さようなら、きっと好きだった
惟風
始まる前に終わった
「私、結婚したんだ」
そう言って伏せた瞼から伸びる長い睫毛を、コーヒーカップに添える白い指を、僕は視線でなぞった。
それまでうるさいくらいに思っていた店内の話し声やBGMが、一気に遠くなった。日曜日の昼下がり、カフェは満席に近かった。
俯いてカップを見つめる姫乃の唇の端が微かに上がる。
姫乃と出会ったのは二年、いや三年前だったかもしれない。SNSで、仲良くなったきっかけが何だったかも思い出せない。好きな映画が、ゲームが、アニメが似通っていた。社会人になって数年目、仕事以外の交友関係ができたことが嬉しかった。
最初は大人数で、すぐに二人きりで出かけるようになった。
一緒にいる間、ずっと笑っていた。僕も姫乃も。
ネット上ではもっと頻繁に同じ時間を過ごした。酒を飲みながら、オンラインゲームで協力して、古いB級映画を観た。ヘッドホン越しに姫乃の笑い声が軽やかに響いた。直接話す時よりも少しハスキーな気がした。
記憶の中の姫乃はいつも笑顔で、笑い声で、でも目の前の彼女の表情は笑っているのに知らない人のようだった。
僕の全然知らない、手の届かない、別の。
「紺ちゃんには直接会って言いたいなって思ってさ」
姫乃に似た女性はカップを置くとスマホを取り出した。画面に視線を落として独り言のように呟く。
「結婚しました、って投稿するの憧れてたんだよねー。送信しちゃお」
「っ……付き合ってる人……いたんだ」
やっと絞り出した僕の声は裏返った。特に“付き”の部分が無様に。
「別に隠してたわけじゃないよ、聞かれなかったから言わなかっただけ」
そう言うと、彼女は顔を上げて真っ直ぐに僕を見つめた。不躾なほどに強い眼差しだった。一秒すら保たずに僕は顔を逸らしてしまった。
「またそうやって」
彼女はくすくすと肩を震わせた。肩口で切り揃えられた黒髪が揺れる。インナーカラーの赤がやけに目を引いた。
また。そうだ、僕はまた逃げた。
彼女から話を振られることがあったのに。
――今はフリーなんだ?
――ね、どんな娘がタイプ?
――男女の友情って相手によるよね
僕はいつも、彼女に問い返すことはなかった。「君は? 君のことを教えて?」なんて一度も。
僕は自分のことだけを見つめて、自分の話をするばかりだった。同期の娘がちょっと気になってるんだよね。こないだ元カノからLINEが来てさ。
沢山ある話題の合間の、くだらない雑談のつもりだった。姫乃はニコニコと聴いていた。この先も、いつも、いつまでもそのまま聴いてくれると思いこんでいた。
一頻り笑うと、彼女は膝に抱えていた紙袋を僕に寄越した。
「式は挙げなかったんだけどね、新婚旅行には行ったんだ。一泊二日だけだけど。これ、お土産」
先月、彼女のアカウントに温泉旅行に行った旨の投稿があったことを思い出す。その時の僕と言えば、能天気に恋愛シミュレーションゲームの話をしていた。
「また皆で遊ぼうね紺ちゃん」
彼女が店を出て、やっと音が戻ってきた。気がつくと僕も店を後にしていた、会計をしたことすら覚えていない。
帰宅して紙袋を覗くと、長方形の箱が入っていた。中身は扇形にカットされたバームクーヘンの詰め合わせだった。「洋菓子より和菓子派なんだ、あんこが特に好きで」そう話す姫乃の姿はやっぱり笑っていた。
NTRではない。BSSですらない。
二人の間には半端な年月だけが積み重なって――いや、それは僕の勝手な甘い幻想だ。彼女はちゃんと自分の人生を積み上げていた。
不完全な形のバームクーヘンにフォークを刺すと、年輪のような模様が崩れた。口に運ぶまでに欠片がパラパラと落ちて、舌の上で簡単に
呑み下すと、檸檬のほろ苦さだけが微かに残った。「甘酸っぱい爽やかな後味」と箱に添えられた紹介文にはあったのに。
さようなら、きっと好きだった 惟風 @ifuw
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