第38話
小笠原を見送った後、俺は寄り道をすることなく帰宅して、リビングのソファで考え事をしていた。
俺が想像以上に早く帰ってきたことに悠也は驚いていたが、俺の顔を見るなり何だか意味深長な笑顔を見せてきた。俺にはその顔の意味はまったく理解できなかった。かくいう俺の方は絶賛困り中で、こうして考え事をしているというのに。
ただ、俺の心のモヤモヤしたものが少し晴れて居ているような感じはした。
きっと小笠原に思いのたけを口にしたことが良かったのだろう。今の俺の感覚は、例えるなら………………ミステリー小説で探偵の推理が始まり、犯人が少しづつ絞られていくような心地だ。うん、例えるのが下手だな。そんなに気持ちがいいものではないのだが……………………。
それは置いとくが、ただ、そのモヤモヤしたものを完全に払しょくすることは出来ていない。
どうしても一手足りないような感じがしている。
唸りながら思案している俺にローテーブルを挟んで向かい合う形で、悠也はカーペットの上に座った。俺には兄がとった行動を理解することが出来なかった。
「どうしたんだよ、突然」
「いやぁ~。なんとなく?」
歯切れの悪い答えが返ってきたことがなんだか気に食わなかった。
悠也は俺の心中を気にすることなく言葉を続けた。
「悠悟。お前は福山の妹のことが好きなのか?」
「はあ?!」
俺は兄の突然の言葉に驚きを隠せなかった。
「どうしてそうなったんだよ?!」
「俺は福山由梨から言われたんだよ。悠悟とあいつの妹で色々あったって」
「それでどうして」
悠也の言葉は俺の図星だったが、論理は破綻していた。俺はどういった回路でそんな話に行きついたのかを聞こうとしたが、悠也は俺の言葉をさえぎるように話を続ける。
「まあ、お前が思ってることもなんとなく分かってるけどな。それを加味してもあいつの方の考えが優位だし、お前の考えは悪手だ」
その言葉に俺は激高した。悠也は自身の論理の矛盾について言及することを避けながら、俺のことを否定したのだ。いくらなんでも自分のことを棚に上げてものを言うことに俺は憤りを感じ、嫌でも言葉が強くなる。
「なんだよ! 俺に嫌味でも言いたいのかよ!」
「まあまあ、そんなにかっとするなって。今のはわざと
「んだよ、今度は違う方向から嫌味をわざわざ面と向かって垂れ流すのかよ!」
「違うさ。記憶崩壊症候群についての話だ」
俺は泡を食らった。
悠也の口から『記憶崩壊症候群』という言葉が初めて出てきたことに驚く。そして、悠也の真剣な眼差しに俺は思わず息をのむ。
「………………実はだな、記憶崩壊症候群に………………俺たちの母さんが一度罹ったことがあるんだ」
「?!」
重々しく開いた悠也の口から発せられた言葉に俺は混乱してる様を隠せなかった。
「まあ、そういう反応になるだろうな。今まで話してこなかったわけだし。その昔話をお前に話したいんだけど————————お前は冷静に聞いてられるか?」
悠也の目は俺を貫く。兄は俺自身の覚悟を聞いていた。
突然の告白に戸惑わずにはいられなかったが、俺が前に進むためには意を決する以外の道は存在しなかった。
「………………………………ああ。聞ける」
「………………そうか」
悠也は俺の返事に少し笑顔を浮かべるも、すぐに顔を引き締めた。
そして、記憶崩壊症候群を患った母の話を始めた。
「母さんは結婚した直後くらいから記憶を失い始めた。父さんがそれに気付いたときには、俺がおなかの中にいた頃だったそうだ。記憶崩壊症候群はこの頃は今ほど知られていなかったから、父さんも母さんも戸惑っていたらしい」
悠也は淡々と話すが、俺は両親の口から一度も聞いたことがない話だった。
「ただ、母さんの記憶の崩壊はものすごいスピードで進み、父さんは母さんをどう扱うのか、そして俺をどうするのか、早々に決断を迫られた。父さんは優柔不断な性格から全く決断できなかった。このままの関係を続けたいと思っていた。そんな中、母さんは父さんに言ったんだ。『今の私がどうなっても、おなかの中の子は私たちの子ども。記憶を失った私の子どもでもあるの。きっと次の私も同じように思うはずよ。ちゃんと産んで、私たちで育てましょう』ってね」
俺は悠也がした母のモノマネを気にする余裕もなく、食い入るように話を聞く。
「その言葉で父さんは決心がついたんだ。母さんは俺を産むまでは記憶を維持させるように、新しい思い出を作ったりしながら調節をする。そして産んだ後は、記憶を失う母さん共々、父さんが何とかするってね。そう決めて母さんにそのことを伝えてから、父さんは本当に大変だったらしい。通常の出産と育児に加えて母さんの記憶の崩壊までが一気にのしかかるんだから。母さんと父さんの馴れ初めとかも何もかもを忘れてしまう。父さんにとってこれほど辛いものはなかっただろうさ。それでも、父さんは乗り越えた」
悠也が両親と病の過去の全容を話すにつれて、両親が置かれた状況とどうやって乗り越えてきたのかを理解していった。
そして、その過去は今の舞菜の状況に置き換えることができることに気が付く。
小笠原から聞いたことと照合していくと、舞菜や由梨さんと小笠原がどうしようとしていたのか、どのような未来を歩もうと立ち回っていたのかを段々と把握できる。
彼女たちが歩もうとしていたのは、舞菜の痛みを最小限にして、記憶をすべて失わせてからゼロから始めるという未来だ。
そして、それを俺は壊そうとした。それは記憶を失うことに痛みが伴わないと思い込んでいたからだった。また、新たな思い出を作ることで今の舞菜が維持できると信じていた。けれども、それは大きな間違いだった。
だから、最終的に舞菜から拒絶されるという結果になった。それは既に記憶を失い切ることを覚悟していたからだった。
「それで……母さんはどうなったんだよ」
「母さんは出産の一か月後、過去の記憶をすべて失った………………。そしてその一週間後、目を覚ました。もちろん母さんは記憶がないから、全てのことに困惑していたそうだ。それでも、父さんは支え続けた。その結果、母さんは自らの置かれた状況を飲み込み、俺の母として生きることを受け入れた」
母さんは全く身に覚えのないことを飲み込んだ。これはすべての記憶を失った舞菜も同じように飲み込んで立ち向かえるかもしれないという期待を抱くことが出来る、と言える根拠になっている。
それに対して、俺はそんな状況を飲み込めず、無意味にもがいているだけの存在だった。比較すると、俺の行動の惨めさが際立つ。
「あのときの母さんと父さんは回避できない運命を受け入れ、より良い形で俺を迎えることが出来るように立ち回った。そしてそれは…………………今のお前がすべきことだろう」
「そ、それは………………」
「そして、父さんがしたように、伝えることが出来ず飲み込んだ言葉を伝えるべきだ」
悠也の目が再び俺を貫く。その目は俺が進むべき道を示してくれているように感じた。
「悠悟…………。お前にはまだ言わなくちゃいけない事があるんじゃないのか? 伝えたい思いがあるんじゃないのか?」
兄の言葉が強く俺の心に響いた。
俺は完璧に納得させられた。
心のモヤモヤしたモノの正体が分かり、一気に晴れ渡るような心地がした。
そして、今やらなくちゃいけない事をやらないといけない。
そう思った俺は立ち上がる。
「なんか分かった気がする」
「………………そうか」
兄は少し嬉しそうな顔を見せた。
「ありがとう! お兄ちゃん!!」
最近言ってこなかった『お兄ちゃん』という言葉が出てきたことに驚くこともなく、そんなことにかまうことなく俺は足を進め、リビングを出ていく。
「………………おう、」
その返事の後の言葉は既に家から飛び出して駆けていった悠悟には聞こえなかったが、確かに届いているような気がした。
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