第3話 私と鈍色

「ない」

「ない」

「ないっ」

「なーいっ!!」

 本を勢いよく閉じて私は横の積み上がった本の上にそれを叩きつけるように載せた。

 どの本にも書いていないのだ。なぜ地上から地下へ人々は移り住まなければならなかったのか。なぜ空は青いのか。なぜ色が変わるのか。なぜ太陽で時間がわかるのか。何冊も読んだ本のどこにも書いていない。

 仕方なく出した本を元の位置に戻して、私はとぼとぼと家に帰る。

 やっぱり地上のことを知るには、ジャンさん達に聞くしかないのだと思い知った。あの人たちに聞けば、すべてが解決するに違いない。

 怒られる覚悟で乗り込むしかない。そう決意して、私は家に帰る。ちょうどママは出掛けていなかったけれど、家の中がとても良い匂いがした。

「パウンドケーキ!」

 テーブルの上の皿の上にパウンドケーキが載っていた。ママのメモ書きで、これは私の分だと書いてあった。

 私は少し考えて、パウンドケーキをバスケットへと詰め替えた。ママのメモの裏に、出掛けて来ることを書いて、私は家を出た。

 こんなに緊張するのは一度目にサギさんを追いかけて以来だと思いながら、私は回転扉をくぐった。階段を上る。怒られるだろうか。怒られるだろう。忘れろと言われた。さよならと言われた。ネコさんは怒らない気がするけど、ジャンさんは怒るかもしれない。怒鳴られても泣かない覚悟。心臓をドキドキさせながら階段を上り、金属の扉を開けた。

「あれ、今日も違う色……」

 今日の空も青くなかった。かといって、橙色でもない。薄暗く、灰色の空が広がっていた。なんだか、青いときと橙のときと違って、空が近く感じた。

 これもまた時間のせいなんだろうかと思いながら、私はマスクをつけて、地上を歩き出す。

 私はまだ地下への入口と、あのもう一つの入口の行き来しかしたことがない。もっと向こうはどうなっているんだろう。壁は無いって言っていたけど、それはきっと嘘に違いない。ずっと遠くにあって見えないだけだ。そういえば、球体だとか「ちきゅう」だとか言っていた。ここか球体だというのもよくわからない。どう見ても平面にしか見えないからだ。

 入口までの距離がわからず、下を向いて歩いていて、ふと顔を上げると人が立っていた。白い髪が風に靡いている。

「サギさん」

 私が声に出すと、サギさんは私の方に目を向けた。そして怪訝そうに眉を寄せる。

「……もしかして、お前か? 俺の後をついてきたという馬鹿な子供は」

 むっとする。子供はいいとして、馬鹿と言われちゃ黙っていられない。

「ええ、そうです。地上に行くのを見られた馬鹿なお兄さんのあとをつけたのは私です」

 サギさんは不機嫌そうに目を細めた。私も負けじと睨み返す。

「今日は何の用だ」

 低い声で問いかけられる。

「あなたたちの仲間にしてもらいに来ました」

 私ははっきりと言う。

「ここは子供の遊び場ではない」

 そんなことはわかっている。きっと私なんかはわからない難しいことをやってるんだろうってわかってる。

 私はマスクを外した。

「だって知ってしまったもの!! 地上の世界があることも!! 空があんなにも美しいってことも!!」

 目が乾いて涙が出そうだった。

「全部、全部、あなたのせいなんだから!!」

 あの日、サギさんを見つけなければ。あの扉と階段を見つけなければ、私はこんな世界のことなんて知らずに毎日をいつも通りに過ごしていたはずだ。

 でも、見つけてしまった。出会ってしまった。もう何も知らない過去に戻ることなんて出来ないのだ。

 出会ったらお礼を言おうと思っていたのに、口からそんなものは出て来なかった。

 サギさんはしばらく私を見てからため息をつき、足下の扉を上に開いた。

「入れ」

 私は自分でもわかるくらい表情がぱっと明るくなった。ここで追い返されると思ったからだ。

「ありがとうございます!」

 私は駆け足でサギさんの開けた扉に近付いていく。

「ジャン。客だ」

 サギさんが中に向かってそう言うと、私に中に入るように促した。私は促されるままに中へと入った。

「アリスちゃん! 来たら駄目だって、俺言わなかったかな?」

 ジャンさんが困ったように言った。ネコさんも向かい側の席の机に座っていた。

「……私、あれからいろいろ調べました。でも、駄目なんです。どこにも、地上のことを書いた本がないんです」

「まあ、そうだろうね」

 足を組み、頬杖をついてジャンさんが言う。初対面の時のような優しさは見えない。

「でも、私はこのまま知らないまま過ごすことなんて出来ません! まだ、どうして空が青いのかも、世界が球体である理由も、なにも知らないんです!」

 そこで、私は今まで大事に抱えていたバスケットをずいっと前に出した。

「今日はお土産もあります!」

「へえ? 賄賂?」

 ジャンさんが可笑しそうに声にする。

「そう取ってくれてもいいです」

 私は頭を下げた。

「このパウンドケーキさしあげるんで! 私を皆さんの仲間に入れてください!!」

 沈黙が続いた。私が顔を上げると、ジャンさんもネコさんもぽかんとした顔をしていた。

「……え? 君、もしかして本当にパウンドケーキと引き替えに、俺達の仲間になりたいって言ってる?」

「言ってます。ママのパウンドケーキは世界一美味しいです。地上を含めても勝るものはありません。これが賄賂です」

 私がきっぱりと言う。

 突然、ジャンさんがぷすっと息を吐いた。

「あっははははは!! ほんと、マジで!? パウンドケーキが秤にかけられると思われてる!? くくっ、今までここに来た奴らの中でぶっちぎりのクレイジーだよ君!! あはははは!!」

 しばらくジャンさんは笑い続けていた。

「ジャンはああなると長い」

 ネコさんが呟いた。私は笑われている意味が分からない。ママのパウンドケーキは何にも勝るものだ。十分に賄賂となりえるはずだ。

 ネコさんは机から下りて私の方にやってきた。

「一切れ」

「あ、はい! どうぞ!」

 パウンドケーキを差し出す。ネコさんが一口食べて、頷いた。

「うん。うまい」

「でしょー!?」

 私は飛び上がる勢いで喜んだ。だって、ママの作るお菓子は世界一なんだから!

「えー、じゃあ俺も一切れ貰おうかな」

 未だに笑いを堪えきれないまま、ジャンさんがやってくる。バスケットから一切れ摘まんで、口に入れる。

「うん。言うだけあっておいしいね」

「それじゃあ……!」

「でも、俺らの仲間に入れるかどうかはまた別問題だよ」

「ええー!?」

 折角私の分のケーキをあげたのに!

「何故なら、その権限は俺には無いから」

 もぐもぐと食べながらジャンさんは言う。

「権限……? もっと上のえらい人がいるってことですか?」

「いるねえ。怖いのが」

 言いながらジャンさんは親指をぺろりと舐める。

「それに、君にはまだ覚悟がない」

 ジャンさんが私を指差した。

「覚悟って何の……」

「地下都市を捨てる覚悟だ」

 どきり、とする。

 地下都市を捨てる……パパやママや友達に二度と会えないということだ。ジャンさんやネコさんたちはそうしてここにいる。地下都市を捨てて、地上で生きることを選んだ。

 私は? このままここから帰れないと言われたらどうする?

「私は……」

 視線を下げる。

「ほらね。まだ迷ってる」

 ジャンさんの声が刺さる。

「俺たちもね、地下都市にまったく行かないわけじゃないよ。こっちでの生活に足りないものを補充したりするために行くことはある。でも、家族やダチには会わないって決めている。というか、それが唯一のここでの掟だ。君にその覚悟はあるかい?」

「……どうして、会っちゃいけないんですか?」

「揺らぐからだよ」

 ジャンさんは言う。そうして、自分の胸を握った拳で叩いた。

「地上に世界を復活させるんだと、そう決めた自分の決意が揺らぐんだ。だから掟がある」

「揺らぐ……」

 言っていることはわかった。家族や友達に会うと、気持ちが揺らいでしまうというのも理解できた。私だって戻りたくなると思う。

「アリスちゃん」

 ジャンさんは、初めて会った時のように優しく声をかけてきた。

「君はこっちに来ない方がいい」

 そう言ってジャンさんは立ち上がる。そして、私の頭に手を置いた。

「君は友達と遊び回って、お父さんやお母さんと一緒に過ごすのが幸せなんだろう?」

「……はい」

「じゃあ、話はここまでだ」

 腰を折って、私の揺れる瞳を覗き込んで、ジャンさんは笑った。

「君の毒じゃ、こっちに来るには足りない」

 ぐっと唇を噛む。私の好奇心じゃ、皆の仲間になるには足りないと言う。

 私は何も知らない。だから知りたい。たくさんのことを知りたい。でも、何もかも捨ててまで知りたいかと問われると、言葉にすることはできなかった。

 覚悟がない。私には覚悟がないのだ。だって、家族や友達との生活は、それはそれで私にとって大切なもので、捨てることなどできない愛おしいものだ。

 仲間になりたい。ただその思いだけじゃ、私は皆の仲間になることはできない。

「サギに送らせるよ。いいかい。もう二度と来ちゃいけない」

 頭に置かれた手が、私の肩へと移動する。まるで頷くまで帰さないとばかりに、肩は強く掴まれた。

「君は地上のことは全部忘れて、今までの生活に戻る。いいね」

 ジャンさんは言う。

「もしも、またここに来るようなことがあるとしたら」

 その声は真剣だった。

「君が二度と向こうに帰らないと誓った時だ」

 心臓が早く鳴っている。

 私に捨てられるか?

 今までの生活を。今までの何もかもを。捨ててまで、私は知りたいのだろうか?

「約束できるね」

「……はい」

 頷くしかなかった。

 階段を上り、天井を開けるとサギさんはまだそこに立っていた。ジャンさんは私を送るようにサギさんに言っているのを、どこか遠くに聞いていた。

 冷たい風が吹く中を、サギさんの後ろを俯いた私が歩いて行く。空は私の心と同じように鈍色をしていた。

 目の前で、白い長髪が揺れる。この後ろ姿を追ってしまったから、だから私はこんなにも今胸が苦しいんだ。こんなにも悩んでいるんだ。こんなにも頭がぐちゃぐちゃなんだ。

「着いたぞ。もう二度とこちらには――」

 サギさんが振り返って、言葉を止めた。赤い瞳を丸くして私を見ている。

 それはきっと、私が泣いていたからだろう。

 悔しくて。

 悔しくて。

 私は泣きたくもないのに涙を流していた。

「知りたいって思うのが、そんなに悪いことですか」

 私は早口で言う。

「空を綺麗だって思うのが、そんなに悪いことですか」

 ぽろぽろと私の目から涙が溢れる。バスケットを抱えて、私はそこに立ち尽くしていた。

「……」

 天井の蓋を開けようとしていた体勢のサギさんは、体勢を元に戻して真っ直ぐに立った。ネコさんと同じくらい背の高い人だった。高い位置から私を見下ろしてくる。私は涙を強引に拭った。

「好奇心は悪ではない」

「え……?」

 サギさんが言った。私はサギさんを見上げる。

「だが、好奇心だけで、何かを成そうとしている者を邪魔するのは悪だ。そう思わないか」

「……」

 確かに、今の私はジャンさんやサギさんたちの邪魔しかしていないのだろう。迷惑ばかりかけているのだろう。

 目をきつく瞑ると、頬を涙が伝う感覚がした。

「もう帰れ。いいな」

「……はい」

 私は素直に頷いた。

 私は悪。今の私は、悪でしかないのだ。

 サギさんが天井の蓋を開ける。私はその中へと入る。数歩階段を下りると、サギさんは蓋を閉めた。

 私はその場に座り込んだ。暗闇の中で、私は泣いた。


 ――ねえ、神様。神様。

 どうして、人間に「好奇心」なんてものを与えたのですか。

 毒でしかないものを、どうして与えたのですか。


 私はバスケットを抱えて、その場で涙が収まるまで泣き続けた。

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