第4話 私と雨

 私はそれから、何もなかったかのように日々を過ごした。

 パパやママにも、友達にも、地上での話はしていない。言っても、信じて貰えないと思う。私だって、実際に見たわけじゃなければ、ただの空想だと言って笑っていただろう。そう……何も知らない、ここに住むみんなと同じでいられたのだ。

 けれど、私はもう違う。地上のことを知ってしまった。知らないみんなとはもう違う。

 たったそれだけが、私がここで今まで通りの生活をすることの弊害になっている。

 あの、初めて見た青い空が、とても綺麗だったことを、私は忘れることができない。時間によって変わる、橙色の暖かな夕暮れ時の色もとても素敵だった。もしかすると、もっと別の色に変わることもあるのかもしれない。

 そう考えて、私はため息をつく。もう、地上に戻ることなどないというのに、やっぱりこんなことばかり考えている。

「アリスー。ご飯よー」

「はぁい、ママー」

 部屋のベッドでうつ伏せに倒れていた私は、ゆっくりと起き上がった。階段を下りると、パパはもうテーブルについていた。

「アリス。最近様子がおかしいと聞いたが、どうかしたのか?」

 どきり、として思わず肩が揺れた。

「ど、どうして?」

 逆に問いかける。おかしな行動をしているか? 覚えがないわけではないが、決して地上の話をしたことはなかった。

 私は意を決して、背筋を伸ばした。

「ねえ、パパ」

 なんだい、とパパは答える。

「好奇心って、何だろう」

 パパは、怪訝そうに私に目を向けた。

「新しいことや、珍しいことに、興味を持つことだが……アリスの期待している答えではなさそうだな」

 私は、頷いた。

「好奇心は毒なんだって。毒を飲んだ後には戻れないって」

「そんなこと誰から聞いたんだ?」

「え? あー……本に書いてあった」

 なんとか誤魔化す。ジャンさんに言われただなんて口が裂けても言えない。

 パパは悩むように腕を組んだ。

「好奇心は大事なものだ。好奇心をなくし、現状で満足している人間には進歩がない」

 私は、パパの言葉に真剣な表情で耳を傾ける。

 好奇心をなくして満足している人間。まさに、地下都市に住んでいるみんなのことではないかと私は思った。好奇心で地上のことを知る術があるのかどうかは疑問だけれど。

「何か気になることがあるのか?」

 パパが射抜くような目で私を見る。私は素直に頷いた。そうか、とパパは言った。

「好奇心は猫も殺す、という言葉を知っているかい」

 私は首を振る。

「知らない。どういう意味なの?」

「猫はなかなか死なないと言われている。けれど、そんな猫も持ち前の好奇心ひとつで命を落としてしまうことがあるという意味だ」

 パパは言う。猫がなかなか死なないという意味はわからないけど、好奇心ひとつで命を落としてしまうという意味はわかった。

 私は、この好奇心に命をかける覚悟があるのだろうか。きっと、そこまでの覚悟はない。私だって死にたくはない。

「好奇心を持つことは良いことだ。けれど、のめり込みすぎると痛い目を見るかもしれない。それを忘れないようにしなさい」

「……はい」

 私は俯く。

 夕食を食べ終わって、部屋に戻って私はベッドに倒れ込んで考える。

 目を閉じると、地上で見た空を思い出すことが――

「……あれ」

 私は思わず声をあげる。

 空はどんな色だった?

 青かったことは覚えている。とても綺麗だったことは覚えている。それなのに、思い出そうとしてもその光景が鮮明には思い出せない。

 初めて青い空を見たのは随分前になるということに気が付いた。

 私は思わず飛び起きた。

 記憶が曖昧になってきている。当然だ。人はどんどん昔のことは曖昧になっていく。小さい頃の記憶なんてぼんやりとしか覚えていない。

 空はどんな色だった? どんな青色だった? クレヨンでも、色鉛筆でも、絵の具でも表せなかった、あの透き通った青色はどんな色だった?

 私は両腕で自分を抱きしめた。……だめだ。思い出せない。思い出せない。

 恐怖を覚えた。こうして、私の記憶は薄れ、やがて地上の世界への興味も薄れていってしまうのかと思った。感情が薄れていく。怖い。とても怖かった。あの美しいと思った私の感情さえ、やがて消えてしまうというのだろうか。

「……嫌だ」

 嫌だと思った。あの時の記憶を、あの時の感動を、忘れるなんて絶対に嫌だ。

「好奇心は毒だ……飲む前には戻れない……」

 ジャンさんが言った言葉を思い出す。

 ――私に、命をかけてこの好奇心という毒を飲み干す覚悟があるか?


「アリスちゃん!?」

 私はリュックに荷物を詰めて、ジャンさんたちの元にやって来た。たくさん泣いたから、目は真っ赤だ。

「仲間に入れてもらいに来ました」

 はっきりとそう言う。

「でも君……」

 ジャンさんが困惑したように言う。私はジャンさんをまっすぐに見つめる。

「地上に出て、空が違う色だったら帰ろうと思いました」

 視界がぼやける。

「でも、だめだった! 空は泣きそうな程に美しくて、でも私はどうしてこんなに美しいのか何も知らない! 何も知らない! 私はこの綺麗な青の理由を知りたいだけなのに!」

 涙が溢れて止まらない。

 久しぶりに見た青い空は、やっぱり私には眩しくて、やっぱり美しかった。

「どうして、この世界はこんなにも美しいんですか!? 地下都市はあんなにも変化がなくて穏やかなのに、地上はこんなにも変化があって美しい!! どうしてなんですか!?」

 まるで悲鳴のように、私は叫んだ。

 ネコさんが脇で黙って話を聞いている。ジャンさんは私の訴えを聞いて、眉を下げて笑った。

「……俺もね。変化のない地下都市に疑問をおもったのが始まりだよ」

 ジャンさんが優しく言った。

「すべてを捨てる覚悟はできたの?」

「……」

 私は睨むようにジャンさんを見た。

「誰にも……誰にも言わずに出てきました」

 パパにも、ママにも、友達にも、誰にも会わなかった。誰にも何も言わずに出て来た。

「パパやママには書き置きだけ残してきました。すごく心配してると思います」

 愛しているよ、と一言を添えて。私はもう帰らないと、そう書き残して来た。好奇心に勝てなかったのだと。パパとママは私の気持ちを理解してくれるだろうか。

「それでもっ……それでも!!」

 私はしゃくりあげながら叫んだ。

「私は、どうしても知りたかった!! 好奇心を止めることが出来なかった!! 全部投げ打っても、私は地上のことをもっと知りたかった!!」

 だから、すべてを捨てて、ここにやってきた。

「毒ならいくらでも飲みます。もう後戻りなんて出来ないんです。私は、決めたんです」

「……そっか」

 ジャンさんは帽子に手をあて、それを少し下げて目元を隠した。それも一瞬のこと。私の方へと歩いて来る。

「辛い決断だったね」

 ジャンさんが言う。そして、上には俺が説明しておくよ、とジャンさんは言った。

「ようこそアリスちゃん。歓迎するよ」

 折角迎え入れて貰えたのに、私はやっぱり悲しくて、辛くて、声をあげて泣いた。自分で決めたことなのに、全部を捨ててでてきたことが苦しくて、泣いた。

 もう、今までの世界に戻ることなど出来ないのだ。

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アリスとこの素晴らしい世界 羽山涼 @hyma3ryo

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