第35話

 兄に指定された駅前のカフェはフリーランスらしき一人客、大学生らしき女子グループやカップル、主婦のような婦人の方々など様々な人が談笑していた。

 カフェにいる客層から見ても、平日の昼なんだと感じさせる。


 俺はオーソドックスなラテを注文して席に座った。何もすることもないので、たまたま兄が持っていた本を一冊持ってきていた。


「あれ? 飯田?」


 その本を開いた時、突然話かけられた。本から声がした方に目線を移すと、そこには小笠原紅羽が立っていた。


 その瞬間、俺は考えを巡らせた。俺が今いるカフェは俺のウチの最寄り駅の近くに位置する。

 小笠原が通っている大学院からはそれなりに離れているし、確か小笠原の家は舞菜の近所だったはずだから距離がある。


 じゃあ、なんでここに? その疑問を一発目に小笠原にぶつけた。


「どうして、ここにいるんだ?」

「ああ、そういうこと」


 俺は小笠原の回答を理解することは出来なかった。流石に情報が足りないから致し方無いが……。


 そう思っていることを見透かして、情報を提供するかのように小笠原は言葉をつづけた。


「私は由梨姉さんに言われてここに来たんだけど、飯田に会って来て欲しいっていう意味だったのかもね」


 その言葉で俺は理解した。歯に衣着せずに言うと、由梨さんと悠也に図られたと思った。


 そういえば、由梨さんは兄と高校の同級生で知り合いだったというニュアンスのことを言っていた。

 その繋がりで小笠原を召喚することで俺をどうにかしようという魂胆なのかもしれない。いや、召喚させられたのは俺の方かもしれないが……。


「私ばかり一方的に話すのは良くないね。飯田がそんな状態になった経緯とかを教えてよ。詳しくは知らないからさ」

「………………ああ」


 俺は小笠原に舞菜との間で起きた出来事を話した。


 自分であの時を振り返って現実を見させられることは気が進まないどころの話ではなかったが、心の整理をつけるためには必要なことだと割り切ることにした。


「そうだったのね」

「俺にはもう、どうしたらいいか分からない」


 すべてを話し終えた後、俺は心の内を小笠原に吐露した。

 小笠原はその言葉を聞いて、少し思いを巡らすように黙ってから口を開いた。


「………………私たちの話なんだけどね」

「??」

「私と由梨姉さんはもう舞菜から距離を置いたっていう話は前にしたよね」

「そうだな」

「それは、私たち側から拒絶した」

「それがどうしたんだよ」


 俺には小笠原の言うことが理解できなくて、ついカッとなってしまう。


 そんな言葉を気にすることもなく小笠原は淡々と続ける。


「飯田は自分の意志で距離を詰めた。それを舞菜は拒まなかった」

「それは、小笠原たちが拒まれる前に距離を置いたからだろう」

「そして飯田が次にとった行動が外でデートだったわけだ」

「それがなんだよ」


 俺は神経を逆なでされ、さらに言葉が強くなっていく。


「飯田がとった行動は舞菜の中に新しい記憶を作ることになった」

「そうだ。舞菜の記憶が無くなるなら新しい記憶を作ればいいだろう。そうすれば舞菜も寂しくならないし、辛い思いをしないだろ」

「————飯田は何も分かっていないんだね」

「は? どういう意味だよ」


 俺は急にはしごを外されたような心地がして、再び言葉が強くなる。俺の考えた上でとった行動を否定したのだから、自然なことだろう。


 周りの客が俺の大きな声でビクッとして、こちらに視線が集まっていた。


「舞菜は記憶が消えていっていることに気づいていないとで言うの? 舞菜は朝起きた時に涙を流していることを高校時代から嘆いていたわ。そのときは病気のことは知らなかったけど、睡眠の記憶を整理する時に過去の記憶が消えていっているって先生が言っていた。————それがどういう意味か分かる?」


 訳が分からず、俺は何も言えない。


 そもそも、そんな情報なんて知らないから、それを理由に否定されるのは何だか筋が違うような気がした。


 ただ、そんなことは関係なしに小笠原は続ける。


「舞菜は記憶が無くなることを感じて泣いているの。そして、そのことを感知している。つまり、記憶があればあるほど辛い事も増えるって考えることが出来る」

「そ、それって…………」

「飯田とのデートで作った記憶がまた舞菜に辛い思いをさせるということ。あえて悪い言い方をするなら、デートは逆効果でかえって舞菜を苦しめているっていうこと」


 その言葉に頭が真っ白になる。それでも、俺は取り繕うとして反論しようとする。


「で、でも、俺は舞菜のことを思って」


 俺の口から弱々しい子どもの言い訳のような言葉しか出てこない。


「ひどい言い方したことは申し訳ないんだけどさ………………。でも、舞菜はそれが辛くなって飯田を突き放そうとしたんじゃない?」


 小笠原の言葉は的を得ている。舞菜が俺を拒絶したという構図は正しいだろう。


 ただ、俺の考えた行動を完全に否定されることが、その言葉を飲み込むことを拒絶させる。


 とはいえ、反論できるほどの言葉を俺は持っていない。どんな言葉を使っても小笠原には勝てない。


 そもそも、小笠原に口で勝ったとしても、本質を突いた言葉が魚の小骨のように俺の喉に刺さったままになるだけだ。


 俺が何も言わないことを見越して、小笠原は手元のカフェラテを一口飲んでから、再び話始める。


「やっぱり、飯田はこれ以上舞菜とデートに行くのはやめた方がいいんじゃない? 舞菜は新しい記憶を作ることで苦しんでる。もちろん飯田との時間も大事だし、幸せな時間なんだろうけどさ………」


 小笠原の言葉には、どうしようもできないという無力感や舞菜の幸せを願う思いが詰まっているように感じた。


「記憶崩壊症候群は一度記憶を失いつくしたら、それ以降は記憶の消失は発生しない。それなら、舞菜とそこから、ゼロから始めたっていいんじゃない」

「それでもっ!」


 俺は語意を強めた。


「それだと、今の舞菜はどうなるんだよ! 幸せになれないまますべての記憶を失わなくちゃいけないなんて残酷じゃないか!!」

「じゃあどうすればいいの!!」


 俺の言葉に小笠原も言葉を荒げた。その瞬間、逆鱗に触れてしまったことに気づく。


「私と由梨姉さんは早めのうちから記憶を無くしきって、ゼロから新しくやり直そうとしている。それを無理やり引き延ばしたのは飯田だよ! 飯田は舞菜との今の関係が保ちたいのかもしれないけど、捨てがたいのかもしれないけど! その行動は舞菜だけでなく、周りの人まで影響を与えてる!」


 小笠原の思いは爆発し、周囲からも視線が注がれている。俺は流石にその視線には気づき、居心地悪く感じるも、小笠原は気にする様子を見せることなかった。


「もし、治る方法がもうすぐ見つかる可能性があるなら、少しぐらい時間を引き延ばしてその可能性に賭けるのは選択肢としてあり得るけど、今の状況じゃあそんなこと言えそうにもない。じゃあ、もうどうすることも出来ないじゃない! 私たちはもう傍観するしかないじゃない!!」


 小笠原はすべてを言い切った。

 そして、その言葉全部が俺の心を抉った。


「お客様。もう少し静かにしていただきたいのですが…………。口論なら外でやってもらいたいのですが…………」

「す、すぐ出ます」


 流石にうるさくし過ぎて店員に注意されてしまったので、小笠原と俺はすぐに店を出た。


 小笠原は足早に駅へと向かい、改札で別れた。


「感情的になったけど、思っている事全部ぶちまけたつもりだから、これ以上は何も言わないよ。どうするかは飯田が決めるべきこと」

「ああ」

「そんなしょげた顔しないでよ。私は今まで吐き出せなかった分を飯田に出しただけ。おかげですごくすっきりしたよ。飯田も吐き出したい弱音とかがあったら誰かに吐き出せばいい。そうすれば、少しは楽になる。まあ、私は勘弁だけどね」

「なんだよ、そっちは好き勝手言っといてこっちのことは請け負ってくれないのかよ」

「まあ、その時になったら考えてあげるから」


 小笠原はなんだかんだ言って性格のいい人間だ。

 これは後で気づくことだが、さっきは俺に怒りをぶつけたように見えたが、実際のところ、小笠原は自分の無力感を悔やんでいただけだった。どうしようもできない思いを爆発させるきっかけに俺がなったという形になっていた。


 ただ、小笠原が抱えていた無力感は俺の心にもあった。結局、二人とも似たようなことに悩まされていたのかもしれない。


「そうか。それじゃあな」

「うん。またね」


 そう言って小笠原は駅のホームへと向かって行った。


 俺と小笠原は似ていた。しかし、異なる点もあった。

 それは、小笠原は自身が拒絶していて、俺は自分では拒絶していない。俺に今できることはその違いにあるのかもしれないと漠然と感じていた。


 ただ、その答えには届かないままでいた。

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