。ありすは童顔だが、首と顔の境界がわかる曲線がはっきりと造形されている。

　その美しいフェイスラインに、夢乃は思わず見惚れてしまった。

　ありすは綺麗にテキーラを飲み干すと、カツンと音を立ててショットグラスをテーブルに置いた。

「ごちそうさまです！」

「ありすちゃん、大丈夫？」

　小声で夢乃が尋ねると、ありすは微笑みを浮かべる。

「やばいけど大丈夫！　なんか、夢乃ちゃん…」

　そう言ったところで、ありすは一瞬話すのを止めた。

　だがすぐに、こう話し始めた。

「ね、ありすも呼び捨てにするから、夢乃もちゃん付けしなくて良いよ！　夢乃が飲む姿見て、ありす元気になってきちゃった！　頑張る！」

　健気な言葉とは真逆のバニーガール姿。そんなありすに、夢乃の心はどんどん引きずり込まれている。

「え〜一対二で対戦なの？　フェアじゃないよ〜」

　口を尖らせ客が文句を言う。

「じゃあ〜二対二にしよ！　対戦参加したい人〜！」

「えっ……」

　ありすがそう言うと、一番奥の席にいる客が手を挙げた。

「お〜ガンちゃん、流石！　これでフェアだね！」

　文句を言った客の顔をありすが覗き込んだ。

　悪戯っぽい微笑みを浮かべた彼女に見つめられ、客は目を細めて笑った。

「も〜そんなこと言われたら、やるしかないじゃん！　負けないぞ！」

　そう言って、また一杯酒を流し込むのだった。

　数時間後、『コンカフェ・シュガーラビット』の店内には酔い潰れた無数の人間たちが床に転がっていた。

　流石に飲む酒はハイボールに変わっていたものの、夢乃は引き続き酒を飲んでいる。

「夢乃、強いねえ！　すごいすごい！」

　呂律の回らない口で、ありすが楽しげな声でそんなことを何度ものたまっていた。

「そうでもないよ」

　涼しい顔の夢乃に、恰幅の良いボーイが呆れた声をあげる。

「ドリンク出してくれるのはありがたいんだけどさ…もう今日は閉店なんだよ…どうすんのよコレ」

「あ…すみません…」

　申し訳なさそうにする夢乃に、ボーイは疲れた顔で続けた。

「お客さんは俺がどうにかするから、ありすちゃんの見送りお願いね」

「え？」

「君、ありすちゃんの友達でしょ？」

　何と返答すれば良いか分からず迷っていると、ありすが元気な声で言った。

「そう！　夢乃とありすは友達だよ〜一緒に帰れるから大丈夫〜」

　ニコニコ言うありすだったが、彼女はまた店の床になってしまっている。

　それでも楽しげに装う姿に、もう夢乃にはどうしようもない愛おしさが込み上げてしまっていた。

　結局、夢乃とありすはタクシーで一緒に帰ることになった。

「ありすは、どの辺に住んでるの？」

　窓越しのネオンを眺めながら夢乃は尋ねたが、返答が無い。

　見ると、ありすはタクシーの窓に体をもたれかけて、寝てしまっているようだった。

「起きてる？」

　ありすの肩を揺すると、彼女はぽつりと言葉をこぼした。

「帰りたくない…アイツに、会いたくないよ…」

　今にも泣き出しそうな、寂しげな声だった。

「…じゃあ、自分の家に来る？」

　目を瞑ったまま、ありすがコクリと頷いた。

　夢乃は運転手に自宅の場所を告げ、再び窓から景色を眺めた。

　タクシーの窓から、ビルに輝くネオンが見える。ネオンは、赤と青の二つの円形からなっていて、その真ん中にビルの名称が光り輝いていた。

　タクシーが動き出すと、ありすの頬に青色のネオンの光が写し出される。それはまるで、彼女の心を表しているかのようだった。

　夢乃の自宅に到着したころには、ありすはすっかり回復していた。

　大きな目を再びぱっちり開かせて、夢乃の自宅をぐるりと見渡している。

「わあ〜家、広いね！　ここに一人で住んでるの？」

「今はね…もともとは二人で住んでたんだけど…」

「あ…なんか、ごめん」

　気まずそうにするありすに、夢乃は無理に明るい声で言った。

「もう未練はないから気にしないで！　あ、そうだ。眠る前に、お茶でも飲む？」

「え！　飲みたい！」

　そう言われて、早速夢乃はお茶の準備を始めた。

　耐熱ガラスのポットにドライハーブとお湯を入れて、ティーカップと一緒にトレーに乗せる。

　夢乃がトレーを持ってリビングにやってくると、ソファにちょこんと座ったありすの姿があった。ありすはワクワクした様子で夢乃を見つめている。

　夢野はありすの隣に腰掛けると、ローテーブルにトレーを置いて、ハーブティーをティーカップに注いでいく。

「良い香り〜」

　ソファから身を乗り出して、ありすが嬉しそうにハーブティーの香りを楽しんでいる。その様子に、夢乃の顔が綻んだ。

　二人分のハーブティーを注ぎ切ると、夢乃はティーカップを彼女に渡した。

「熱いから気をつけて」

「ありがとう！」

　そう言われたものの、ありすはすぐにティーカップに口をつけた。

「熱っ！」

「だから気をつけてって言ったじゃない」

「だって〜はやく飲んでみたくって」

　人懐っこい笑みを浮かべながら、ありすは話を続けた。

「今日、テキーラばっかりもらって最悪と思ってたけど、夢乃に出会えて最高になったよ！　お茶までご馳走になってさ」

「自分も初めてコンカフェ行けて面白かったよ。あんな世界があるんだね」

「くだらない世界でしょ？　でも、稼ぎが良いんだよね」

　ありすはティーカップに息を吹きかけ、少しずつハーブティーを飲んだ。

「美味しい！」

　コロコロ表情の変わるありすに、夢乃は目を細める。

「…あのさ、話したくなかったら無理にとは言わないんだけど…」

「ん？」

「どうして帰りたくないの？」

　夢乃の問いに、ありすは小さく笑った。

「ああ…、あのね、家に彼氏がいてさ〜会いたくなくて、帰りたくないんだ」

「何で？　好きじゃないの？」

「…わかんない」

　そう言って、ありすはティーポットをじっと眺めた。ティーポットの中で、ドライハーブがふわふわ漂っている。

「最初は好きだったと思うんだ。でもさ、アイツ働かないから会うたびにお金せがむし、疲れちゃうな〜って。ありす、バカみたいだよね。男からお金もらって、男に貢いでるってさ〜」

　分かっている筈だったのに、夢乃の心に棘が突き刺さっていく。

「…別れないの？」

「ね！　別れたいんだけど、ありす別れたら、どうすれば良いかわからなくなっちゃうの」

　ありすは自嘲気味に笑って、また一口ハーブティーを飲んだ。

「ありすね、やりたいことも無いし、なんて言うか、個性が無いんだよね」

「そうなの？」

「うん、だから無理矢理個性を作ろうとして、刺青入れちゃうの…夢乃はさ、そうゆうことで悩まないの？　普通でいたくないっていうか」

　ありすの言葉に、胸が締め付けられる。

　嫌でも少数派になってしまった孤独感は、彼女にはきっとわからないのだろう。

「…個人的には、人って全く同じ性格の存在なんていないから、個性が無い人なんていないと思うんだよ。だから普通なんてものも、本当は無い」

「そっかあ…！　そんな考え方もあるんだね」

「そう、だからさ、別れても大丈夫だよ」

「そうだよね。あ〜でも、やっぱりまだ好きなのかもなあ」

　そう言って、ありすは自分の頭を夢乃の肩に預けた。ありすから抜けきらないアルコールの香りを、かすかに感じる。

「ありす、バカだよね〜」

「そんなこと無いよ…恋愛感情なんてコントロール出来ないし」

「夢乃は優しいな。ね、また夢乃の家来ても良い？」

「もちろんだよ…友達だもの…」

「嬉しい！　夢乃と出会えて良かった」

　そう言って、ありすは目を細めてくしゃっと笑う。

　魅力的な表情を目に焼き付けて、夢乃は自分の心に鍵をかけた。

　叶うことのない相手をどうして好きになってしまったのか。

　己の心を呪いながらも、肩に感じるありすの重さが嬉しくて、友達でも良いから、この想いに気づかれてしまうまで、もう少しだけ隣に居させて欲しいと彼女は願うのであった。