襲撃
「そこ、って言われても、引っ越しって大変なのよ? 修司は自分の荷物だけでいいって考えてるかもしれないけれど、私は色々考えなきゃいけないんだから」
ダンジョンが30キロ毎に1つという大量発生と聞いて引っ越しの心配をした母親。そんな母親にツッコミを入れた修司は滔々と主婦の大変さを語っていた。
メッセンジャーの配信は先程の発言を最後に、あとは時野が作り上げているホームページ、あるいは広報活動を行っているSNSでも見て確認すればいいと言わんばかりにさっさと切り上げられてしまい、荷物整理を再開したところだ。
やれ調理用具だとか布団、枕など、言われてみれば自分よりも圧倒的な量の荷物を引っ越しで持って行くか、あるいは処分して買い替えるかという悩みは母親の負担にもなっていたようだが、そんなお小言を聞きながら修司は改めて思う。
確かに、引っ越しの理由は母親の仕事探しと食料品の入手のためだ。
人のいる町、安全な場所に出て少しでも収入を得ておきたいという希望と、ライフラインの確保のためという目的があった。
だが、引っ越せば当然お金もかかる。
賃貸アパート、マンションの家賃に光熱費、食費、生活にかかるお金なども考えると、実際のところ、引っ越さずに済むのであればそれに越したことはない。
――できたらここから通いやすいところにできてくれないか。
そんな事を思いながらも、未だに続くお小言に修司は言葉を返して宥めることにした。
「いや、分かってるけどさぁ……――っ、また……っ?」
「修司? どうしたの?」
「いや、さっきから変な音みたいなのが聞こえてて」
「あら、やぁね。風邪かしら?」
「そういうのとは違うような……――」
《――隕九▽縺代◆》
言語とは言えない、何かが空気を吐き出しながら舌だけを動かして音を奏でるような音。
その音が聞こえた途端、修司も、そしてその母親も一斉に凄まじい寒気に襲われて、自らの身体を抱き締めて膝をついた。
「は……、はぁ……っ!」
「ぇ、……ぁ……」
口が震え、カチカチと小刻みに己の歯が当たる音が聞こえる。
胸の内側から全てが冷えていくような感覚。
自分の命というものが蝋燭の灯火であるのなら、今まさにその炎の揺らめきが止まり、少しずつ小さくなっていくような感覚に襲われながらも、修司は母を見やる。
母親の顔は蒼白だった。
おそらくは自分も似たような顔色をしているのだろうと感じながらも、けれど、何故かこの場で母親をそのまま残しておく訳にはいかないような気がして、修司が歯を食い縛りながら半ば無理やり立ち上がり、母の身体を強く押した。
6畳程度のリビングルームとなる和室と、襖で仕切られた4畳半の寝室が連なる部屋。
開放していたその境界から、寝室へと母を押し込み、修司がそのまま襖を閉じて、背中を預ける。
――何かが、くる。
そんな確信が修司には確かにあった。
夜のリビングは電気が点いていて明るいというのに、心なしか光そのものが弱まっていて、まるでフィルターをかけたかのように薄暗く感じられた。
その存在はこのリビングルームの隅に広がった影の中にいるようだ。
異様な存在感を放っていて、目には見えなくてもそこにいるという事だけは理解できる。
修司は浅い呼吸を繰り返し、冷や汗を垂らしながらも襖の向こうには行かせまいと歯を食い縛り、その先を睥睨していた。
やがて、修司の視線の先、黒く伸びた影が広がって、盛り上がって、何かの人の形のようなものを象っていった。
「……蝎ィ縲�←諤ァ縲�ォ倅ス阪�陦閼�」
「ぁ……、は……っ、はぁ……っ!」
「しゅ、うじ……!」
「っ、大丈夫、母さん! ちょっと、そこにいて!」
「だ、め、修司、変よ、逃げて……!」
襖越しに聞こえてくる母親の声を無視したまま、修司は正面に現れた異形の存在を睨み続ける。
息を吐き出し、腹に力を入れたおかげか、どうにか言葉を発して身体を動かせる程度には力が入る。
目の前にいる影のような何かが、何かの錯覚や幻覚の類ではないことぐらい、修司にも理解できる。
危険極まりない存在であろう事も、判別がついている。
だが、だからと言って逃げる訳にはいかないと、修司は腹を括って異形に対峙する。
何が目的で、何故突然現れたのかも、自分か、母親か、あるいは両方を標的にしているのか、狙いも分からないが、それでも。
父の代わりに守ると決めた母親を。
大事な家族を見捨てて自分だけが逃げ出すなんて、修司という少年にできるはずもなかった。
「――蟄伜惠縲∝眠繧峨≧縲√♀縺セ縺医�閧我ス薙√b繧峨≧」
耳障りで怖気を伴うふしゅるじゅるという奇妙な音。
その音と共に影が伸びて、修司の足元を真っ黒に染め上げた。
同時に、足元の影から子供のものと思しきサイズの小さな手が何本も伸びてきて、修司の足を、腰を、腕を、肩を、次々と掴んでいく。
「あ、あああぁぁぁ……ッ!」
「修司……! 修司ッ!」
自分自身が消えていくような感覚に襲われながら、叫び声をあげる。
何がなんだか分からないというのが正直なところだが、痛みを伴わないというのに叫び声が口から出てきた。
それは魂が拒絶反応を起こした故の反応とも言える代物であった。
本人の意識とは無関係に口を衝いて出た叫び声がその場に響き渡っている事に、修司自身も気が付いていない。
ただ、修司の耳には襖越しに聞こえてくる母親の声だけが耳に残っていた。
――この化物はなんなんだ、一体なんでこんな化物が出てきた、何が目的だ、自分が標的なら母さんは大丈夫だろう、母さんだけは助かってほしい、いやだ死にたくない、でもどうしようもない、勝てない、抗えない、心が消えていくようだ、何かに染まっていく。
まるで濁流のように押し寄せた、ありとあらゆる心の声。
そんなものを感じながら、抗えずに黒い手のようなものから逃れられず、修司は立ち尽くす。
正面にいた影のような存在は、その影を徐々に実体に変じていく。
まるで真っ黒な泥の塊のような不気味な存在だった。
ずるりと身体の一部を落としながら、再びそれが身体に向かって這っていき、また吸収されては落ちてと繰り返す。
身体から落ちる度にふしゅうとガスが抜けるような音がして、同時に鼻が曲がりそうな程の臭気が噴き出してくる。
まるで悪夢か何かを見ているような気分だった。
そいつはずるりと身体を滑らせるように近づいて、そうして修司に向かって手のような何かを伸ばしてくる。
――あぁ、触れられたら、終わる。
そんな事を悟りながらも、けれど身体はぴくりとも動こうとしなかった。
まるで精神と肉体が切り離されているような、そんな錯覚を引き起こしているようだ。
一方、修司に突き飛ばされた母親は歯を食い縛って立ち上がろうとしていた。
嫌な予感がしていた。
それはかつて、最愛の夫がある日突然帰らぬ人となってしまったあの夜の胸騒ぎに酷似していた。
襖の向こう側にいるはずの息子が、二度と会えない場所に行ってしまうような、そんな予感めいたものが脳裏を過ぎり、得体の知れない恐怖なんてものに負けていられるかと振り払い、その足を踏み出した。
「修司……、修司……ッ!」
たった一枚の襖の向こう側にいる、最愛の息子へと呼びかけながらも立ち上がってみせると、そのまま倒れ込むように前へと踏み出した。
伸ばした手が襖の引手へと届き、勢い良く横へと開かれる。
「――修司ッ!?」
「……母さん……?」
開かれた襖の向こう側で、修司は仰向けになって倒れていた。
崩れるように駆け寄った母親の声に反応してゆっくりと目を開いた修司が、一瞬困惑したような表情を浮かべてから、改めて母親の顔を見て呆然としているように思えた。
「修司、怪我はない? 何があったの? さっきの変な感じは、一体……?」
「……分からない。ただ、何かが来るような気がして、母さんだけでも助けなきゃって思って押し込んだあと、真っ黒い影みたいなものが広がって……。気が付いたら、今になってた」
どこか呆然とした様子で現実味も薄いのか、修司の答えは弱々しいものだった。
確かに先ほどまで感じられた、奇妙な何かの気配は消えている。
部屋の中は修司が倒れ、僅かにテーブルの位置がずれているようにも思えたが、修司自身の身体にも外傷のようなものはなく、まるで何事もなかったかのような静けさを取り戻していた。
ともあれ、それでも最愛の息子が無事だったことにほっと胸を撫で下ろしてから、母親はちらりと修司を見て――その表情に息を呑んだ。
このような異常事態があったというのに、無感情とも言えるような表情。
慌てるでも焦るでもなく、かといって蒼白とした表情を浮かべるでもなく、どこか無機質とでも言うべきだろうか、感情が感じられない。
つい先程の感覚、それに叫び声を考えれば、このような表情を浮かべるはずはないのに――と、そこまで考えたところで、修司の目が母親に向けられ、修司の表情が苦笑めいたものに変わった。
「なんか、妙に疲れちゃったみたいだ。頭もぼーっとしてて、何も考えられそうにないや」
その一言にはっと我に返り、修司の母親は僅かに頭を振った。
ほんの一瞬感じられた、目の前にいる修司に対する違和感を振り払う。
自然な表情を浮かべた修司が、一瞬だけ、他の何かに変わってしまっているような。
そんな事は有り得ないのに、と。
「……とにかく、修司ってば汗凄いわよ?」
「あー……、さっき浴びたのに……。うへぇ、ベトベトだ。やっぱもっかいシャワー浴びてくるね」
「……えぇ、そうしなさい」
短くやり取りしてから立ち上がった修司を見送って、母親は深く安堵した様子で息を吐いたのであった。
――――この日、この世界で似たような事例は多く存在していた。
しかし誰一人として表立った被害はなく、わざわざ喧伝するようなこともなく、沈黙を貫いたまま日々を過ごしていく。
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