第73話 大好きだよ
◇真霧side◇
────水城先輩の個人大会当日。
その会場にやってきた俺は、観客席に座って大会が始まるのを大人しく待つ……この個人大会のルールは至ってシンプルで、この優勝者を決める個人大会に参加する八人が平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、最後に自由形で競泳をするというもので、最後にそれぞれの順位を総合した結果が出され優勝者が決まるというもの。
個人大会の優勝者を決めるこの場まで残っているのだから、今日この場で大会に参加する者たちは例外無く泳ぎのプロフェッショナルたちなんだろう。
「……」
────そんな中で水城先輩が一位になるところを、俺はしっかりとこの目で見届けることにした。
◇水城side◇
あと少しの時間で大会が開始される。
更衣室の中で、時計の針が動く音だけが室内に響く……通常であれば緊張すべき場所であり、おそらく他の選手たちもかなりの緊張を抱いているだろう。
だが────水城は、緊張しているどころか、むしろ安心感を覚えていた。
「どこかで君が私の泳ぎを見ていてくれる、私のことを見ていてくれる……それだけで、私の心はこんなにも温かくなるんだね」
昨日真霧と電話をするまでの水城の頭の中には、本当にたくさんの不安があった。
自分の大好きな水泳で負けたくない、負けたら水泳部員の仲間に顔向けできない、本当のパフォーマンスを発揮できずに負けたら?
その他にも不安を数えればキリが無いが、水城の一番の不安は別にあった。
────もし負けたら、色人くんとの練習の時間の意味も無くなって、色人くんのことを悲しませて、色人くんが私に失望するかもしれない。
それが水城の何よりもの不安だった……が。
昨日真霧と電話をしたことによってそんな不安は完全に無くなり、今は────真霧に優勝報告をしたい、それだけが頭にあった。
「例え水泳って分野だけだったとしても、君が全力を出して楽しめる場所……今日ここで優勝して、私が君にとってその場所だってことを証明する……私が優勝するところ、ちゃんと見ててね、色人くん」
この場には居ない真霧にそう伝えると、大会開始時刻がもう間も無くなため、水城は更衣室から出ると────様々な思いを胸に秘めて、プールサイドへと向かった。
◇真霧side◇
水泳大会が幕を開けて、早速一試合目の平泳ぎが始まることとなった。
各選手がプールサイドから降りてプールに入ると────開始の合図が鳴り、それぞれの選手が同時に泳ぎ始めた。
今回は個人戦ということもあり、以前の高校戦の時と比べて一人一人全員が高校戦の時と比べるまでもなく速い────が。
「……」
俺は、その中でもずば抜けて速さを誇っている水城先輩の泳ぎを見て、無意識に少しだけ口角を上げる。
水城先輩とは何度か練習を重ねてきたが、それはあくまでも競泳という形だったため水城先輩の泳ぎをこうして客観的に見ることはほとんど無かった。
だからこそ驚くことだが────水城先輩の泳ぎの速度が、以前の高校戦の時と比べて誇張無しに1.5倍は速くなっている。
あの水泳大会からまだ一ヶ月しか経っていないとは思えないほどの成長速度……それはおそらく、今まで水城先輩が本気を出せる練習相手が少なかったが、水城先輩に泳ぎの面で勝るとは言えないが劣ると言うほどでもない俺と練習を重ねたことによる成果であり、何より────水城先輩の努力の結晶だ。
「……本当に、かっこいい先輩だな」
◇水城side◇
────四試合目、自由形。
水城は、これまでの平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライで全て一位を取ってきた。
それによって、この四試合目でかなり酷い順位を取ったとしても、ほとんど優勝は盤石と見ていい。
だが────全てで一位を獲る、そうでなければ意味が無いと、水城は自らにそう言い聞かせていた。
「私の好きな男の子は本当にすごい子なんだから、全部一位で優勝ぐらいしないと、振り向いてくれない」
そう小さく呟くと、水城はプールサイドからプールの中へ入った。
そして────開始の合図がなると、自由形、水城が一番得意なクロールで泳ぎ始めた……観客の声、周りの選手の泳ぎ、そんなことはもはやどうでもいい。
────全部で一位を獲って、色人くんに優勝したよって伝える!
それ以外はどうでもいい。
その後、水城は25メートルの段階で滑らかなクイックターンをすると、再度25メートルを泳ぎ切り────周りを見渡すと周りには誰も居なかったため、水城が全種目で一位、優勝したことが決定した。
その瞬間、今までは集中力が途切れてしまうかもしれないと考えあえて探していなかった、観客席に居るであろう真霧の姿を探す。
「色人くん、色人くん……」
そして────観客席に居る真霧と目が合うと、真霧は珍しく少しだが口角を上げており、水城に手を振った。
「っ!!」
それを見た瞬間、水城の目からは涙が溢れ、それと同時に両手で真霧に向けて手を振った。
────君が少し表情を変えて私に手を振ってくれる、それだけでこんなに嬉しくて、今まで水泳を頑張ってきて良かったって思える……あぁ……もう……
「大好きだよ、色人くん」
水城は、観客席までの距離や、観客の歓声によってその声が真霧に届かないと分かっていながらも、自らの思いを真霧に伝えた。
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