第38話 存在

「ここならひとまずは大丈夫そうだな」

「うん!」


 俺と七星は、あの大人たちによる囲いから脱出すると、廊下奥にあった階段横の空間へとやって来ていた。

 階段横に備え付けられているのは消火器ぐらいなもので、それ以外には何も無いため、火事にでもならない限りわざわざ廊下奥にあるこの階段奥まで来る人は居ないだろう。


「いきなり腕を引いて走ったが、疲れてないか?」

「だ、大丈夫!一応定期的に運動したりしてるし、人色が私に合わせてくれてたから!」

「……そうか」


 合わせていると思わせてしまうと七星が申し訳なさを覚えてしまう可能性があったため、俺は七星に合わせたことができるだけバレないようにしたつもりだったが、咄嗟にあの囲いから抜けた時と比較してバレてしまったのかもしれない……それはそれとして。


「一羽の彼氏だとわかっただけで、何者でも無い俺にまであそこまで押しかけてくるとは……一羽は、やっぱりこの業界だと結構有名人なのか?」

「ほ、本当に全然だよ、たまたまランキング入りさせてもらったり、ドラマに何本か出させてもらってるだけだから!」


 なるほど、要するに結構な有名人ということか……だが、だとするなら。


「どうしたものか、会場に戻ったらまた問い詰められそうだな」

「あとちょっとで開始前の軽い交流時間が終わって、本格的に打ち上げ開始の時間だからそうなったらさっきみたいに囲いを作られるようなことは無いと思うよ」

「それは安心だな」


 それなら、ここで静かに時が経つのを待っていればいいということで、話がとてもシンプルになった。

 それから少し間を空けると、七星がどこか恥ずかしそうにしながら口を開いて言った。


「あ、あのさ、人色……さっきの私の先輩が着てた服、覚えてる?」

「あぁ、覚えてる」


 少しではあったが体を露出させた服を着ていたな。

 俺があの服を頭に思い浮かべると、七星が言った。


「あ、ああいう服って……好き?」


 ……とても難しい質問だ。

 俺はそもそも服、それも女性服に対してあまり頓着が無いため、服が好きかどうかという観点自体がそもそも難しい。

 だが、それでも答えるとするなら。


「特に好きでも嫌いでもない」


 ということになる。

 俺が特に面白味も無い返答をすると、七星が言った。


「だ、だよね~、人色はやっぱり、ああいう服とか興味無いよね」

「そうだな」


 俺がそう答えると、再度この場を沈黙が支配した。

 そして、それから間を空けて七星が口を開いて言う。


「ああいう服は、まだまだ子供の私が着ても似合わない……かな?」

「一羽が着たら似合うんじゃないか?」

「……え?」


 何故か驚いた様子の七星に対して、俺は補足するために言う。


「誤解しないで欲しいが、あの服だから似合うかもしれないって言ってるわけじゃない……俺は、一羽になら大体の服は似合うと思ってる」

「っ……!?」


 七星は、顔を赤くして驚いた表情を見せると、続けて俺には聞こえないほど小さな声で何かを呟き始めた。


「そ、それって、私のこと可愛いって思ってくれて……なんて、聞いたら変に思われちゃうよね……でも、人色さん的に私のこと少しは可愛いって思ってくれてるってことなのかな……そもそも、人色さんってどんな人がタイプなんだろ……」

「一羽?」


 俺がそんな七星の様子を窺うように七星のことを呼ぶと、七星ははっとした様子で両手を振りながら言った。


「な、なんでもない!それより、そろそろ行かないと本格的な打ち上げ開始に間に合わないかも!それに、私プロデューサーのこと待たせちゃってるの!だから早く行こ!」


 そう言うと、七星は俺の手首を掴んで走り出した。

 ……俺は、七星と居ると飽きないなと思いながら、七星と一緒に打ち上げ会場まで戻った。

 そして────


「じゃあ人色、私プロデューサーのところ戻るね!すぐ戻るから、ちょっと待ってて!」

「わかった」


 というやり取りをすると、七星は再度プロデューサーさんのところへ行った。

 俺が、七星が戻ってくるまでの間をどう過ごそうかと考えていると────一人のスーツを着た、またも容姿の整っている女性が話しかけてきた。


「すみません、えっと……お名前をお聞きしても良いですか?」

「霧真人色です」


 偽名だが、これに関してはもうプロデューサーにも伝えていることのため、ここで俺の偽名を伝えるかどうかについては特に迷う必要は無いだろう。


「霧真さん、ですね……私は、七星さんのモデル事務所の美澄みすみと申します」


 そう言うと、俺はこの美澄さんから会社名と名前の記された名刺を渡される。

 ……この人は、今日この会場であった誰よりも礼儀正しく落ち着いた感じの人だから、俺としてはとても話しやすそうだ。

 俺がそう思っていると、美澄さんが続けて話す。


「一言で言えば、あなたのことをモデルとして雇わせていただきたいのです」


 モデル……か。

 どんな理由で誘ってもらえたのかは気になるが、どんな理由であれ今の俺にはモデルになり理由が無い。


「お誘いいただいて嬉しいですが、お断りさせていただきます」


 俺がそう返事をすると、美澄さんは少し間を空けてから言った。


「そうですか、ですがもし考えが改められたようでしたら、いつでもそちらの名刺に記載されている電話番号にご連絡ください……一応付け加えさせていただきますが、プライバシーなどが気になるということでしたら本名でなく芸名などでも構いません」

「わかりました」

「……では、失礼いたします」


 そう言うと、美澄さんは打ち上げ会場の料理の並べられたテーブルの方へと歩いていった……やたらと色々な人からモデル、俳優を勧められているが、俺にはそういったものになる理由が無いし、そういったものに向いているとも思えない。

 何か他にそういったものになりたいと思える理由があるなら別だが……当然、そんなものが俺にあるわけがない。

 こういったことを勧められたことも、霧真人色という存在ごと消すだけだ。


「……」


 なんて考えてみたが、霧真人色という存在を消すことに対して、俺は今前に比べて消極的になっている。

 偽りの存在の上に、色々なものを積み上げすぎてしまった。

 だが、消すべきなのは間違いない……こんな偽りの存在があっても、最後には誰にとっても悲劇にしかならない。

 ────この霧真人色という存在を、誰の迷惑にもならない何かしらの形で生かす方法はあるんだろうか。

 俺はふと、いつの間にかそんなことを考えてしまっていた。

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