アカネと呪いの錬金術師

真夜ルル

第1話

 この世界には、物理法則を無視する不思議な力が存在している。

 それは——呪い。

 一度かけてしまった呪いは解呪しない限り決して消えることはない。

 なら、解呪することが不可能なほどの強い呪いはどうしたらいいんだろう。

 その答えを示してくれたのは、どこかの偉い主教徒でもなくて、ただのオカルト好きの人でもなくて、もちろんお母さんでもない。

 そいつは——うちの実家の路地裏に倒れていた餓死寸前の錬金術師だった。



「——んじゃあ、行ってくるね。お母さん」

 私は玄関に行き、靴を履いてつま先を地面でコツコツと蹴ってかかとをしまい込み、にこやかに手を振っているお母さんに言った。

 最近になってほうれい線が少しずつ目立ち始めてきている。髪も染めているみたいだけど白髪が増えてきていることも、分かりにくいけどなんとなくわかっている。

 昔からずっと見てきている顔だから、変化には気づきにくく、こういうふとした瞬間に時が経っていることを実感する。

 こういうのは自分が大人に近づいてきている嬉しさよりもやっぱり不安が募ってしまう。

「…………」

 なんとなく、お母さんの顔を直視できないまま、再び「行ってきます」と言ってドアを開けて歩き出した。

 その日はいつになく、何層もありそうな分厚い雨雲が空一面を覆っていた。そのせいで吹き付ける風の冷たさが分かる。普段は太陽があるおかげで暖かかった日常に冬が近づいていることを肌に改めて感じさせてきた。

 私的にはこのくらいの少しはっきりしないような天気は好きだ。雨みたいに沈んでいるわけでもなく、晴れのようにまぶしいわけじゃない。互いが自己主張しすぎない中和されているような雰囲気が過ごしやすい。

 歩き出して、数十歩。

 三十五歩目で私は立ち止まった。

 実家を出て、大通りの歩道を右にてくてくと歩いていくと、裏路地が横に見えてくる。

 私は、特に何か考えたうえで路地裏を見たわけではない。

 電車に乗っている時に窓の外の景色に目移りするのと一緒で、何気なくちらりと見ただけのことだった。

「え……」

 そこにはここら辺では見かけない容姿の女性が段ボールの上で倒れていた。

 胸元の膨らんだ黒白のお嬢様のような品性を感じるドレスを身に纏い、パッツンと切りそろえられたであろう前髪にしなやかな眉、傷一つない人形のような綺麗に整った童顔、たらりと零れている唾液すら貴重に思える。ただ金髪の美しき髪は肩まで寝ぐせのようにくるくると乱れていたこともあって、一瞬、死んでいるように見えてしまった。

「きゃあぁあ!」

 だから、この場合悲鳴を上げるのは失礼ではないはず。テレビとかで見る事件ものはいつも死体の第一発見者は叫んでいるし。それに、人が路地裏で死んだように倒れていたら誰だって驚くに決まっている。

 すると——

「——っうるさ。今何時だと思ってるの?」

 その女性は私の悲鳴に起こされたらしく、気分が悪そうに頭を押さえながらゆっくりと上半身を上げて、大きくあくびをした。

「うう痛ったぁ」

 次に背中をこすりながら、眉をゆがめたり唇をかみしめたり、やっぱりあくびをしたりした。

「…………」

 私はその童顔美女の様子を心臓バクバクさせながら見ていた。


 この人は一体どうしてここで倒れていたんだろう。

 彼女の容姿からしてこんな一目のないところで倒れていたらただじゃ済まないはずじゃない?

 でも、服装は特に気にするほど乱れてないし、汚れも寝転がった拍子に付いたらしきものばかりだし、もしかしたら眠っていただけっこと?

「……ん?」

 あくびをしている最中の彼女と目が合った。

 ジトっとこちらを品定めするかのような野良猫っぽい目つきをしている。

 私よりも少し年上か、いや、同い年か。肌の艶感から近い年齢である気がする。──ということは十七才くらいか。

 すると品定めが済んだのか、フン、と小悪党みたいな鼻息をして。

「見せもんじゃないから。どっか行って」

 と不愛想に言った。

 愛嬌はまるで感じないが、その顔立ちからは気品の良さを感じる。こういう路地裏が不似合いな女性をおそらく私はテレビ以外で人生初目の当たりにした気がする。

 だから、なんとなく、好奇心で手を差し伸べてあげたくなった。

「あの……」

「来ないで」

「え、でも」

「あなたみたいな凡人とは会話のレベルが合わない」

「えっ、ひどくない?」

「早くどっか行ったら」

「だけど……」

「じゃああなたと会話するメリット教えてくれない? ないでしょ。余計なお世話」

 しかし、少し会話しただけなのになんだか沸々と苛立ちが湧いてきた。

 ──心配してあげたのにその言い方はないでしょ。

 私は思った。

 多分、彼女はとても端麗な容姿のせいで両親からも親戚の人からも、もしかしたら街の人からも散々なほど甘やかされてきたに違いない。

 そうだ、それで多分、なんらかの事で親と喧嘩して思い通りに事が進まない事に腹を立てて家出でもしたんだ。

 となれば、相手するだけ無駄無駄。

 こんなところで会話していても仕事に間に合わなくなっちゃうし、早く立ち去ろうっと。

 ——ぐうぅ……

 なんだか何か、唸るような、音が響いた。

 よく自分のお腹から鳴ることの多いその音には随分と馴染みがある。

「ねぇあんた、もしかして……」

 ——ぐうぅ……

「なにさ?」

「……いや、別に」

 お腹の空腹のアラームが鳴り響いた癖に、謎に強気な表情をしていた。

 少しでも哀れみを感じてしまった私が馬鹿だった。

 そうそう、こういう子は謎にプライドが高いから、お腹が鳴ったなんて恥ずかしい事を認めるわけがない。

 あーあ、もしも認めたら何か食べ物でも恵んであげようかと思ったのに、残念。

「あなたさ、今お腹鳴ってたが、もしかして空腹なのか?」

「は?」

「しっかり聞いた。鳴ってたぞ?」

 こいつ。

 そこまでお腹のアラームを恥ずかしがるのか。

 どう考えても今の音はあんたのでしょうが!

「ふん、恥ずかしーな。大きな音立ててさ。まともにご飯も食べられないくらい貧乏なんだ」

 こんな低レベルな煽りにイラっとしているようじゃ、まだまだ全然大人とは呼べない。

 その点私はクールでそして冷静だ。

 こんな言葉に腹を立てるなんてことは決してない。

 私は心の中でそう呟いて、その場から立ち去ろうとした。

「ふーん、恥ずかしくて逃げるんだ」

 そして——くるりと向きを変え、自宅に走り出した。


「…………」

 気が付くと私は更に盛り付けたチャーハンを片手に路地裏に戻り、そこで寝そべる彼女のことを上から見下していた。

 あのまま言われ放題というのは気に食わない。仮に言った相手がどうしようもないほどの格上だったとしても、何もしないで謙虚にいるのは大人じゃない。

 今回に関しては相手が路地裏で眠っていたような奴だ。

 見た目が素敵だと言うのは事実だけれど、それが上下関係を決定付けるわけではないことを今、私が示してやる。

 空腹状態の彼女に対して、朝ご飯を事前に食べてきた私。

 それなのにこのチャーハンを彼女に恵むわけでもなく、目の前で盛大に食べ尽くす、という非常に大人げのない行為をされて正常でいられるかしらね!

 チャーハンの匂いに気が付いたのか、再び彼女が私のほうに視線を向けた。

「あんた、それ……」

 チャーハン見た途端に、彼女の表情に変化が見えた。

 より目を輝かせて、ネコが匂いを嗅ぐかのように鼻を膨らませたり喉を鳴らしたり、ごくりと唾を飲んだりしていた。

 その姿に対して、普通は優越感を感じるはずなのにどういうわけか私は、余計に苛立ちが強くなった気がした。それも仕方がないのかもしれない。

 だって——

 こいつ、なにをしても可愛く見えてしまうほどに美人だったから。

「もしかして……」

 期待感が空気から伝達されてくる。

 もしも今このチャーハンをあげたら、きっとものすごく喜ぶんだろうことが全身でわかる。

 ——だからって、あげるわけないでしょ。

 私はにやりと笑みを浮かべた。

「さてと、朝ご飯たべよっかな~」

「あんたって……人が悪いんじゃない?」

「え? だってお腹がなっちゃったんだから仕方がないでしょ?」

「あれは……くうぅ」

 彼女は顔を歪ませた。先ほどの行為をまるで悔やむかのような表情をしていて、これほど心地の良い瞬間を味わえるとは思わなかった。

 私は勝ち誇ったようで高笑いをしたくなる気分だった。すると胸の苛立ちをすっきりと消え失せた気がした。

 しかし、やりたかったことを済ませることはできたのだが、これからどうしようかを全く考えていなかった。嫌がらせのために作ったけれどチャーハンをこれ以上食べたいとは思えない。だって、実際にお腹が鳴っていたのは私じゃなかったし。

 どうしようかな、と考えていた私はちらりと彼女の姿を見た。

「え、ちょっと」

 すると、涙目になりながら唇を噛みしめて今にも泣き声をあげそうなほど、美しい顔が崩れるような悲惨な表情をしていた。

 もとはこいつが喧嘩を吹っかけてきたのが悪いんだし、別に仕返しをしても気にするようなことじゃないはず、なんだけど。——そんな表情をされるとどうも罪悪感が湧いてくる。

 でも、だからと言って素直にあげるのは嫌だな。

 どうしたものか。

 悩んだ結果、私はいいことを思いついた。

 ゆっくりとしゃがみ込んでチャーハンを地面に置く。そして彼女のほうをにこりと見た。

「どうしても食べたければ、食べて良いのよ?」

 この女に優しさを見せることがどうしても許せなかった私は、ここにチャーハンを置いていくことにした。どうせこのプライドの高い女は食おうとしないだろうけど、時間が経てば絶対に食べるはず。こうすればチャーハンも無駄にならないし、罪悪感も残らないでしょう。

 そんなことを考えていた私だった。

 しかし、一つ重大なことに気が付く。

 ——あ、スプーン忘れた。

 スプーンがなければどうやっても食べることはできない。それこそネコみたいに口で直接食べない限り。

 仕方がない。取りに戻るか。

 ところが——

「い、いただきます!」

「そう——え!」

 いらない、どっか行って、などの言葉を予想していたせいで彼女がいきなりチャーハン飛びつこうとした、という事態を信じられなかった。

 冗談だろうと思う間もなく、彼女が落ちたチャーハンに手掴みで口に入れようとしているのが分かってしまい、思わず手をつかんだ。

 まさか、ここまで空腹になっているなんて。

 さすがにその身なりで落ちたご飯を食べるとか、ありえないんだけど。

 ネコに餌を与えるみたいに地べたにおいて食べさせようと考えていたのだが、実際にそういうことをしようとされると謎の防衛本能みたいなのが働いてしまった。

「ううぅ、ああぁ!」

 両手をつかんで静止しようと試みているのだが、彼女の意識はもうチャーハンにしかなく止まらない。

 もはや獣のような執着心だ。

 そんなものを露見させているというのにも関わらず、その横顔から宝石のような可憐さが飄々と見える。

 せめてこういう時くらいはぶさいくになれよ、と思ったが仕方がなく私は口を開いた。このまま、私のよくない感情に任せてこのチャーハンを食わせてしまうよりはましだと思ったから。

「家に来たらもっといいのが食べられるけど?」



 人生で初めてだったかもしれない。

 他人に料理をふるまうなんてことをしたのは。

 とは言え、持ち前のメニューなんて数える程度しかないような人間で、もっといいものなんてあるわけがなく、やはり先ほどと似たようなチャーハンを作ったのだった。

 にしても——

「すまない。おかわりしてもいいだろうか?」

「…………」

 さっきからずっとこんなふうに、おかわりの連鎖。

 どんだけ空腹だったんだよ、という話だ。

「——ふぅ、ごちそうさまでした」

 一通りチャーハンを作ってからはしばらく彼女の食いっぷりを眺めていた。

 しかし、困っている人を助ける、というのは気分がいいもののはずなのだが、どういうわけか煮え切らない何かが腹の底でうずいていた。

 どうして美女というのはこんな子供みたいな勢い任せの食べ方をしているのに、どこか美しく見えるのだろうか。

 仮にこのチャーハンに毒を盛ったとしても、モブ的な絵にする必要のないような死亡ではなく、悲劇のヒロイン的な死としてとても絵になるんだろうな。

 ……もう、殺そう。こんなの不平等は許してはおけない。

 そんなことを考えている私は外の声が聞き取りにくくなっていた。

「すまない、名前はなんて言うんだ?」

「…………」

「すまない、名前は?」

「え?」

「名前」

「あ、えーと、まだ聞いていなかったわね。なんて言うの?」

「え、私か? そうか人に名前を尋ねるときはまずは自分からというし——」

「あ、私の名前を聞いていたんですか。ごめん、私は——」

 この場合は間違いなく、私の方が悪い。

 この時に学んだ教訓は、他人が話しているときは人の話をまず先に訊こうということだった。

「私はフリックス・ノワール」

「私はアカネ・フィールス」

 私たちは同時に名を口にしたせいで、何を言っているのかわからなかった。


「ふーん、アカネ・フィールス、いい名前」

 その名前に何を感じたのかは、わからないがフリックスはそう言った。

 すると。

「あ、すいません。突然の訪問」

 一体誰に話しているのだろうか、と思ったが、この家にいるのは私とお母さんだけで、まあ考えるまでもなくお母さんに向けての言葉だ。

 お母さんはずいぶんとよそ行きの笑顔をして、うなずいた。お母さんの右手には何かを包んだ大きな風呂敷を重たそうに持っていた。

 私が帰ってきたことを察して、何か用があって来たのだろうけど、どういうわけか、フリックスがいて、いったん戻ろうとしているように見えた。

「あ、何か用事がありましたか? 私を気にせずどうぞどうぞ」

 しかし、フリックスはその事を察したらしく、お母さんにニコリと笑いながらそう言った。

 出会ったときには口にしていない、妙に他人行儀なその態度に若干の嫌気を感じたが、まぁここであの時みたいに口悪くされてもそれはそれで嫌だったかもしれない。

 お母さんはその他人行儀に騙されたのか、こちらに来て机の上に風呂敷を置いた。どん、と重たい音だった。ずいぶんと魅力的な小さな音も混じっている気がする。

 世の中に希望をもたらしそうな音。

 もしかして——

「——これって貯金箱じゃん。しかも中身めちゃめちゃあるし!」

 私は思わず、それを取りあげた。ずっしりと重たい。揺らしてみると隙間が感じられないほどに詰まっているように聞こえた。

「これを開けてくれってこと? お母さん?」

 お母さんは、小さくうなずいた。

 なんということでしょう。

 今月ピンチだったから、さすがに何か売らなくちゃって思っていたけど、これがあればなんとかなるじゃん!

 私は早速、貯金箱をくるりと見回してみて、取り出し口がないかを探した。

 お金の入り口はあったが、出口はない。

 となれば、この貯金箱は壊すタイプのやつということか。

 ——なるほど、だから私に頼ったのか。

「ではでは——」

 と、私は釘とトンカチを部屋から探し出し、机の上に風呂敷を引いて、貯金箱を壊す準備を整えた。

「ん? それは……」

 同席していたフリックスは、何か変な顔をしたのだが、この時の私は特に気にしていなかった。お金のことばかりを考えていたから。


 貯金箱に釘を当てて、トンカチで叩き、少しずつ割ろうとした。

 何回か叩くとちゃんと砕けた。

 釘が。

 ——あれ?

 私は砕けた釘をポカンと眺める。

「え?」

 そして、貯金箱を見る。

 トンカチで押し込むように叩きつけていたはずなのに、傷一つついていない、つやつやできれいなまま。

「なんで?」

 見た目はそれほど頑丈ではなさそうなのだが、というかむしろもっと柔らかそうで、ちょっと高いところから落としただけで壊れてしまいそうな感じだというのに。

 なぜ、壊れないの?

「お母さん? これ頑丈過ぎない? 何でできてんの?」

 お母さんはやっぱり駄目かという風に少しため息をついた。

 どうもお母さん自身もこの貯金箱が頑丈すぎることを気にしているようだった。

「この貯金箱、いつ買ったものです?」

 すると、お腹をさすりながら、満足げな表情をしているフリックスがお母さんに訊いた。

 お母さんが初対面の人にそんなことを言う気がしなかったけれど、どうしてかフリックスに対してペラペラと貯金箱について語り始めた。この貯金箱は数年前に買ったもので、いざという時に使うために残してきた、と言う。

「ふむふむ、なるほど……」

 フリックスはいかにも何か考えていそうな風に腕を組んでいる。

 腕を組んだことによって見たくもないのに彼女の少し膨らんだ胸が目に入る。

 どうせ何かしらで盛ったに決まっている。じゃないと不公平だ。

 なんだか真面目に思考しているその顔すらも腹が立ってくる。

 そんな私の闇の感情など全く気にならないという感じで彼女は平然としたままだったが。

「失礼ですが、私も試してみていいでしょうか?」

 フリックスの質問に対してお母さんはにこりと微笑む。

 割と真面目に会話している二人の間でやましいことを考えている私に虚しさを感じた。

「では——」

 フリックスは私に向けて手を伸ばしてきた。

 が、彼女の眼は貯金箱に向けられており、私のことは全然見ていない。

 はやくトンカチをよこせと言わんばかりの態度で、なんというか、私のことをメイドとかお使いの者とでも思っていそう。

 ——いや考えすぎか?

 こんなの普通にあることでしょ。

 自分の心を制して私は、素直にトンカチを手渡した。

 すると。

 ポカンと私の顔を見てきた。

「ふふ、君はいい助手になれるタイプ」

 と私の気持ちを逆なでするかのような言葉を発したのだった。

「何も言ってないのに私のしてほしいことを理解して、行動に移せるというのは、賢い。すごく。いい助手になれる証拠」

 しかし、その後に変に褒めてきたせいで、怒りたいのか喜びたいのかわからなくなり、結局感情を隠すために「どうも」と素っ気なく返事するしかできなかった。

 彼女はトンカチを握ると、一、二回くるりとまるでラケットを回転させるかのように回してから、得意げな顔で。

「うん」

 と、貯金箱に向けて思い切り振り下ろした。

 こいつ! 壊れた時のことを全く考えていない。

 仮に壊れたら、破片が飛び散って大変なことになるというのに!

 もしも、貯金箱が破壊していたら破片が飛び散って私たちの顔にはいくつもの傷ができていただろう。

 しかし、貯金箱に振り下ろしたはずのトンカチの柄が折れた——一体どんな力で叩き込めば柄が折れるなんてことになるんだよと突っ込まずにはいられなかった。

 だから私たちの顔は傷一つつくことはなかった。

 顔だけは。

「——ぐあっ、いったぁあああ!!」

 トンカチの柄は折れた後、その頭がくるくると回転して、なんでか私の足のつま先の上に落ちてきた。

 落ちてきていることが目に見えていたのだけれど、わかっていれば何とかできるほど私の体は便利にできていなくて、せいぜい落ちるまでの刹那の時間で覚悟を決めるくらいしかできなかった。

 この時ばかりは貯金箱の硬さに恨みすら覚えた。



「これは、呪われているね」

 突拍子もなくフリックスは言った。

 もしも私がそう言ったら、一体どれだけの人が真剣に言っていると信じてくれるだろうか。

 多分、お母さんすらも、この子どうかしちゃった、なんて嘆くに違いない。

 なんてことを思いながら私はずきずきと痛むつま先を、ビニール袋に氷を詰めタオルで巻いたもので冷やしていた。

「ねえ、これって誰からもらったものなのかわかる?」

 フリックスは私に向けて、お母さんの時の丁寧な口調とは全く違う砕けた口調で聞いてきた。

 やけに馴れ馴れしいことが気になったが、そこまで年が離れているわけではなさそうだし、そこまで気にするのは逆にダサいと考えて、気にしないことにしておいた。

「知らないけど。第一貯金箱なんてあること知らなかったし」

 ——私はこの貯金箱の存在を全く知らない。

 お父さんが亡くなってから、残されたお金を使って何とか生活を続けてきていたのだけれど、基本的にそれらのお金は銀行に預けてあるし、現金で家にしまっておくという習慣が私たちにはあまりない。

 まさか貯金箱があるとは思わなかったから少し興奮したけど考えてみれば引っかかる。

 もしも貯めているのだとしたら、一度くらいはその姿を見てもおかしくないだろうし。

 あ——

 私はフリックスの言っていたことが気になった。

 誰からもらったもの、というのはどういうことだろう。

「っていうかさ、もらったってなんで言い切れるの?」

「いや、どう見てもこれは誰かにもらったものだけど。こんなにも強く開かないように呪われているんだからさ」

「?」

 やっぱりこの子、変。

 そんなことを感じてしまった私だった。

「わからない? ん、んん? なんで?」

 顔に出てしまったのだろう。フリックスは困ったように眉をしかめた。

「まあ、じゃあ教えるけど、これは呪われている。それも、多分お母様の感情で」

「?」

 いくら見た目が素敵だからって路地裏で眠っていただけあって中身は普通だとは限らないのかもしれない。フリックスはやはり変な子だ。

「意味が分からないんだけど、そもそも呪いって?」

「え、そこから、うそ。もしかして無知なの? お馬鹿さんってこと?」

「いや、無知というか、あなたの言っている意味が分からないってことなんだけど」

「ふーむ。ここら辺じゃああまり知られていないってことなのかもしれないわね」

 この辺って……あなたどこ住み?

「よし、では教えてあげよう。ごちそうしてくれたお礼も兼ねて今回だけは特別サービスってことにしよう——ちょっと貯金箱貸して」

「……別にいいけど、盗まないでね?」

「大丈夫、そんな腕力ない」

「…………」

 冗談だよね……?

 さっきトンカチ折ったじゃん。

 なんだかこの子のことがだんだんわからなくなってくる。いや、もともと何者かわからなかったけれど、知れば知るほどどんどん迷宮に迷い込むみたいによくわからないことばかり増えていく。


 フリックスは、ポケットからか、ピンク色のチョークのようなものを取り出し「あと大きな紙ない?」と言った。

 何をするのか、少し興味があった私は彼女に従うことにした。

 大きな紙はこの家にはなかったので、自分で使っているノートを何枚か切り、糊でくっつけて大きな長方形にした。

「おお、やっぱり君は助手の才能ある」

 と、彼女のお世辞に対して何か言い返したい気持ちがあったが、そう面と向かって言われると、どう反応していいのかわからなかった。

「まあ、誇れるほどのことではないかもしれないけど」

「……何が言いたいの?」

 少しだけ喜んでしまった自分が悔しい。

「ではでは」

 童顔美女は机の上に糊でつなげた長方形の紙を広げ、右手にピンクのチョークのようなものを握り、何かを書き始めた。

 等間隔で目印のように点を五つ書いて、その点と点を一筆書きで結んだ。

 この模様は、星形だ。

 ただ——

「なんか歪んでいるんだけど」

「……実は絵心がなくて、上手く描けなかったりする」

「…………」

 何を描こうとしているのかは、なんとなくわかったけれど、何で描こうとしているのかはわからない。

「ねえ」

「ん? なんだ?」

 私は紙を裏面に返して、彼女のチョークのようなものを無理やり奪い、大きく星形を描く。

 昔にちょっと画家に憧れたこともあり、上手い絵を描くことはできずとも、きれいな線を描く——いや、私の場合は描くと呼べるほどの実力でもないしどちらかと言えば、書く、って感じか。

 そんな小さな経験が今ここで役に立つとは思ってもみなかったが。

 大きな星形を書き終えてから童顔美女に渡すと、彼女は星の中央に貯金箱をセットした。

 童顔美女の顔を見て、私は言う。

「あなたって、何者なの?」

 本気で彼女の正体が気になったから聞いたわけではない。ただ、彼女のやけに知ったかぶる態度にもしかしたら本当に何か知っているのではないか、と感じた。

 まあその時点で、もしも彼女が何らかの詐欺師だとしたら、私は騙される素質が十分にあったということになる。

 童顔美女は、にやりと笑った。

 まるでカモが罠に引っかかったと言わんばかり悪そうに。

「私は錬金術師。呪いの」

 童顔美女は紙の上の貯金箱に指をかざし鳴らした。

 その瞬間、紙に書いた星形が赤く光りだした。

 まぶしい、と言うほどではないくらいの小さな明かりでもしも今日が晴天だったなら、光っていることすらもわからないかもしれないくらい微量な光だった。

 再び、彼女は指を鳴らす。

 すると——

「——って、え! 燃えてるけど!」

 星形の先端から火が生まれ線をたどるように燃え始め、気が付けば、星形は炎でなぞられた。

「まあ、まあ」

 平然と炎の燃える様子を彼女は眺めていた。

 炎が燃え移り家が全焼する気がして不安で一杯の私はその全然慌てない様子でいられることが意味不明で、多分、パニック状態に陥った。

「見てみて、燃え移ってないでしょ?」

「え、というと?」

「だから火が家に燃え移ってないでしょってこと」

「いやいや、燃え移るって、水、水持ってこなきゃ!」

「ちょっと落ち着いてって、——見て」

 私は急いで水を取りに行こうと思ったが、首根っこをがっしりと掴まれて、まるでネコみたいな扱いをされた。動くな、と口にはしていないがそう言われているようだった。

 そしてフリックスは三度目の指を鳴らした。

 途端に炎は鎮火され、残ったのは星を書いた線だけ黒く燃えた跡の残る紙、それと、傷一つついていない貯金箱だった。

「うん、成功」

「え、というと……開けられるってこと」

「ん、んん、まあ、一応」

「?」

「君では無理だけど」

「え、どういうこと?」

「んん、説明が面倒くさい。とりあえず開けてみなよ」

 言われるがままに、貯金箱を手に取ろうとした。しかし、先ほどまで炎の中にあったので、もしかしたら熱いんじゃないか、と躊躇していると。

「炎は幻影、びびらなくてもいい」

 と、言われた。

 しかし、だからと言って、手掴みで行けるほど肝が据わっているわけではない私は人差し指でちょこんとつつく。

 熱を感じないことから少しずつ触れる面積を増やしていき、ようやく私は両手で貯金箱をつかんだ。

「ほんとだ、熱くない」

 先ほど折れたトンカチの頭の部分を持ってきて、再び釘を押し付けるように叩く。

 が。

「やっぱり壊れないけど?」

「うん」

 平然と言い切る彼女の横顔を見て呆然としてしまう私だった。

「ただ、これをお母様がやったら少し違うかもしれないわよ?」

「え?」

 それから、私はお母さんを呼んで同じように貯金箱に釘を押し込むように叩いてもらった。

 すると、どうしてからわからないけれど、貯金箱は簡単に砕け、中からたくさんのお金が零れてきた。

 私はそれを見て飛び跳ねそうになったのだが、どういうわけか、お母さんはそのお金を見て、なんだか悲しそうな表情をしていた。

 まるで、悪いことをしているときのような罪悪感を抱いているような。



「それじゃあ、私はここらへんで失礼します」

 そう言って、フリックスは仕事をやり切ったような満足げな表情をした。

「ねえ、呪いってなんなの?」

「ふふふ、呪いは物理法則すらも凌駕する超自然な力。それで呪いと祈りはプラスとマイナスの関係があるのよ。あんたには特別に教えてあげる」

 なんだかとてもうれしそうにフリックスは言った。

 チャーハンをあげてから、路地裏の時とはまるで別人のように愛想が良くなってしまってなんだか逆に関わりにくいというか、野良猫に懐かれたような面倒くささを感じた。

「あ、そう……」

 そんな彼女に対して私はどうも納得のいかない思いで一杯だ。

 あの貯金箱はどうやっても私じゃあ壊すことができなかった。フリックスのした変な儀式の前も後も。

 なのに、どういうわけか儀式の後にお母さんが簡単に壊してしまった。

 どう考えてもおかしい。

 あの儀式に何か科学的に何か変化をもたらす効果があったとしても、私が壊せなかったしやっぱり変だ。

 ——となると。

 私はフリックスの満足げな顔を見た。こちらに顔を近づけてにこりとしていた。

「わ!」

 めちゃくちゃ至近距離に綺麗な顔があってビビった。

 綺麗な顔の自慢か、と一瞬思ったがどうも違うみたいで

「君さ、助手にならない?」

 と、言ってきた。

 そう、ただの交渉をしたかっただけのようだ。

 ——って。

「え⁈」

 助手? この私が?

 こればかりは想定していなかったセリフだったのでポカンと口が開いてしまった。

「ちょっと意味が分からないんですが……」

「いや、あんなにきれいに陣を書ける人初めて見た。このフリックスの一生のお願い」

「いや無理」

 できない。

 そもそも彼女のしている仕事内容が不明ということもあるけれど、それよりももう一つやらなくてはならないことが私にはある。

「実は、アルバイトやってて、そんな時間ないんだ。ごめんね」

「アルバイト?」

「うん、時計塔の鐘を鳴らさなくちゃいけないの」

「え? 今どき自動化されてないのがあるの?」

「まぁ、そうだね。自動でなるようなシステムは出来ているらしいんだけど、”なぜか鳴らない”だよね」

「ふーん」

「ってなわけだから、もう行かなきゃ」

「…………」

 そう言い残して、私は彼女に別れの言葉を言った。

 が。

「なら、私も行く」

「え、なんで?」

「こんな良い人材を逃すわけにはいかないから」

 そう言って彼女は本当についてくる気満々だった。

 まあ、私としてはもう少しちゃんと今日の出来事について色々と聞いておきたいことがあったので、いいかな、と思ってしまったのだった。

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